吉澤兄一のブログ

お江戸のど真ん中、平河町から、市井のトピックスを日記風につづりたいと思います。

「都会や近代化」の環境保全改善にしか目が向いていない環境省(行政)。

2007年08月29日 | Weblog
 東京都内や周りの幹線道路あたりの排気ガスや空気の汚染は、ひどい。北京や台北などがどうのと言っていられない。だからかもしれないが、地球環境問題などを所管する環境省や大臣は、いつも”都会出身”の代議士か”田舎知らず”の方だ。

 エコやリサイクル、排気ガス汚染、都会のヒートアイランド現象、Co2排出による地球温暖化問題など、確かに現代都会化がもたらす環境問題だ。昔の木造建築が鉄筋コンクリートのビルになり、土や砂利の道路がコンクリート、アスファルトの道路になり、平地や中山間地が大型開発で住宅団地や工場団地などになり、農山村の”緑”の面積シェアを減らし、プラスチックや鉄筋コンクリートの建造物やアスファルトで覆う面積シェアを増やしてきた。自然や地球環境の汚染や破壊の主な原因が”緑の破壊減少”にあることは、誰の目にも明らかなのだ。

 緑を守るということは、地球やわれわれの住環境を守ることに直接関与する。何も”緑”の担当は農水省と決めているわけではないでしょうに、環境省はどうもプラスチックやコンクリートや再生紙や白物家電のように”緑より白もの”指向のようだ。リサイクルや古紙(再生紙)使用率を高めようとすることに異存はないが、古紙に”間伐材”を入れること(規格)に反対する環境省だ。地方山林家や林野庁からの要請に”古紙(廃材)でないから”反対だという。何という狭い料簡なのだ。森林や緑の田畑があって、都会の水や洪水災害が守られているというのに、その”緑”の保全を考えようとも、支援しようともしないのだ。

 "緑や林業”を維持しようとするのは大変なことだ。一本の杉や檜が成木になるには50年から100年かかる。親子孫二代三代がかりで、成木になったからといってもビジネスになることは稀だ。その間の植え木、下刈り、間伐、枝切りなどは、ただ山や樹木を育てる”守り”のようなものだ。莫大な費用(労賃)ばかり掛かり、これを回収したりできないのだ。農業もそうだが、林業などを指向する若者がいなくなるのは当然なのだ。

 自然や樹木をまもるため”割り箸を使うな”といったり、間伐材を古紙に入れるなという環境省の方々や政府は、この間伐材を”せめて間伐に携わる人の労賃”ぐらい回収できる処方を政策化してあげてほしい。下刈りや間伐ができなくなって雑草雑木の原野化した山面積が年々増えているのは、耕しや耕作する人がいなくなり雑草が蔦やブッシュ化した田畑同様、自然を壊す緑の野放しをしているのだ。山を守り、田畑を守っている人たちへの感謝を彼らの収入にして示してほしい。
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わたしのイニシャルは、KY-(空気が読めない人)。

2007年08月26日 | Weblog
 世の中を読もう、変化を読もうと努めて40年の私のイニシャルは、KY。若い人たちのケイタイ用語辞典では、”空気が読めない”ということになる。残念!。

 世界的にケイタイ文化のいま。とくに日本の若者たちは、ケイタイが必需品のライフスタイルだ。自分たちの”いまの世界”をつくるケイタイ。ひと昔前の”丸文字文化”の延長文化のようなコード(綱領)世界だ。

 ケイタイの機器や内臓するソフトを供給販売しているメーカーや事業者は、顔文字や絵文字などをやたら作り、発信し、スタンダード化し、携帯ユーザー・シェアを高めようと企てるが、若者や少年少女たちを追いかけるので精一杯だ。いまは、高校や中学の”女の子”が創るコミュニケーション文化だが、現実は小学生の女の子がオリジンだ。

 KYは”仲間”符号。大人世界をまねて育つ少女や少年たちが、自分たちの世界や自分たちの帰属社会を色づけする見えない標識だ。大人の村八分と同じく、子供たちの”いじめ世界”を作っている。

 小学校や中学校なども含め、学校や部活の部屋は表面タテマエの社会だ。タテマエ社会での暮らし方をよく心得ている子供たちの世界だから、ケイタイ・メールでのコミュニケーション文化が効果するのだ。タテマエ社会では、できるだけ仲間や関係を”知られないよう”にする。自分や自分たちの仲間や関係は、ケイタイ・メールでつくり、ケイタイ・メールでコミュニケーションするのだ。自分たちの個人情報保護法が発効しているのだ。先生や親あるいは親世代が”入れない”世界が、子供たちのケイタイやメール世界なのだ。

