因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

皐月の予定

2008-04-26 | お知らせ
 連休は故郷に帰省いたします。観劇のペースがあがるのは中旬からになるでしょう。今月末のものから記しておきますね。全部行ければほんとうに嬉しいです。
*青年団若手自主企画『おいでおいでぷす』
*『日本語を読む~リーディング形式による上演~』
 九つの近・現代日本語作人を九人の若手演出家によって上演する試み。頑張ってできるだけ。
風琴工房『hg』チラシが何種類もあるようですね。いつにも増して作り手の思い入れが強く、深い感じがします。新聞で水俣関連の記事が気になる日々です。
ブラジル『さよなら また逢う日まで』謎めいたわけありの人物に中川智明の雰囲気は恐ろしいくらいぴったりです。ブラジリィー・アン・山田の新作は、ミステリーなのかホラーなのか。
*中野成樹誤意訳・演出『Zoo Zoo Scene』「ずうずうしい」と読むそうで、原作はエドワード・オールビー『動物園物語』です。急な坂スタジオに集合して野毛山動物園を見物し、閉園後に上演されるお芝居をみるという、何とも楽しそうな公演です。
文学座『風のつめたき櫻かな』久保田万太郎の世界が、平田オリザの手によって甦る作品だそう。
studio salt『SOMEDAY』年に2回春と秋のスタジオソルト公演は、自分にとってなくてはならないものになりました。仕事を切り上げて相鉄本多劇場に向かう、あの浮き立つような気持ち。今からそわそわします。
ハイリンド『Proof』数年前寺島しのぶ主演の舞台をみたことがありますが、記憶はほとんど…。今回はハイリンドの4人のメンバーだけで、初めての翻訳劇に挑戦とのこと。毎回新しいものに取り組み、着実な成果を積み重ねていくこの劇団の体力はすごいものだと思います。
演劇集団円『田中さんの青空』土屋理敬の新作です。前回はちょうどこのぶろぐを始めたばかりの頃で、もう3年になるのですね。

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wonderlandクロスレビュー『顔よ』

2008-04-18 | 舞台
 劇評サイトwonderlandのクロスレビューに参加いたしました。お題はポツドールの『顔よ』です。ポツドールはずっと避けていた(逃げていた?)劇団です。またしても強いられる体験(1,2)で、まさかの観劇、そしてまさかの★数になりました。ご笑覧のほど。

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JAM SESSION 7『億万長者婦人故郷ニ帰ル』

2008-04-17 | 舞台
*フィードリッヒ・デュレンマット原作 西沢栄治構成・演出 公式サイトはこちら 下北沢「劇」小劇場 20日まで

 何かを好きになる。自分でもやってみたいと思う。好きなものに対して、自分がどういう方法で関わることができるか。自分にはどんな適性があるのか。誰もが迷い、悩む。試行錯誤を重ねながら、自分にしかできない方法で実現に結びつけられる人は幸福だ。演出家西沢栄治は、その幸福なひとりであると思う。本拠地JAM SESSIONの公演はじめ、ハイリンド(1,2)やサニーサイドウォーカー公演の演出をいくつかみたが、国内外の古典と言われる大作を自らの手法で構成し、現代に息づく新しい物語として提示する。溢れるような力強さは、時間を忘れさせ、みるものをぐいぐいと惹きつける。毎回公演の当日リーフレットに掲載されている西沢の挨拶文も楽しみのひとつで、「大変な作品を選んじゃいまして」と困惑している様子が率直、謙虚に感じられて、自分には好ましい。根底にあるのは、「演劇は役に立つ」(罪と罰)、「演劇は人生を肯定したい」(今回の公演)という素朴で頑固な信念ではなかろうか。

 出演俳優では、億万長者婦人役の斉藤範子(Theatre劇団子)が大変な頑張りをみせる。斉藤はすっきりした長身で聡明な面差しの美女だが、今回は白塗りのお化けのようなメイク、赤毛のカツラに仰々しい衣装、しかも「アフガニスタンの飛行機事故で」義手義足、終始腰を曲げている。寂びれた故郷の町に100億の寄付をするかわりに、かつて自分を裏切った恋人アルフレッド(亀田真二郎/東京パチプロプロデュース)を殺すことを要求する。自分で手にかけるのではなく、金に物を言わせて町の人々を惑わせ、アルフレッドをじりじりと追いつめる。

