吉澤兄一のブログ

お江戸のど真ん中、平河町から、市井のトピックスを日記風につづりたいと思います。

2010バラ徒然草(1)

2010年01月30日 | Weblog
 2009年秋の京成バラ園やその前の佐倉草ぶえ丘がキッカケかも知れない。2010年、もう少しバラ(薔薇)に近づいてみようと思っている。

 そろそろ15年ぐらいのお付き合いになるパフューマリーケミストの蓬田勝之さんの影響が大きい。ただいま、平成のバラの香り分析やバラの香りの探求に余念のない彼とは、どちらかといえば飲み友達なのだが、もう少し彼の”探究心”に近づいてみたいと思ったからだ。

 モダーンローズの7つの香り分類を提示した彼の著作『薔薇のパルファム』(求龍堂)も、わたしのバラの香り接近を後押しした。まるっきりバラに無知の自分だが、彼のバラの香りは私をして、大変バラの香りへの興味を高めてくれた。

 バラやローズは、多くの人々の趣向を得ている。その香りもだが何といっても、その花の美しさに魅了されるのだ。美しさ、優雅さ、エレガントさ、やさしさ、かわいさなどバラの花を形容する言葉は多い。バラやバラの花やローズガーディンなどに携わる人も多い。バラの育種家、ローズソムリエ、ローズグロアー、ローズアドバイザー、ローズガーディナーなど和製英語でシゴトしている人も多い。

 どちらかといえば、原種や野いばらのようなあまり花弁が混んでいない花が好みの自分だが、何と言っても私の好みは、ラ・マリエだ。控えめなあの花の形がいい。花弁の厚みがちょうどいい。かわいさとやさしさが同居していて、それでエレガントだ。ラ・マリエに近い2009年5月西武ドーム「国際バラとガーデニングショウ」でみた「バラ”トットちゃん”」の薄いピンクの花もいい。

 ただいま、イングリッシュ・ローズの代表のようにいわれているレディオブシャーロットや人気のクレアオースチンなどは、私の好みではない。色彩というより、花が重い(イメージ)のだ。香りに近づいているせいか、フレグランスオブフレグランスやラロ-ズドゥモリナールや人気のナエマなどがいい。何はともあれ、ダマスクローズ(クラシック)が頼りのバラの香りの気もする。

 2010年3月26日(金)~28日(日)の「2010日本フラワー&ガーデンショウ」(幕張メッセ)でのバラを楽しみにしている。
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新しい世界と新しい真実に触れるために。

2010年01月24日 | Weblog
 ついこの間まで、自分は結構世の中や物事のことを知っていると思っていた。全然自分が経験したり、見聞したりしていないことでも、書物やテレビなどを通して”知っている”と思っていた。日本や世界の国々のずっと昔の歴史や文化についても、大体のことは知っていると思っていた。

 自分自身の目で見たり、手で触ったりして確かめたわけでもないのに、”知っている”と思っていた。小学校、中学校、高校と大学で習ったことで、そのことが真実だと思って疑わなかった。そのような教科書が、日本の文部科学省や特定の先生方によって書かれたもので、それが”普遍や真実”を表していないかも知れないなどと思っても見なかった。

 日本という国や歴史や文化などの中で”真実”や”正義”と思われてきたことが、中国やアフリカのある国などのような他国からみると”そうでない”ことが多いことに思いを巡らさなかった。1942年生まれの自分が、全く戦後の体制や価値観の中で、戦勝国を代表したアメリカの価値観の中で生きてきた”偏見”に気づかなかった。

 少しいままでの”真実”や”世界”から離れて、少し距離を置いたり見る角度を変えて見たりしてみようと2010年を迎えた。新しい世界(観)や新しい真実を探したり、見たりすることに興味が高まった。何故だかは分からないが、自分やただいまの日本の今までの見方や世界観が少し違っていたのではないかと思い始めたからだ。

 いままで北極を上にしてみていた地球儀を逆さまにして世界を見たいと思った。日本や太平洋を正面にした地図をアフリカやイギリスや大西洋を正面にした地図に変えて世界を見てみたいと思った。いままで”思い込んでいた”真実や常識を少し忘れて、ゼロベースで”答え”を探してみようと思った。反対側から見たり、対岸から見たり、離れて見たり、自分たちと違った環境から見たりして、いままでと違った世界や真実を探して見たいと思う。

 そうでもしないと、この国のただいまの問題は解決しそうもないと思った。世界の中の日本という国のあり様や展望が描けないと思った。本当はこの国のリーダーたちに、いま一番お願いしたいことなのかも知れない。ご自分と全く違った対岸に暮らす人々の環境や暮らしの中に自分をおいて、物事を見、考えてほしいと思うのです。
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1円セールや激安50円セールを”拒絶”しよう!

