吉澤兄一のブログ

お江戸のど真ん中、平河町から、市井のトピックスを日記風につづりたいと思います。

いま問われる情報(IT)企業の社会的責任

2009年04月29日 | Weblog
 20世紀後半のわたしたちは、ひたすらモノ(物質)あふれる社会に邁進した。いろいろなモノをたくさん持つことや持てることが豊かで幸せなことだと思って、モノを大量に生産し、購入し、保有した。多くのモノが、人々や生活に便利を与えてくれた。気がつけば、寝るところや足の踏み場もないほど家中モノであふれた。

 モノの寿命がきたり、多くの不要なものに気づいたりして、この不要物や廃棄しなければならなくなったゴミに悩むことになって21世紀に入った。ひたすらモノやモノの多いさに価値を思っていた考えを反省するようになった。モノでないものに価値を見出すようになった。生き方や文化や知識など見えないものに価値を見出そうとする人々が多くなった。

 その典型が知識や情報だ。21世紀が情報社会とかIT社会と呼ばれてスタートして早や十年。いま人々はこのように考えた世の中が"しあわせ”な方向に向っているのかということに確信が持てなくなっている。モノに代わって増えたあふれる情報のなかで、情報をどのように選別し、取捨し、どのように扱うか悩んでいたら、情報リテラシーやメディアリテラシーを勉強しなさいと言われた。

 情報を取り扱ったりするメディアや情報を収集加工したりする情報会社および情報のシステムや通信技術を扱うIT企業などは、ただやたら情報をたくさん供給したり、売ったりするだけに邁進した。自分たちが情報という新しいゴミを世の中や地球上に撒き散らしていることに、いまもって何の反省もない。

 モニター・プールを作り質の低いレベルのアンケートや情報を生産・排出しているインターネット調査会社はまだかわいい。ブログがはやると思えば、ブロガーを大きなカンヅメにして、ヤラセの書き込みを低レベルに囲い、これをまことしやかに、情報感度の低い企業に売る。一件あたりの契約金額を低くし”何の功罪”も回顧しないレベルをイイコトに詐欺まがいに情報ビジネスだという。

 インターネット社会や高度情報社会という世の中が、本当に21世紀の世界を暮らしやすくするのか、地球や地域社会の生活環境をいい状態にしてくれるのか、人々同士の信頼感を損なわないようになるのか疑問ばかりが増幅する。取り急ぎは、情報を取り扱ったり、ITやメディアにかかわる企業やそこで働いている人々の情報についての認識や見識の高まりを願うばかりだ。
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知って”意識して”暮らすライフスタイル

2009年04月27日 | Weblog
 何でもそうだが、”知っている”ことは大事だ。暮らしにかかわることは、知らないでは暮らせないが、知っていても”そのことを”意識しなければ、知らないと同じ結果になることも多い。知って意識して暮らすことが、賢い暮らし方になる。

 世の中のことや政治・文化や今日のニュースなどを知って暮らすことも大切なことだが、自分の肌や感覚でものごとを確かめて暮らすことも大事だ。エモーション・コンシャスな生き方といえる。最近、このように何かを知り、それを意識して暮らす生き方がアドバイスされている。

 環境コンシャスやエコ・コンシャスな生き方や暮らし方が時代風だ。地球や宇宙の環境や存続そのものが、自分たちの毎日の生活やこれからの暮らしを大きく左右することは、いまは誰もが理解し意識するようになっている。地球の反対側のある国や地域の人々の暮らしや環境が、自分たちの今日明日の生活に大きくかかわっていることを理解し、意識している人々がマジョリティ(多数)になっている。

 身近で誰もが関心を持ち、そのような知識や情報をつよく求め、そしてそれをつよく意識して暮らしているコンシャス(意識していること)は、”健康”だ。ヘルス・コンシャスだ。健康についての知識を知って、これを意識して暮らすヘルス・コンシャス・ライフだ。政府・厚労省のメタボ特診が、この傾向を加速させたようだが、ただいまは一億総ヘルス・コンシャスだともいえる。

