吉澤兄一のブログ

お江戸のど真ん中、平河町から、市井のトピックスを日記風につづりたいと思います。

ただいま世界経済恐慌中

2009年03月31日 | Weblog
 昨年の価格高騰がウソのような日本の物価の下落。土日だけとはいえ、ローカル高速道路の通行料金が1000円一律に下落したことが象徴する以上のこの春の消費財価格・物価の下落は、何を意味するか。昨年急騰した原料価格が大幅に下がったことが影響したのか。とても、そのような単純な一時の現象ではないところに、経済的社会的そして世界的な大きな問題があるのだ。

 小麦やパンや乳製品の値下げ、ユニクロなどのジーンズやスーパーの衣料品の値下げ、ニトリや白物家電販売店の値下げ、マックや居酒屋など外食店の値下げに加え、ガソリンや航空運賃に加算される燃料サーチャージの値下げおよび電気料金などインフラ料金の多くまで値下げ模様だ。毎日の買い物に苦労する消費者には大歓迎と言えそうだが、実は大変な社会経済問題を誘発するのだ。

 値下げが競争的に蔓延すれば、当然の帰結として企業の収益は悪化、働いている従業員の賃金が厳しくなることに加え、雇用まで厳しくなり、失業率がアップする。ただいまの派遣や非正社員の失職者約20万人の倍増や何倍増をはじめ、4.4%の失業率がアメリカ並みに上昇することもありうるだろう。

 このような日本の2009年問題をより深刻に考えざるを得ないのは、このようなデフレ不況がヨーロッパの諸国をはじめ世界中で起こっているからだ。米国発の世界的景気経済の不況は、すでに世界恐慌といってよい状況とも言える。国内経済のデフレ不況以上に世界各国で同時に起こっている信用収縮、金融収縮が、貿易金融収縮になっているからだ。

 国内資産価値の下落、信用の収縮、購買力の低下、信用不安の増幅がそうすると言えば銀行の味方をしているように映るが結果、銀行や金融機関の貸し渋りや金融意欲の低下をもたらす。世界中で信用が収縮し、お金が回らなくなるのだから、経済(活動)が活発に動くわけがない。まさに、世界恐慌中がいまなのだという認識から、世界のトップリーダーや経済政治の要職におられる方々に、この恐慌の突破策をお考え願いたいと思う。G7やG20に期待すること大なのだ。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2009年3月28日(土)~30日(月)の自分日誌

2009年03月31日 | Weblog
 この土曜日3月28日(土)は、ローカル高速道路の通行料金が1000円一律になった日。10年以上も乗っている私のマイカーは、ETC機能が搭載されていない。ちなみに、ナビゲーションもない。今回のドサクサでETC車載器も付けられなかったクルマだ。

 隣車線を1000円で走る週末の多くのマイカーに並行して、2750円高速料金で常磐道は那珂インターまでが、28日のわたしのドライブだ。500円一律料金の東京外環も入れると3250円になるのが、いつもの田舎行き。本家総領のいとこの一周忌法要だから、外すわけには行かない2009年3月29日前日だ。

 29日は朝から法要前のお茶会や挨拶。十時、お坊さんが着いて早速読経とご焼香に入った。十一時ごろ登るのもシンドイ山の上の墓地に焼香墓参、迎えの送迎バスで法事の会席に向った。にぎやかな昼食会から二時間経って、久しぶりの田舎農道の散歩。途中の茶屋でコーヒーとコンニャクを求め実家帰宅、早めの夕食めがけてまたビールになった。

 早朝の30日は晴天、気持ちいいサクラ行楽日和のお天気だ。自分の親のお墓参りと菩提寺お寺さんへの挨拶にヨコハマ(港南区日野)まで行きたいという米寿の母親を助手席に乗せて、まずは一路常磐道に入った。今度はみな平等に払う高速料金の日。2750円払って常磐道は、三郷を出て東京外環に入った。向島や箱崎を嫌って首都高を迂回したのだ。

 外環から環状線8号に入り、文字通り東京を外環してまずは、妹のいる横浜港北は日吉に向かった。環八で田園調布交番を右折、丸子橋から綱島街道に入るのにいつもより一時間も余計にかかった。瀬田近くは中の道の真ん中で、大型トラックが真横になり道をふさいでいたのだ。新築祝いをかねての日吉の妹宅に”電車のほうがよっぽど楽だ”と憎まれグチをいう米寿の母親を預けて、午後3時すぎ環八を成増の自宅まで戻った。

