吉澤兄一のブログ

お江戸のど真ん中、平河町から、市井のトピックスを日記風につづりたいと思います。

ウソがコト(問題)を大きくする。

2008年06月29日 | Weblog
 役人や政治家は、本当のこと(事実)を言って真実をかくす。虚飾でも虚言でもなく、ウソをつかずに問題の本質や核心を隠す、隠蔽する。幾度となく国政や国会のテーマになった役所や外郭団体の統廃合や天下り独立法人の廃止など、そのとおりになったためしがない。

 典型的でいい例は、緑資源機構とかなんとかいう独立法人だ。農林水産省や林野庁の大きな天下り利権先だから、弱い林業者や地方と小さな山国日本を最も心配しているのはわたしたちだと、手を変え、品(名)を変え、継続させている。名前を変えてもヒトと予算はむしろ増えるのだ。役人と利権(既得権)の不死鳥ぶりを示す典型だ。

 民営化といったり、第三セクターといったりしても、天下れる団体や組織に変わりはないのだ。小さな政府や役所業務の効率化といい、廃止や統廃合や予算削減や議員報酬のカットという言葉を聞いてきて、本当に国や自治体の年々の予算が減少したり、お役人の数が減ったという実感をいだいた人がいますか。

 このように、役所や政府は事実で真実を隠し通しているが、民間人はこれがヘタだ。何しろ、真実と事実の区別もわかっていないのだから、何に面しても気軽るにウソをいう。事実どころか虚実をいう。ミートホープや飛騨牛の丸明や魚秀(神港魚類)や船場吉兆など典型的だ。ウソがウソを産み、どうしようもなくなって事実が出てくる。真実には辿りつきそうもないから、問題解決には近づかない。

 真実や問題の核心にふれずして、企業の再生や復活はないのだが、どうも真実に近づくことが苦手なのが組織のようだ。ちょっと遠くは、ライブドアや日興コーディアルやTTCや当時の銀行の不良債権などから発した金融銀行スキャンダルも同じ類だが、少々アタマがよく情況に恵まれて、真実隠しでの企業再生が出来たのだ。ラッキーだったのだ。

 ウソは、すべての問題や本質をかくすがゆえに、世の中の問題解決を遅らせるだけでなく、真実を隠すがために罪が大きい。企業がよくコンプライアンス(法令遵守)やCSR(企業の社会的責任)などと、カタカナ文字を唱えているようでは、所詮多くは空念仏におわる。信頼や信用は言葉で得られるものではないのだ。
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メタボリックシンドローム(メタボ)狂想曲

2008年06月27日 | Weblog
 世は食糧危機。アフリカをはじめ”今日の食べ物”がなくて餓死する人々が何万人といるのに、わが日本人の”ムダ食い”は、日々の食料廃棄だけではない。食べなくてもいい量食べるから、これらが皮下脂肪や内臓脂肪になり、いまメタボリックシンドローム問題に直面している。

 いつの間にか”もったいない”精神がどこかに去り、食べ物に好き嫌いをいい、食べ残しをし、食べれる果肉までそぎ落とし、大根の葉やほうれん草の根や丸魚の骨などが残飯と一緒に捨てられる。毎日夜廃棄されるコンビニや弁当店の消費期限を過ぎた弁当を拾い食すホームレスの人々でさえ、いま飢餓で餓死しているアフリカの子供たちにこころを寄せる。

 何がメタボリックシンドローム(内臓脂肪肥満症候群)だと言いたい。運動をしない、食べ過ぎてかつ高脂肪の食事が多いということが理由らしいが、その程度のこと人それぞれが注意や日々の食事管理が出来なかったのかと反省する。高度成長
”飽食”の時代を、それが”ゆたか”なのだと、競うように過食し、欧米にならべと高脂肪食をご馳走食としてとり、クルマやエスカレーターに乗り汗し運動することを怠り、国民揃ってメタボリックシンドロームになったのです。

 これを全部やめ、”むかし”の生活や食事に戻すだけで”健康”になれるというのに、それができない。メタボの大親玉”肥満”は、人々の運動不足を高め、糖尿病や高脂血症や高血圧などの生活習慣病から動脈硬化をもたらし、心筋梗塞や脳梗塞を発症させる。いのちを縮めるメタボリックシンドロームに、政府・厚労省がその減少防止策に乗り出したのだ。