 たまたま自分の職種が、豆乳などへの人々の関心や意識を高めてもらうような広報活動をメインにするようになったこともあるが、昨年一昨年前ごろよりの自分は専ら、豆乳と健康やアンチ・メタボやアンチ・エイジングな暮らしを応援支援するシゴトになった。自分がコンシャス(意識)することと自分の毎日のシゴトが重なって、大変幸せなことだと感謝している。

 コレステロールフリーの良質な植物たんぱく飲料「豆乳」でヘルシーライフ!!ついオーバーしがちなカロリーをそんなに気にすることなく良質な大豆たんぱく質や不足しがちなビタミン、ミネラル、食物繊維などをバランスよく摂れる「豆乳」には、血液中のコレステロールや余分な脂質を洗い流してくれるサポニンや女性の骨や更年期障害にやさしいイソフラボンなどが入っています。

・・・ヘルス・コンシャスな方の健康飲料、豆乳を飲もう!

(以上、ちょっとコマーシャルを付記しましたことをお許しください)

 
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身の丈サイズの生き方が、品のオリジン。

2009年04月26日 | Weblog
 ここ2~3年、よく品格や品についての本を読ませてもらったが、なかなか自分の生き方や日々の作法にまで影響したものに出会わなかった。藤原正彦さんの『国家の品格』を皮切りに、男や女の品格から親や何々の品格まで、ハヤリにあわせて読んだがこれと言って感心したものはない。

 理由はないが、昨日読んだビートたけしさんの『下世話の作法』(祥伝社)で初めて”品”に触れた。下品な私が初めて語る「粋で品のいい生き方」とは?と語っているが”さすが”のエッセンスを感じさせてくれるのは、やはりその道を極められたヒトの言葉だ。ひとつも下世話を感じさせないのは、やはりご本人の作法や人柄のせいだろう。

 ヒトの立ち居振る舞いや会話の作法などの何気なく出る気づかいや礼のなかに、粋や品をみるというたけしさんに共感した。ことさらご自分の育ちや下町での幼少時代を”悪”ぶったり、卑下したりしているところには、少々のイヤミを感ずるが、芸人やタレントとしての頂点を極めたヒトだということが、バランス感を高くしている。

 巨匠たけしさんの本は、どれもベストセラーだろうが、今回のようにヒトにやさしい、読みやすい、そしてあまり重くならない本は、たくさんのヒトに読んでほしいと思う。ふだんご自分の品や知識レベルの低さに悩んでいたヒトにも、ご自分の知識や見識をウリにしてきたようなヒトにも、ぜひ読んでいただきたいと思う。

 仁義礼智信をふだんの行のバックボーンにし、粋や品を少しでも自分のライフスタイルにとり入れたいと願って日々の暮らしを考えてきた自分だが、まずは自分丈をどう認識するかということと、身の丈サイズで日々を暮らすことが”品”の前に心しなければいけないことなのだと思った。
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マスメディアが、世の中の不公平をつくる

2009年04月24日 | Weblog
 昨日今日の草薙剛(なぎの漢字が?をお許しください)君の報道に不愉快感がつのる。公然猥褻ということだが、このようにヘビィにマスメディアに取り扱われなければならないほどの”罪や行動”なのかと思う。公衆の面前で、公道や公園で、酔いつぶれて”ハダカ(全裸)”を晒したということだが、全国的な新聞やテレビなどが、繰り返し大きく報道しなければならない事件や犯罪なのかと思う。

 ただ読者や視聴者の興味関心に応えたマスメディアを”それは言いすぎだろう”とお叱りをうけるかもしれないが、世の中の喧騒やミーハーをあおることがマスメディアのシゴトだとは思いたくない。ある意味では、マスメディアほど見えない権力や暴力を持ち合わせるものはないと思っているので、とくに社会的な企業責任を強く持って欲しいと願う。

