因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

因幡屋5月のおしばい

2013-04-29 | お知らせ

 桜の句もじゅうぶん詠めないうちに、もう若葉の季節になった。桜とひとことに言っても、初桜、朝桜、夕桜、夜桜、ああ姥桜も。ほかに花明り、花疲れなど、花の季語は上品な色気があり、謎めいて美しい。
 目標は早くも来年の桜です。
 まだまだ少なめの観劇予定は以下のとおり。
*ステージ円 For Kids(1
 リーディング『にんじん』と「うたがいっぱい」。連れてゆきたいきょうだいがいるのだが、お姉ちゃんはともかく、弟はまだむずかしいかなぁ。というわけで今年も大人ふたりで。
ゲンパビ『明け星の頃には~セロ弾きのゴーシュ~』
 今回が初見となる劇団の公演だ。宮沢賢治の『セロ弾きのゴーシュ』は、うちのなかのどこかにきっとあるはずなのだが、藤城清治さんの美しい影絵の絵本を図書館で借りてきた。
『focus』
 気鋭の学生劇団ハイブリッド・ハイジ座1)、ミームの心臓1,2)、四次元ボックス1,2)が王子小劇場に結集、「神話」をテーマに競演する。
杮葺落五月大歌舞伎
 決心して足を運ぶと(先月の記事)、つぎもどんどん行けてしまうのが歌舞伎座の魅力なのであろう。玉三郎と菊之助の『京鹿子娘二人道成寺』が楽しみ。
こまつ座『うかうか三十、ちょろちょろ四十』1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15
 井上ひさしが24歳のときに書き、上演されることのなかった幻のデヴュー作と言われている作品だ。

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オフィス樹特別企画公演 文学シリーズ 語る・噺・演ずる

2013-04-24 | 舞台

*公式サイトはこちら 南大塚ホール 24日のみ 
 現代社会に即した「家族」をテーマに、創作劇の上演をつづけているオフィス樹は、特別企画公演として「落語の会」や「語りと朗読の会」を行っている。今夜はその両者が合体したかたちであろうか、演目は以下のとおりである。休憩をはさんで上演時間は2時間30分。なかなかの長丁場である。
1、『尼将軍さまのカヤの木』
 長崎源之助作 深澤壽美子監修 市川兵衛、比嘉芳子、神由紀子(1)出演
2、『鼻』
 芥川龍之介作 仲木隆司出演
3、『語りと落語のおはなし』
 阿部寿美子、三遊亭圓窓の対談
ここで10分の休憩
4、『石一つ』
 杉村顕道原作 三遊亭圓窓脚色・出演
5、『山月記』
 中島敦作 阿部寿美子出演

 阿部寿美子といえば、70年代に小学生だった因幡屋にとってはNHKの人形劇『新八犬伝』(Wikipedia)である。滝澤馬琴の原作を辻村ジュサブローの人形で縦横無尽に描いた傑作ドラマで、とくに玉梓(たまずさ)が怨霊を演じた阿部寿美子さんのあの声と台詞は30年以上たったいまでも忘れられない。
「われこそわぁ~、玉梓ぐわぁぁおんりょうぅぅうお~!」
 だめだ文字に置き換えられない。あのおどろおどろしい叫びを聞くたびに、小学生は怖がりながらきゃあきゃあと大喜びしていたものであった。「今日もまた出てきた!」悪役敵役の極致にありながら、ぜったいいてほしいキャラクターという存在のしかた、ゲテモノというものがときに陶酔をもたらすことを教えてくれたのは、阿部寿美子さんの玉梓であった。

 公演のタイトル通り、文学を語り、噺(落語)、演ずるプログラムである。昨今のリーディング公演ではない。朗読会である。俳優は椅子にかけて台本を読む。照明や音響などは最小限に抑えられており、ほぼ俳優の語りの力量で物語を形成しなければならない。リーディング公演になれた身には、ここまで削ぎ落したシンプルなつくりはかえって新鮮でもあり、いっぽうでしっくりこないところもあった。