2010年01月20日 | Weblog
 激安店をウリにすることは自由だ。890円や390円のジーンズも有りだし、298円や190円の弁当もいいが、わたしは買わない。行き着く先が1円セールだからだ。新しい衣料品が”どれでも1円”といった超特売で、おカミさんたちの争奪(買い物)戦を誘う。何をどれだけ詰め込んでも500円といった特売も同じだ。

 超激安をウリにする激安店をテレビが追う。”ここまで安い”と面白おかしく追撃取材し、これをミーハー放映する。これ以上の安さはないだろうと、1円価格販売を放送する。この取材放送を宣伝費なしよろしく、自慢げに喧伝する。激安店の繁盛をテレビ取材放送して、庶民の味方よろしく”安いことはいいことだ”受けをねらい、視聴率稼ぎをする。テレビや新聞マスコミほど、世の中を悪くする企業はない。

 ただいまの世の中の”病気”を自覚していない。片方でデフレや雇用縮減を言いながら、そのような世の中づくりをあおっている。真剣さや誠実さや社会の中の企業意識がない。企業の社会的責任などといいながら、自分たちだけのシアワセを追う。制度や政治の批判をしたり、特定の企業などの失敗を責めたりして、ただ視聴率や広告収入だけを追っている。

 一丁10円の豆腐、3個パック50円の納豆や10個入り49円の乳酸飲料(1個4.9円)や5足300円の靴下(1足60円)の原価や価格構成をご存知なのだろうか。ついこの間8000円ぐらいで売られていたジーンズが890円で売られたと思ったら、隣の町では一本390円のジーンズが売られていた。390円ジーンズの原価やかかわる人々の利益は、どのようになっているのだろうか。1株50円で売られている白菜やほうれん草は、農家からいくらで買われてきたのだろうか。

 世界には日本の10分の1や20分の1の物価や所得レベルの国も多い。50分の1の(平均)所得レベルの国もある。日本で200円(原価)かかる品物が20円や10円でできることを考えれば、50円の靴下や5円の缶詰などの激安有りとなろう。だが、どれでも1つ1円はないだろう。お祭りでもイベントでも、特別の集客でも、それはないだろうとわたしは思う。

 自分たちで自分たちの付加価値や首を絞めているからだ。事業や企業の目的や戦略があるのだから、特別わるくいわれる筋合いではないというかも知れないが、やはり”悪”だ。いまは、国民みんなで、デフレを脱却することが大事だ。スパイラルやあり地獄に陥る一歩手前の日本の現実をもっと身近に感じなければいけない。国を滅ぼさないことに企業人や商人も責任を分担しなければならない。みんなが”働ける”国にしなければならない。働く場所がなくて、ホームレスになる人が出ないようにしなければならない。

 1円や10円で売ることを止め、ホームレスの方やその日の食べ物も買えない方に分けてあげたらどうかと、手前勝手に思う。ストップ・ザ・デフレスパイラルは、政府だけではできる話ではない。国民の力でデフレを脱却しよう。
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これが人の居住地かと思わせる大地震ハイチの首都

2010年01月16日 | Weblog
 マグニチュード7.0の大地震(1/11)で壊滅状態になったハイチ。ガレキの山にしか見えないハイチの首都ポルトープランス。きょうの今日まで聞いたことのなかった小さな国の首都だ。ここ2~3日の新聞やテレビの報道で知ったが、正確な様子を知る手がかりすらない。交通やインフラが壊滅状態であることに加え、電話や衛星によるコミュニケーションすらとれない。

 国境なき医師団や国際赤十字などの救援さえ届かない。病院や政府の建物や国連および他国の領事館などの建物もガレキ化した。人々のインフラが壊滅しただけではない。国連や国の警察のクルマや居場所すらないのだから、救援や警らさえできない。死体やケガ人を尻目に、食べ物やガソリンの略奪や暴動に恐怖している女性や子供たちのようだ。理屈抜きの救援物資が、広く秩序的に公平に配給されることが第一。水と医療が難しく最優先だ。

