20世紀後半のわたしたちは、ひたすらモノ(物質)あふれる社会に邁進した。いろいろなモノをたくさん持つことや持てることが豊かで幸せなことだと思って、モノを大量に生産し、購入し、保有した。多くのモノが、人々や生活に便利を与えてくれた。気がつけば、寝るところや足の踏み場もないほど家中モノであふれた。
モノの寿命がきたり、多くの不要なものに気づいたりして、この不要物や廃棄しなければならなくなったゴミに悩むことになって21世紀に入った。ひたすらモノやモノの多いさに価値を思っていた考えを反省するようになった。モノでないものに価値を見出すようになった。生き方や文化や知識など見えないものに価値を見出そうとする人々が多くなった。
その典型が知識や情報だ。21世紀が情報社会とかIT社会と呼ばれてスタートして早や十年。いま人々はこのように考えた世の中が"しあわせ”な方向に向っているのかということに確信が持てなくなっている。モノに代わって増えたあふれる情報のなかで、情報をどのように選別し、取捨し、どのように扱うか悩んでいたら、情報リテラシーやメディアリテラシーを勉強しなさいと言われた。
情報を取り扱ったりするメディアや情報を収集加工したりする情報会社および情報のシステムや通信技術を扱うIT企業などは、ただやたら情報をたくさん供給したり、売ったりするだけに邁進した。自分たちが情報という新しいゴミを世の中や地球上に撒き散らしていることに、いまもって何の反省もない。
モニター・プールを作り質の低いレベルのアンケートや情報を生産・排出しているインターネット調査会社はまだかわいい。ブログがはやると思えば、ブロガーを大きなカンヅメにして、ヤラセの書き込みを低レベルに囲い、これをまことしやかに、情報感度の低い企業に売る。一件あたりの契約金額を低くし”何の功罪”も回顧しないレベルをイイコトに詐欺まがいに情報ビジネスだという。
インターネット社会や高度情報社会という世の中が、本当に21世紀の世界を暮らしやすくするのか、地球や地域社会の生活環境をいい状態にしてくれるのか、人々同士の信頼感を損なわないようになるのか疑問ばかりが増幅する。取り急ぎは、情報を取り扱ったり、ITやメディアにかかわる企業やそこで働いている人々の情報についての認識や見識の高まりを願うばかりだ。
モノの寿命がきたり、多くの不要なものに気づいたりして、この不要物や廃棄しなければならなくなったゴミに悩むことになって21世紀に入った。ひたすらモノやモノの多いさに価値を思っていた考えを反省するようになった。モノでないものに価値を見出すようになった。生き方や文化や知識など見えないものに価値を見出そうとする人々が多くなった。
その典型が知識や情報だ。21世紀が情報社会とかIT社会と呼ばれてスタートして早や十年。いま人々はこのように考えた世の中が"しあわせ”な方向に向っているのかということに確信が持てなくなっている。モノに代わって増えたあふれる情報のなかで、情報をどのように選別し、取捨し、どのように扱うか悩んでいたら、情報リテラシーやメディアリテラシーを勉強しなさいと言われた。
情報を取り扱ったりするメディアや情報を収集加工したりする情報会社および情報のシステムや通信技術を扱うIT企業などは、ただやたら情報をたくさん供給したり、売ったりするだけに邁進した。自分たちが情報という新しいゴミを世の中や地球上に撒き散らしていることに、いまもって何の反省もない。
モニター・プールを作り質の低いレベルのアンケートや情報を生産・排出しているインターネット調査会社はまだかわいい。ブログがはやると思えば、ブロガーを大きなカンヅメにして、ヤラセの書き込みを低レベルに囲い、これをまことしやかに、情報感度の低い企業に売る。一件あたりの契約金額を低くし”何の功罪”も回顧しないレベルをイイコトに詐欺まがいに情報ビジネスだという。
インターネット社会や高度情報社会という世の中が、本当に21世紀の世界を暮らしやすくするのか、地球や地域社会の生活環境をいい状態にしてくれるのか、人々同士の信頼感を損なわないようになるのか疑問ばかりが増幅する。取り急ぎは、情報を取り扱ったり、ITやメディアにかかわる企業やそこで働いている人々の情報についての認識や見識の高まりを願うばかりだ。