 プログラム前半がおわって休憩のあと、三遊亭圓窓と阿部寿美子の対談がはじまる直前のことである。ステージには椅子とマイクのほか、下手に映写機のようなものが置かれ、ホリゾントに辻村ジュサブローの人形劇公演らしきものが写されている。と、上手方向からだろうか、誰かと電話で話している阿部さんの声が聞こえてきたのだ。もうじき対談がはじまるのに圓窓師匠が来ないのよ。困ったわ、あら向こうから師匠がやってきた、じゃあね・・・という流れでふたりがステージにあがるという演出?らしかった。

 これには正直参った。まるで意味がわからない。くだけた雰囲気でお客さんをなごませて対談をはじめようという意図なのかもしれないが、ステージ袖から聞こえる阿部さんの声のボリューム、話の内容(つまり台詞)、すべてがはんぱで何の効果もあげていない。いったい何が起こっているのかと冷や冷やした。聞く方の身にもなってほしい。

 対談につづいて始まった師匠の落語も噺じたいはおもしろく聴いたものの、生の落語をたっぷり聴いたという手ごたえには程遠いものであった。いわゆるホール落語とはいえ、もう少し寄席らしい風情をつくる工夫がなされるべきではないか。

 すべてのプログラムが終了したカーテンコールで流れるものすごい歌も、歌じたいはいいものなのだろうが、この場で聞かせるにふさわしいのか疑問である。

 つまりこの公演には演出家が存在しないということだ。構成・演出として名前がなくとも、出演者の誰か、あるいはぜんいんが意見を出し合う総合演出でもかまわない。とにかくぜんたいのイメージ、個々の場面をどうするかなどを、舞台から距離をおいて客観的にみられる立場の人の手が必要なのではないか。

 阿部寿美子の『山月記』はすばらしかった。80歳を越えているとは思えない声量、声の張りや艶はもちろん、語りの巧さは声による3D効果とでも言おうか。現代の日常では使うことのない漢語や熟語がたくさんでてくる小説であるから、聴いてすぐに意味がわからないものも多い。しかしことばひとつひとつが粒だって、聴くものの心にまちがいなく届く。これは阿部の俳優としての技術だけでなく、作品の読解、解釈が的確であることの証左であろう。
 リーディングでも一人芝居でもない、語り、朗読という舞台芸術がここにあるのだと目が覚める思いであった。もっと阿部さんの語りを聴きたい。『新八犬伝』に夢中になった昔の小学生を、まだまだ驚かせ、楽しませてほしいのである。

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演劇集団円『あわれ彼女は娼婦』

2013-04-24 | 舞台

*ジョン・フォード作 小田島雄志翻訳 立川三貴演出 山本健翔ドラマトゥルク 乘峯雅寛美術 公式サイトはこちら  田原町・ステージ円 30日まで
 前売りは全日完売し、27日(土)19時に追加公演を行う由。兄と妹の近親相姦、策略と裏切り、人々の愛憎渦巻くエリザベス朝演劇が観客を惹きつけている。
 本作をみるのはこれがはじめて・・・と思っていたら2006年夏に蜷川幸雄演出版をみていた。ブログに記事はない。まるきり記憶から抜け落ちていたわけではなく、三上博史と深津絵里、谷原章介が共演したあの舞台が『あわれ~』であったことを最近になって認識したのである。豪華な出演俳優の顔ぶれや場面のところどころはかろうじて思い出せるものの、舞台の全容がぼんやりして、『あわれ~』の劇世界をしっかりと受けとめたという実感が得られなかったためであろう。ずいぶん失礼なことを言っているが、舞台の印象と題名が結びついていないというのには衝撃であった。これまで何だと思っていたのだろう。

 今回は演劇集団円のベテラン俳優・立川三貴の初演出である。俳優としてたくさんのエリザベス朝演劇に出演していた立川が精魂を込め、劇団員も一丸となってつくりだした力作、意欲作である。