 世界の最貧国ハイチは、一日約10ドル(一人当たり国民所得)で暮らすそれほど裕福でないドミニカ共和国と小さな島を分け合っている。この国の人々は、一人当たり一日2ドル(年間699ドル)で暮らしている。アジアの最貧国バングラディッシュ(年431ドル平均/2007年)とほとんど同じレベルだ。日本は、一日約100ドル(年間平均所得34,313ドル/2007年)だから、ハイチは日本の50分の1レベルの暮らしなのだ。同じ人間だ。

 しょっ中紛争や内戦していたり、大型ハリケーンに見舞われたりで安全や生活インフラの整備などすすむわけがないのだが、その上整備工事する資金もないのだ。公共事業で社会資本や生活基盤を整備しようにも、資金どころか重機や技術ノウハウや企業すらない。そこに今回の大地震だ。日本の何分の一かの国土だ。世界中の国がハイチの救護と復興に早速の救援をするなら、必ずやいままで以上に安心でき、住みやすい国ができるだろう。

 PKOでも国際赤十字や国境なき医師団でも、日本の自衛隊でもなんでもいい。人でも重機でも、技術や医療従事者でも、資金でもなんでもいい、早く救援してほしい。会議や調整など後回しで救援したらいい。そのように願っている。
 ハイチ大地震の犠牲(死者)は、5~10万人ぐらいと伝わっているが、同じぐらいの地域(面積)や人口ベースの15年前の神戸大地震(阪神淡路大震災)の犠牲死者は10分の1の6434人だったことを付記しておく。
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変化(チェンジ)の過程としての2010年の意義

2010年01月12日 | Weblog
 オバマ米国大統領のチェンジや自民党から民主党鳩山首相への日本の政権交代の2009年を"変化”の年と捉えることに疑問を持つ。国や社会および世界の価値基準や体制に大きな変化を認識することができないからだ。もともと”変化”は、”革命”のように一瞬にして出る現象ではない。結構長い過程としての時間をともなう現象のような気もする。

 変化を希望して政権交代を選択した日本の2009年だが、交代は変化への"期待”でしかない。国の姿や社会のあり様を変えてほしいがゆえに、政治を行う政権の交代を選択したのだ。新しい政権や体制が、いままでと違う新しい政治を行って、いままでと違う”自分たちが希望する”社会や国をつくってくれるであろうことを願ったのだ。

 そのような国や社会への変化のスタートの年が、2010年。戦後の団塊の世代生まれの方々が61~63歳、ほとんどのヒトが(定年)退職し、近く年金支給が開始される2013年前後を鶴首している時期だ。年金支給以降のささやかな夢希望はあるが、ただいまは毎日の”労働”がなく、家庭の中の粗大ゴミ的な扱いにいささか面くらって暮らしている。

 この国の高度発展やただいまの国の姿をつくってきた彼らの少し前の世代は、結構それなりに楽しそうな年金生活をしている。自分たちのあとのただいま50代にある世代は、政治の世界においても経済や企業の世界においても”中心的な”扱いを受容しているように思われる。少し損しているように自分たちをみている団塊の世代のヒトたちだ。

 2013年65歳、団塊の世代への年金支給を皮切りに加速する高齢社会と福祉高負担社会だ。2010年は、ポスト2013年日本国家や社会の安心ビジョンを確かにしなければならないギリギリのトシだ。21世紀高齢社会が、ポスト団塊世代以降の高齢者にとっても、高齢社会を支える若い世代の方々にとっても"希望的な”安心社会にできるかどうかは、2010年をどのようなスタートの年にできるかなのだ。

 変化が希望的なそれになるか、そうなれないかは、2010年のあり様で決まりそうなのだ。政党分裂や政界再編もありですが、ただのゴタゴタ軽躁で希望や安心がどこかに行ってしまうようなことだけは避けてほしいと願っている。
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高齢者(65歳超)になって以来、すっかり読書量が減った暮らし

2010年01月10日 | Weblog
 このところ年々本を読むことが減った。めっきりと自覚するほど減った。週に一冊の文庫本や推理小説もなくなった。月に一冊の専門書や知識書もなくなった。シゴトや専門に近い雑誌や週刊誌を読むことも減っている。65歳を過ぎた頃からの傾向のような気もするが、何故だかは明瞭ではない。