 たとえばこの作品を新劇の劇団が取り上げたら、と考えた。お二人ともこの世の人ではないが、文学座の杉村春子の婦人に北村和夫のアルフレッド、民藝なら奈良岡朋子と大滝秀治、加藤治子と杉浦直樹なら、市長役は平田満、警官は酒向芳、演出は永井愛で決まり。文学座や民藝など、いろいろな意味ですごい舞台になりそうな予感がする。しかし西沢栄治の『億万長者婦人~』は、いわゆる正攻法の新劇からは想像もつかないような自由で伸び伸びした空気があり、演劇の可能性を信じたくなるのである。

 公演アンケートに「これから上演してほしい演目は?」という質問があり、何も書けずに白紙で提出した。西沢栄治が作品を選び出し、舞台に構成する手腕はこちらの思惑を遥かに越えていて、予想がつかないのである。

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因幡屋リーディング キャサリン・グロヴナー作『いつか、すべて消えてなくなる』

2008-04-15 | 舞台番外編
*キャサリン・グロヴナー作 谷岡健彦翻訳 大阪・伊丹市アイホールでのリーディング公演は2月17日に終了
 一昨年昨年に続き、今年も翻訳者のご厚意で戯曲を読ませていただいた。自由に戯曲と向き合える機会はほんとうに貴重だ。今回の因幡屋リーディングは、1978年生まれのキャサリン・グロヴナー作『いつか、すべて消えてなくなる』である。

☆リーディング公演は終了しておりますが、将来この作品が本式に上演されることを強く願っています。このあたりから少し詳細な記述になりますので、ご注意くださいますよう☆

 男の死体がある。ポール(30代前半の男性 バーの店主)がそれを愛撫するように触れて退場する。冒頭から漂う死の匂い。警官である主人公アナ(30代の女性)が署に溺死体発見の報告をする。が、アナは死んだ男と会話を始める。「マーク」という名の男性が姿を消したらしい。場面替わって、自分の掘った穴に入って死のうとしている少年アダムがいる。それをみつけたポールがアダムを助け、自分の店に連れてくる。彼らの過去や、なぜそこでふたりが出会ったのかはよくわからない。マークの両親のうちをアナが訪ねる場面になる。マークがアナの夫であることがわかる。アナと彼女の夫の両親、アダムとポール。関わりのなさそうなふたつの話が、不安定な平行線を描きつつ続いていく。

 実は読み始めるまでにだいぶ日数がかかった。自分の気負い過ぎが原因である。最初の読みがいちばん重要だ、舞台をみるのと同じように、ほかのことに気を取られずきっちり読まなければと思ったのである。さらに登場人物を動かせない不安があった。戯曲読みの大きな楽しみは、「この役をどなたに演じていただこうかしら?」と考えるところにある。配役が決定すればすいすいと読めるが、人物の性格を把握しかね、具体的なイメージのないままにホンを読むのは、自分にとっておそろしく不安なことなのだった。

 生きた人間と死体が会話をする。まずここで劇の世界に引きつけられる。しかしその仕掛けや絵面に囚われすぎると、作り方としてはあざとくなり、みる方としてはこの作品の深さを感じ取ることができなくなる可能性がある。仮に映像なら死体は死体として横たわったまま、アナも口を聞かないまま声だけ聞かせて、もっと自然に両者の会話を描くこともできるだろう。このほかにも、アナが見知らぬ男や外国人男性と言葉を交わす場面がある。彼らは行きずりの人物で、物語の本筋に関わってはこないのだが、ふとこれは居なくなったマークが違う姿で現れたようにも思えるし、愛している人を見失ったアナの彷徨う心が幻影をみているようにも感じられる。いささか見当違いの深読みかもしれないが、新約聖書に復活したイエスが現れていろいろ話しているのに、弟子たちは一向にその人がイエスと気づかず、まるで見知らぬ相手のように接している箇所があるのを思い出した。