 冒頭で美しく謎めいたメロディが流れる。自分にはおそらくはじめて聴く曲で、題名などはわからなかったが、これからはじまる物語への導きが感じられる魅惑的な音楽だ。ところが中盤のパーティの場面ではなぜかベートーベンの「テンペスト」、偽医者の姪が歌う曲は何であったか、さらにラストシーンはフォーレの「レクイエム」と、いろいろと盛り込まれている。
 昨年秋、新国立劇場で上演の『リチャードⅢ』でたくさんの曲が用いられていることに違和感があったが、それに似た印象をもった。演出家の好きな音楽、この場面でぜひこの曲を使いたいという希望があったと思われるが、やはりぜんたいのバランス、統一性は大切であろう。ドラマや映画において、ひとつの作品をひとりの作曲家が音楽を担当する場合を考えてみる。場面によってメロディもリズムもことなるたくさんの曲が使われるが、作品ぜんたいのトーンや流れをつかんだ上で、個々の場面、人物に応じた曲がある。その作品を、作曲家が音楽としてこのように捉えたのだという答が提示されるのだ。

 舞台美術や音楽、衣裳や小道具などの指定がない本作において、演出の仕事は膨大で多岐にわたるであろう。逆にいえば、実現可能かどうかはべつとして、自分がどのようにつくりたいかという希望を、自由に出せるのである。今回の演出でいえば、舞台をめいっぱい横長に使い、袖や客席通路も演技エリアとして活かす。黒を基調とした舞台衣装のなかに、ひときわ美しく映えるアナベラの白いドレスなど。登場人物の心象のごとく暗闇が支配するかのような舞台で、蝋燭のあかりやわずかな光線が効果的だ。美術の乘峯雅寛、照明の佐々木真喜子、音響の斉藤美佐男、衣裳の清水崇子・・・俳優陣はもちろんのこと、スタッフが演出家の志を守り立てて、それぞれの持ち場で力を発揮していることがわかる。内容は陰惨だが、大変気持ちのよい公演で、見のがさなくてよかった。ひとつの劇団でこの作品が上演できるというのは、すばらしいことだ。

 ただ前述の音楽や、あの場面のあのタイミングで中央の壁にあのマークが浮かび上がるところなどは大いに疑問である。喜劇的部分を担うバーゲットやポジオの造形は、もっとおもしろくできるのではないか。観客が笑っていたのは、ややアドリブ風の台詞や、くずした口調に対してであって、劇のリズムがぎくしゃくする。その中間的位置のフィロティスももう少し活かせるのではないか。ふっくらした女優さんがむずかしい役どころを健闘なさっていただけに、残念だ。

 終幕、暗転がもう一度明転したとき、舞台中央に登場人物が集まり、うつろな表情をみせる。満員電車に揺られる現代の大衆のようでもあり、貨物列車に乗せられた囚人たちのようにもみえる。舞台奥から白いドレスのアナベラが駆けてきて、こちらをみつめてたたずむ。聞こえてくる台詞は「私はこのような人生に満足しているわけじゃないの」だったろうか。演出家の明確な意図はじつはよくわからないし、メッセージ性を感じとるにはいたらなかったが、余韻のあるいい終幕であった。

 

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柿葺落四月大歌舞伎・第三部

2013-04-16 | 舞台

 公式サイトはこちら 東銀座・歌舞伎座 29日まで 
 2010年4月の閉場からあっというまに3年の月日が過ぎた。いつもと勝手の違うチケット予約の流れ、いや単に前売り開始日が早いだけなのだが、なかなかスイッチが入らない。歌舞伎座再開場の報道が連日過熱するのをみるにつけ、いよいよ怖気づいた。しかし日を追うごとに「こうしてはいられない」気が高まってきて、観劇することに。

 すでに詳しく報道されていることだが、地下鉄東銀座駅構内に「木挽町広場」ができ、お弁当やおやつ、歌舞伎関連のお土産もの、コーヒーやお蕎麦も楽しめる。劇場へもエスカレーター直結、正面玄関の階段もなくなったので、これなら足元の不安な方もだいじょうぶだ。客席の椅子や前後の空間も数センチずつひろい作りになった由。ほんとうだ、ずいぶんゆったりして楽にみられるようになった。

 しかし何より「新しき歌舞伎座が完成した!」という喜びが劇場中に満ち満ちている。あるトーク番組に出演した坂田藤十郎が、「お客さまの熱が舞台に伝わってまいります」と感激の面持ちで語っていたように、役者の「帰ってまいりました」に、客席は「待ってました」と応える。どちらも嬉しい再開場なのだ。ほんとうに嬉しい、幸せだ。