 一言でいえば”加齢”かも知れない。体力が原因のような気もする。以前より電車で通勤する時間が短くなったからかも知れない。1時間の通勤電車は、始発から座ってできたこともあって、週一(冊)の文庫本や推理小説にちょうどよかった。開く本がないときの手持ち無沙汰は苦痛でさえあった。ただいまは、電車30分弱の通勤。混んだ電車で立って通う闘争だけでやっと、本などを広げる巾もない。

 環境やライフスタイルが影響している気もするが、やはり”気力”のような気がする。気力や意思力が年齢を重ねるごとに弱まっているのだ。工夫すれば、いくらでも時間はとれるはずなのだがカラダや行為がそうさせないのは、やはり”トシ"なのかも知れない。無理して”読みもしない”本をカバンに入れないことにした。

 本をあまり読まなくなった自分だが、このところ”アタマの中で考える”ことが多くなった。マニュアルやテキストを読まなくなった。ノウハウ本や参考書を求めなくなった。何でもゼロから考えるクセがついた。雛形やフォーマットを求めなくなった。何かを読んで参考にする労を惜しんでいるのかも知れない。手抜きや近道を選んでいるのは、やはり”先が短くなった”もの(加齢)の本能のような気がする。

 何でも自分で考えるクセを得た自分は、少し加齢速度が遅くなった気がしている。手前味噌だが、それなりに加齢を楽しめるようになった。あまり体力に恵まれず、ドゥ・スポーツやゴルフなどからも遠くなったが、少し気力や意思力が高まってきたようなそんな2010年のスタートでした。

 
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政府施策の典型”エコポイント”狂騒曲ー2009年のひとコマ?

2010年01月04日 | Weblog
 お騒がわせなエコポイント。何がネライで何が目標かハテナハテナのエコポイントがH21年度補正予算の目玉。省エネや環境の名を借りての景気浮揚策エコポイントに、わたしも乗った。国民や消費者をこれほどお役所目線で、現実を無視してプログラムした施策も珍しい。よく知れば、政府や行政のすることは、大方このようなモノだったと改めて認識した。

 2009年11月21日、あまり遅くなってはと思い申請したエコポイント。トシが変わった2010年1月4日現在、交換商品が届かないどころか何の受付の連絡もない。いろいろチェックしてみると、2~3ヶ月”ナシノツブテ”は当たり前のことらしい。とにかく、このくらい”お客やいわゆる消費者”を適当に扱い、上から目線の手続きや仕組みを考えた施策を知らない。とにかく、面倒でややこしいのだ。とても後期高齢者諸氏など手続きできないこと請け合いだ。

 この景気浮揚施策としての補正予算施策、大方の毎年度末の補正予算の典型なのだ。申請で補助しようとするところは本予算的でもある。いつでも政府やお役所が”申請”を受け付けることにして、自分たちを”施す”立場に置くのだ。システムや手続きが面倒になり、手数やコストがかかることは自分たちの立場を強化するのだ。簡単に、現場で処理する”間違い”をなくすことが大事なのだ。

 エコカーの減税や補助金も同時に出た施策だが、対象や戻しお金を限られたクルマやメーカーの販売を通じて掌握できる限定市場対応施策は、オマカセで済む。やや対象がコマカイ消費財については、そうは行かない。お役所の手数やチカラをお見せして、自分たちの”アリガタサ”を示さなければならないのだ。申請主義の出番なのだ。

 経済界とのお話でか、家電という業界とのお話でか、多くの経済市場を所管する経済産業省からのお勧めでか分からないが、グリーン家電にエコポイントをつけて購買を促進することが、ただいまの景気回復に最も奏効するということですすめた政府施策だが、現実は官僚お役所の”思うがまま”なのだ。

 どのような試算をしたのか知らないが、エコポイントの経済効果は約4兆円だという。確か補正予算は3000億円か何がしかだったように記憶するが、役所や人々にかけた”面倒”コストはどのくらいだったのだろうか。わたしのような消費者に与えたストレス・コストはどのくらい考慮したのだろうか。何かもう少しヒトにやさしい施策はなかったのだろうか。とにかく”やってみなければ ”といった代償が大きすぎる気がした。

 我が家にも飛び火した2009年政府拙速施策の狂騒曲ならぬひとコマでした。
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持続的可能性と調和性探求への旅立ちの年の2010年

