因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

因幡屋の12月

2013-11-29 | 舞台

 取り急ぎ観劇が決まっているものだけを掲載いたします。
声を出すと気持ちいいの会本公演『富士の破れる日』(1,2,3,4,5,6,7,8
 11月の予定にも記載しましたが、観劇は千秋楽になるため再度。
*サブテレニアンプロデュース Diaiogue『キル兄にゃとU子さん』
 おととしの横浜公演をみのがしたので、今度はぜひに。
*劇団民藝『八月の鯨』 (1,2,3,4,5,6,7,8,9
 まだまにあうだろうと思っていたら、十二月大歌舞伎はとっくに全日程で完売していた・・・。
 せめてシネマ歌舞伎/中村勘三郎の『春興鏡獅子』には。
 ここでぱっくり予定が空いており、因幡屋2013年の芝居おさめはおそらくこの演目になるでしょう。
*橋爪功×シーラッハ『犯罪|罪悪』
 ドイツの刑事事件弁護士にして作家であるフェルナンド・フォン・シーラッハの処女作『犯罪』より「フェーナー氏」、「チェロ」、「ハリネズミ」と、第二作『罪悪』より「ふるさと祭り」「イルミナティ」、「雪」を、橋爪功が朗読する。演出は森新太郎。どうか2013年を締めくくらせてください。(1,1',2,3,3',4,5,5',6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18

 俳句日記がおやすみになっているのは俳句に飽きたからではなく、参加する句会が増えて記述が追いつかなくなってしまったためです。といっても毎月の金星句会に、「俳句を作る演劇人の会」(以下、俳演会)ひとつだけなのですが、それでも初学者にとってはしょっちゅう句を作っては提出し、選句しては句会に出席、喧々諤々の余韻も冷めやらぬまま、あっというまに次回の締切が来てしまうという感覚です。
 1年前は想像もしなかった楽しく幸せな毎日に驚き、感謝するほかはないのですが、このままでゆくと来年は、わたしはどうなるのでしょうか。

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パラドックス定数第31項『殺戮十七音』

2013-11-23 | 舞台

*野木萌葱作・演出 公式サイトはこちら 荻窪小劇場 24日で終了(1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17
 JR荻窪駅で降りるのは何年ぶりだろう、そしてはじめての荻窪小劇場だ。
 南口から徒歩10分とのことだが、線路沿いにまっすぐ歩いて青梅街道にぶつかったら右折してすぐなので、それほど遠くはない。パラ定の公演はいつも早めに劇場に行き、受付開始前から並ぶことにしている。全席自由席であるし、今回はことさら席数少ない由。お天気も小春日和といってよい陽気で助かった。
 さて入ってみると想像していたよりずっと小さい!壁や天井が黒いこともあって、いよいよ狭く感じられる。しかもこれまた狭そうなステージには俳優4人がすでに椅子にかけてこちらをみているではないか。なるほどこういうはじまりなら、ぎりぎりまで開場できないことがわかる。4人とも白いシャツに黒のパンツだが、シャツは襟のかたちなどが少しずつ違い、よくみると何か文字が書かれている。
 開演前の主宰・野木萌葱の挨拶はいつもとおりきっちりと始まり、「多少の地震の揺れがきても芝居は止めないと思います」と力強い。パラ定はそうでなくっちゃ。
 開演前から挑戦的な気配を濃厚に発するほぼ1年ぶりの最新作、思わず前のめりになった。

 情けないが先に白状せざるを得ない。今回自分は舞台を味わうに至らなかった。吸い寄せられたのは最初のほんの数分だけで、あっという間に集中が途切れ、どうしても起きていられなかったのである。風邪が9割治りかけの体調はよくも悪くもなく、おなかの空きぐあい、劇場の空調のあんばいなども、とくに問題はない。台詞のやりとりがやりとりに聞こえない、ひとつの台詞を聞いて、つぎの台詞につなげられないのだ。