 さて今月の第三部は『盛綱陣屋』と『勧進帳』である。                        

 今夜の大収穫は、『盛綱陣屋』で盛綱の弟である高綱の息子小四郎を演じた8歳の松本金太郎であった。市川染五郎の長男で、幸四郎の孫にあたる。2009年の6月、歌舞伎座の『門出祝寿連獅子』で父、祖父とともに松本金太郎として初舞台を踏んだ(因幡屋はこれを見に行ったがブログには記事がありません)。
 片岡仁左衛門、中村吉右衛門はじめ、錚々たる役者陣のなかで、子役としては荷が重すぎるのではないかと思われるほど重要で複雑な役柄をつとめる。それが具体的にどのようなものであるかを書き記す力が自分にはないが、父や伯父、おばや祖母という大人たちの事情、身内が敵味方に分かれて戦をしている現実、自分たちは武士であるという誇りをおさな心に理解し、自分の命を投げ出すのである。
 主君への忠義を重んじ、はらわたがちぎれるほどに苦しみながらわが子を身代わりにする、みずからが腹を切るなどの物語は枚挙にいとまがない。本作もそのひとつと言えるだろうが、それにしてもあまりに痛ましい。近代的精神からいえばとんでもない話である。

 歌舞伎における子役は感情をあらわにする芝居をほとんどしないように思う。役者自身が幼いこともあるが、台詞の言い方や所作ごと、顔やからだの向きひとつひとつを父や祖父、共演するお兄さんやおじさんたちから教わったままに演じているように見える。ある意味で表面的、型どおりであり、テレビや映画で活躍する子役たちのほうがよほど「芸達者」にみえるが、伝統芸能の子役と近代劇、映像の子役を同列に比較することはできない。
 先輩たちの芸をまね、かたちを徹底して覚え込む伝統芸は、わかりやすい演技表現とはべつの次元にあるのだ。

 8歳の金太郎くんが物語の背景や人物の心象をどのように理解して演じているかはわからないが、客席の心をわしづかみにしたのはたしかである。終演後の客席から「こういうことをあんなに小さいときからやってるんだなぁ」と感嘆する声を聞いた。そこには悲しみに似た感情もこもっており、その方は「それ考えると香川はなぁ」と言いにくそうに言葉を濁した。「役者に囲まれて育ち、幼いうちから演じつづけるのが歌舞伎役者だ。だから40歳を過ぎて歌舞伎役者になろうとしている香川照之は・・・」ということだろうか。

 先日放送された十八代目中村勘三郎追悼の番組を思い出す。孫の七緒八が祖父の四十九日の席だったか、『鏡獅子』のビデオの前で踊りをしてみせたり、父の勘九郎に抱かれて祖父の写真集をみながら、開いたページの芝居の所作を真似していたり、たった2歳でまだ誰からも教わっていないのに、こういうことができてしまうことに、可愛らしいとか微笑ましいというより、空恐ろしいものを感じて背筋が寒くなった。名優の血がからだじゅうに流れている幼子なのだ。しかし血筋だけではない、彼を守り育てようとする、豊かな芸心と愛情にあふれる周囲の環境が、一般家庭とは絶対的にちがう点なのだ。

 香川照之自身にまったく責任はない。彼にも立派な血筋はある。しかしそれを盛りたてる環境と言うものが欠落していたのである。血筋血縁というものを否定し、超越した歌舞伎を作ろうと粉骨砕身していた父・猿翁が、数十年の恩讐を超えて直系の息子と孫を迎え入れたことの功罪はさまざまであり、この場で論じることではないのだが。

 閉場していた3年のあいだに逝ってしまった役者もあり、しかし新たに生まれ、着実に育っている小さな役者たちもいる。古くからあって変わりつつ変わらない、歌舞伎という宝を人生に与えられたことは幸せだ。健康で長生きがしたい。歌舞伎をみていると心底そう思うのである。

