吉澤兄一のブログ

お江戸のど真ん中、平河町から、市井のトピックスを日記風につづりたいと思います。

ナチュラリズム(自然主義)の台頭

2007年03月30日 | Weblog
 ここでいうナチュラリズムとは、文学や芸術の表現方法や哲学的なことでもない。ましてやダーウィン進化論や彼の仮説などでもない。抽象主義や象徴主義などに対しては、写実主義も自然主義も大同小異なのでしょうが、われわれの身近な生き方や社会生活における”自然との共生”を概念としたものである。

 自然との共生といっても、地球の持続的可能性の向上といっても”生き物”である人間は、地球や自然の中に存在する何か(資源)を食べたり、利用したりしてしか生きられない。自然との共生は、ただ有限な自然資源を無駄使いしたり、体系や生態を破壊したりすることを避けて生きることだけでなく、他の動植物と同じように”自然に生きる”ということが結局、自然という大きな生態系の存続に繋がるということを言っている。

 人類の文明や生活は、工業化という原料や素材という地球的自然資源を加工し、その機能や便益を享受することで発展した。産業革命以後の工業化の物質文明だが、自分にも第三者にも”美しいものは美しく””便利なものは便利”という同質的な価値基準で評価される物質文明は、客観性と外向性を持つがゆえ、自然科学という客観科学を発展させた。客観性や多数決がモノサシになった。

 2005年、日本は人口減少社会に入った。従来の価値観がいたるところで通用しない事態だ出てきた。自分たちの過ごしてきた道を、多くの他のこれから発展しようとする国に”二の舞”はしないようにと、自分たちもこれからの国も地球の持続的可能性を考えて暮らそうと訴えている。まだまだ続く地球規模的人口増加が、有限な地球資源を、地球に埋蔵される地下資源や稀少金属資源と森林や海洋およびその他の動植物資源の消費を抑制できないだろうということで、その枯渇対策や持続可能性に躍起なのだ。

 自然や地球を大切にするということは、自然に生きるということ。とくべつ虚飾したり説明したりしないで”生きたいように生き、あるがままを受け入れて”暮らすことで、これを自然主義と言っている。自然主義(ナチュラリズム)は、あるがままの自然や地球および環境を受け入れて暮らすことに価値の源泉を見出そうとしている。これからの企業や社会の時代対応のキイになるコンセプトだ。
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「発掘!あるある大事典Ⅱ」は、フジテレビの放映番組ではなかったのですね。

2007年03月28日 | Weblog
 番組捏造問題で民放連は、関西テレビの除名を決めた。民放連「緊急対策委員会」の決定だが、4月19日の理事会と臨時総会を経て正式に決まるという。「放送界全体への信頼を失墜させた」という理由だ。過去にCM間引きで除名処分を受けた静岡第一テレビ(99年3月)以来らしいが、大分性格が違う印象だ。

 番組捏造などという制作や下請けを巻き込んでの意図的行為に隠れているテレビ放送を中心とするメディアの企業やメディアに携わる人々の情報リテラシーの低さを強く憂慮している。捏造にいたる捏造以前の問題が大きいと見ている。番組にせよ、報道にせよ”放映される”のは、情報というメディア商品なのだ。その品質レベルや製品性能保証レベルの低さが問題なのだ。メディア自身、自分たちが食している情報配信という行為が、それが正しいか正しくないかや捏造かそうでないかということ以上に、結果として視聴者大衆や社会に与える影響をどの程度真摯に、つよく意識しているかどうかが問われるのだ。

 番組や関西テレビを”見せしめや村八分”して、業界全体が改善するという問題ではない。関東の自分などは「発掘!あるある大事典Ⅱ」は、フジテレビの配信番組だと思っていたのだから、フジテレビが亀の首を甲羅の中に引っ込めた姿を不思議に思っている。処分や除名の向こう側にある”業界守勢”が見えてイヤな決着なのだ。それとも官権・総務省の行政指導なる介入を避けることが、放送やメディアの業界や市場を守る手立てということなのでしょうか。

 もっと本質的で当たり前の社会的責任意識を自覚したメディアの革新こそ、求められているのだ。事実や真実を真摯に大切に受け止める姿勢、その情報放送が結果として社会にどう影響するかを考える姿勢および情報やメディア リテラシーを大衆や受信市場に放り出さない謙虚な姿勢をメディアに希望する。問題を単純にキー局の責任や業界のそれに振っているのではないのだ。

