吉澤兄一のブログ

お江戸のど真ん中、平河町から、市井のトピックスを日記風につづりたいと思います。

巨大化するガバメンタル・タックスイーターお化け

2006年06月28日 | Weblog
 都会の代表都市、大阪市の財政破綻やスキャンダルで大騒ぎしていたら、今度は北海道は夕張市の財政が破綻し(5/25発)、財政再建団体になったという。炭鉱の町が閉山を余儀なくされ、限られた選択肢から「メロン」を中心に全国ブランドにまで育てたり、この半世紀、地域の皆さんが汗し新しい町づくりに邁進してきた努力は軽々に言えないほどの”重み”と感じています。にもかかわらず、何ですか。夕張市の市長さんや市議会の議員さん、あるいはこの地方から出ている国会議員の方や地方にお金をバラまく中央官庁のお役人さん、あなた方が「メロン城」や「温泉観光」や「レジャーランド」などを”真剣に”プロモートしたのですね。地域の商圏や顧客の吸引予想の制約も、自分(地域)たちの”身の丈”も考えず、6億円かかろうと10億円だろうと、半分は国から補助(金)してもらえば、どんどん作ったほうが地元の業者も喜ぶし、何もない自分たちには、レジャー産業や観光産業しかないのだということで、少ない予算の「市」から半分なのだからということで、3億円、5億円と拠出投資をしたのですね。これらの債務償還時期はどうせ10年後だしということで、自分たちの天下りなどを考え、この運営を第三セクターにし、運営費の半分は「市」は毎年補助するからということで進めたのでした。
 もともと、市場性や事業性をちゃんとスタディもせず、事業のシュミレーションによる展望予測もせず、やったといっても「左」と「右」の数字の足だし計算合わせをし、予算や補助金をひねり出し”やった者勝ち”でハコものづくりを推進したのでしょう。そして、毎年「赤字」、もっと予算をつけてくれないから、経営向上の施策が打てないと、また補助金を要請しているのです。
 もともと、企画、計画をしたのは、前任者や前前任者で、ただいま”うまくいかず”苦労しているのは、自分たちなのだから赤字解消や再建のために市や国がお金をだしてくれるのは当然だと思っているのですから何をかいわんやです。
 いま、地方(自治体)いたるところ、大阪のUSJや長崎のハウステンポスの小型版や市民センター、博物館やホールなどがつくられ、いたるところ”赤字”です。第三セクターは全国に6834社あり、うち2376社が赤字です。債務超過で、どうしようもない第三セクターは451社あると言われています。これらに対する”穴埋め”に加え、2007年から2013年には現在の2~3倍になると言う職員の退職金手当て債の負担で、財政破綻する地方自治体の数は”人にいえない”それだという。
 税金は自分たちのお金(数字)だと思っているガバメンタル・タックスイーターたちを、国民や市民がトコトン追及していくことからしか「世直し」はなさそうですね。
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ユニセックス傾向の本質

2006年06月26日 | Weblog
 ピアスをした若者(男性)を見かけます。アーミィルックにジーンズで500CC
のオートバイを疾走させるヘルメットから長い髪をなびかせた若い女性を見かけたりもします。ボクシングや格闘技に汗する女性も多く見かけるようになりました。女性顔負けにやさしそうにお客さんに接する男性美容師や患者さんに接する男の看護士さんに出会ったりもします。
 男性の女性化や女性の男性化が「ユニセックス」ということでもありません。男女共用化や女性にも男性にも誰にでも使いやすい(ユニバーサルデザイン)製品などを考えることをユニセックスと言っているのでもありません。性別を考えないことや単一性化ということを指して「ユニセックス」と言っています。男性も女性もこれを区分して考えず、人間として”同じ嗜好や価値観や感性”を持つものだということを先んじて考慮した価値基準や生き方を持つことを押しなべてユニセックス(単一性化)と言っています。
 20世紀に入っても長年続いた男性社会に、人々が人種や男女の不平等に覚醒したのはつい最近のことです。日本でも1972年、男女雇用機会均等法が出来、雇用機会における男女差別が禁止されました。男女平等参画社会づくりなどというプロジェクトが大騒ぎされている今日この頃なのです。ユニセックスなどということを、このような社会傾向と重ねて話す自分が少々”ズレ”ているのかもしれません。
 体力的嗜好的に”重い軽い”で、一方を男性的、反対方向を女性的と言ったり、スタイルやファッションなどから、一方をメンズといい、反対をレディスと言ったりして、男女性別”特性や嗜好”を先入観的に考えていた傾向を改めなければならない傾向が多く見られるところに「ユニセックス」という見方や考え方が出てきたのです。男女の中間や平均がユニセックスではないということです。
 ところが人間は不思議な動物で、男性女性に限らず、「相反する両面を求める感覚や価値観」(アンビバレンス)を根底に持っています。暑い夏も好きだったり、寒い冬も好きだったり、また嫌いだったり、同じ一人の人間が、静かな田舎も騒然とした都会も好きだったりします。異なった時間や機会ならわかりますが、同じ生活シーンや時空間においてさえ、相反するスタイルやコトを求めたりします。
 ユニセックスを単に、男女共用や男女兼用の商品化やマーケットと考えることを越え、人々はいつもアンビバレント(相反する)なスタイルやテイストを求めるものだということを考え、ユニセックス傾向に対処したいものです。
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超同期社会のマーケティングが超えていない視座

2006年06月23日 | Weblog
 昨年(2005)の7月20日、わたくしは「超同期社会のマーケティング」(同文舘出版)を出版しました。あまりにも、情報や通信についての技術革新やシステムが進歩し、世界的な情報通信ネットワーク体系が整備(インターネット)され、どこにいる世界中の人々でも「ある地域の出来事や情報に触れたり、見たり、聞いたり」することが、ほぼ”同時に出来る”ようになったからであり、いま、東京にいる人も、地球の反対側のチリーのサンティアゴにいる人も、「同じことをしたり、考えたり、あるいは同じ情報に触れたり」している現象が一般的だと思ったからだが、実は”このような事象や生活スタイル”への反動としての「非同期」ライフスタイル現象が、あちこち多く見られるようになってきていることに”目を向けたかった”からである。
 しかるに、「同じ時間に、同じ場所」に存在する人は、よく考えれば「その人一人しかいない」のだ。大体にとか、おぼろげにとか「時間と場所」の範囲(規定)を広げても許されそうな社会学や生活学などにおいては、おおよその「同一時空間」があったりするのかもしれないが、「広げたり、おおよそ過ぎたり」することが、結果として”科学”から遠ざける結果を生むのかもしれません。「超同期社会」などと形容した自分を責める昨今です。
 すなわち、「同時(同期)が同時ではない」ということが、人の立場や視座によって起こるということや「同じ時間(時刻)が存在する場所によって、同じ場所が存在する時間によって」同じでないという現象のほうが”ふつう”だからだ。電車に乗って見ている車外のモノと車外にいてその同じモノを見ている人では、同じ時間同じモノが”違って”見えるように、同じモノや生活シーンでも、見る人によって、見る方法や角度によって「異なる」のが当たり前だからだ。
 何でもそうだが、”原因があって結果がある”とか”過去が原因で、未来が結果だ”という誰もが疑わない因果律や論理を「何も疑うことなく」受け入れ、そして何かを見たり、考えたりすることのみを、正当だ、論理的だとする姿勢を再考してみたいと思っています。
 そのように見るマーケティング視座や世の中を見る契機を与えることに、稚拙に終わった拙著「超同期社会のマーケティング」(同文舘出版、2005年7月)が
少しでも役立てば幸いです。拙著を踏み台に、より、いまの閉塞感を打破してくれる著作がでることを願っています。
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「自分」を語ることからの出発

2006年06月21日 | Weblog
 昨日、何年かぶりに上野「鈴本」演芸場のアフターファイブになった。高等学校の後輩の落語を目当てに、同じ郷里の高校出の友人二人と行った。柳家さん弥さんだ。最近の自分は、月に一度ぐらいだが、お江戸日本橋亭や国立演芸場などに行くが、大抵の場合、名の通った真打や師匠クラスの演芸ではない。おおむね二つ目クラスの若手の落語や演芸を楽しむことが多い。前座のかたもいろいろだが、若い方の一所懸命さや、この前よりよかった点などが、汗して”語る”なかに窺えて、自分が励まされるからだ。
 そして今日、昼近くに少々時間がとれたので、南青山の「ステンレス・アート・ワーク」サロンに松岡友さんを訪ねた。「再結晶」なる自作展を多摩美大の学生の彼女がやっていると聞いたからだ。時々、アルバイトで私の仕事の手伝いをお願いしている”やる気”のある学生アーチィストだ。私は全くのアート音痴で、松岡さんの作品についても、テーマとの関わりについても、何も語れる知識や資格がないのだが、不思議に”ざっとみている”うちになんとなく「解った気」になるのだ。”何かを伝えたいんだ”という心意気が、こんな私にも伝わってくるのだ。先の若手落語家の柳家さん弥さんも同じだ。
 芸人さんもアーチストさんも、あるいは私たちのようなふつうの人においても、大切なのはまず、「自分」を語ることではないかと思うのです。伝えるとかコミュニケーションというと何かスキルとか技術というようなものを介在させてと思いますが、いまの自分や自分のことや、あるいは自分が思っていることを、ただ話せばいいということが「自分を語る」ことと考えると結構気楽にコミュニケーションできます。理解してもらおう、解ってもらおうと考えるより、そのままの自分を語ればスタートすると考えることの方が、話し合いや議論が進むのではないでしょうか。自分を語るということは、自分の思考過程を開示するということです。なかなか進まない会社やグループの会議や会議に多い”水掛論”を回避する上手な方法はお互いが、好き嫌いを繰り返すのではなく「自分の思考過程」をお互いに開示するということだと思います。
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安全と安心に優先する理念などない。

2006年06月17日 | Weblog
 柏崎通信の梶谷さんが、「安全性と経済的競争原理」(通信351号)と題して今回のシンドラー社の「エレベーター」問題を、理系のシステム屋(?)さんらしく、わかりやすく説明して「問題」の核心を教えてくれている。この前の六本木ヒルズの「回転ドア」、今回のシンドラー社の「エレベーター」や先のマンションの「耐震(強度)構造」の問題など、すべて”競争と自由市場原理”を信奉する経済社会に問題の核心が内在されているというのだ。まさに、同意だ。
 基本的には、機械や施設構造物などを設計し作ったメーカーとその後のアフターメンテナンス会社は、独立していることがグローバルスタンダードだと思い、ただこれを、片方に製造物責任法を整備したので「オーケィ」だとして、競争をひたすら”いいことだ”と思い込んできたことに「問題」が潜んでいたのではないかと思われます。それにしても、「先輩は後輩に」「メーカーはメンテナンス会社に」技術継承や設計構造を伝えることは、当たり前ではないかと思うのだが、「競争」という市場原理がこれを妨げているらしいのだ。
 市場開放、経済の国際化が、自由市場原理とグローバルスタンダードをうたって
推進され、ただ”自由市場化すること”が、平等公平なのだという米国流企業経済主義をいそいだ日本です。その国その国には、その国の文化や国情があり、価値基準もそれぞれだという単純なことを忘れて「走ってきた」ことを、自己反省しているこの頃の日本のようです。
 シンドラー社(スイス)や回転ドア(オランダ→文化シャッター)が外国メーカーだから云々ではありません。パソコン(マイクロソフト他)やインターネットも多くの革新モノは、欧米発の国際化の波なのです。「競争」も、人類文化の発展や便利生活化に”貢献”した分、国々や人々の”格差”化を深めたようです。自由や競争に「公平や平等」というお墨付きを与えようとする”流れ”に歯止めをかけ、立ち止まり、振り返って、人類の最大多数の「しあわせ」の極大化を再考したいものです。
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誰がための「P」マーク?

2006年06月15日 | Weblog
 H15年5月「個人情報の保護に関する法律」(個人情報保護法)が成立施行されて以来、各情報取り扱い企業や市場調査会社などの「P」(プライバシー)マーク取得が活発だ。ISMS(情報セキュリティマネジメントシステム)が先だろうに、「P」マークなのだ。日本だけではないのかもしれないが、これも典型的なマーク・マーケティングなのだ。情報化や管理社会化(ビューロクラシー)の進展がなせるワザか、認証やマークがやたら大手を振って歩くのだ。いわゆる下流社会が膨らむと余計この手のビジネス(認証利権)が、「世のため、大衆のため」という顔つきをして、増殖するのだ。
 「モノ」不足気味で、「品質レベル」が低かった工業化初期、JISマークやJASマークが、多くの消費者に安心基準を与えた時代と”いま”は、大きく人々の知識レベルや価値基準が異なっていることを認識している上流の人々が、このような風潮に乗っていることは、一種の確信犯だ。
 国際化やグローバルスタンダード化の流れに乗じ高まったISO認証取得などは、9001だ、14001だと、昔のデミングQC運動がなつかしく思えるほどの国際的謀略ビジネスだ。ISOの認証マークも、「P」マークも官公庁や大手企業の業務発注や外注の基準として働く、一種の「大手ギルド」なのだ。
 消費者一人ひとりの個人情報を保護する企業行動が本来だろうに、自分たちのビジネス利権のように、これらの「マーク」が働いていることは、このところのヤフーやDION(KDD)の大量の個人情報の漏洩問題を見るまでもないのだ。
 エコマーク、Pマーク、グリーンマーク、リサイクルマーク、ブルーエンジェルマーク、フェアトレードマーク、防災ラベルやJIHFSマークなど、挙げだしたらキリがないマークや認証の発行元のほとんどが、役所の外郭団体や天下り法人団体なのだ。最近はこれらに負けじと、各都道府県が「マーク」作りに精進しだしたのだ。
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複雑や混沌(カオス)は、解かないで、じっと見ればいい。

2006年06月12日 | Weblog
 情報が多すぎて、消費者も企業も情報(洪水)に溺れそうだ。すすんで情報(洪水)の中に入り、そして脱出できず(解が得られず)もがいているのだ。生活空間にあるモノも多すぎる。モノも情報も出来る限り”捨てる”ことが大切だ。「必要なものとそうでないものに分類し、そして・・・」などと考えるだけで疲れる。直感やおおまかな判断(ヒューリスティックス)を信じて、”要らないもの”を捨てればいい。「心のゆとり」を取り戻すコツは、モノや情報をミニマムにした”シンプル・ライフ”だ。
 ”複雑系やカオス”と言っている限り、まだ”関心対象をソリューション”しようと考えている証拠だ。人間、自分のこれまでの経験や学習と、自分が身(頭)に付けてきたアルゴリズム(解き方)および自分の主観を信じて”物事”に当たることほど”楽”なことはない。「ヒューリスティクス」(heuristics)という考え方で、「正解が導けるとは限らないが、なるべく正解に近い」答えの状態が得られればいいとする考えです。多くの消費者の商品などの購買行動を言い当てた言葉だ。
 ところが現実には、消費者の多くが、もっとラクに自分の買う商品の購買(選択)をしているのだ。企業(メーカーや流通)のいうブランド(商品)選択モデルなど知るよしもない多くの人々は、「お醤油はコレ、ケチャップはコレ、マヨネーズやドレッシングはコレ、さつま揚げや豚肉はコレ」「洗剤やシャンプーはコレ、下着や靴下はコレ」などと、”行きつけのスーパーマーケットの何階のどこいら辺に売っている(確か今日特売の)こんな色合いやかたちのモノ”と思って、あまり考えず、商品をカゴに入れて買いますが、「これがこの前買ったものと違っていない」のだ。こうしてあまり考えもせず、おおよその勘(感じ)で購入する商品群(こうなるまでが大変なのだが)と、そうでなく「いろいろチェックされ、自分の欲しい特性と比べられて」選ばれなければならない商品群を分け、そして後者や新商品をして、消費者の商品購買(選択)モデルを考えるなら、合理的な感じもしますが、すべてを一括りにしてマーケットリサーチやマーケティングしようとしている姿は、極めて問題解決を遠くしているように思っています。ヒューリスティクスにアプローチするにしても、できるだけ「消費者が無意識的に合理的に行動」するブランド選択議論などから外した方がいい分野と、個人の選択や価値基準が働く分野に分けて”考える”ことが効率的だと思います。
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正確な公表が、誤解広報になることがコワイ。

2006年06月10日 | Weblog
 2006年6月7日、日経MJ新聞の二面の記事(消費分析)に、「健康・住が有望市場に」と題した郵政総合研究所の生活意識調査結果が要約掲載されていた。結果の所見が「ポイント」として3つにまとめられていた。①現状の生活意識は「趣味・娯楽」や「食生活」の充実度が高い。②このほか「家族団らん」や「交際」は充実度が高いし、将来も充実を望んでいる。③「貯蓄・財テク」や「健康・スポーツ」に改善意欲が強く、有望な市場になりそう。そして、現状の充実度と将来の意向をクロスさせて、このくだりを説明している。
 「本当?、?」と思い、よく調査概要を読ませてもらうと、全国モニター約16万人を母集団にした「18歳以上の男女1000人」を対象にインターネットで調査した結果だという。”なぜ、男女一緒にしたのか”や”年代別に何人ぐらいずつの分布(構成)になっているのか”など当方(読者)には解からない調査ですが、調査は「インターネット」で行われたという。当然、インターネットに気軽に向かえる”このようなアンケートによく応募する特性を持った”人たちの回答ですから、もしかしたら比較的”若い人たち”の構成が高かったり、中高年でも、”パソコンに向かっている人たち”が多い結果だと思われます。
 したがって、この記事のような「結果」は当然ですし、この調査自身、間違っているなどとは思いもしませんが、「このようなことを公表することが、情報公開や新聞の使命なのでしょうか」と考えさせられました。一般の読者や市民がすぐ「あぁ、そうなんだ」と思うことを見越したマスコミや新聞の社会的責任を、たかだかこのような記事に目くじらたてた私が大人気ないのでしょうか。いま、世の中は高齢者の人口が高くなり、平均家族人数は3人になり、2人家族が年々増えています。バラバラ食事が多い2人や3人家族が多くなる中で、家族団らんの充実感がでるなど考えられない私ですが、家族団らんや貯蓄・財テクが、どこいら辺の世代が”話題”にしているのか、趣味娯楽を語る世代と違うのか同じなのかなど、よく”考えて”記事を公けにしてほしいと思います。また、全体(GT)や平均で”ただ、これを言う”ことについての戒めを書いてしまいました。
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なぜ、人は何かと比べたがるのか。