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こまつ座&ホリプロ公演『木の上の軍隊』

2013-04-15 | 舞台

*井上ひさし原案 蓬莱竜太作 栗山民也演出 公式サイトはこちら シアターコクーン 29日まで そのあと銀河劇場、名古屋、大阪、愛媛、長崎、広島、北九州をめぐる。1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14
 井上ひさしが亡くなって3度めの桜が咲いている。まぼろしの最新作と言われていた作品だ。遺稿をもとに蓬莱竜太が書きあげてお披露目のはこびに・・・と「因幡屋4月のおしばい」に書いたのだが、じっさいは遺稿といえるほど整ったものではなく、沖縄に関する大量の資料と1枚のメモだったとのこと。死去の際の報道で、藤原竜也、北村有起哉、吉田鋼太郎が軍服を着たポスターの映像?もあったように記憶しているので、夢のように魅力的な3人顔合わせがどのようなものなのか、書きさしの台詞でもいいから聞きたいと願っていたから、今回の公演が実現したことはことばにし尽くせない喜びであった。しかし前述の3人が藤原竜也はそのままとして、なぜ山西惇と片平なぎさになってしまったのかなという疑問もあり、複雑な気持ちで劇場に向かった。

 舞台美術や俳優の演技など、舞台の詳細は別の機会に記すとして、このブログの記事は観劇のぜんたいの印象にとどめるものとする。

 じつは上演が休憩なしの1時間55分という事前情報を知ったとき、反射的に「井上さんの芝居にしては短いな」と思ったのである。そして実際の観劇を通して以下のことを考えた。

 30年前、作家の向田邦子が飛行機事故で不慮の死を遂げた。もう向田さんの書くテレビドラマがみられない。それは言いようのない悲しみであった。だから年に一度「向田邦子シリーズ」と銘打ったドラマが放送されるのは救いでもあった。いかにも向田邦子のテレビドラマに登場していたような人物や、エッセイの要素をふんだんに盛り込んで情感ゆたかに描かれたドラマは、向田邦子に対する哀惜に満ちたもので、俳優さんたちも魅力的だ。しかしここに描かれているものは雰囲気やエッセンスのようなもので、向田邦子自身がいま描きたいこととは違うものだ。まさに似て非なるものであり、決して向田邦子の作品ではないのである。

『木の上の軍隊』をみて、「これは井上ひさしではない」という感想をもつのはみかたを間違えているだろう。本作は井上ひさしの作品ではない。井上の原案をもとに新しく書かれた蓬莱竜太の作品である。似て非なるものではなく、最初から別のものなのだ。だから「井上さんの芝居にしては短い」という観劇前の思いは、見当ちがいにほかならないのである。

 この幻の最新作の執筆を託されたのが永井愛なら、あるいは長田育恵であったら。または坂手洋二であったら。舞台はまるきり違ったものになっていたであろう。おそらくそちらのほうが、少なくとも自分にとっては井上ひさしのエッセンスをもっとたくさん味わえるものになっていたであろう。

 しかしまた考え直す。伝統芸能でない現代演劇において、「継承」とは何であろうか。ある劇団の基本理念や基軸としているもの、これはぜひ継承すべきであろう。しかし個で創造活動をする劇作家の場合、後進に継承すべきもの、後進が先人から受け継ぐべきものとは何かを、観客の立場から考える。井上ひさしが祈り願っていたことをよく理解し、作品を上演し続けること。これはぜひとも継承していただきたいことだ。しかし井上ひさしの作風を継承してほしい
、井上さんのようなお芝居を書く人が出てきてほしいという思いは不思議なことにないのである。
 井上さんのお芝居は井上さんしか書けない。それでいいのだ。たとえば長田育恵は井上ひさしの弟子であったが、長田の書いた『乱歩の恋文』や『空のハモニカ』は、師である井上の影響は濃厚に感じられるけれども、長田自身が構築した長田だけの劇世界であって、「井上ひさしに似ている」と思ったことはない。継承とは「同じことをする、似たようなことをする」ことではない。何を受け継ぐかは個々の創造者が考えることであり、それをどのように表現するかもそれぞれが決めることである。「今回の作品は◎◎さんへのオマージュです」などと聞いた瞬間、自分は警戒するだろう。劇作家は自分の作品を書け。

 井上ひさしの残した資料と1枚のメモを原案にした、蓬莱竜太の最新作。それが『木の上の軍隊』である。問題は2時間たらずの上演であるにもかかわらず集中できなかった自分であり、自分の過去現在未来の蓬莱作品とのかかわり方を検証することが課題なのである。

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