因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

劇団民藝『正造の石』

2019-02-14 | 舞台

池端俊策、河本瑞貴作 丹野郁弓演出 公式サイトはこちら 紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA 25日まで1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20,21,22,23,24,25,26,27,28,29,30,31,32,33,34,35,36,37) 2014年1月、NHK土曜ドラマで池端俊策脚本、尾野真千子主演の『足尾から来た女』が放送された。今回の公演はそのドラマの舞台化であり、戯曲は池端と河本瑞貴両氏による。明治時代末期、足尾銅山の鉱毒被害でふるさとを失った新田サチが、東京で様々な人と出会い、別れ、成長していくすがたを描いた物語だ。

 映像ならばあまり無理なく表現できるところが舞台になると、さまざまな制約があり、工夫が必要になる。時は明治39年から42年までと短いが、場面の転換が多い。装置の転換や俳優の動きや衣装替えはスムーズに行われており、スタッフワークの良さが感じられる。一方で、演説会で発せられる東洋のジャンヌ・ダルクと謳われた福田英子が飛ばす野次や、後半で本や手紙を読み上げる音声に、もう少し自然な響きがほしい。

 また、舞台の語り手をどの役に、どのように演じさせるか。客席に向かって語っているときと、役を演じているときのバランスをどう構築するかは難しいところであろう。本作では本安吾朗という人物が冒頭から物語の時代背景、人物の状況を解説するところから始まる。彼は何者か。観客が最初に抱く疑問であり、期待である。しかし彼は社会主義者を捕らえんとする官憲の部下であり、サチに対する態度やふるまいは権威を嵩に女性を見下す、まことにステレオタイプの男性をして描かれている。その彼がなぜ語り手を担うのか。どこかでサチに歩み寄ったり、彼の価値観が揺すぶられる場面が訪れないかと待ったが、前述のような造形に終始している点が残念である。

 田中正造、福田英子はじめ、台詞の中には堺利彦や幸徳秋水が登場し、後半には石川啄木がサチに詩と恋を教え、残酷に裏切ってゆく。足尾銅山鉱毒事件という史実、実際に存在した人々はもちろん重要だが、本作の魅力は、それらがむしろ背景になって、架空の存在である新田サチを導き支え、見守っているところである。

 劇の前半、福田家に入って間もないサチに、英子の母楳子がアンデルセンの『みにくいアヒルの子』を少しだけ読んでやり、良かったら字を教えると誘う。後半になって、物語のラストシーンが語られるとき、みにくいアヒルの子とは、まさにサチのことであったと気づかされるのである。無学で無力な自分を卑下していたサチが、多くの人と出会い、傷つきながら自分の道を歩き出したそのとき、彼女は美しい白鳥になったのだ。

 サチに正造の石はもう必要ない。サチは文字を読むことを覚えた。ことばを獲得したのだ。だからものに託さずとも自分のことばで考え、自分のことばでものが言える。あの時代、サチのような女性はあまた存在したであろう。舞台のサチは彼女たちの象徴である。大河ドラマのほとんどの主人公は、多くの人が知っている有名な人物であるが、『正造の石』のそれは市井の女性だ。だからこそ、より多くの名もなき人々の人生を象徴し、その思いを代弁する存在になり得るのである。

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