 この日は強行軍だ。夕方6時の映画の試写会観賞を九段会館で予定していたのだ。『レッドクリフ、PartⅡ』、つい逃したパートⅠには構わず、折角いただいた試写会の券をムダにしたくはないと、家内と有楽町線で飯田橋経由で九段下に向かった。強行軍でも、好きなコトに疲れはなかった。ベンハーなみのスペクタクル・三国志は、日本人の俳優さんが光っていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地球(環境)を大切にしながら、ゆたかに暮らすこと。

2009年03月21日 | Weblog
 いのちを大切にすることは、何もヒトや生物のそれに限らない。地球上のあらゆる生物、人類をはじめとする動物や海や山などに生息する植物と、地球をつくっている鉱物や地下資源および自然環境全体のいのちだ。みんな生きているのだ。結局、これらのいのち全体が地球(環境)なのだから、わたしたちは何をおいても地球(環境)を大切にしなければ、自分たちのいのちさえ守れないことになるのだ。

 2009年3月28日からローカル高速道路が1000円になるということで、ETC車載器を買いに出かけた(3/20)。10年も乗っているマイカーは、古くてETC機能が付いてない。政府官僚の天下りプール増殖に抗する意味もあって、いままでETC車載器をつけなかったが、ここは屈服してもトクをソンするわけにはいかないと動いたのだが、甘くない世の中を感じた。・・・結局付けられずに帰った。

 少し休日のクルマ利用を控えようと連休の中日のきょう(21日)は、都内を電車散歩することにした。とどのつまりのETC反エコより余程エコだと言い聞かせ、いただいていた切符持参で地下鉄日本橋は高島屋の「東本願寺の至宝展」に寄った。焼けても焼けても再建された親鸞聖人系譜の東本願寺や真宗大谷派や徳川の歴史的至宝と荘厳な日本画美術作品を堪能した。

 日本橋をあとに地下鉄で浅草に向った。仲見世通りから浅草寺本堂まで、それはそれはヒトまたヒト。初夏の日差しに汗ばみながら、ヒトをかき分けながら人の海を散歩した。ちょっとした昔風のカフェでコーヒーをとり、また歩きランチのために列の後方に並んだ。天丼の大黒屋やちょっとおいしそうな天ぷら屋さんはどこも長蛇。何とか30分ぐらいと見立てたうなぎ屋小柳さんが自分たちのランチになった。また、仲見世通りにクロスする路地を散歩して、そして帰宅した。

 一時は地球環境元年か、グリーンニューディールかと騒ぎ、ソーラーやハイブリッドカーの競争的開発や企業経済における”エコ”訴求ばやりだったのがウソのような定額給付金とETC1000円騒ぎ。ガソリン価格の高騰以来控えていたファミリードライブ需要再燃で、またまたCo2排出を高めようというわけだ。大量の電力と地球資源を使いプリウスだ、インサイトだとエコ・ハイブリッド車を製造販売する企業をして地球環境貢献企業として賛歌する不思議だ。

 便利やモノがなければ”ゆたかさ”は得られないのだろうか。ハイテクやハイブリッドなクルマが一人一台以上なければ、ゆたかさは感じられないのだろうか。エアコン、冷蔵庫、洗濯機がない生活に”ゆたかさ”はないのだろうか。たくさんのエコ製品を使って、日々地球環境を劣化させることでしか”豊かさ”は得られないのだろうか。ささやかに、薄着したり、エアコンを切ったりして、自分の足で歩くようにする程度でしか、地球(環境)を守ることへの協力は出来ないのだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

やたら「漢字」を増やさないでください。

2009年03月19日 | Weblog
 いま、日本語というより漢字がブームだ。テレビのクイズ番組にも、やたら漢字問題が多い。2級だ准一級だと漢検なみだったり、小学校4年生の漢字や6年生の漢字のような出題クイズだったりする。「お父さん、小学校の漢字も知らないの・・?」などと言われ面目丸つぶれだったりする。

 情報化社会がそうさせたのか、情報やIT社会化の反動がそうさせたのか知らない。日本語検定などもあるが、何といっても(財)日本漢字能力検定協会の「漢検」が、ブームの恩恵に浴している。公益が溢れだして私益を肥やしていた。そういう公益法人や政府天下り独立法人の国家的浪費や公益の私益化を攻めたりしているテレビメディアが、そういうネタを利益源にしている。

