吉澤兄一のブログ

お江戸のど真ん中、平河町から、市井のトピックスを日記風につづりたいと思います。

希薄な社会性が未就労の原因ではない!

2006年05月26日 | Weblog
 5月26日(金)の読売新聞(埼玉)の一面トップ記事は、「ニート6割 部活未経験」「希薄な社会性 未就労の原因」という同新聞社のネットモニター調査結果だ。すでに20歳になっている者(20-50歳の男女対象、n=1500人)をして、部活”未”経験と言っている(私なら”非”経験というが)ことなどどうでもいいのだが、「希薄な社会性が未就労の原因」と言っていることは??と思う。「未就労の状態だから、社会性を希薄にせざるを得ない」のではないか。ことほど左様に、どうも”調査結果やデータの見方が、前後逆さまなのではないか”というような記述が多いのだ。
 このような大事な社会調査を(その危うさを考えず)インターネットモニター調査でやり、(これを平気で)大新聞が一面トップ記事にするところに、日本のメディアや社会調査学者たちの見識のなさや浅さが窺がえて嫌だ。おそらく「データの見方の仮説」からなのだろうが、就労状況の程度を序列化したのか、ニートからフリターにかけて左から右へ「未就労者ーバイト経験のある無業者ー就職経験のある無業者ー短期アルバイトー長期アルバイト」と並べ、「友人の存在を聞いたことがない」や「学校時代、部活など特にしなかった」という回答(%)を右下がり折れ線グラフに表現し、「ニートは・・・だ」と上のような解説をしている。友人の存在は「現在」のこと、部活は「過去」のことなのだが、これを同位にならべ、ニートや無業レベルの”原因”のように言っているのだから、あきれる。
 会社にちゃんと勤めている者やフリーターで職場に行っている者に比べれば、いわゆるニート状態にいる者(未就労者)に「友人が少なかったり、いなかったり」しているのは当然だろうし、ニート状態の者のなかに、「学校時代、部活しなかった(部活に参加できなかった)者」が相対的には多いかもしれないが、現在毎日、農山村などで汗して働いている者は彼ら以上に「部活などしていなかった」かも知れないのだ。
 おまけに、それなりの方が、記事の後記評に「規則正しい生活や友だちづくりなどを少しずつ練習すれば、働けるようになるはずだ」とコメントしている。「本当か、何を寝ぼけているのだ」と言いたくなるほどの見識のなさだ。
 政府やマスコミは、アンケート結果や現状統計などを「白書」よろしく公表(正しく)すれば、「誰かが、どうかしてくれる」と思っているようだ。あなた方がやらずして、誰がやるのですか。自分たちの”責任”以外の誰の問題や課題でもないでしょう。
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「子供がほしい」世代の応援歌

2006年05月25日 | Weblog
 いま、政府は少子化担当相を置き、少子化社会推進専門委員会をつくり、政府与党協議会で、自民党案、公明党案および野党案などを、総合的に協議しているという。あきれる「遅さ」というだけでなく、官僚(厚労省や内閣府)も政府も、何を議論に議論をしているのでしょうか。とっくに、委員会や協議会や議論などの時期は過ぎていると思われるのに、それでも議論して時間を消費しているのでしょうか。
 子供(少子化対策)の問題や高齢者問題など人口的社会問題は、問題展望が30年前、少なくても対策決定(法律)は、20年ぐらい前になされて”しかるべき”問題だと思うのが、まぁ常識だと思います。高齢化や少子化、そして人口減少社会に入る展望や推計などは、難しい問題でもなく、現に「今日」を、30年20年前の厚労省(人口問題研究所)は、予測していたのですから、本来なら”いま”、問題の緊急性などを騒いでいること自体がオカシイのです。
 何もせずに、「そうなるだろう」(白書)とだけレポートしたり、「そうなるまで」政策や施策が実施されない日本の役所や政治は、少子化問題に限らず、社会保険や高齢者施策および教育など、あげればキリがないのが実情です。
 出産や子育て世代イコール団塊ジュニアである時期は、もう「終わり」に近づいています。何でもいいから「いま」「やること」が緊急で、少しでも時間を経過すると、問題がますます大きくなることを、つよく自覚してほしいのです。あなたがたは、国民の税金を食べて、日々生きているのですから、この程度の自覚は当然だと、わたしは思っています。
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非論理が世の潮流や流行をつくる