 読めば読むほど深みにはまり、登場人物の心のうちがわからなくなる。配役はいまだに決まっていない。人物の顔やイメージが鮮明にならず、実際の舞台がどうなるかも想像しにくい。なのに戯曲は何度も繰り返して読めるのである。たとえば第6場、ポールの店で、アダムが食器を洗う場面である。諍いのあと、アダムは「ごめんなさい」と謝り、ポールは「黙って洗え」と答えるやりとりが何度か繰り返される。ここが自分は好きだ。ふたりがどんな表情で、どんな声なのかはわからないまま、台詞が、言葉が少しずつ変った色合いを見せるのがわかる。
 最終場、ふたつの話が一気に交じりあい、アナ、ポール、アダムが激しくぶつかりあったのち、寂寥感のなかに薄明かりが差すような終幕を迎える。希望というにはあまりに微かであるが、ほんのりとした温もりが感じ取れる。アダムが床を掃く音。アナの寝顔。実際の音や女優の顔ではなく、言葉そのものが聞こえ、見えてくるのである。

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松重豊『徹子の部屋』出演

2008-04-12 | 舞台番外編
 松重豊が『徹子の部屋』に出演した。NHK朝の連続テレビ小説『ちりとてちん』の出演で全国区の顔となったこと、映画『しゃべれどもしゃべれども』での演技が高い評価を得たこと、舞台『49日後…』が近いことなど、さまざまな状況が整っての出演であろう。しかし冒頭の本人登場の場で、黒柳徹子が「『ちりとてちん』でお箸屋さんの旦那さんをなさった」と紹介していたのにはがっかりした。「若狭塗箸の職人を演じた」とちゃんと言ってほしかったなぁ。和久井映見や江波杏子が怒りますよ。

 松重豊は190センチの長身で、しかもがっちりタイプである。身体的に目立つ特徴があると、「あの大きい人」というイメージで捉えられるし、役柄が特定されてしまうことも多い。彼ほど大柄だと舞台に立っているだけで、必要以上に目立ってしまい、苦労もあったのではないかと想像する。自分は彼の出演作をたくさんみているわけではないが、松重豊は外見内面含めて自分の資質をよく理解しており、他の出演者とのバランス、作品のぜんたいを考えた上で配慮のある演技をしていると思う。だから作る側も脇役ではあっても、そういう配慮の必要な役柄を持ってくる。「わきまえのある俳優」。これが自分の松重豊の印象である。

 たとえば2004年放送のフジテレビ『僕と彼女と彼女の生きる道』で、松重は主人公(草彅剛)がアルバイトをする洋食屋のコックを演じた。滅法無口で眼光鋭く、半端な気持ちで働きはじめた主人公に「この仕事、なめてる?」とひと言だけ問いかける。やがて皿洗いの仕事に手応えを感じ始めた主人公が、小学生の娘を厨房に連れてくる。確か学校の宿題で「働くお父さん」の絵を描くためではなかったか。生き生きと働く父親を、一生懸命写生する娘のそばに、松重が「どう~ぞ」とひと言いって、小さなパフェを置く。よく来たねとか、学校おもしろい?とか、子供の機嫌をとることはせず、ここが本来なら子供が出入りできる場所ではないことを示すと同時に、何かしら嬉しそうな気持ちもにじみ出ていて、自分は彼のこの台詞がとても好きである。

 俳優の世界は、大変な格差社会であると想像する。売れっ子とそうでない人、テレビや映画に多く出演して世間に広く知られている人と、地味な創作活動をしている人と。その違いは収入面に直結するだろう。親が有名俳優で、大作の大役に抜擢され、恵まれたデビューを飾る二世俳優がいる一方で、一般家庭の子供が何のコネもないところから手探りで演技の勉強を始めるのとでは、あまりに差がありすぎて、本人の努力だけでは埋めようがないだろう。何年やれば一人前という基準もなく、正解のない仕事である。自分のよさを認めて活かしてくれる作家や演出家、プロデューサーに出会えるかどうかは、ほとんど運の問題でもあり、こうしたさまざまなことに耐え抜き、仕事を続けるためには、余程の精神力が必要ではないかと思う。

 松重には蜷川幸雄の指導のもとから一時俳優をやめていた時期があり、勝村政信の誘いで再び俳優業を始めた経緯がある。「徹子の部屋」では、「お導きで」と少しおどけた口調で話していたが、やはりそれは何かの導きですよ。自分に向いた仕事、できる仕事、好きな仕事、それらがいいバランスでできるというのは大変な幸福なのだから。

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