 食事制限や食事バランスに留意するのはもちろんだが、ポイントは何といっても体を動かすこと、毎日ウォーキングをすることだ。男子85CM、女子90CM のウエストから血圧やコレステロール値および血糖値などを健診することも大事だが、とにかく運動をし、粗食し、何にも増して毎日ウォーキングするというようなことが大事なのだ。飽食前に戻れということだろう。
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もう一つの高齢化問題ー深刻な地域老化問題。

2008年06月22日 | Weblog
 ついこの間、65歳になり”高齢者”と呼ばれるようになった自分に”前期”という形容詞がつき、しばらく”若い自分”を演出できるとほくそ笑んだ。僅か10年後ろにしていただいただけなのに情けない。直ぐにくる75歳という後期高齢者という”老人”レッテルが控えているのにだ。

 加齢や老化という問題は、ヒトや生き物だけの問題ではないようだ。深刻さが増す”地域老化”は、火急の日本の現在人が取り組まなければならない問題だ。ひとつは、いわゆるニュータウンの老化問題。もうひとつは、地方の限界集落という問題。ともに、その地域に居住する人々が著しく高齢化していることに発する問題だ。

 昭和40年ごろぞくぞく開発建設された大都市郊外のニュータウン、大阪の千里ニュータウンや東京の多摩ニュータウンなどの高齢化問題。高度経済成長を支えた都会に働く地方出身のサラリーマンや労働者の夢のマイホーム、ニュータウンは、判で押したように5階建ての団地建物タイプ。すべてエレベーターなどはない。30代40代のニューファミリーは、子供たちも含め足腰が丈夫だ。4階や5階ぐらい平気で上り下りできた。その彼らがただいま、70歳80歳なのだ。

 その居住する建物自身が老化、修繕では済みそうもない建替え問題がでているが、住民の年齢と費用を考えると再開発や立替え、易しい問題ではない。エレベーターをつけるつけないのことを越える建物周りや街の設計そのものを高齢居住者に合わせ、リ・デザインしなければならない。

 都会郊外の高齢者医療や介護問題は、一方の地域問題、地方の限界集落地域でも重なる。全住民が後期高齢者になり、”跡継ぎ”がいなく集落が崩壊する時期はすぐだ。産業格差が地域格差になった結果だが、政府や都会からのリモコンでは到底解決しない。地球老化が”自然破壊”から生来しているように、街や住居の老化が社会老化とコミュニティ老化をもたらしている。

 少子高齢化社会は問題ではなく、現実の社会や国の姿なのだ。高齢者がたくさん暮らす世の中をどのように設計するか、いまの社会や国の図面をどのように再設計するのかが問われている。直しなおしで変化に対応できるのか、全面的な再設計が必要なのか国のリーダーや政府が問われているいまだ。
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はじめての副都心線乗車記

2008年06月21日 | Weblog
 一週間遅れの副都心線初乗車。ふだんの通勤は、地下鉄有楽町線だが、今週の通勤はサンザンだった。今週はじめより始業した副都心線が、有楽町線に重なったおかげで、よく遅延する有楽町線がそれはそれは毎日20分30分と遅れるのだ。

 かなり入念に操車運行のシュミレーションをし、試運転やダイヤ調整などをトレーニングしたのだろうが、混雑やトラブル対応が大変稚拙なのだ。朝の通勤時間帯プラスアルファぐらいで平常運行に回復することはまずない。一日中、運行や時間がデタラメのままで終わり、イメージは翌日までつづくのだ。

 早めに試乗してみたいと思っていた地下鉄副都心線。予約なしで思い立ったような午前の歯医者が巧く済んだ今日21日の午後、副都心線初乗りの機会を得た。いつもの地下鉄成増だが、今日は有楽町線新木場行きを見過ごし、つぎの副都心線渋谷行きに乗った。途中で急行利用もできるのだが、5-6分の短縮では乗り換える気にもならない。普通電車のまま池袋を越え、明治通りの地下を明治神宮前まで乗った。そして、千代田線に乗り換え乃木坂に向った。友人にもらった日本自由画壇展が国立新美術館であるからだ。

 1~2時間、自由画壇展をみたり、その他国立新美術館を歩き回り、また乃木坂より明治神宮前にもどり、帰路も副都心線の和光行きを利用した。なかなかの乗り心地で、その利便性を実感した。

 おそらく今まで隠れていた名所や穴場が、雑司が谷、西早稲田や北参道などから出てくるだろうが、それ以上にこの副都心線、伊勢丹、新宿高島屋、神宮前や渋谷にかけてストリートファッションや若者ライフスタイルの観測定点になりそうだ。希望や明日が期待できる副都心線帯域の発展を祈って日誌を閉じる。
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醤油アイスという古くて新しいテイスト市場

2008年06月19日 | Weblog
 いま、醤油アイスが静かなブームの兆しだという。アイスクリームにちょっと醤油をかけると、それはそれはオイシイあたらしい味が楽しめるという。いつでも、何でも、未知にトライするということは、醤油+アイスクリームのような発想が原点なのかもしれない。

 幼い頃、やっとにしか手に入らないバターを、あたたかいご飯に溶けるようにかけて、少しお醤油をかけて食べたことがあった。ぜいたくなバターかけご飯だった。田舎では余程のルートがなければ、バターなど手に入らない白いご飯が最高の贅沢という時代でした。初めての経験のバターやチーズなどの乳製品の食べ方がわからないそんな時代の和風の洋風化でした。

 醤油(しょうゆ)イコール和風調味料と決めていることが恥ずかしいこの頃。醤油はすでに世界の基礎調味料になっています。これが和風、これが洋風などと決められないメニューや食べ物がほとんどになっている。和風メニューの調味にケッチャップが入り、洋風メニューの調味に醤油が使われるのをとやかく言う人を見ない。そのような文化や生活の時代の醤油アイス。

 ひとつも驚くに値しないことなのですが、やはり新鮮で興味ある現象なのです。誰でもいつでも思いつくことで誰もがやらないで見過ごしてきたことを、簡単にトライする行為を勉強させてもらいました。ソフトクリームやカップアイスに、お醤油を少しづつかけ、おいしい具合をみつけるのが楽しいのかと思ったら、すでに醤くりーむなどというカップアイスが販売されているらしい。

 このようにして新しい市場分野ができていくのがつねだが、すでに「アイスクリームにかける醤油」が商品として販売されているという。できれば、早めの近日中に、ハーゲンダッツの醤油アイスクリームなどを見たいものだと思ったりしている。醤油バターかけご飯をなつかしく思い出す自分でした。
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薔薇でも香りでも、興味方向はロジスト(logist)。

2008年06月16日 | Weblog
 わたしは何でもロジー(何々学、何々論指向)だ。人間や生活に興味を持つから生態学(ecology)思考がつよいが、どちらかというと生活や行動やその現在に関心があるから現代学、今和次郎先生の考現学(modernology)に近い。現代社会の人々のライフスタイルや文化に関心がある。

 まだ加齢臭を気にするトシでもないと若ぶっているが、今年の娘からの誕生日のプレゼントは、ARMAND BASI IN BULUE (オードトワレ)だ。最近の自分がバラの香り(フレグランスやアロマ)などに興味を持っていることを知ってだろうと、勝手に解釈している。やはりトシへの気づかいなのかもしれないが。

 アロマセラピー(芳香療法)ばやりだが、自分にはなじまない。特別理由はないが、何々セラピーというもの全般に馴染まないのだろう。アロマセラピー、森林セラピー、カラーセラピーあたりは受け入れても、ペットセラピー、アートセラピー、禁煙セラピーやしあわせセラピーあたりが出てくると、もうダメだ。セラピーやセラピスト、何々療法士が馴染めなくなる理由だ。

 何々ロジーならなぜ馴染むのかと言われればわからないが、明確ではないにしても、何々論や何々学にしていろいろ研究し、体系化や理論化を試みている指向がいい。香り学アロマコロジー(芳香学)に興味を持つ理由だが、アロマコロジー(aromacology)は、正確には芳香心理学なのだそうだが造語だ。アロマ(aroma)と心理学(psychology)をあわせた造語。自分は何も心理学的分野にフォーカスしているわけではなく香り学(化学や心理学にこだわらない)なのだが、それは自分の問題でどうでもいい。

 安易に何々ロジーというと、それも困る。アストロジー、アンドロジー、サーモロジーにダイエットロジーと何でもロジーになる。ただ、香りにかかわることを薔薇にフォーカスして整理したり、科学したり、生活化したり、文化化や体系化していきたいと思うのだ。途中で断念したりすることもありそうだが。ジェントロロジー(gentrology)まがいのようにならないことを祈る。
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「何でも区分(線引き)する」から「何でも一緒(混ぜる)にする」に。

2008年06月15日 | Weblog
 日本(国)の将来を最もよく考えていると言われる官僚や政府は、何でも区分する。区分して考える。分析し、区分けする線を探し、区分する。区分し、細分し、微分する作業の行き着く先は、個人だ。競争原理が市場や社会を発展させると信じて疑わない彼らは、国民一人ひとりの”自助”意識こそ発展の動機だという。

 自分や自分たちの将来不安ばかり心配し、自分ひとり個人力の限界を知る多くの庶民は、何でも互助で”一緒にして”考える。区分しようとは思いもせず、混ぜて一緒にして考えることが普通なのだ。それが民主主義で公平なのだと思っている。何でも一緒にしたり、寄せ集めたり、オイシイ味噌やアンコを作るように”混ぜる”ということは、微分とは反対の積分だ。突出をヨシとせず、”一億総中流”をヨシと考えている。効率や大きな発展は望めないのかも知れないが、隣の家や隣の人も”似たり寄ったり”だから安心する。

 「調査をしたり、統計データを使ったり」することを専らにしてきた自分もよく、65歳や75歳で切ったり、15歳や19歳で切ったり、性別や年代別に区分したりする。生きていない屍データを区分したり分析しても、生きて活動している対象の真実の姿には迫れないと自戒反省しながら、”分析”にはしる。区分することが差別することにつながり、とどのつまり”格差”社会づくりになっていることを真に解っていない。

 日本の国民の年金や医療や国民保健制度が”皆保険”で、老いも若きも一緒(互助)の仕組みであるがゆえに”一億総中流”社会がつくれたということを忘れている。所得収入のない専業主婦を配偶者控除にし、子供やお年寄りを扶養家族にし、”みんな一緒にして”互助体制をつくってきた良さや誇りを忘れている。一緒や混ぜて考えることが成立前提の互助や保険を、区分してチャレンジしようと”出来ないこと”をごり押ししようとしている。むなしい。

 人類の生きる環境・地球や66億(やがて90億)の世界の人類が、いまにも崩壊しそうな状況にいて、なお不信する自由市場原理や競争や自助という”主義”に固執していることがわからない。せめて、何でも区分し、企業や人々の競争や自助だけを発展の動機にする”いま”を反省したい。
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先行き不透明感が、消費や景気を後退させる。

2008年06月13日 | Weblog
 一国の経済や景気の現状や展望は、主に政府や経済団体の経済景気統計や指標で知る。GNPや経済統計や株価などだ。しかし、国民や消費者の実感や行動のほうが、実体の経済や市場をよく教えてくれる場合が多い。

 最近の”背伸び消費”市場の縮小傾向などよく消費者の先行き展望を表している。先行きが悲観的だったり、不透明だったりすると、ちょっとした(プチ)贅沢品や背伸び需要が後退する。

 一時銀座や日本を席捲するのではないかと思われたDC(高級)ブランドが苦戦しているという。日本の商店街の一等地銀座のルイ・ヴィトン、ティファニー、ブルガリ、グッチやロレックスなどでのブランド買いが低落しているらしい。見るだけのために入る店になりつつあるという。

 土地や不動産および株などを持った資産家・富裕層が大きく保有する資産価値を目減りさせたり、相続や退職によるプチ富裕層や総合職で働く女性たちが”すぐ使う”ことから”まずは、貯える”ようになったのだ。先行きの不透明さが、”自分へのご褒美”や”背伸び”購入を控えさせているのだ。

 いつも”右肩上がり”ばかりではないということは消費者の理解するところだが、大事なのは”先行き”が確かに描かれることだ。景気経済が後退することでも、国の体制や社会保障がどうなるということでも、ハッキリした姿が展望できることが大切なのだ。政策や制度が思いつきでネコの目のように変わったり、ツギハギばかり多い施策では、展望しようにも展望できない。

 見えないことが、不安を増幅させる。中国四川省の大地震の復旧にしても、格差格差と増幅される不安も、これからどうなるということが見えれば多くのことは解決する。ただ、自由に競え、自由に振舞える自由市場原理主義に任せておけば、住みよい世の中になると、”何も考えない”ことが多くの問題を創出しているのだ。
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すべて、”タイミング”が大事ということ。

2008年06月08日 | Weblog
 世の中、いまやったほうがいいことと、あとでやってもいいことがある。いまやらなければならないこともあるが、あとにしたほうがいいこともある。

 きょう食べる一食最低限のカロリーや栄養素は、”今日生きるために”どうしても必要なことだ。所得や使えるお金は人によってマチマチで、貯蓄や資産まで含めると、豊かさ/貧しさには大きな格差があるので、一食のミニマム食事のお金にも大きな格差がある。だが、誰でも”生きるための”最小限の「食べるもの」は必要なのだ。

 こういう”今日生きるため”のお金と、便利さやより楽しくなることにかけるお金とは、お金の優先順位が違う。今日受診や治療を受けないと生きていけない人やお年寄りへの医療費と道路を作ったり港湾を整備する公共投資財源とを同期に考えることが混乱を生む。子供の教育にも”タイミング”がある。今年15歳で高校への進学や受験を希望している子供に1~2年待てとはいえない。

 財政再建や改革および国の制度変革などを考えている政治家や官僚に心してほしいことは、タイミングというかその問題の対応ライフステージだ。インフラという公共事業と教育や医療や福祉は、そのやらなければならないタイミングに違いがある。官公庁の高層ビルや天下り用の独立法人をつくる問題と今日”生きる”問題を(単年)予算や財政ということで一緒や同期にしてほしくない。

 同じように、ギョウザや北京オリンピックとミヤンマーのサイクロンや四川大地震の災害復旧および食料危機、水危機や原油価格の高騰問題への対応にも、時間的優先順位やタイミングが大事だ。何もかも同期や一緒に解決しなければならない問題に見えるのがツネだが、プライオリティやタイミングを間違わないことが大切になる。
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久しぶりに、現代日本の「ダ・ヴィンチ」谷内田孝さんとのモーニングコーヒー

2008年06月07日 | Weblog
 わたしが勝手にそのように呼んでいる現代日本の「ダ・ヴィンチ」谷内田孝さんは、いつもさわやかだ。オシャベリ会話が楽しい。一つ一つの彼のトークに私の右脳や左脳が刺激される。15年ほどのお付き合いだが、いつも勉強させていただくばかりで、私からのお返しができない。最近と言っても一年ほど前だが、彼にいただいた墨彩画集『三十三間堂への道』は彼の傑作だが、私の宝物蔵書だ。

 エクセルやパワーポイントで書いたらそれはそれで”すばらしい”であろう彼の作品や書き物や企画書は、全部毛筆だから驚く。いつもの構想や展開も論理的ですばらしいが、墨彩画タッチの筆使いに感動する。近代的な高層ビルや街の開発図面であろうが、公園やガーデンのデザインであろうが、時には日用品や食品の商品デザインであろうが、デジタルや精密機器のデザインであろうが筆で描かれる。デザイナーとして際立つ彼の才能は、ビジネスやマーケティングの企画などでも論理的で説得力がある。

 イタリアルネッサンス期の三大巨匠ラファエロ、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチに重ねれば、さしずめ万能天才のダ・ヴィンチだ。モナリザや最後の晩餐などで知られるダ・ヴィンチだが、ウィトルウィウス人体図や”ノート”などでわかるように彼の天才領域は、絵画、彫刻、建築、土木や解剖学に音楽(演奏、作曲)までにおよぶ。わたしの日本の”ダ・ヴィンチ”谷内田さんに重なる。

 ダ・ヴィンチの鏡文字の左ペン書きのタッチと谷内田さんの墨彩画毛筆タッチが重なるのだ。2008年6月6日(金)、久しぶりの谷内田さんとのモーニングコーヒーは、未開花の蓮花が半開するときに放つ早朝の芳香のようだった。午前11時、現業をリタイアしたはずの谷内田さんは表参道から国立の日立中央研究所に向った。近々何が出てくる(超新製品)か、楽しみだ。 
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