政府の教育再生会議の真のネライがわからない。文部科学省の中央教育審議会との違いもハテナだ。教育専門家や文科省官僚スタッフなど「教育」の理論の殻に閉じこまれている識者より、広く各界の教育に限らない識者の意見を取り入れようと考えた教育再生会議なのかと素人考えして理解していたが、最近の動きを新聞読みすると、分からないのだ。専門外の人が”いいように見える”程度では、結局専門家以上の議論や成果が期待できないのかも知れない。
気になるのはやはり”親学”を中心とする家庭教育への”入れ込み”だ。介入とまでは言わないが、ただ「いまの親は、なっていない」という短絡で、家庭教育というより"親学”しようなどということに再生会議、第2分科会の方々が一致していたとなると、”何か、迷走しているな”と思ってしまうのだ。早寝早起き、朝ご飯、一人(バラバラ)食事、テレビ見ながらの(ながら)食事など”子育て”しつけがいたっていないことを、”親の親としての不足”を親学して改善しようということらしい。こんなことに”政治や法律”が介入している姿が、コッケイに思われるのだ。
現在子育て真っ只中にいる”園児や小学生を持つ”親世代は、まさに団塊ジュニア。団塊の世代の方々が高度経済成長期のエコノミックアニマルをしながら育てた子供たちだ。どこまで”汗し、いまの日本づくり”を背負ってきた団塊世代を責め続けるのか、団塊ジュニアの”いま”をもたらした責任まで指をさされている感じなのだ。
確かに、教育は国の将来をつくる。25から30年のサイクルで、その時期の重心世代が”国の姿や悩みや問題”をつくっているとすれば、700万人の団塊世代は、700万人の団塊ジュニアに問題を積み残し、700万人の団塊ジュニアはその子供たちの将来に影響する”いまの教育や家庭での子育て”に責任を負っている。現在の小学生700万人、園児300万人あるいは5~14歳の人口1200万人が牽引する25~30年後に対する責任は、この世代だけの責任や問題ではないのだ。
だからといって、いまの教育再生会議に委ねることの”安心”が得られない最近の教育迷走を放置できそうもない。先の第2分科会の提言に対しては、伊吹文科相も”あまり適当ではない・・・”とコメントしていた。貴重な政府や関係協力者の時間と予算をより有意義に、成果でる方向で使ってほしいと思う。中教審と再生会議のあり方や分担、コンセプトやテーマおよび目標の違いを分かりやすく説明してほしいと願うこの頃です。
気になるのはやはり”親学”を中心とする家庭教育への”入れ込み”だ。介入とまでは言わないが、ただ「いまの親は、なっていない」という短絡で、家庭教育というより"親学”しようなどということに再生会議、第2分科会の方々が一致していたとなると、”何か、迷走しているな”と思ってしまうのだ。早寝早起き、朝ご飯、一人(バラバラ)食事、テレビ見ながらの(ながら)食事など”子育て”しつけがいたっていないことを、”親の親としての不足”を親学して改善しようということらしい。こんなことに”政治や法律”が介入している姿が、コッケイに思われるのだ。
現在子育て真っ只中にいる”園児や小学生を持つ”親世代は、まさに団塊ジュニア。団塊の世代の方々が高度経済成長期のエコノミックアニマルをしながら育てた子供たちだ。どこまで”汗し、いまの日本づくり”を背負ってきた団塊世代を責め続けるのか、団塊ジュニアの”いま”をもたらした責任まで指をさされている感じなのだ。
確かに、教育は国の将来をつくる。25から30年のサイクルで、その時期の重心世代が”国の姿や悩みや問題”をつくっているとすれば、700万人の団塊世代は、700万人の団塊ジュニアに問題を積み残し、700万人の団塊ジュニアはその子供たちの将来に影響する”いまの教育や家庭での子育て”に責任を負っている。現在の小学生700万人、園児300万人あるいは5~14歳の人口1200万人が牽引する25~30年後に対する責任は、この世代だけの責任や問題ではないのだ。
だからといって、いまの教育再生会議に委ねることの”安心”が得られない最近の教育迷走を放置できそうもない。先の第2分科会の提言に対しては、伊吹文科相も”あまり適当ではない・・・”とコメントしていた。貴重な政府や関係協力者の時間と予算をより有意義に、成果でる方向で使ってほしいと思う。中教審と再生会議のあり方や分担、コンセプトやテーマおよび目標の違いを分かりやすく説明してほしいと願うこの頃です。