 パラドックス定数との出会いは『三億円事件』である。現実に起こった事件を作者が独自の視点で読みこみ、もしかしたら?ひょっとすると?と、みるものをぐいぐいと引き寄せる舞台のとりこになった。『東京裁判』(1,2)はその感覚がさらに鋭く深くなり、はずせない劇団のひとつになったのだ。ときおり事実に対する想像というより、作者脳内の妄想らしき世界を描いたものもあり、遊び心や冒険が前面にでる作品もまた魅力的である。

 しかしそれにしても今回は、劇世界のどこにどのようにして入っていけばよいのか、とうとう最後までわからなかった。タイトルが示すとおり、「俳句」がひとつのモチーフになっていることはたしかである。精神科医とそこに訪れた患者がおり、場面切り替わって妻を寝とられた男がその相手と対峙していて、夫婦が俳句教室をやっているらしかったり、複数の場面が入り乱れながら進行する俳句のような散文のような会話はつかみどころがない。上演台本を一読したが、頭に入っていかない。これは野木作品でははじめてのことで、どうしたものか困惑する一方である。

 新しいことを取り入れるのはよい。これがパラ定だという枠からどんどんはみ出して、観客の安易な思い込みや期待をぶっ壊して驚かせ、大いに迷わせてほしいと願っている。しかし何をやろうとしているのかここまでわからないと、単に困ってしまうのだ。作者は「俳句を格好いいなと、思ったのです」と記す(当日リーフレットより)。劇中にも「創り手がどこにいて何を見ていようが、鑑賞者にはそれを否定する手段がないのです。たった十七音で、人間は宇宙にも行ける」、「基礎に埋没したまま、どこへも行けない俳句もあります」、「作者みずからが己の句を説明してはなりません。突き放し突き放し鑑賞者に委ねるのです」、「本当だけでは味気ない。かと言って嘘はいけません。嘘をつくのはいけません」などなど、俳句初心者の自分にさえ、俳句指南のことばとしてまともに響く台詞がたくさんある。
 しかし告白してしまうと、これらの台詞を自分は観劇中にしっかりと心に刻むことができなかった。上演台本を読んでようよう、いや読んで初めて「こんな大事な台詞があったのか」と驚いている始末なのだ。

 これ以上書いてもほとんど意味をなさない記事になる。本作についてはここでひとまず置く。
 考えすぎないほうがよいかと思う。
 俳句そのものについての台詞を読みかえして、来月の句会に備えることにしよう。

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演劇ユニットてがみ座第9回公演『地を渡る舟-1945/アチック・ミューゼアムと記述者たち-』

2013-11-22 | 舞台

*長田育恵作 扇田拓也演出 公式サイトはこちら 東京芸術劇場シアターウェスト 24日で終了 (1,2,3,4,5

 申し分ない作品とは、こういう舞台のことを指すのではないだろうか。
 題材にした人が生まれた土地を訪ねて熱心に取材をし、その場所の空気に触れて人々の声に耳をかたむけ、台詞のひとつひとつ精魂込めて書かれた戯曲である。演出も劇作家の熱意を受けてその意図を的確に立体化し、かつ大胆な色づけをした。舞台美術、音響、照明はじめすべてのスタッフが心を合わせ、そこに立つ俳優、彼らが演じる人物を大切に迎え入れる、てがみ座のステージにはそんなたくさんの心が感じられる。
 「どうかこの舞台で、精一杯生きてくださいね」そんな声が聞こえてくるかのようだ。
 てがみ座所属の劇団員はもちろん、客演陣もまたその心意気をしかと受けとめ、渾身の演技をみせる。まごころ、誠意がびっしりとつまった舞台が見る人の心を打たないわけはなく、開幕するや、『空のハモニカ』初演、再演を上まわる称賛の声がネットにあふれた。

