吉澤兄一のブログ

お江戸のど真ん中、平河町から、市井のトピックスを日記風につづりたいと思います。

2016ー 年暮る。

2016年12月30日 | Weblog
東山魁夷画伯の自然や四季を愛でる絵に魅せられる。四季の足音や鼓動や息遣いが聞こえる。とくに、冬がいい。「北山初雪」の雪をかぶった杉林や杉林の一本一本の杉の立木がいい。深い。「雪の後」の凛とした清浄な檜からは、あの独特な檜の匂いが届く。タイトルに使わせてもらった「年暮る」の京洛の家々の瓦屋根に、しんしんと降る雪が伝える静まりがいい。

画伯の”冬”のメッセージは、「年が逝き、年が明ける」の大晦日。自然の前には、誰も何処も平等だ。自然も生きものも、ともに時間を共有する。わたしたち人間も、時間とともに変わる。すべてが、時間とともに変わる。そして、人は 変化する自然や環境とその時出会う。四季変わる自然と自分との一期一会だ。

生成する時も衰滅する時も ともにあるが、出会いは片や生成時、片や衰滅時だったりする。相手の”その時”を思う心が、実りある一期一会にする。相手が、人間でも、動物でも、草花でも、自然の林や山でも、宇宙のかなたでも、相手を思いやる心が大事なのだ。

春はハルの、夏はナツの、秋はアキの良さがあるが、何故か冬がいい。雪に覆われた森や林、白一色になった田や畑、雪化粧された家々の屋根などは、雪の下で耐える自然が息づいて想像を掻き立てる。雪がなく真冬に緑する針葉樹も、落葉し枯れ木になった木々も、枯れ野や土色をみせる田畑も、それぞれいい。冬が過ぎて来る春を待っているその姿がいい。耐える姿がいい。

2016年もあと40時間余りの筋書きハテナのブログで、失礼する。
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いまにも雪の前の田舎の景色が郷愁

2016年12月24日 | Weblog
緑もない。黄葉や紅葉も終わり、そろそろ落葉も終わる。枯れ木や枯草の中山間地の景色。明日あたり雪かなと思う頃の田舎の景色がいい。地味で控えめな景色が郷愁を誘う。

いまの時代、カタコト廻る水車で粉を引いたりはしない。精米も製粉も機械。水力や人力もいらない。世の中は、一方で人手が足りないという事由で、長時間労働や過労で自殺にまで追い込まれる人がいたり、一方では就職や働く場所がなく、きょうをブルーシートで過ごす人がいる。

IOTやAIが進歩革新し、人手どころか人の知能力やハイテクも不要になるという。きまった作業を繰り返すロボット・オートメーションは昔のことで、自分で考え働くロボットが増えるという。事件や問題と法律や規則などと照合し、合法や違法を見つける判事や弁護士の仕事は、ロボットがするようになるのかも知れない

田舎の景色や文化に郷愁を覚えてトシを経てくると、IOTやAIだという近い将来に腰が引ける。自分の肌で、自分の手で、触れたり感じたり汗したりする生活がいい。そう思う2016年を終えるこの頃です。
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どこから見ても、いつ見ても、美しい山-富士山

2016年12月23日 | Weblog
いつ見ても、どこから見ても美しい。三重あたりから見ても、千葉あたりから見ても美しい。静岡県側からの富士も、山梨県側からの富士も、ともに美しい。広重の富士山も北斎の富嶽三十六景も、ともに美しい。どこの いかなる土地も誰かの土地になるこの国において、富士山は誰のものでもない。

自然や宇宙や神のものなのかも知れない、日本人すべての心の中にあるものなのかも知れない。信仰の対象として、芸術の源泉として世界の自然遺産に登録された山と周辺自然環境を、誇りにしたい。頂上は俺の所有だという静岡県、環境や羨望から富士山は俺のものだという山梨県は、ただ今の2020オリンピックの施設や費用を獲りあったり、押し付け合ったりする姿だ。

2020東京オリンピックが決まった時のあのはしゃぎ、マリオ姿の安倍総理などのTV映像を思い出す。あれだけデモンストレーションし、国を挙げて東京五輪を誘致し、そして今、誰が主役で誰が金主だとケンカ腰だ。アスリート・ファーストだ、都民ファーストだという騒ぎを、国民がしらけてみている。周辺の自治体は、施設会場は貸すが仮設施設費用などは そちらが出せとイヤイヤ主張だ。

どこから見ても、誰が見ても、美しい姿はないのかも知れないが、誘致推進に共働した関係者はもっと大人になってほしい。今更ひっくり返せないちゃぶ台なのだから、おいしい食事がとれるよう静かなテーブルをセットしてほしい。
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和すれば和む