2006年05月18日 | Weblog
 柏崎通信の梶谷さん(編集長)が、NHKの「Cool Japan」を見て、若い女性や女子高生などのファッション嗜好を、拾い書きしている。大変、自分の範囲をこえたことについてふれる勇気には敬意を表しますが、結構なオジサン(柏崎在住の59歳)なのですから、「かくかくしかじか」だったとみるのはいいでしょうが、あまり”ファッションや若者嗜好”などについて云々したりしないことも
大切な自分維持の処世術なのかもしれません。
 汽水域というか、何かの潮目みたいなところに自分を置いたり、自分の目線を置いたりしているようにみえても、私も含め年寄りの間違いをする原因は、往々にして「論理思考」というか、間違いない論理や推論をして考えたというところにあるようです。
 所詮、ファッションはほとんど、若者や若い女性の文化や領域のことですから、論理で詰めて考えたりすると、大きく狂うことが多いものです。論理で考えたり推論したりする領域でない領域に「論理」を持ち込むことは避けた方がいいと感じるから、こんなことをブログにしたのです。流行やファッションとは、あまり説明しない方がいい”感性”や”ハズミ”のようなものだと思います。
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はてな、?の「社会人基礎力」

2006年05月14日 | Weblog
 政府の「再チャレンジ推進会議」(議長、安倍官房長官)が、社会人を評価する(?)基準となる12項目の「社会人基礎力」をまとめたという。ご丁寧にも、これを企業の”求人要項”のようなものに入れるようすすめるというのだ。
 内閣や政治家のみなさんには、かようなことを考えたりする”ゆとり”があるということを今日知りました。というより、時代や社会の当面する問題やプライオリティ認識とのズレを感じさせられました。まとめられた12項目をご紹介すると、主体性、働きかけ力、実行力、課題発見力、計画力、創造力、発信力、傾聴力、柔軟性、情報把握力、規律性、ストレスコントロール力だ。それぞれ、その内容というか定義みたいなことを再掲しなくともご理解いただけると思います。
 お金と時間を使っての”おせっかい”のような感じもしますが、せっかくですから、もう少しコメントすると、この12項目、よくまとめられているようで、やはり「エアコンの効いた、人がうらやむような部屋で、上質なスーツにネクタイをした大企業の役員や官僚」がおまとめになったものだなと分かります。12項目どれをとっても、スーツにネクタイの人をしか「社会人」とみていない感じです。どちらかというと、募集したり求めたりする人はすべて「スタッフ」なのかもしれません。私などが、「スタッフとして必要な要件は、・・・」と言ってオシャベリする項目とほとんど異なるものがないからです。
 孔子や二宮尊徳(五常講)の「仁、義、礼、智、信」というか”徳”や”人間力”のようなことがないだけでなく、泥する力、汚れる力や汗する力とこれを何人かで力をあわせてする力および自然やまわりの動物や植物にやさしく接する力などが大切になってきていることが入っていません。否がおうでも工場や社会の歯車として部分を受け持つ人々への考慮もみられません。
 学生の就職活動がターゲットなのか、リタイアや辞めざるを得なかった人の再就職がターゲットなのか、それとも”NEET”と言われるような人がそうなのか、??のような「まとめ」を、政府が発表したりしない方が害がないと思いますが、いかがでしょうか。
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学者バカと学者ゴミの社会学