 それにとまどう自分に困惑する。それが正直な気持ちである。困ったなあ。
 ほんとうに素敵な舞台だった。このつぎは家族や友人も誘いたい。きっと喜んでもらえる。

 自分がしっくりこないのは、てがみ座に対する文句なし、手ばなしに近い異口同音の称賛、絶賛である。井上ひさし直伝の堅固に構築された戯曲、的確で大胆な演出、それに応える俳優陣の健闘、どれをとってもこの秋の演劇シーズン屈指の出来栄えだ。
 たとえば本多劇場や紀伊國屋ホールで公演をすることも夢ではない。劇場の大きさに耐えうる力をもった作品だ。またさまざまな戯曲賞や演劇賞にもまちがいなくノミネートされるであろうし、たとえば新国立劇場の劇作家シリーズや、新しくオープンする劇場での杮落とし公演などのオファーもあるのではないか。久々に本格派の劇作家の登場だ。喜ばしいことではないか。

 たくさんの人に受け入れられる作風、いい舞台をみた!という確かな手ごたえを与えてくれるのは、劇作家、劇団主宰者としてのたゆまぬ努力精進があることは言うまでもなく、さらに長田さんご本人の、上品な育ちの良さが大きいのではなかろうか。
 毒や針、刺のたぐいがまったく感じられない。その何が悪いのか。みたくもないのに作り手の恥部をさらけ出し、みせたくもないこちらの心の暗部まで乱暴に探られるようなえげつない舞台がいくらでもあふれるなか、てがみ座の清涼感、好感度には真実心が洗われる。
 ほんとうに申し分ない。親きょうだいも小学校のときの先生にも胸を張ってみせられる、多くの人が安心してみに来られる舞台なのである。まったく何の問題もないではないか。

 反射的に真逆の作風、たとえば名嘉友美のシンクロ少女(1,2,3,4,5,6,7)や月刊「根本宗子」(1,2)、山田佳奈の劇団ロ字ック(1,2,3)が気になりはじめる。彼女たちの作品は徹底して自分自身の心に向かう。あくまでも自分あっての他者であり、歴史上の人物を現代によみがえらせ、みる人の心に新たに生かす・・・などというスケール感はまったくない。
 ほかに描きたいことはないのか、もう少し目の向けどころを変えてみてはと思うことはたしかにあり、何より「親御さんが見たら何と思われるか」と余計な心配をしてひやひやする。
 でも最後にはやりたいことをやるのがいちばんだ、その意気で行け!と応援したくなるのである。このような気持ちはてがみ座の舞台にはもてない。もつ必要はない、もうじゅうぶんにあふれるような称賛を得ておられるのだから。

 ここまでくると問題はてがみ座の舞台そのものではなく、このひねくれた自分自身の心であることは明白で、長田さんはじめ、関係者の方々にはほんとうに申しわけない。こんなところにこんなことを書かれてしまって。

 夏の『空のハモニカ』再演観劇した際、てがみ座の舞台に対する違和感について課題を残す記事を書いた。今回もその答が出ているとはとうてい言えず、いよいよ煮え切らず情けないかぎりである。具体的にどういう点がどのように・・・ということを考え、記さねばならないのに。
 『地を渡る舟』。力作であり、多くの観客の心に響く舞台であった。それはまちがいない。公演期間が短かったのは残念だ。何とか土日を2度はさんだ日程で、ひとりでも多くの方が訪れてほしいと願うものである。

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みきかせプロジェクトvol.5「青天井ポップコーン」

2013-11-16 | 舞台

 昨年の公演(1)がたいへんおもしろく、みきかせは自分にとって「はずせない公演」のひとつとなった。今回は「塩味」=MU/バジリコ?バジオ、「甘味」=ゲンパビ1,2)/楽園王+オクムラ宅1,2,3,4)の組み合わせである。開幕して4日めの今日「甘味」を観劇した。
*ゲンパビ『何かの部品』
 阿部ゆきのぶ作・演出 どこかの国の小さな町で民宿を営む家族があり、その部屋に間借りしている派遣行員たちのふれあいを描いたもの。

*楽園王+オクムラ宅『華燭』
 舟橋聖一作 長堀博士(楽園王)演出 奥村拓(オクムラ宅)出演
 2008年の「奥村拓を遊ぶ会」で初演以来何度もくりかえし再演され、何と今回で5演めだという。自分は2011年の1月に観劇した。受け手の需要度が高く、作り手もその希望に応えるべく上演のたびごとに練り直し、よりよいものを目指していることが伺われる。

 最初にゲンパビ『なにかの部品』が上演された。地方の小さな町で民宿を営む夏目家が舞台である。他国と戦争が行われており、徴兵制もあるというから、リアルな現実のいまではなく、時代は近未来に設定されている。戦争や徴兵制など、昨今の憲法改正や集団的自衛権にまつわる動きを反映した内容から、ゲンパビの舞台に政治的な要素や社会劇の面をみたことがなかったこともあり、これまでの作風から別の方向へ一歩を踏み出したかと思わせた。

 このみきかせリーディングの特徴は、①「台本(と言い張るもの)を持つ」、②「大道具は使わない」、③「上演時間45分以内」というルールがあることだ。どれもが作り手にとっては制約であり枷であるが、それらを逆に作品に活かすことも可能であろう。とくに①の「台本を持つ」については遊びの要素を取り入れたり、逆手にとって楽しむこともできる。
 ゲンパビがリーディング劇に取り組むのはこれがはじめてとのこと。
 出演俳優はたしかに全員が台本を持ち、それを読みながら演技をする。その点においてはまちがいなく「リーディング」である。しかし頻繁に舞台への出入りがあり、場所の移動や転換も少なくない。台本がその場面における「資料や書類」の役割を果たしているところもある。また客席通路まで使う場面もあって、こうなると「リーディングの形がもったいない」と思えてくるのである。台本をもたず、本式の上演であれば作者の伝えたいことがもっと強く示されるのではないかと。

 みきかせプロジェクトのリーディング公演は、取り急ぎの上演形式ではない。稽古日数が短く、俳優の稽古がじゅうぶんにできなかったから・・・というマイナス要因ではなく、「この作品をぜひともリーディングでおこないたい」という必然をもつ作品のための公演である。
 『なにかの部品』は、題名からしてさまざまな想像をかきたて、期待を抱かせるものである。 民宿に寝起きして大工場で働く派遣行員たちは、自分たちが何を作っているのかを知らない。「なにかの部品」を作っているのだという。その「なにか」が核兵器など世界を破壊しかねないおそろしいものであるらしいことを暗に示しており、同時に「なにかの部品」を機械的に作らされている人間そのものが社会の部品として消費されていることに対する批判、警告ともとれる。

 作品の何を客席に伝えたいか。リーディングのかたちをどのように活かすのかをいま一度じっくり考えてみる必要があるのではないか。もっと掘り下げたならどんな展開をみせるのかを知りたい、楽しみな作品である。

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こまつ座第101回公演『イーハトーボの劇列車』 

2013-11-15 | 舞台

*井上ひさし作 鵜山仁演出 公式サイトはこちら 紀伊國屋サザンシアター 17日で終了 そのあと兵庫の西宮、岩手の盛岡、山形の川西でも上演する1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19)。
 井上ひさし作品のなかで、自分にとってことのほか大切で愛してやまないのが『イーハトーボ~』である。思い入れが尋常ではない。それはこれまで何度もみた舞台を繰りかえし思い起こし、戯曲を読み直して、心のなかの『イーハトーボ~』をいっそう大事に磨き上げるためには必要だが、演出や配役が一新された場合、新しい舞台を気持ちよく受けとめるにはブレーキになる恐れがあった。
 宮沢賢治役に井上芳雄がくるとは予想外であった。『ロマンス』で念願の井上作品初出演を果たし、『組曲虐殺』(1,2)では主人公小林多喜二を瑞々しく演じ、帝劇ミュージカルではみられない「舞台俳優・井上芳雄」の魅力を発揮したことは記憶に新しい。しかしそれにしても宮沢賢治とは。

 何度も上演されている演目であり、観客にも舞台の様子が心に強く刻まれている。しかし今回一新された舞台は、それぞれの人物の過去の造形の記憶が邪魔することがほとんどなく、新しく配された俳優さんたちは、実に気持ちよさそうに演じておられるとお見受けした。
 たとえば福地第一郎役の石橋徹郎である。本役は仲恭司のあたり役、大当たりといってもよいくらいのはまり役だ。永楽病院の二等病室で賢治と妹のとし子、第一郎とその妹のケイ子、二組の兄妹で展開する場では、登場から退場まで立て板に水でまくしたて、賢治きょうだいを困惑させ、客席に爆笑の渦を巻き起こす。
 石橋は同じ文学座で仲恭司の後輩にあたり、「もしかしたらやりにくいのでは?」との懸念を気持ちよく吹き飛ばした。仲の「ぶち切れ型」ではなく、思いのほか端正で台詞のひとつひとつを丁寧に伝えていて好ましい。第一郎という人物が、「突然登場するへんな人」ではなく、賢治との論争場面を通して、賢治の心の葛藤をあぶり出す役割を果たしているのだ。

 おなじく妹のケイ子役の松永玲子は公演パンフレットの俳優紹介において、「台本を読んで途方にくれています」と吐露している。ケイ子という役がまったくわからないというのである。これを読んで、まったくそのとおりだと納得した。この場だけの登場であり、賢治にも物語ぜんたいにも強い影響を及ぼす役ではないのである。松永は「おそらく本番に入ってから舞台上で発見することが多いだろう」と分析し、兄の第一郎の日々のノリのちがいもあり、「細かく準備して詰めていくより、目の前で起きていることを見逃さないほうを大切にしたい」と語っている。
 明晰で的確な姿勢であり、舞台でのケイ子はまさに松永玲子ならではの福地ケイ子であった。お見事である。

 そのいっぽうで、賢治の父と刑事を二役で演じた辻萬長には思いのほかしっくりしなかった。 この役も故・佐藤慶がこれ以上ないというほどの名演を残しており、しかし辻萬長の経験値をもってすればと想像したのだが、あの台詞を聞きたい、あのやりとりをみたいという観客のつぼがどれもしっかりと押されないまま終わった印象である。同じく母親と稲垣夫人二役の木野花にも、驚くほど精彩が感じられなかった。これは非常に不思議である。どうしてだろう。

 公演チラシをみて、男性の配役がすぐにわかったのが井上芳雄の賢治と辻萬長の父親だけであり、田村勝彦、土屋良太、みのすけがどの役になるのか見当がつかなかった。その困惑が尾を引いたのか、田村勝彦のサーカス団の団長はいかにももったいなく、みのすけが演じた背の高い車掌役は、実はこの役が非常にむずかしいことを浮き彫りにしてしまったきらいがある。

 前述のように、本作は自分にとって大事であり、みるたびにオープニングの音楽で早くもハンカチが必要なほどの思い入れがある。舞台をみて泣くのは、実は大変気持ちのよいもので、泣ける芝居には、「今日は思いきり泣きにいこう」という期待と安心感があるのだ。
 今回新しくなった『イーハトーボ~』で、自分はまったく泣かなかった。そしてそれを残念ともものたりないとも思わなかったのである。荻野清子によるピアノ演奏は終始控えめであり、これまでの演出のように、ここぞとばかり盛り上げることもなかった。最終場面であの世に旅立つ人々は震えながら手を握りあい、客席にむかってさよならと手を振る。もうここで涙腺が一気に決壊してしまうのだが、人々は楕円形のまわり舞台にひとりひとりが立ち、静かに空をみつめる。この演出によって過度にセンチメンタルにならず、作品のメッセージを伝えることができたのではないか。

 宮沢賢治を演じた井上芳雄は、彼がほんらいもっているまっすぐで素直な資質をより活かし、新しい賢治像をつくることに成功した。上演のたびに変化していく賢治であろう。小林多喜二を経て宮沢賢治にたどりついた。井上芳雄の俳優としての幸運と幸福を、客席でともに喜びたい。

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