 世の中の公平を最も気にしてほしいマスメディアには、いつもこれを”このように報道したり、記事にしたりすること”の影響をよくよく考えてほしいと思う。マスメディアは、不公平だなどと思わせない報道や取り扱いを心がけてほしいのだ。

 いつか、ずっと前の植草一秀さんがやや違うものの最近の高橋洋一さんの事件の扱いについて”不公平さ”を嘆いたと聞いたが、そう言われても仕方ないマスメディアの最近なのだ。庶民の野次馬やミーハーに乗り、これを視聴率や購読率につなぎ”盛り上げれば”自分たちのシゴトがうまくいっているなどと思わないでほしい。

 たったの2日の報道だが、草薙剛君にはその"罪”を大きく越える社会的制裁が加えられたように思う。コマーシャルや俳優や歌手としての”シゴト”の多くを失ったと思う。ご自分がついやってしまった行為を反省し、しばらくは誠実に謹慎し、二度とこのようなツマヅキをしないよう謙虚にこれからあとの生き方を考えて欲しいと思う。

 ガンバッテください。一回り大きくなった草薙さんにまたお会いしたく思う。
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私の偶然は、なぜ非日常で多いのか。

2009年04月19日 | Weblog
 人生、このような素敵な出会いは二度とないだろう。人生の師というか、大きく自分の生き方に影響や指針を与えてくれる人などめったに出会えないだろうと思っているところに偶然か奇跡か、わたしの一期一会が起こる。望んだり、仕掛けたりしたわけではないのに、すばらしいヒトに出会うことがある。

 四半世紀か半世紀に一(人)回か二(人)回かもしれないが、わたしにとっては貴重な一期一会だ。恵まれた人生だと実感する。一途に信ずる道を、自分なりの歩き方で歩いてきたから、このような道で出会うべきして出会えた幸せなのかも知れない。感謝している。

長い目でみると、非日常も日常とイコールなのかも知れないが、わたしにとって朝起きて、朝食をとって仕度をして地下鉄に乗って事務所にでる。ときどき外出することも多いが、多くは事務所の午前はアレコレ思案したり昨日残してしまったことを処理するのだが、大体コーヒーなどで時間を過ごす。昼食を近くの定食屋かレストランで過ごし食後のコーヒーをしたあと、今日の仕事になる。

 このような週日のルーチンライフを、わたしは”日常”と言っている。それ以外が”非日常”なのだが、土日や休日でも自宅で3食をとり、家内の買い物に付き合ったりしている土日ライフも一応日常に入っている。これら以外の生活が、わたしの非日常ということになる。

 最近のガルネク(GIRL NEXT DOOR)ではないが、わたしの偶然や奇跡はどうもこの非日常ライフで起こる。この半年ぐらい前は、まずはこの東京で約束や予定なく会うことはないだろうと思う同郷の後輩にバッタリ出会った。めったに乗ることのない副都心線の北参道の同じ地下鉄でのことだ。その彼に今月の4日、何年かぶりに出かけた石神井公園でバッタリだ。彼は、ふだん平和台あたりで、わたしは成増あたりで暮らしているのだ。

 先月末の『レッドクリフⅡ』(試写会)は九段会館だったが、昨日18日の試写会『GOEMON』は神保町は一ツ橋ホールだった。そこでまた偶然があった。まずは会うことがないと思う神宮前のSKさんに出会った。ビックリさせるとまずいので”ご挨拶”もせず、映画を観賞して帰宅した。少し前の南柏の10年に一度ぐらいの友人との出会いは、大先輩のお通夜の会場でだ。何の点と線の関係も想像できない友人と先輩とわたしだったのだからビックリだ。

 いまこの瞬間にめぐり会うこと、それ自体の奇跡、偶然の確率=それはゼロじゃないと、いまならいえる という偶然の確率の歌詞。1億3000万人のうち1000万から3000万人がわたしが出会うポテンシャルだとして、これに地域と時間を掛けたその瞬間に偶然の確率を求めたとして、その多くが非日常で見られることの不思議だ。偶然や奇跡が少しでも得られそうな、そんな人生も幸せに思える。

