わたしも含めヒトはいつも、「よりよい状態やよりよい環境」を求めるのだろうか。いまの自分やいまの環境に、100%満足することはないのだろうか。満足や幸福感は、成長を止めることになるのだろうか。高度文明社会といわれる現在は、発展や成長の結果なのだろうか、過程なのだろうか。
韓国の大型客船沈没事故やマレーシアの航空機遭難事故も、東日本震災の原発事故や北京のPM2.5/大気汚染なども、すべて発展や成長の過程なのだろうか。成長や発展の過程において、ありうる必然なのだろうか。何の疑問にも思わず受け入れている成長や発展というコンセプトは、生きることそのものなのだろうか。
昨日より今日、今日より明日と進化したり成長することが、安定なのだろうか。とどまることは、安定にはならないのだろうか。マグロなどの魚類と同じく、泳ぐことをやめると死や滅亡になるのだろうか。今日も昨日と同じ、明日も今日と同じという方が安定的で平和的で、落ち着いた感じがするのだが、そのような考えは共有されないのだろうか。
アベノミクスの三本の矢の第3の矢「成長戦略」が難儀しているようだが、一度成長や拡大発展や興隆だけを追求することを棚上げしたらいかがだろうか。しあわせや幸福や満足のコンセプトや尺度を再考してもいいように思うが、これは先のあまりない年寄りの閑話なのだろうか。
韓国の大型客船沈没事故やマレーシアの航空機遭難事故も、東日本震災の原発事故や北京のPM2.5/大気汚染なども、すべて発展や成長の過程なのだろうか。成長や発展の過程において、ありうる必然なのだろうか。何の疑問にも思わず受け入れている成長や発展というコンセプトは、生きることそのものなのだろうか。
昨日より今日、今日より明日と進化したり成長することが、安定なのだろうか。とどまることは、安定にはならないのだろうか。マグロなどの魚類と同じく、泳ぐことをやめると死や滅亡になるのだろうか。今日も昨日と同じ、明日も今日と同じという方が安定的で平和的で、落ち着いた感じがするのだが、そのような考えは共有されないのだろうか。
アベノミクスの三本の矢の第3の矢「成長戦略」が難儀しているようだが、一度成長や拡大発展や興隆だけを追求することを棚上げしたらいかがだろうか。しあわせや幸福や満足のコンセプトや尺度を再考してもいいように思うが、これは先のあまりない年寄りの閑話なのだろうか。