2016年12月16日 | Weblog
和という漢字を辞書で引いてみた。”足した数、合わせた数””日本”につづいて”心を合わせること””和らぐこと”や”人と人がやさしく解け合うこと”などと出る。和食、和服、和室、和紙、和文などをみるに、”日本”(大和国)を表す使い方が多そうだ。

もっとも、和算ということではないが、和は”足した数、足し算の結果”となる。和、差、商、積とはよく言ったものだ。足し算の結果としての和、引き算の結果の差、割り算の商、掛け算の積など、小学校で習う。いろいろ加算していくと総和になる。

心を合わせることや和らぐことなどを表す「和」だが、頭に使うか尻に使うかで、少々和のニュアンスが違う。頭に使うと、和議、和解、和睦、和平や和合などになる。尻というか後に使うと、温和、柔和、融和、調和や平和のようになる。

われら瑞穂の国の日本人は、優しく和む言語”和”を使い慣れている。何よりも”平和”を希求する国民の一人として、和平を跳躍して平和がほしい。どこの国とも平和条約関係になってほしい。平和条約を結ばなければならない情況を作らないでほしい。
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96歳の母との寸暇のオシャベリに、帰郷。

2016年12月10日 | Weblog
一人中山間地の田舎に住む母を訪ねて、快晴の2016年12月8日14時上野発のひたち10号に乗る。木曜と金曜、一週間に2日しか実家に戻らない母とのオシャベリに、月一回程度(妹と交替で)帰郷するのをルーチンにしている。この8日(木)9日(金)を狙って寸暇を得た。

12月8日(木)快晴の常磐線沿線は、文字通りの冬の日だが、車窓からの景色感はつよい凩だ。黄葉混じりの枯葉や落葉が、雪を迎える冬景色。黄茶色の田畑が広くずっと続く先には筑波山と筑波山につづく山々が見える。

水戸15:05着。20分ほど 駅構内でコーヒーブレイクし、水郡線で常陸太田駅に向かう。16時少し回って常陸太田駅前よりタクシーで30分、実家に入る。母(96)と二人(75)老々で、ビール付の夕食とオシャベリ。認知症のすすんでいる母は、同じ話を何回も繰り返すので、話は他愛もないオシャベリで終わる。

翌朝12/9(金)9:30母を施設に送り出し、帰京。午後3時 二番町の事務所に入る。少々の事務PC処理を片付け、夕方18:30七人の学生を囲み、いわゆる忘年会でした。
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21世紀大衆社会とポピュリズム時評

2016年12月05日 | Weblog
ついこの間の20世紀後半、モノ社会の発展はマネー社会に入った。そして、バブル崩壊しデフレ経済社会に入った。すでに人口減少社会に入った日本は、デフレ脱却どころかいつも現在維持が精いっぱいの経済低迷にある。21世紀に入り16年が過ぎた。

2015/ 16年の世界は、中国と米国の景気経済の浮き沈みに翻弄された。経済でも政治でも世界をリードし、世界警察を自認していたアメリカの威厳や力が低下し、リーダーを失った。民主主義社会をリードしてきた政治家エリートたちの課題掌握と解決力が落ちた。四半世紀前よりアクセライズしてきたグローバライゼーションが、後退している。

この一年の米国大統領選挙における候補者と大衆選挙民との動向と結果としてのトランプ勝利が教えた教訓は、民主主義の限界と課題を提起した。トランプのアメリカ・ファーストは、世界の自国第一主義傾向を強めた。EU離脱のイギリス、移民反対とテロ対策に悩むフランス、移民不満や経済低迷に苦慮するオランダやドイツなども、自国第一のポピュリズムだ。どの国のリーダーも大衆の不平不満の解決処方が見つかっていない。(12/5早朝、オーストリアの反ポピュリズム良識の報が届いた。変わるかもしれない。)

民主主義という社会不満や社会希望の吸収装置が、機能しなくなっている。多くの国や人々が、インテリ・リベラリズムとポピュリズム(大衆迎合)としての強権選択の岐路に立たされている。

このようなことを思っている2016年は12月1日の「山・鉾・屋台行事」ユネスコ無形文化遺産登録を受けた「秩父祭の屋台行事と神楽」が、無形と有形(モノ)論議の不毛を教えた。それにしても、能楽、文楽、田楽、紬や和紙および和食などのユネスコ無形文化遺産登録は、うれしい限り。すべて、大衆オリジンの文化で無形だ。
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