 
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モッタイナイ商品考

2009年04月18日 | Weblog
 朝日新聞2009年4月18日朝刊13面に「モッタイナイ商品」の販売が紹介されている。”賞味期限切れだって食べられる”という大見出しだ。記者が賛意していることがわかる。

 不勉強な私でも、これが違法行為やヤミ行為に近いか違法そのものではないかと認識している。食品衛生法やJAS法に抵触しているのではないかと感じている。賞味期限の改ざん商品の販売(白い恋人など)や賞味期限や消費期限切れの原料を使った菓子(不二家など)の販売で法的社会的批判を受けたメーカーとどう違うのだろうか。

 賞味期限や消費期限があるために大量の弁当、惣菜、加工食品などの食料品が廃棄されている現実的社会問題がある。モッタイナイし、何と言う無駄や浪費をしているのだろうと思う。年間約2000万トンの食べ物が廃棄されていると聞くと、これが飢餓で苦しむアフリカなどの子供たちにでも回せたら大変助かることなのにと思う。

 コンビニのお弁当だって、消費期限切れで廃棄されるものが一日180万食もあるという。今日の、ただいまの"食べ物”にありつけない方々に回せないものかと思う。農水省の食品ロス率の調査でみた日本の一般家庭の食料品の平均ロス率は約4%前後だと言うから、毎日500万食ほどの廃棄をしていることになる。この分うまく利用できれば、このように多くの人に"食べ物”を配ることが出来るのだ。

 だから、できる小さな活動として賞味期限や消費期限の切れた食品を「モッタイナイ」商品として半値ほどで売る。ご自分の舌で試食して”食べられる”ことを確かめて売るから、事故は起こらないという。賞味期限切れの商品であることを断って売るから問題ないという。お叱りやクレームの電話は1件もなく、すべて”いいことだ”と励ますものばかりだという。

 このような取材記事を大きく扱う朝日新聞さんは、これから食品のロスやムダや廃棄の問題をキャンペーン化しようというのだろうか。食品衛生法やJAS法の賞味期限や消費期限が法的規制である情況を、どのようにしようというのであろうか。法的規制と人類共通のテーマ(ムダをなくし、大事にする)とをどう調整しようとするのか、アイディアなりお考えなりをお伺いしたい。
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ヤミ米、ヤミ専、ヤミ給与

2009年04月15日 | Weblog
 「米」流通が統制され米穀通帳が、ただいまの健康保険証やパスポートの代わりをしていた時代もあった。ときの法律や規制を抜けてお米などを買ったり売ったりあるいは運んだりする”脱法行為”を、ヤミ何々という。当時は、都会の人も田舎や農家の人も、ヤミ米を求めた。

 ささやかな庶民の体制や権力への抵抗やヤミ何々には、スリルがあった。官権や監視の目を逃れて”達成”できた歓喜は、精米10kg以上のものだった。もちろん、世の中には決して”ヤミ何々”はしないという奇特な人もいたが、ゲームや娯楽のなかったその当時は結構”ヤミ何々”がその役割を果たした。ヤミたばこなどもあり、供出をしない「たばこ」葉を紙巻タバコにするローラーなども売られていた。

 いわゆる役得が横行するのも、このようなヤミ何々がある世界だ。しかし、この一年新聞を賑わした”ヤミ専”は、少し違う。多くの公務員や役人と同じように毎日出勤するが、給料をいただいている役所職場に出ず、まっすぐ全何々労働組合に直行し、そして一日労働組合の仕事をする人を”ヤミ専”(組合専従)という。一応”許可”されれば、組合専従もOKなのだが、お給料の出所が違う。