2010年01月03日 | Weblog
 自分の立つ位置と目標を少し変えたい。つい最近までの自分は、ひたすら何かの利便性を探求してきた。人々の受容性や簡便性の総和を持って需要性と考えてきた。人々のウォンツ(欲求)の総和を有益性や需要と思ってシゴトしてきた。客観的といって自分の責任を回避してきたような反省もある。

 有益性といって人々の個人的なウォンツや希望することの総和を求めることが、時代やただいまの自分の大義なのかと自問している。どのように有益性追求から公益性追求に、よって立つ自分の位置を変えようか迷っていた。企業や業界や市場との良好な関係を求めてきた自分を、地球や社会や地域とのそれを追及する自分に変えたいと思った2010年元旦だ。

 一所懸命消費者との良好な関係を求めた1980年代とグローバル化や勝つことを追求した1990年代は、この10年の時代と地球の環境変化で変わった。消費者との良好な関係づくりや新需要創出ということでは人々や社会の支持や受容が得られない時代になった。社会性や公益性が問われる時代になった。人類がずっと生き、暮らしてきた地球の持続的可能性を高めて生きることが大義になった。地球や空間や暮らしの環境と隣に暮らす人々や生き物との調和や共生が大義になった。

 個々人の利便や欲求以上に、公益性や大義が価値基準になった。地球の持続的可能性(サステナビリティ)や何かのニーズ(必要性)との調和や同期性が、自分たちの目標や大義になった。それだけ、地球が加齢し、傷んでいるがために、低下している地球の持続的可能性を高めることこそ、人類共通の大義になった。至近では、地域社会が高齢化し、健やかで幸せな地域高齢者社会の構築が課題になった。

 企業のナショナルブランドや流通のPBなどのシェアアップやサクセスを考えたりすること以上に、中山間地地域のお年寄りの知恵の商品化や特産物の流通化を考えることの方が公益性にかなうと思うようにもなった。小さなことを完成させることが、大きな地球の公益性に寄与することにもなると思うようにもなった。きれいな落ち葉やきれいな川や小さな生き物を愛でることの大義性を感じるようになった。

 トシが変わっての2010年が自分を変えてくれそうに思った。新しい時代に向けて自分を鼓舞してくれている2010年の旅立ちに感謝したい。できれば、このブログを読んでくれている皆さんとこのような旅立ちが共有できれば、それこそ多謝です。
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新成長戦略(基本方針)の実現性ー2010年元旦ブログ

2010年01月01日 | Weblog
 なぜか2009年12月30日、鳩山新政権は2010年から20年に向けての新成長戦略の基本方針を発表した。2020年までの国内総生産(GDP)の名目成長率を年平均3%実質で2%成長にし、2020年の名目GDPを現在の1.4倍の650兆円(2009年名目GDP470兆円見込み)にするというものだ。

 この10年の実績や伸びを大きく上回る目標だが、”確かさ”が感じられない。景気経済の牽引要素である個人消費、設備投資および輸出の回復と伸び率についての見通しが示されていないからかも知れない。環境、健康、観光なる新3K重点分野における約100兆円の需要創出と雇用創出を目玉にした目標だ。

 この目玉になった新需要創出分野がネットでGDP上乗せに寄与する効果は、日本の産業経済の基幹になっている製造業や輸出分野が、現在レベルを下回らないで2020年を迎えることができなければならない。派遣法や新最低賃金(1000円)法などの影響が、製造業その他分野での雇用にマイナス作用しない見通しも、添えられなければなるまい。

 アジア市場でのビジネス市場規模を倍増させたり、現在の5.4%失業率を2013年メドに3%台にするための新3K分野における新需要創出や雇用創出が約500万人、すなわち失業率改善を約1ポイント改善できるとみているが、残る1%から1.4%分の改善こそが問題なのだ。景気経済の回復と成長を確かにするしか方策はないのだ。

 デフレ脱却の方策と財政財源問題に対する処方およびアメリカやEUおよびアジア市場への輸出戦略ならびにモノづくり日本戦略を具体的に示してほしい。新3K分野に夢することに合わせ、旧3K(危険、汚い、キツイ)や今日の3K(軽い、簡単、カネ)を気にする雇用労働者を考慮した新雇用戦略も含めてほしい。

 2010年元旦  明けましておめでとうございます!本年もよろしくお願いします。(2010年1月1日、午前7時10分)
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