 なんとも皮肉だが、このたびの「新常用漢字」には落胆した。この時代、いままでの常用漢字(1945字)に191文字も追加したのだ。もともと、一般の社会生活でよく使用される文字(漢字)のミニマムを示したものが常用漢字ではなかったのか。よく漢字を使わせてもらっている自分でさえ、この2136字はシンドイ。できれば以前より”減らす”ぐらいの勇気というか、国民へのアドバイスができなかったのかと残念だ。

 日本的文化や伝統も大事だ。しかし、国の姿や文化も時代性を帯びる。情報化やIT化やグローバル化は時代の傾向だ。漢字国の中国や韓国でさえ、略したり易しくしたりしている。昔の難しい文字を使ってでなければ、意味やイメージが表現できない場合ややたら難しい漢字人名をつける人もいるだろうが、そのような向きにはそうさせておけばいいではないか。

 もっとも、国語審議会の委員の方々は、国語や漢字について豊かな知識や高い見識を持った方々なのだろうが、どのような議論や審議が、どのような委員の方からどう出て、結局どうなったといういきさつを知らない。保守的なかたや改革的なかたなどバランスよく選ばれた方々なのでしょうが、もしかしたら、世の中でいう作家先生やお年よりの先生がたばかりの審議会だったのかとも推量している。

 ふだん、できるだけ漢字でなく"ひらがな”を使おう、漢字より”カタカナ”のほうが理解が得られそうなものは、カタカナ(英語)を使おうなどと思っている自分は、難しい漢字はあまり広がらないほうがいいと思っている。2点しんにゅうを1点で書いたらバツなどと言われない世の中を希望する。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

”転向”のすすめ

2009年03月14日 | Weblog
 頑なに信念をとおしている人を羨ましく思う。思想や理念やコンセプトを不易にしている人を尊敬する。何でも”あるがままにみる”ことを信条にしている自分だが、まだ自分なりの”生き方”や理念なりを得るにいたっていない。世の中や環境に適応しようとしているだけの”ノンポリ”のままだ。

 中谷巌さんの「転向」の波紋が大きい(3/14朝日新聞)。賛同や支持をする人6割、批判をする人4割ぐらいのような感じだ。ついひと昔前、小泉元首相や竹中さんと構造改革を牽引された方だ。80年代出てきた「サッチャーリズム」「レーガノミックス」を肯定フォローする”小さな政府”と”新自由主義”と”市場原理主義”を標榜する構造改革派だった彼が、転向したのだ。

 竹中・小泉改革路線を批判する人々は、”それみたことか”と歓迎している。大学や研究論壇の人々は、社会のすう勢や世の中の変化やメディアに阿る学者らしくない気骨のない人だという。正直で謙虚だと言う声も多く、わたしもそのように思っている。彼の近著『資本主義はなぜ自壊したのか』(集英社)に啓発を受けたからだ。

 素人目にもこの間のアメリカ型金融資本主義の”罪”づくりは実感している。多くの企業や資本家たちに、身の丈(自己資本)をはるかに越えた資産膨張を指向するレバレッジ経営をすすめたグローバル資本主義。自分たちの存在キャンプベースの地球を守る環境コストも払わず、ひたすら利益追求と資産膨張に走り、格差を生産し、社会(世界)を破壊しているこのところの体制や主義に懐疑することは、すごく自然だ。

 市場原理主義や自由競争を動機にするグローバル資本主義を受容する構造改革に疑問と反省を抱いた中谷巌さんは、自然で謙虚だ。時代や世の中や人々の考えもチェンジ(変化)するのだ。自分の生き方や考えだって変化したり、転向してもいいではないか。与党も野党もいままでの”カネ集め”や体制を脱皮し、転向したらいい。

 ただ、選挙での「マニュヘスト」は、せめて任期中ぐらいは約束してください。しょっちゅう転向しないでください。お願いします。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国や社会のセーフティネット外の人々

2009年03月10日 | Weblog
 100万人を越える人々に生活保護費が支給されている。日本のシビルミニマム(最低生活保障)制度の確立をたたえる人も多いが、このような政府や社会のセーフティネットにかからない人々がいることを忘れることはできない。このたびの定額給付金すら手に出来ない人たちもいるのだ。

 住民登録も出来ない、住んでいる住所も明かせないだけでなく、屋根のあるところに住めない人々も多い。ニートや期間従業やフリーターなどというレベルにさえ届かない人たちがいる。幼いころから義務教育も満足にさせてもらえていない人々や何かの事故で世間でいう自己責任などということが理解できなく、集団や社会の法律や手続きや目も届かない人々がいる。