 役所や公務員の仕事をやっていないのに、役人としての給料やボーナスをもらっている人たちだ。農水省や新聞で見るような”数”はほんの一部で、実際はこのような人(ヤミ専)は想像を越えるのだ。現業部門や出先機関などが多い農水省や国土交通省などにヤミ専職員(?)が多い。地方農政事務所や全農林労働組合が脚光(?)を浴びたのは、たまたま事故米検査問題からの副産物だ。

 社会保険庁問題を擁する厚生労働省なども体質や内容は同じだ。現業を仕切る労働組合とこのような労使慣行を、国民の目から”ヤミ”化しているのはいわゆる官僚や公務員という種族なのだ。最も官公庁の管理職が恐れているのは、国民や上司や法律ではない。官公労などといわれる全何々労働組合なのだ。彼らとの労使慣行を遵守することなのだ。

 一日中、組合事務所に出て囲碁などをしているヤミ専も、一年間に何十回もの事故米検査に通い、ただスタンプを押してお茶して帰る出先の役人も、”何もせず”して(税金からの)高い給料やボーナスをもらっているのだ。中間管理職のキャリアなどは、このような帰属社会に入ったことを被害者意識で受け止めているのだから、業務命令すら出せない。このような慣行や風習を考えずして、公務員改革など出来そうにない。
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予測や展望の限界

2009年04月13日 | Weblog
 国(省庁)が毎年出す白書には、ほとんど例外なく”予測や展望”が出る。それが、どのくらい的中するものなのかは知らない。簡単な予測やシュミレーションなどの仕事をしたこともあるし、文科系の統計や数学をカジってはいるが、どうもその手の予測や展望に”確かさ”を感じない。

 役所や政府の”20年後や50年後”を確かめたことがない。現在の国の姿や生活を50年前は、どのように予測・展望していたのだろうか。20年も30年もかけて開発建設したりしているダムや埋め立てや道路建設が、いまもって建設途中だったり、20年間も毎年調査費を計上しているだけなのはどうしてなのだろうか。

 開発や建設の進行自身が対象や目的を変化させるからではないだろうか。対象の環境や社会的地勢的状況が変わるからではないだろうか。時間や時代を経ると、求めるものや環境や価値基準そのものが変化するからではないのか。予測や展望の方法も時代とともに変わるし、モノサシも変わるからだろう。

 人々の生活や産業や社会の構造そのものが変わり、時代時代の価値基準が変化することを考慮できないのが、多くの予測や展望なのではないか。役所や政府の景気刺激策や予算などが、いつも年度単位になり2~3年や5年後のそれにならないのは”できない”相談だからではないのか。本予算と同時に出来る補正予算が、年度単位でモノごとを考えている証左なのではないか。

 なかなか一致できない温室ガス削減目標など典型かもしれない。エネルギーや環境をどうすると経済や国民の生活がどう変わるかという予測や展望をしては、どうしても経済が後退したり、不便が増したりするということしか出ないだろう。エネルギーや環境が変化していない”現在”の経済構造やモノサシで、エネルギーや環境が変化した世の中を展望しようとしているからだ。

 一度、現在ない”変化した”あとの社会構造や環境と価値基準を先にシュミレーションしたらいい。新しい価値基準やモノサシを先に考えることが大切だ。新しい価値基準や社会構造を提示し、それに沿った予測や展望をすることをお勧めする。そうすれば、いつものように”環境と経済は両立しない”とばかりの計算結果にはならないだろう。
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小さな生き物の受難

2009年04月11日 | Weblog
 汚れて淀んだ川面に大きなフナが死体になって浮かんでいる。とても泳げるような川でも水でもない。洗剤や科学的な成分に出会ってなお酸素もほとんどない水だから当然なのだが、現実は結構キレイそうに見える水の川や河口にフナやコイが浮かんでいる。

 いつかは、鶴見川か目黒川か忘れたが、都会の川で大量のフッコが浮いていた。喫水域だか汽水域だか知らないが、河口を逃れてフッコだかスズキだかわからない魚が大量に、あまりキレイでない川を上ったこともあった。サカナたちもどこに安住していいのかわからなくなっているのだ。地球規模で環境が変化というより悪化している。