 フジテレビや主なキー局がもっと前面に出て取り組むことが求められているにもかかわらず、彼らが関西テレビを盾に、自己革新を避けているように見える。このようなメディアでは、公務員天下り改革のテコに打ち出されている”新人材バンク”が、逆噴射装置内在の問題を内在させていることなど、解っていてもこれを潰す力など期待できない。
 踏ん張れ、テレビ・メディア諸君!なのだが、真実や病巣を直視できないで、何のメディアか、テレビかなのだ。
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二泊2.5日の検査(内視鏡)加療手術入院のメモリーノート

2007年03月24日 | Weblog
 バブル期を挟んでこの30年、われわれ日本人の1世帯(全世帯)平均の家計消費支出額は、1975年の月平均15.8万円が30.0万円(2005)と約2倍になっている。実際は30年のうちの前半の20年(1995年)にはすでにこの30万円以上の32.9万円になっていたのだから、この10年はむしろマイナス続きだったと言える。

 衣、食、住など生活全般のカテゴリーは、ほぼこの全体の推移なのだから、この30年”ただひたすら、上昇してきた”カテゴリーがありそうだ。「交通、通信」および「水道、光熱」費なる公共的生活インフラ・カテゴリーと保健医療費だ。1975年月平均3900円だった1世帯平均保健医療費は、30年後の2005年13000円と、実に3.3倍強になっている。この間の1世帯平均家族人数が3.5人(普通世帯/1975)が2.6人(同/2005)と約一人減っている(25%減)ことを考えると、平均保健医療費の3.3倍強増は異常だ。高齢化だけが理由だろうか。1975年約20%だった一般世帯の中の65歳以上親族の割合は、2005年約35%になっている。しかるに、この間の国民医療費に対する「患者負担」の割合は、13.0%(1975)から15.4%(2005)に増えている(1975年より10年前の1965年は20.6%だった)のだ。

 この医療費をまかなう医療保険(給付)額は、この30年約49000円から254000円に約5倍強に増加、この額も含めた社会保障給付額も約5倍になっている。医療に対する国民支出額の負担が突出して高くなっていることがわかる。

 このような医療関係において、自分の家族家庭の年々の医療費支出はほぼ年間、10万円から15万円で上下(夫婦プラス成人学生一人の3人家族)しているから、文字通り"平均的”(月13000円平均)といえる。
 そのような状況も、時として”突出する”こともある。この22日(入院)から24日(退院)にかけて、わたくしが3日分の差額ベット代も含め約10万円の自己負担支払いの入院加療をしたのだ。入院による内視鏡検査での大腸ポリープの切除手術をしたのだ。

 1,2年前から自覚、昨年12月の内視鏡検査で約2㎝ほどのポリープがあることは解っていたのだが、今回の入院切除手術を予定した。かなり難儀な場所と育ち具合とその他のものも加療するプログラムだ。途中で止めようかと叫ぶほどのシンドさであったが、無事切除、術後の1000mlの点滴と半日の静養で退院したときは、何か
引越しでも終わったような、そんな爽快感を得た。

 よくお世話になっている信濃町の慶応病院ですが、今回は6号棟4階の優秀でやさしいスタッフの皆さんのお世話になった。わずか2泊でしたが、本当にお世話になりました。御礼と感謝を申し上げます。
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知の東京集中、中央と地方の知の格差を拡大させると、日本は滅びる

2007年03月18日 | Weblog
 富の体制の根本は、「知」にあるというアルビントフラーは、地球的国家間的問題の本質を言ったのではあるが、国内社会における現在から将来にかけての最大の問題でもある「格差」解決の処方を示唆してもいる。

 今朝(3/18)の朝日新聞一面(分裂にっぽん)の「中流層崩れ」は、とどのつまり格差社会化が進行していることに警鐘を与えている。単に、現時点における国民の富の集中が「富裕層」に偏ってきているということの延長としての将来展望を言っているわけではない。米国や中国やその他の特定の国より、格差の程度が低いというような見方や印象が政治や社会政策の時間的オクレをもたらすことがより大きな問題なのだ。

 奇しくも、国立大運営費交付金の見直し諮問による地方国立大の交付金半減(試算)による経営難校が47校と半数以上でると文科省の他人事を、ただ「競争原理や経営効率も考えずやってきた地方大学の怠慢」だからと見過ごしていいのだろうか。税金の効率的使用を錦の御旗にしたような経済財政諮問会議や財界などのエライ人たちの”競争原理を採用すること”でほとんどの問題が片付くと思っている方々やシンクロさせたように政治や行政の"改革”を叫ぶ政治家や役人(文科省)の動きに再考と深慮を求めたい。

 いまでも、地方の金持ちばかりでなく”ふつう”の人々の子供たちの多くは、東京の大学を受験し、合格すれば東京の大学に進学する。卒業しても地元地方に戻るものはほとんどおらず、東京にある官庁や大企業などに就職する。大学院に残る人も東京だ。生まれ故郷や地元に戻って職を得、生活する者は僅かなのだ。こうして、東京という中央に知の卵が集まり、地方から知の卵がなくなる。「知」の中央と地方の格差が出来、拡大する原点といえる。

 だからといって、地方それも47-1の道府県のどこにも国立大や大学院がなければならないと言っているのではない。あることが望ましいとは思う。交付金や補助金を得るために、学生数や規模(経営や科目他)を"大きく”したままできたことによる効率の低下や質の低下を改善することは、優先されなければならないだろう。規模や人数で交付金や補助金を配分してきた従来の政治や文部行政が、責められなければならないのだ。ひとり、学生も集まらず苦しい運営をしている地方大学だけを責められない。

 「知」の将来的な中央と地方の格差をなくすことを考えることが、地方分権や道州制を考えることより先なのだ。現在や近い将来の格差(所得や生活)問題の解決は、将来の格差拡大(知が源)への手立てをしつつ進めなければならないのだ。
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武蔵野十里ウォーキング大会

2007年03月16日 | Weblog
 この3月18日(日)、毎年の「武蔵野十里ウォーキング大会」が行われる。埼玉の北浦和公園をスタートに、東松山ウォーキンブセンターまでだ。ちょうど十里40キロメートルになる。勿論、40キロを歩行できない人は、25キロや10キロのコースも用意されている。

 埼玉ウォーキング協会のご協力を得て、わたしたち筑波大学(大学院)宮本研究室の研究生たちには、早朝6時からの研究調査や変化計測の作業をしてもらうことになっている。そういうわたしが「このところのカゼ」と20日からのちょっとした入院(慶応病院)のため”参加”できないのが、心苦しいのだ。

 前日からの泊り込みや早朝からの準備作業およびずっとウォーキングに付き合っての作業を、計画通り滞りなく行うことは大変だと思いますが、何がしかの成果がでることを祈っています。
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東京都知事選への立候補者のはてな?

2007年03月10日 | Weblog
 先日の東京マラソンは、石原知事ならではの実行力(演出)で、大成功だったと喜んでいる。単なるイベントではなく、世界に”東京”情報を発信したという点で久々の戦略性を感じた。

 しかし、都知事も例外ではなく、権力の座が長くつづくと腐敗する。政治家のスキャンダルや政官界とのしがらみや癒着、談合などが横行する。オレがという意識も強くなり「自分がやらなければ、誰が・・」という思いや「オレ以上の適任者はいない」という驕りもでる。石原慎太郎都知事が、「そろそろ引き際(年代)では・・」と思う庶民の感じや風を感じずに、つぎの4年も「自分が・・」と出馬に頑ななのは、大衆の空気が察知できなくなってきている証左だ。

 強いリーダーシップで数々の業績を残されたことに感謝すればこそ、世代交代や若いリーダーの発掘を自ら進めてほしいと思う。時機は”いま”と思うのだ。

 異色ながらビックリさせた建築家、黒川紀章さんやただ一人の政党・共産党公認で立候補される吉田万三さんにつづいて、話題の浅野史郎前宮城県知事の都知事選への出馬宣言がでた。すでに3期12年の知事(宮城県)経験者ではあるが、戦後生まれで「まだ、若い」世代だ。大学で教鞭をとるが、テレビでよく見る顔というタレント評論家で、出る機会や機運を醸成してきたという印象がつよい。本人の企てかどうかは別にしてだ。

 ここに来て、テレビ・メディアの輩出したタレント弁護士、丸山和也氏も出馬する感じだ。出る、出ない「分からない」を言い続けて、電波を利用する態度は、浅野さんも丸山さんも五十歩百歩でいただけない。石原知事路線への対抗軸としては、この二人最右翼になるのだろうが、それを自覚するなら政策やご自分の考えを明確に打ち出すべきだろう。

 吉田万三氏は別にしても、これらのタレント的三賢人は、それぞれ「東京都や都政の何を、どうしたい」というご自分の考えか、マニフェストを出してほしい。戦後世代の特徴は、あいまい性と「なんとなく」なのだと言っても、選挙には約束(公約)が前提だ。3月22日までにキチンとしたマニフェストや公約が披露されることを希望する。
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「発掘!あるある大事典Ⅱ」が市民消費者に教えたもの。

2007年03月03日 | Weblog
 情報を「正確なことを、正確に」発信したからといって、その情報が消費者や社会に悪い影響を与えたなら、それは発信者としてのメディア側の責任である。情報が正しいことや正確であることをもって、テレビや新聞などのマスコミ「メディア」が、その影響責任をのがれることは出来ない。発信した(「とどめた」情報も含め)情報が、社会や人々にどのような影響をもたらすかということを考え、配慮することが企業メディアのCSR(企業の社会的責任)のミニマムだ。すなわち、よく調べたり、審査したりしない不正確な情報や誤報および番組情報のヤラセや捏造などは論外と言える。

 「発掘!あるある大事典Ⅱ」は、多くのヤラセや捏造番組を推測させる氷山の一角だと言われても仕方のないことを示した。言い訳(含、謝罪)が始末に終えない。視聴率競争、CM広告費収入減、限られた制作費、番組制作の外注、下請け、孫請け構造や言うに事欠いた四年後に迫った全面デジタル化への収益プールなどを理由にあげている。「限られた(安い)、制作費(コスト)で、高視聴率(高品質)の番組(商品)をつくる」ことは、何もテレビに限ったことではない。パロマや不二家に限らず、松下やトヨタあるいは番組スポンサーの花王でさえ、高品質と低コストという制約を背負って日夜活動している。「甘えるなテレビであり、テレビ局の経営者やプロデュサー」と言える。

 どのように万全を期しても、資金や時間や優秀な責任感の高いスタッフを配置しても、100%期待どおりの番組ができるというわけではない。面白さや有益性など高い情報貢献が得られるような番組を作っても、目標どおりの高い視聴率が確保できる保証はない。自由市場原理という経済市場で、競争というシェア・マーケティングをしているのは、下町の商店や大きな製造メーカーも、報道や番組などコンテンツの配信を事業にしているテレビ局も同じ環境なのだ。

 捏造や虚偽などの番組や情報を発信しているテレビ局や新聞、雑誌やネットなどのメディアが、雪印や不二家、パロマやリンナイあるいは三菱(自動車)や美浜原発などを批判したりする資格などないのだ。にもかかわらず、ますます進展する情報化社会の真っ只中にいるテレビ局関係者の猛省と経営刷新および情報取り扱い業としての高い見識を希望する。情報リテラシーやメディア・リテラシーなどにオンブしないよう願わずにはいられない。
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あるがままをみると「考える力」がつく!

2007年03月03日 | Weblog
 情報社会というより情報氾濫、情報洪水時代。どなたかが、世の中の情報の99%はゴミといっているが、過言ではない。ゴミ情報を発信し、世の中を混乱させているのは、インターネットや2ちゃんねるばかりではない。マスコミといわれるテレビや新聞も例外ではない。新聞に折り込まれてくるパルプ資源のムダ使いとも思われるチラシ。道路や街に散乱する紙情報およびポストインされるチラシ。スーパー、駅や公共の建物の壁面を汚す期限切れやどうでもいいようなメッセージ。ほとんどが、ゴミや死情報なのだ。

 大型書店や大型電気店には、情報処理や情報分析、解析のソフトがCDや分厚い本となって並ぶ。データや情報は、加工、分析、解析しなければ、価値を生まないのだと訴えているようだ。デジタル化、パソコンの普及およびIT社会化が、統計数理や数学者およびリサーチやマーケティング学者を勇気づけたようだが、真実は
逆に作用した。氾濫するデータや情報の加工や分析が、事実や真実を遠ざける方向に作用することに気づいたからだ。

 アナログ復活でも現場復活でもなく、現場やあるがままの姿に真実や真理があるという「ふつうのこと」に気づいたからだ。屍化した昆虫や植物や社会の事象などの情報を収集し、分析するのではなく、自らの足と目や肌で、生きて、動き、姿する生き物や対象のふだんの姿を「みること」が真実や真理への最も確実な接近法なのだ。現場や対象をそのまま「みる」ところに直感や察知する感覚が生まれ、本質や真理に迫れる道がみえる。ノーベル賞をとったような多くの科学者がよく言う直感や”たまたま”は、単なる偶然ではない。

 じっとみるという観察する姿勢や静かに聞き取る姿勢に、対象の普段の生活や考えおよび対象の存在の事実や真実があるという”あたりまえのこと”をスルーした魔法の手のような分析や解析はない。そういう自分も、毎日グーグルっているし、データを分析したり、情報をマイニングしたりしている一人だ。足腰が弱くなっている自分へ戒めの今日のブログだ。

 黒塗りのクルマで送迎される経営者や政治家は、社会や市場を走るクルマの窓越しにしか、世の中や人々の暮らしは見えていないのです。
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