 毎年25000人ぐらいの人々が生活保護の開始を受けている一方で、20000人ぐらいの人が生活保護の廃止をうけているので、大体年5000人ぐらい被生活保護者が増えている日本だが、全体でこの5年に30万世帯ほど生活保護支給世帯が増えているのだ。働いているのに(年約200万円に満たなくて)生活保護を受けている世帯は、大体1割。9割は働いていない。一人高齢者45万人、傷病者や障害者が40万人、母子家庭が大体10万人といった内訳だ。

 ただ、現実には年収200万円未満のワーキングプアが550万人もいる日本だから、お国の生活保護などのセーフティネットが不十分であることは誰にでもわかる。全人口の12%(3700万人)のワーキングプアを抱かえるアメリカに比べて日本の550万人は5%にもならないなどと言ってはおれない。このような数字にもかからないような人々がいるということを忘れることが出来ないと思うからだ。

 1億総中流を目指した55年体制を否定して、00年/05年(体制)はチェンジならぬ”改革”を謳った。金融改革から三位一体改革や郵政改革など”何がどうよくなるのか”わからない改革(リフォーム)に着手した。自己責任ということを振りかざし新自由主義や市場原理主義などアメリカ譲りのグローバル資本主義に進んだ。勝ち組や負け組に続いて格差を生産し、負け組や貧困層を”怠け者や自己責任”と言って叱った。

 下流や貧困などの層を増やす格差製造装置なる市場原理主義をグローバル資本主義に生きるためと正当化し、新しい国や社会の”ありかた”などをゼロベースで考えることを怠った。グローバル資本主義と市場原理主義に固執した。そして、ただいまのような荒んだ社会や国にしてしまったのだ。いまからでも遅くない国民幸福の総和を最大にするようなソーシャルシステムや政治を考えて欲しい。ブータンやリヒテンシュタインにならなくてもいい、せめてノルウェーやルクセンブルグあたりにつづきたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

椰子の実ひとつが、いつからか大量の廃棄ポリ容器になって。

2009年03月07日 | Weblog
 名も知らぬ遠き島より流れ寄るは椰子の実ひとつ。ふるさとの岸を離れて汝はそも波に幾月。東海林太郎や矢野顕子の歌ではない。小学校5,6年の頃よく歌った文部省?唱歌(島崎藤村詞、大中寅二曲)だ。自然やいのちを慈しむやさしさを育んでくれた歌だ。

 きれいな砂浜に、ひとつぽつんと漂着した椰子の実はさびしい。よく見ると長い年月荒波にもまれて、そして漂着したような表情をしている。近年の海浜の情景からは想像できない。自然はあふれるほどゆたかだがモノに不足していた時代の情景はいま、廃棄もままならないほどモノゆたかな社会になったそれを、大量の廃棄ゴミの風景に表わしている。

 海水浴の人々や海辺に遊びに来たり、釣りに来たりした人々が、不用意に捨てていったゴミも多い。釣り糸や不要になった釣り道具や小石砂などに絡まったビニール袋、弁当のトレー、飲み終えたペットボトルや空き缶などに加え、プラスチックや材木片と乾いた生ゴミ。時代を表わすゴミ、そしてゴミだ。

 ときどき出会う中・高生男女のゴミ拾いやボランティアの方々のゴミ収集奉仕活動にアタマが下がるが、とてもボランティアの活動では処理できないほどの廃棄漂流ゴミに悲鳴を上げる日本海沿岸の自治体だという(3/7の朝日新聞)。大量に漂着するゴミの主役は、ハングル文字のポリ容器らしい。

 ハングル文字のポリ容器やプラスチック廃材が多いからといって、韓国(政府)だけを責められそうもない。モノゆたかさのレベルでは、大きく韓国を上回る日本だって、廃棄ゴミ処理が完璧とは言えない。海や海に入る河川などにたくさんの廃棄ゴミを垂れ流しているのが現実だ。

 「地球の海や沿岸をキレイにする国際会議」(?)あたりを上位に、「日本海沿岸の漂着ゴミ・ゼロ運動日韓会議」といったものをつくり、実効ある対策を日韓両国で共有するようにしてほしいと、政府(関係者)にお願いする。とにかく、ポリ容器などあらゆるゴミ廃棄物は大切な資源なのですから。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

元に戻ることが出来ない人々へ

2009年03月05日 | Weblog
 道に迷ったときの原則は、元(出発地点)に戻ることだ。ぐるぐる歩いた時も、クルマを運転して方向がわからなくなった時も、出発地点に戻ることが道に迷った時の近道なのだが、なかなか戻れない。ぐるぐる長く走った時は余計に来た道を戻ることが出来ない。