 結局は人間が川や海や陸地など地球の環境を悪化させているのだが、気候などの異常が大きな原因だと言って、直接的な責任を逃れようとしたりする。異常な気候にしたのが自分たちだというのに。熱帯林をはじめ緑の森や林を伐採や採掘で破壊された緑の住民・動物たちは、住処や食べ物を求めて人間たちの生活地に出没する。人間のクルマに轢かれたり、銃でうたれたりしている。

 小さな生き物の代表のミツバチが激減しているという(朝日新聞、4月11日夕刊)。果物を耕作している農家が泣いている。あまおう、とちおとめ、紅ほっぺやももいちごなどイチゴ農家にとって、受粉用(セイヨウ)ミツバチは命綱だ。メロンやスイカなどの受粉もミツバチたちが行う。マスクメロンや夕張メロンが高くなるだけでなく、たまにいただく茨城は旭村のアンデスメロンも食べられなくなるかも知れない。

 ニホンミツバチの大量死が多く散見されるようになった最近の日本だけではない。セイヨウミツバチの供給源の南米や欧米でもハチの大量死に見舞われているという。小さな虫たちを襲う伝染病が原因らしいというが、もとはやはり環境の異変だろう。バラのアブラ虫やさくらのケムシなどを毛嫌っていた小学校時代が懐かしい。小さな生き物がイキイキ生きられるような、そんな環境や地球に戻したいと切に願う。
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IT革命による高度情報システム社会の危うさ

2009年04月06日 | Weblog
 すでにエイプリル・フールはとっくに終わったと思う4月4日、わが国の政治や防衛のトップでウソごっこだ。わが国の防衛をあずかる防衛省と日本政府は、北朝鮮のミサイルが発射されたという誤発表を出したのだ。国民に対する国防の信頼性を揺るがすどころか、対象の北朝鮮や先進諸外国のわが国の国防や情報システムに対する信頼を一気に損なうことになった。

 空自レーダーの誤探知や米国の早期警戒衛星情報を誤読、確認チェックもせず、反射的に情報発信させたらしい。5分後には、誤発表だったと伝達したのだというから混乱きわまりない。政府と防衛省のオオカミ少年ぶりをさらした。これが、わが国の危機管理や情報システムや高度通信システムの実態なのだ。

 初歩的な発射事実も掌握できず、よくもPAC3や迎撃などと言えたものだ。北朝鮮に、長距離弾道ミサイルや改良テポドン2ではなく平和目的の人工衛星の打ち上げだと言われても、発射もつかめず追撃や飛行軌道も見失うようでは情けない。陸自のメール通信や政府のそれも自治体の情報通信体制の幼稚さも、想定のレベル以下だ。お粗末すぎる。人間の目や手や感覚が介在する精度だ。

 ことほど、情報やシステムと言っても多分に”人間のいい加減さ”が入るレベルにあるのかと心配と不安が増幅された。IT革命とは何なのか。情報技術や通信システムの何がどう革新され、高度化されたのか。情報システム社会は、社会の何をどのように高度化し、どのような便利や安心を高めてくれたのか。ただ不安や不信と心配だけを高めただけではないのか。

 高度情報化社会や超同期化社会などと言っていた自分の社会認識の甘さを強く実感した。情けない。防衛も政治も”危うさ”ばかりが目立つこの国だ。即時、責任を取って辞職願を出してもオカシクナイ防衛大臣と内閣(政府)だというのに、何のオトガメもない不思議だ。

 2009年4月5日、北朝鮮のミサイルか人工衛星かわからない飛翔体は、日本のはるか上空を飛び、太平洋の真ん中に沈んだという。打ち上げた北朝鮮は、初期の衛星軌道に乗ったと言うのだから、いい加減なものだが、ICBM弾道弾ミサイルによる間違い戦争のリスクが高まったことだけは確かなようだ。
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