 実際、同世代や仲間グループにしか通じないPマーク・コード(綱領)や文字世界のケイタイメールは、親や先生たちの視野外の世界なのだ。大人からプレゼントされた便利で、必需で、ポケッタブルなケイタイが、子供たちをして親や先生およびKYな人たちを線引きするツールになっているのだ。

 無理に入ろう、解ろうとすると余計KYコードに引っかかる。大人たちがどのように育児や教育に関与し、先生や社会と連携し、教育や子供たちの成長の成果を上げるかは、自分たちが与えた文化や生活ツールを見直したり、検証したり、反省したりするところからスタートすることが肝要だ。KYな人の一人言。
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高齢化社会は、高齢者の”療養・介護先”受難時代?

2007年08月21日 | Weblog
 高齢化社会は、高齢者にやさしい時代社会かと思っていた(?)が、どうも逆のような不安を抱く。社会的医療費や介護費の増加は、急激に増える高齢者のせいとばかり、「入院や病院・施設の療養を減らし」「自宅で療養・介護する」ようにしてもらいたいという施策ばかりだ。

 施設・病院での療養をお願いしようと思う親は94歳、扶養介護する子供の自分は70歳だが、慢性生活習慣病の自分は体力的にも94歳の親に劣る。老老介護の典型のような家にあって、94歳の(療養)行き場さがしが日課のわたくし70歳の日常生活です。孫より若いお役所の窓口や相談の担当者に”このような家”への思慮を求めても”わからない/気が届かない”のは当然なのだが、法律や条令や規則や手続き(ホントはもっと「や」をつづけたい)に従い、要介護1や医療区分1だからという彼らと口争いしたくもない(70歳のわたしは、アバター)。重度は重度で、軽度は軽度で困る高齢者世帯と相談を受ける担当者なのだ。

 現在、65歳以上の高齢者は、全国で2550万人(H17年)。10年前(H7年)の1800万人に対し750万人も増えているが、10年後のH27年にはいまより1000万人増の3500万人強と推定される。65歳から74歳のまでのいわゆるアクティブ・シニア(現在1400万人)人口と75歳以上の超高齢者人口(現在1150万人)が同じ規模になるのが2015年(H27年)だ(ともに、1750万人)。

 まだまだ元気なアクティブ・シニア(65~74歳)層に、老け込まずアクティブに過ごしてもらうことは(老人)医療費や介護負担費を抑制するコツだが、これらの人たちと同じ人口数にもなる超高齢者層(75歳以上)を想定すると、お年寄りや介護を要する人々に対応する社会的仕組み、制度、施設や介護者などの拡充は、いまの緊急課題であろう。しかるに、増えつづける国民医療費の犯人扱いされる老人医療費(10年前総医療費の33%が、いま38%)や介護費用に対し、”いかにして抑えるか”という視点ばかりが目立つ。国民医療費はGNP費8%ぐらいにしたいとか、上限8.5%だとかいうが、どこにそのような基準があるのかと言いたい。

 病院数も10年前あたりの9500をピークに漸減している(現在9200)。国立病院などの閉鎖削減も大きいが、一般病院数の減少(H7年8400→H17年8100)が、日々病院さがしや介護先さがしに明け暮れる子供お年寄りを増やしてしまうのだ。病院や大学の独立法人化や公共公営施設の民営化が、どれほど政府の歳費や債務の低減に寄与したのか、寄与するのか数字で示してほしい。よく変わる医療区分や介護区分とその保険、政府、個人負担のシェアリング実績とトータル費用の増減をわかりやすく説明公表することを法律化してほしい。

 病院や施設を出ることを半ば強要されているお年寄りやその家族と、申し込みが有効なのかそうでないのかもわからないぐらい長く特養や施設入居を待機しているお年寄りやその家族が今日もたくさんいることを知って政治してほしい。病院や施設やホームなどの利用や申し込みの手続きさえ知らない人々にも”手”を差し伸べてほしい。
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”こわすこと”が目的化する改革。

2007年08月19日 | Weblog
 小泉前首相の執念で実った郵政改革が、この10月1日民営化スタートする。”いままでと同じだから安心して・・・”とテレビCMが予告する。窓口会社、配送(郵便事業)会社、ゆうちょ会社、かんぽ会社などに分割、民営化されるのだが、日本郵政株式会社という(政府系)持ち株会社が(郵政)グループ全体の経営を担当する。いままでと異なる体制に”改革”して、いままでと同じと告知広告する。こうすることが、”壊して再生する”改革なのだと再認識した。

 民営化したからといって郵貯や簡保などの商品が変わるわけでもなく、普通封書郵便が80円から70円になるわけでもない。クロネコヤマトの80円メール便が変わるわけでもない。何がどう変わって、どう効率化され、どのような利便が高まるのか分からない。国家公務員が民間(契約)社員になることで、国の財政負担や債務の低減にどのように貢献するのか分からない。

 国鉄が民営化(JR)されたり、専売公社が日本たばこ産業(JT)になって、鉄道運賃がどの程度安くなったり、タバコがどの程度安くなったのか知らない。むしろ、高くなったような実感なのだ。インターネットやケイタイ電話などでわかるように近年の通信ネットワーク革新社会化もあって電信電話公社がNTTとして民間化したことの貢献は理解しても、住宅公団や道路公団などの解体がどのように国の財政再建や住宅道路などの安全安定に貢献したのかわからない。

 国立大学や国立病院の独立法人化なども含め”民営化”という改革の多くが、制度や体制の改革そのものが政治的に目的化してしまうことを知っている。それが、財政再建のためだったのか、所得再分配のためだったのか、あるいは政治体制再編のためだったのかを忘れたり、確認できなくなっても、改革そのものが目的化して改革は行われるのだ。

 つねに自由資本主義や自由競争が、社会的な公正を達成する原理でもないと思うのだが、社会主義諸国にも採用せれた市場原理はいまやグローバルスタンダードなのだ。汗しない人や知恵を働かせない人が”貧しく”あることは仕方なく、知恵を働かせたり、汗したりする人に相対して”公正”だという。疑問に思っている。民営化や自由競争化だけが、社会的公平確保の錦の御旗ではないということを考えてほしい。真剣に公務員の数を減らしたり、議員の数をへらしたり、使う税金の額(歳出)を減らすことを考え、立法化してほしい。

 国や政治が、”生まれた地域や暮らす地域および家や帰属集団がもたらす”格差の解消と社会的公正の確保のために予算を効率的に使うことは、どなたも反対しないと思います。
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40.9℃ の2007年8月16日

2007年08月17日 | Weblog
 きょうのような日(2007年8月16日)は 日記に残さなければならない。74年ぶりの国内最高気温だという。岐阜県多治見市と埼玉県熊谷市で、40.9℃が観測された。この2ヶ所以外にも摂氏40度前後を観測した地域(自治体)が、埼玉、群馬、岐阜などの内陸部に8ヶ所もあり、これらがともに当該地域最高記録だった。熱中症で亡くなった方が、埼玉など6都府県で11人もいる。

 ラニーニャ現象で高温になった赤道付近の海水面、高熱化した空気が亜熱帯ジェット気流に乗り、日本周辺に停滞する太平洋高気圧に向かう。居座る太平洋高気圧が日に日に勢力を拡大し、そこにまた暑(熱)いジェット気流が対流していく。それだけではない、北西風の山越えフェーン現象も作用し、埼玉、群馬、岐阜あたりの内陸地域の気温を灼熱化するのだ。ラニーニャ、ジェット気流、太平洋高気圧とフェーン現象の相乗作用が酷暑の犯人なのだ。

 観測地点の温度が40℃だと、コンクリート、アスファルト地面近くは50℃を越える。乳母車の赤ちゃんも苦痛でしょうが、都会のペットの犬たちの散歩は悲惨だ。犬たちの健康散歩は、都会では禁止したほうがよい。
 午前も午後も、きょうは外出しないと決めて、エアコンや高校野球のテレビで、電力消費量を高め、地球資源やエネルギー資源の先行きを案じたり、エコノミーかエコロジーかも一緒にしたエコについての新聞や雑誌を読んだりしている自分を嫌悪する。

 午後4時を回ったころ、夕方の約束外出を思い出した。16日午後6時に神宮前の友人宅マンションに集う約束だ。神宮外苑花火大会の打ち上げ花火を見ながらの暑気払いの招待を受けていたのだ。地下鉄、JRと繋いで原宿から神宮前まで歩いた。ゆかた姿の若いカップルたちが結構早足で歩いていた。中高年の男たちのほとんどが、ポロシャツや半袖シャツ姿なのに対し、20代ぐらいの若い男子の多くがゆかた姿だったのには驚いた。神宮の花火の夕方の街路の発見だった(重ねの使いの遊び)。

 お盆明けの工場操業開始、家庭や事業所の冷房需要や水道需要の高まりなどの明日からの電力不足の心配が高まる。節電や節水の呼びかけに、わたしも協力しなければと心する2007年8月17日でした。
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防災より備災を考えたい地域の災害対策体制

2007年08月16日 | Weblog
 ここ10年会っていない友人が、新潟県柏崎市にいる。彼が主宰する柏崎通信やメール交信での交流だけの最近だがホットだ。本人は、自分を翻訳家でありシステムエンジニアのように言っているが、地域の歴史家や思想家あるいは教育者とでも言ったほうが適切かもしれない。

 その彼が今回の中越沖地震について、現地報を発信している。稚拙な柏崎刈羽原発の防災体制や危機管理体制についての指摘以上に、地域の防災や震災した直後から現在までの対策とその問題状況を発信している。
 防災といっても人智では防ぎようもない自然災害の典型・地震や台風およびこれがもたらす破壊災害に対して彼は”備災”こそ大事だと言っている。同意だ。来るなといっても来る台風や起こるなといっても起こる地震、震災や災害にどのように対処、対策するかは、危機管理やリスクマネジメントという体制の問題になるが、文字通り備災という概念が問われているのではあるまいか。

 原子力災害対策特別措置法や災害対策基本法などや、国や県および地域の防災マニュアルや地震、台風などの天災への対応マニュアルが整備されればされるほど、現場(自治体)の役人の活動や行動が役人的、官僚的になる。学校の体育館や地域センターなどでの緊急避難所ぐらしの人々や震災などで崩壊した住宅や地域を前に呆然とする人々に対し、炊き出しのオニギリや水の配り方にしても支援物資などの配り方にしても、ただマニュアル的高圧的になる。被災者を守るということより自分たちを守ることを見えない基準で動く。消費期限や賞味期限が一日でも過ぎた加工食品などがダンボールのまま廃棄に回される。トンネージでだ。土砂がれきや生ゴミなどと一緒になって廃棄ゴミを量産することになるのだ。ボランティアとして活動する人々、管理する市役所職員からの指示を待つ彼らまでが、まるでゴミ扱いになる状況を知らないわたしたちだ。

 国民の生活安全や国の防衛安全を守る危機管理問題は、ともすると憲法(9条)や自衛隊の災害復旧活動や海外派遣のそれになるが、毎年”必ずやってくる”台風や”予測おかまいなし”に起こる地震など天災に対する地域の備災体制や復旧および生活再生支援の備災問題を、もっと現場活動面からの検討を加えて構築してほしいと思っています。
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右肩上がり想定経営の流通大型店が苦戦している。

2007年08月11日 | Weblog
 人口増加社会と成長経済をベースに、出店や店舗数の増加および店舗大型化で集客し、成長拡大してきた店舗流通がこのところ苦戦している。百貨店は郊外に、地方に店舗を出店し、郊外や地方の中核地域の雄・大型スーパーマーケット(GMS)やSCと競合している。大型チェーンストアもいわゆるGMS単店で、郊外や地方中核地域に出店しても思うとおりの集客ができない。モールやSCといわれる大型商業集積でも開発し、中核店舗に収まって出店することしかなさそうなGMSや百貨店なのだ。これでもかと開発された大型SCにおいても、百貨店、GMSおよびホームセンターやドラッグストアならびに専門店の競争は激しい。

 しまむらやユニクロのようなチェーン専門店とGMSの衣料品部門の競争も激化している。大型チェーンスーパーマーケットを拡大経営面で脅かすコンビニエンスストアも2006年は、ここ30年で最低の対前年売上高の伸びだ。限りない簡便性を追求する人々は、買い物という行為にまでそれを求めるということで、店舗数の増加と売上高の伸びしか知らなかったコンビニも高く厚い壁に直面している。狭い国土日本からくる出店用地不足、24時間年中休みなしなのに期待以下の収益性がもたらすオーナー不足および社会的な豊かさが背景のアルバイト不足という3不足が、コンビニ経営を難しくしている。

 都心の中核店舗の経営さえ危うくなっている大手百貨店はついこの間まで、地方への出店攻勢を見せていたが、いまは店舗の整理リストラから企業合併や戦略的提携にまですすんでいる。大手スーパーマーケットはといえば、一方で相変わらずの大型SC開発などをつづける反面、不採算店の整理閉店に忙しい。出店数と同数ぐらいの不採算店の閉店やリストラで経営が苦しい大手チェーンコンビ二を横目にJRや鉄道系の駅ナカ・コンビニの攻勢が目立つ。「何をコンビニエンスにするのか」再考迫られるコンビニエンスストアなのだ。

 ますます進展する情報社会化にあって、インターネット通販やセカンドライフ仮想店舗などへの関心や消費者の価値基準の変化をみるに、店舗とは何かという原点を、何の利便性をどう提供するのかという視座から組み立てし直す必要があるだろう。店舗や買い物空間が、来店顧客に与えられる魅力や満足を再設計することが求められている流通店舗チェーンなのだ。
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終わりなき文化や進歩と便利さの探求は、人類のエゴ。だから・・・。

2007年08月09日 | Weblog
 欧米か日本かにかかわらず、家庭の主婦が食事の(料理)用意にかける時間は、一世代経るごとに半減している(FMIティム ハモンズ氏)という。現在40歳のある主婦が夕食の用意に30分かけていれば、彼女の母親は40歳の頃60分の時間をかけて夕食の用意をしていたらしい。いま、夕食の用意に30分かけている40歳主婦の子供が40歳の主婦になったとき、彼女が夕食の用意にかける時間は、15分になるという。これから2・3世代過ぎたころの主婦が食事の用意にかける時間はゼロ、すなわち家庭で料理などはしなくなるというのだ。

 おかず(総菜)だけでなく、食事全体が宅配されたりテークアウトで買われたり、どこか(レストラン)へ食べに行くことが普通の生活になる時期は、そんなに遠くないと思われる。泥の付いた大根やごぼうが、きれいに洗った大根やカットスライスされたごぼうになり、そのうち調理済みのブリ大根やきんぴらになったもの(総菜)を買うようになったのだ。
 ふつうの鍋から調理に重宝する圧力鍋になり、いつの間にかオーブンや電子レンジがほとんどの家庭に普及した。料理や調理が簡便になり、スーパーマーケットでは料理や調理をしなくても済む調理済食品や加工食品が売られるようになった。文化でもあり、進歩でもあり、便利性の向上でもある。

 やっと固定電話がほとんどの世帯に普及したと思ったら、すでに携帯電話が主婦やお年寄りから小学生の子供まで持つようになった。パソコンからだけでなくインターネットもケイタイからアクセスだ。小学生の子供にまでのケイタイは行きすぎではないかとの批判がでると、世の母親たちはGPS搭載のケイタイは”子供たちの安全監視のために欠かせない”などと言って子供たちの味方をする。便利や手抜きを求めるパワーはすごいが、パソコンやテレビも、ケイタイも進歩や文明や便利をくれると同時に地球資源を浪費し、ゴミをつくり、自分たちの孫子の生活環境を破壊しているのだ。

 都会の空気汚染には耐えられないという主婦女性やサラリーマン紳士たちでさえ、一家に2台のクルマで大量のガソリンを消費し、排気ガスを散布する土・日なのだ。つい少し前までは、夏のカヤに扇風機だった部屋がエアコンになり、いまは各部屋にエアコンがついている。電気エネルギーの大量消費だけでなく、戸外に向けて生あたたかい排気をだしているのだ。なんと利己的で自分本位な便利や快適を探求しているのかと我ながら気が滅入る。

 自由市場原理や競争こそが、人類や社会の進歩発展をもたらし、つぎつぎのベターライフが得られるのだと錯覚していたのかもしれない。先進国と発展途上国、北半球と南半球、たまたま生まれた地域がどこかでレベルやスタイルが規定される世の中が住みやすく幸せな地球社会なのかと疑問に思う。国家格差や地域格差そしてその人の帰属集団による格差をどう縮めるかということに、人々の知恵と政治の知恵が求められていると思うのです。
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鈍感な人に「鈍感力」をすすめる鈍感な人ー小泉前首相。

2007年08月06日 | Weblog
 支持率(低下)なんて気にするなと鈍感力をすすめる小泉前首相、笑顔が消えつつある安倍総理に他人事のようなアドバイス。だからか分かりませんが、与野党を大逆転させる今回の参院選の結果を知っても”基本的な政策方向を否定されたわけではない”と(自己的な鈍感な理解をして)続投するという。別に安倍首相を拒絶するわけではないが、このような”鈍感力”は高めてほしくないのです。

 複雑性を高める現代ストレス社会を生き抜いたり、このような社会で人生を成功に導くためにはある種の鈍感力が必要になるという処方箋を渡辺淳一さんが「鈍感力」(集英社)という単行本にした。ストレスにナーバス傾向を高める社会や格差社会にあって、人々の共感を得てベストセラーになった。これで気を許したのか、小泉前首相や森元首相たちは、安倍首相に”他人やマスコミや世の中のいうこと”をいちいち気にするなとアドバイスしている。

 何という驕りだ、何という鈍感さだ。そして、政府与党自民党は大敗した。大衆や民意の敏感さや感性に負けた自民党や安倍政権が、あまりに世の中や国民の声から遠ざかっていた結果なのだ。政府や政治にかかわる者は、いつの時代にあっても世の中の動きや一般大衆の暮らしや希望に敏感でなければならない。ささいなコトや兆しを見聞きし、社会の人々の不満や期待を感知する感覚を持たねばならない。鈍感であろうとしたり、鈍感力を高めようとしたりする人たちに政府や政治をお願いすることはできないのです。

 そのような審判をした今回(2007年7月29日)の参院選は、長年の政治政府と与党体制の傲慢さや自分本位の横柄な姿勢に対する一徹。いつも自分たち中心だから、自分たちのすること(行政)や自分たちの考えること(立法)は、つねによりよい社会や国民を思ってのことなのだと決めているのだ。多くの一般大衆や人々の願いや心を調査したり、聴取したり、野党や門外漢の人々の意見を聞いたりしてはいない。彼らは”何でも反対するのだから”と自分や自分たちだけを正当化するのだ。

 鈍感力とは、周りが見えなくなったり、周りを無視する力ともいえる。利己的で、自己(防衛)的で世の中のコトや普通の人々のコトや声を考えていないのだ。考えていないのに”考えている”といったり、考えていると思い込んだりしているのだから始末がわるい。武蔵野にいて住民に反対されても赤白ストライブの周りの住宅とは不ぞろいな自宅を建設する感性ゆたかな漫画家さんと同じだ。松岡農相の自殺を鈍感力がなかったからだなどという人々こそ鈍感なのだ。

 政治家とくに一国を預かる首相や政府の方々には、決して鈍感力など高めてほしくないのです。リーダーシップは、他人の意見を聞くなということではないということなど十分認識されているとは思いますが、取材記者の質問にカメラ目線で答える安倍首相にその心配を感じています。自分たちにはささいなことでも、別世界のようなことでも、時にはイヤなことにでも、耳を傾けてください。どうして、そのような政策をとろうとするのか、分かりやすく説明してください。教えてください。安倍首相、くれぐれもお身体を大事にして国政に汗してください。
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生きがいを分けようとブログしているsugito36 さんを紹介します。

2007年08月04日 | Weblog
 ときどき吉澤兄一のブログにコメントを寄せてくれる方に sugito36 さんがいる。ご自分も「生きがい生活」情報発信というブログを綴って発信したり、交流したりしている方だ。36年教職一筋で、小学校の校長先生を定年退職した教育者だ。市井の人だ。

 今朝読んだ新聞や見たテレビのニュースなどから”感じたり、疑問に思ったり、納得したり”したことを、簡潔にコメントや小論にまとめ、発信してヒトに問うことは、若さや生きがいを確かにするひとつの方法。リタイアしてもなお、長年天職ぐらしした地域社会を愛し、何かしらの社会貢献や地域社会へのお返しがしたいと思ってブログ発信する sugito36 さんにエールをおくる。

 sugito36 さんの住む杉戸町は利根川の恵みの田園やみどりが豊かな典型的な日本のカントリーだ。私も昔は、よくこの近くの動物公園に子供を連れて行った。16号だか17号だか確かではないが、国道4号線をクロスし、境大橋を渡って50号線の茨城西部・結城方面への道をドライブしたのは20年ほど前だ。東京あたりに通うサラリーマンも多くなった町でしょうが、sugito36 さんのような方が住んでいる素敵なコミュニティ・イメージが浮かぶ。

 お身体を大事に、無理をなさらず、できるだけいつまでも sugito36 さんのブログ発信と交流が続くことを願っています。ありがとうございました。
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