2006年06月08日 | Weblog
 ひとは「お隣りは・・」とか「誰々の奥さんは・・」といったように、他人を気にし、自分と他人、他人のAさんとBさんを比べて、オシャベリします。新聞やテレビは、必ずと言っていいほど、昨年の平均世帯所得額や平均貯蓄額などを発表したり記事にしたりします。大抵の場合「平均」なのですが、一般の読者や視聴者はこれらの「平均」と、自分や自分たちの帰属集団(会社や仲間など)のそれとを比べて話題にします。そして、多くの人がいつも「隣の芝は青くみえる」と言うような感じになります。
 企業や企業の営業担当も、販売(売上高)のマーケットシェアや昨年対比をみて「勝った負けた」と論評します。国と国の間でも、GNPの伸び率や一人あたり国民所得の伸びや実質所得の比較をします。比べる相手や対象がないと会話が面白く感じないからでしょうか、安心できないからなのでしょうか。
 いままで、いまも、国・社会・企業や大学などやこれらに所属する人々は、何についても、論理的に科学的に「ものごと」をすすめようとします。「客観的に」といって統計データや調査結果を利用し、前年や平均および相対的な尺度を基準にして計測・評価し、状態や環境の改善およびその計画などを作ります。このように何か自分や自社という主体の外(競争企業など)との相対関係を有利にする企業活動を、外向的(external)マーケティングと言っています。
 相対尺度や客観的基準が、本当に自分たちや自分たちの社会を暮らしやすくするのだろうかと人々が疑問に思うようになったのは、20世紀末の極大社会や限界社会に遭遇したころでした。自由競争原理でよりよい社会がつくれるのか、「少なさに対する多いさ」といった相対尺度がどれほど「自分の生活」や「自分の価値観」意識にフィットするのかと考え始めたのです。
 外向的(external)アプローチから内向的(internal)アプローチや思考に関心が向いてきたと言えます。まだまだ体系化されていない「インターナル・マーケティング」という考え方ですが、複雑や混沌な「わからない」ことに対しては、無理に解かろうとせず、「そのまま」の状態を自分の目や主観視座で、素直に観察することが何かのヒントをくれると思います。比べ、数値化することだけが、科学的万能ではないということをお話したかっただけでした。
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言葉の人柄パーソナリティ

2006年06月03日 | Weblog
 きょう6月3日(土)、家内の希望もあり、さいたま市の大宮ソニックホールで
開かれた柳田邦男さんの講演「いのちを支える言葉」を聞きに行った。(社)日本社会福祉士会と社会福祉学会のオープン講座だった。
 文章や言語を専らとして文章や評論を書いたりすることで広く活躍されている方だけに、「ことば」についてたくさんのポケットを持っておられる印象をうけたが、講演そのものは”私にはためになった”が、彼が書いたりしているモノに触れるほどの感動は感じなかった。講演自身の目的や性格からそうなるのでしょうが、「いのちを支えたり」「生きる勇気になったり」する言葉を、いろいろなトピックスや事例や経験から紹介し、ひとつの言葉の影響や大切さを繰り返し語る調子になっていた。
 ただ、言葉を言語といって、言語の記号論や意味論を難しく論じたりせず、ふだんの日常生活における「ことば」にフォーカスをあて、ふだん何気なく使われている言葉が、他人や人との関係社会において大変重要な役割を果たしていることを分かりやすく話されたその人柄に敬服した。
 ちょっとした”ひと言”が人を傷つけたりすることもあれば、「ありがとう」や「ごめんね」と言ったひと言が、人に感動や勇気を与えたりすることを、ホスピスやケアホームで働く人を介し、ふだんの生活のなかでの「言葉」の持つ大切さというかたちで講演された。
 時を同じくして、朝日新聞が「言葉のチカラ」のテレビ広告キャンペーンを展開されていますが、言葉は単なるチカラを越え、その人の感性や人柄に加え、その人の識見や人物力のようなものまで表すような気がします。文明論や記号論にして言語を語っている方々に、もっともっとふだんの生活のなかに入って、言葉の意味や感情と発言されない言葉(沈黙)まで含めたことの議論や探求をしてくれるよう望みます。
 言葉を介して人々の生活や考えおよび希望などを調査したり、マーケティングリサーチなどをされている同朋の人たちには特に、言葉のひとつひとつを考えて扱ってほしいと思います。
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