2006年05月12日 | Weblog
 ただ「ご苦労さん」とばかり言えない社会学者たちの社会調査というゴミやお役所やマスコミのそれが多い。1955年以来10年ごとに続けられているというSSM調査(社会階層と移動についての調査)なども、その最たるものだ。
 社会学者が「社会学者」として存在したり、自己満足するためなのか解りませんが、何故このような「調査」に汗しなければならないのだろうか。この調査をタテからヨコから分析し、スコア化したり、所見を加えて書かれた文庫本が、佐藤俊樹さんの「不平等社会日本」(中公新書)だ。また、内閣府の「国民生活に関する世論調査」などを元に、分析、考察して書かれた文庫本が三浦展さんの「下流社会」(光文社新書)だ。ともに、ベストセラーだ。
 たとえば、SSM調査では「問31(1)どのような人が高い地位や経済的豊かさを得るのがよいか、という点について次のような意見があります。この中で、あなたの意見に一番近いと思われるものを1つ選んでください。」「1、実績をあげた人ほど多く得るのが望ましい、2、努力した人ほど多く得るのが望ましい、3、必要としている人が必要なだけ得るのが望ましい、4、誰でも同じくらいに得るのが望ましい」といった設問と回答肢に対して得た結果を、「資源配分原理」などとまとめ、論じているのだ。このような設問や回答肢がイヤというほど、セットされたアンケート調査(インタビュー調査?)を半世紀もやり続け、その結果を学者たちがこぞって分析、考察し続け、これを大変な労作や偉業や社会(理解)貢献と考えているのが、日本の超エリート大学の社会学者なのだから、あきれる。
 ご丁寧にこれに、標本調査理論およびサンプリング誤差や信頼区間や(母集団)名簿などについて触れて説明しているのだ。そして、あげくのはてが、情報リテラシーやリサーチリテラシーである。前述の質問ひとつとっても「これを、ふつうに読み、理解し、答えられるふつうのひとが、果たしてどのくらいいるか」ということや、一般の人々のふだんの生活や思考など、みじんも考えていないのだ。
 このような屍標本の陳列や分類みたいなことをやり「社会学や情報リテラシーを語って欲しくない」と願うのは、わたしだけだろうか。三浦展さんの利用している内閣府の「国民生活世論調査」の階層意識言及なども五十歩百歩だが、多くの役所やマスコミなどの社会や生活についてのアンケート調査も大半この類で、突き詰めると「社会のゴミ」(谷川一郎「社会調査のウソ」文春新書)以上の何者でもないといえる。
 泥んこで田植えをしたり、疲れて台所に立ったりしている人々や飛んでいる蝶や若葉萌える木々や草花を、アンケート化したりせず、”そのまま観る”ことの集積こそ、社会調査や科学者に求められていると思います。
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年代別「嗜好・差異」の崩壊

2006年05月11日 | Weblog
 多様化ということがよく言われますが、人それぞれはあたり前のことで、これを多様化や十人十色ということで説明してしまうと、特別分析や考察をしなくてもいいことになってしまいます。
 そういう私も、よく世代別や年代別および性別や収入クラス別などの分析や考察をしますが、近年とみにこのような分析や傾向に、格差がみられなくなって来ていることを痛感します。人々の収入や生活に格差が広がっているということが言われ話題になっていますが、一方で年代や男女間の”着る物やファッション”やライフスタイルに格差や違いが認められなくなってきています。
 何故でしょうか。実は、ここに、世間に言われている2007年団塊の世代問題が出ているように思っています。何も2007年や2013年問題は、その年に大きく国や国民に直面してくるものではないのです。言っているような深刻な問題にはならないだろうと私は思っています。それぞれの年を中心に、それぞれ十年がかりで問題吸収していく知恵を、一人一人も国民(政府)全体も持っていると思うからです。
 それ以上に、団塊の世代、コア世代1000万人、広く前後を合わせると2000万人ですが、この人口「団塊ジュニア」世代の人口も似たり寄ったりです。合わせて、1億2000万人中、4000万人が、親子して、同じような嗜好やファッション、子(団塊ジュニア)の子供もいれると6000万人、総人口の半分にもなります。この人たちが実は、価値観を共有し、親子逆転したようなファッションや嗜好およびライフスタイルをしているということを観ることが大切になります。
 何でも、年代別や性別などでみるのではなく、ライフスタイルやその人のテイストなどで考察したいものです。
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パーセント(%)お化け社会

2006年05月07日 | Weblog
 内閣や政党の支持率、行政や自治体のサービスへの満足や不満率、社会や家庭についての満足率、商品の認知率や購入率、商品やサービスの満足率、販売やシェアの昨年対比伸び率および計画に対する実績達成率など、パーセント、%です。各省庁やその団体は、社会や生活および環境などについての実態や意識などについて、それがすべてのように、「アンケート」調査を行い、設問に対する回答のパーセント(%)を発表したり、白書にしたりしています。テレビや新聞などのマスコミは、これまた毎日のようにアンケートによる世論調査や意見調査を行い、その結果を「パーセント」(%)にして電波や印刷媒体に載せ、発表しています。
 情報や記事に困ったら「アンケート」という時代なのか、パーセント(%)万能が情報社会そのものなのかといった様相です。パーセント(%)源の「アンケート」が、どのような人たちに対する、どのような設問で、どのような回答肢なのかなどを、考えたりする余裕も知識も持ち合わせていない一般の人々に対して、何の配慮もなく「何%の人が”はい”と答えています」と公表しています。
 特定されたり、制約されたりした人々を対象にしたアンケートも、何かの集まりや会場で行われたアンケートも、街頭や電話で行われるアンケートも、誰がキイボードを打ったのかわからないインターネットでのアンケートも、みんな「パーセント」(%)にされ、発表され、マスコミ・テレビの番組になったりします。
 番組や紙面や発表者側の仮説や都合が強調される「世論」づくりに加担することになります。パーセント(%)は、文字通りの”お化け”なのです。本当のことを隠したり、真実から目をそらさせたりします。よって立つ立場次第でどうにでもなるのが「パーセント」であり、アンケート結果なのです。行政団体やマスコミなど、これを発表する側が、何も知らない人々への最高の配慮をしなければならないのが、情報公開すなわちパーセント(%)の発表なのです。情報操作など何をかいわんやですが、ノイズになる情報や真実を隠すような情報が、社会化されないことを願うばかりです。
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節句(五節句)マーケティング

2006年05月05日 | Weblog
 今日、5月5日は端午の節句、男の子のお祭りとして、生まれた男子がいる家々には、鯉のぼりが泳ぎ、鍾馗様や武者飾りが飾られます。ゴールデンウィークといって、多くの人々が高速道の渋滞よろしくクルマで、田植え真っ盛りの緑や森林浴やアウトドア行楽に向かいます。五月はじめの連休の”日本”です。
 52週(年間)ウィークリーMDなど、カレンダーに合わせたマーチャンダイジング(品揃え)やマーケティングが定着してきた感じがありますが、このようなシステム化、フォーマット化やマニュアル化などが、マンネリ化や硬直化を招き、季節や天候などのライフスタイルからみたフレッシュ感やタイミング(機会)感を失くしてきているように思われます。
 季節の節目的な五節句も同じです。節句と節句(奇数月)の間に、2月のバレンタインや冬物クリアランスセール、4月の新入学やフレッシュマンセール、6月の梅雨や初夏のセール、8月の夏休みやお盆・帰省、10月の体育の日、スポーツやオータムセール、12月のクリスマスや歳末セールなどが入って、間が奇数月の五節句になりますので、節句という最も節目のカレンダー行事が後退したような感じになるのも頷けるというものです。
 3月3日(桃の節句)、5月5日(端午の節句)、7月7日(七夕の節句)、9月9日(重陽の節句)と”奇数”重なりなのに、1月だけ1月7日(七草/人日の節句)なのでしょうか。文字通り、1月1日(奇数重なり)のお正月(元旦)こそ、一年の始まりに年神様を迎えて、豊作とその年の家族の安寧を祈る最大の節句行事なのではないかと思います。1月1日(正月3が日)、1月7日(七草粥)から成人の日ぐらいまで、年初のお祭りですから、どちらでもいいのでしょうかね。
 ライフスタイルにもマーケティングにも、「メリハリをつけよ」と教えてくれている「節句」行事を、5月5日の農村の家々にたなびく鯉のぼりを眺めながらのドライブを通じて思いました。
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仁、義、礼、智、信の「義」

2006年05月01日 | Weblog
 孔子の五常の徳を二宮尊徳は、五常講という座学で藩民に説いた。日本人の礼節を重んじる心「武士道」(新渡戸稲造)の精神の柱は「義」のようだ。知行合一(五常の徳や知恵や知識も行動に示されなければ意味がないとする精神)の武士道は、神道や日本の封建社会を経て、誰が説法したり提唱したりということなく、武士を中心とする社会に芽生え、育った「人の生き方やあり方」についての道(道理や倫理)ですが、その中心は「義」のようです。
 正確には、この「仁、義、礼、智、信」に「忠、孝、悌」という倫理や道徳観を入れたものが武士道という”生き方や人の徳”だと思われます。思いやりの心の「仁」、正義や義侠や義理の心の「義」、礼儀や礼節の「礼」、知識や叡智工夫の「智」、信用や信頼の「信」に、忠節や偽りの心のない心の「忠」、父母を大切にする「孝」と年長者を敬う心の「悌」が、生き方や人としての心になったものを「徳」または「良心」と言ったようです。
 セレブだ下流だ、収入や収益がどうだ、昨年対比の伸び率がどうだ、市場シェアがどうだというような計量的、相対的なモノサシでの評価以上に尊重されなければならない「絶対観」や「絶対規範」を重んじた生き方や人間社会のあり様を示すものが武士道の徳や良心のようです。
 キリスト教や仏教などの宗教とも異なる「生き方」の根本を、徳(モラル)や良心におくことが、いま以上に大切になってきた時代はなさそうです。
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