 何事も失敗したように思ったり、条件や環境が変わってそれまで進めてきたことの意義が薄れたり、効果がわからなくなったりしたときは、”元に戻って”考えたり、白紙にして再考することが大切だ。世の中が進歩したり、技術がすすむと、何でも加工したり、開発したりすることが”人間の知恵だ”と思うようになる。傲慢なのは、いつも人間なのだ。

 自然や土地は、天候や環境などとともに神様が人間に与えてくれたものだ。先祖伝来の田畑や山林や海も、国土や環境や地球上のあらゆるものは神様の贈り物なのだ。開発や改造などと言ってそのカタチを変えることは、余程の必要と合理性がない限りすべきではないのだが、人類の歴史は開発改造や加工のそれだ。

 諫早湾干拓と有明の問題や熊本の川辺川ダムや長野の砂防ダムなども同じだ。大阪の橋本知事の財政赤字脱却で浮上した京都、大阪、滋賀の大戸川ダムの撤回や長野の田中元知事の脱ダム宣言などは、勇気のある行動だと言える。多くの政府や自治体などの土地改良事業や開発事業は、すべて”あと戻り”が出来ないものになるのが常だ。体制や権力は、いま進めていることのすべてに合理性と必要性を付与する。途中で、神が与えてくれた姿に戻すことなど考えられないのだ。

 諫早や有明並みとは言えないが、茨城の霞ヶ浦への那珂川からの導水事業などもハテナが多い。45kmもの人工河川をつくって川や自然の姿を変えなければ、霞ヶ浦はキレイにならないのか。環境アセスメントは、とくだん環境に(わるい)影響をしないと出せば、受容されるのか。余程の必要と合理性があるなら、よくよく説明し、”ヤルこと”をつぶさに開示してほしい。川に迷うアユさんだけを想うからではない。

 このような事業を創ることでしか、地方や国の景気経済を活性化しないのか。よくよく考えて血税を使ってほしい。元に戻る勇気を持って熟慮してほしい。自然や人々の意見をよく聞いてほしい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

モノサシを持たない人たち

2009年03月02日 | Weblog
 何を考えるにも、何を判断するにも「モノサシ」がいる。尺貫法であれ、メートル法であれ、人々に共通して使えるモノサシは、便利だ。欠かすことができない。誰にも共通して使えるモノサシがあるお陰で、協働したり、分担したり、交換したりして共同生活できる。共同社会が営める。

 同じ目盛りの同じモノサシに、客観性や信頼感があるからだ。誰が使っても目盛りが同じで、信頼できるからだ。法律や契約や約束も「モノサシ」だ。お互いや集団社会で暮らす人々が共同して互助して暮らすために人間社会や国が作った知恵だ。何かを考えたり、確かめたり、判断したりして仲良く共同して暮らすためにはモノサシが必須だ。

 法律や契約までいかないようだが、人々の常識や政治家の公約(マニフェスト)などもモノサシだ。判断したり、選択したりする基準なのだが、最近は「モノサシ」を忘れたり、失くしたりしている人々が増えているようだ。誰にも共通するモノサシを忘れたという方には、そのモノサシを届けてあげればいいが、ご自分(固有)のモノサシを持っていない人が多いのには困る。この頃の政治家さんに多い。

 モノサシには、共同社会共通の客観的な目盛りのモノサシとその人その人に固有なモノサシの2つがある。法律や道路標識などや常識のような社会共通のモノサシを守ることは共同生活の最低基準だが、それぞれの人個人が持つ固有のモノサシも大変大事なのだ。自分の考え方や価値基準を相手や周りの仲間に知ってもらうことが、お互いを尊重したり共同して暮らす上で大変大切なのだ。

 しかし、最近はどうもご自分のモノサシを持たないひとが多くなったようだ。モノサシが開示されていないのでその人への判断や対処が特定できないのも困るが、その人へのアドバイスや意見も出せない。世にいうブレる以前なのだ。せめて、政治家の皆さんにはぜひご自分のモノサシを開示するクセを身に着けて欲しいと願う。

ご自分のモノサシを持たないからだろう、昨日言ったことと今日言ったことが違ったり、ブレるのだ。スジや信念といわれるものもモノサシだ。モノサシに対してブレたり、違ったり、優柔不断しているのではなく、はじめからモノサシがないのだからお話にならない。ご自分のモノサシを持ってください。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする