因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

東京乾電池公演 岸田國士ふたり芝居

2015-01-29 | 舞台

*公式サイトはこちら 新宿ゴールデン街劇場 2月1日まで (1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14
 岸田國士の短編『命を弄ぶ男ふたり』、『葉桜』、『ヂアロオグ・プランタニエ』の3本立て。演出家はとくに存在せず、出演者、スタッフ協力し合って行ったものと思われる。

★『ヂアロウグ・プランタニエ』
 「シアターアーツ」2009年春号に掲載の演劇時評「綿密に目論むべき大切な仕事」(谷岡健彦)を読んでから、興味を持っていた演目で、今夜が初見となった。

★『命を弄ぶ男ふたり』 川崎勇人、前田亮輔
 どういうわけか、この作品は何度もみる機会があった。→1,2,3

★『葉桜』 上原奈美、中村真綾
 こちらも2010年1月西川信廣演出版、同年6月shelf公演 を観劇体験あり。もっとあるような気がする。

 1本めの『ヂアロウグ・プランタニエ』をとてもおもしろくみた。
 舞台の細かいところを書きますので、これから観劇される方はご注意くださいませ。

 ふたりの若い女性(沖中千英乃、松元夢子)が、ひとりの青年の愛がどちらに向けられているかを話す15分ほどの小品である。
 しかしこのふたりがどこでおしゃべりをしているのか、そもそも何歳でどういうつきあいの友だちなのか、戯曲には何の指定もない。
 ほんとうにあっけにとられるほど、ないのである(注:戯曲は青空文庫で読めます)。
 
 演劇時評「綿密に目論むべき大切な仕事」によると、2008年12月の公演では、窓のかたちをしたパネルを舞台の前面に置き、あたかも観客は、このふたりが喫茶店の窓際のテーブルについておしゃべりしているところをみているというこしらえだったそうだ。この装置によって、観客は視野を狭められ、小さな窓枠のなかで行われる対話、ふたりの表情の微細な変化などに注目するようになる。映像でいえばクローズアップの手法が効果的に用いられていたというのである。

 今回上演前の舞台には中央には木の丸椅子がふたつ置かれている。上手には何か装置があるらしげに黒幕で覆われ、その上に公演名の書かれた白い布が掛かっている。あの窓枠はないんだな。
 幕が開くとそこにあらわれたのは緑色の板!それがまるで川の土手のようなあんばいで舞台上手に斜めに立てかけられている。由美子と奈緒子はその板の上部に腰をおろして対話するので、観客はどうしても見上げる姿勢になる(ふたつの丸椅子はぎりぎりに入場した観客用だったらしい)。
 なぜこんなに見上げねばならないのか、ゴールデン街劇場は意外と天井が高いんだななどと考えながら、このいかにも嘘くさいというか、とってつけたような舞台美術に吹き出しそうになった。

 さらに女優ふたりの服装やメイクがおもしろいのだ。奈緒子役の沖中はショートカットにパンツスタイル、踵の高いパンプスを履く。おまけに濃いアイシャドーと太いアイラインで目元を強調し、まるで宝塚の男役のようだ。いっぽう由美子役の松元夢子は、髪をおさげのように両脇に垂らし、眼鏡をかけて化粧気もない。どうということのないスカートに短いソックス、ズックのようなものを履いている。服装とメイクによって、ふたりの性格がどのように違うかを示す意図も感じられるが、おかしいのは、ふたりともこれ以上ないというほど垢抜けない、おそろいの事務服を着ているところである。
 着ているものや化粧の趣味、性格も大きく異なる由美子と奈緒子だが、男性から見れば似たような年頃の、同じ事務服を着た若い女性であり、終盤で、ふたりの心を支配している「町田」という男性が由美子のほうを好きらしいとわかるが、それにもことさらに決定的な理由もなさそうに思われる。

 戯曲に指定がなければ、ふたりの服装やメイク、場所なども自由に設定できる。しかし何でもいいわけではなく、何かしらの必然や効果、戯曲の本意を示すものであってほしいと思うわけである。というか、観客はどうしても「意味」や「意図」を知りたい、答を求めてしまう。だから蜷川幸雄が『マクベス』で舞台に仏壇をこしらえたり、『ハムレット』では巨大な金網のなかで藤原竜也を暴れさせたりするたび、「演出家の意図はどこに?」と前のめりになるのだ。どんなこしらえ、趣向になるのかは観劇の楽しみのひとつではあるが、それが前面にですぎると、戯曲の本意を見失うことになりかねない。

 さて小さな窓枠を置いてクローズアップに成功した『ヂアロウグ・プランタニエ』は、今回の「緑の土手」でどのような効果を上げたのか。まず場所がはっきりと屋外に指定されたことを考えたい。好きな男性の話、仕事の悩み。話す内容は同じでも、喫茶店で向き合うのと、川べりの土手に並んで座り、空や川を見るでもなく見ないでもなく話すのとでは、やはり対話の色合いや話す人の心もちが変わってくるのではないか。
 むろん同じ戯曲で、同じセリフを言っているのだから大きく意味が変わったり、それによってちがう結末になるわけではない。
 しかしひとりの男性の愛を得られるか失うかという人生の大問題において、「恨むでせうね」、「きっと殺すわ」、「死んでしまふわ」といった切羽詰まったことばであっても、緑の土手で語られる場合、どこか風に乗って流されていくような解放感、あてどのなさが漂う。
 若い女性の思いが凝縮され煮詰まるのではなく、虚しく散らされ、消えていくのである。

 上品なコントのような味わいがあって、これは東京乾電池の財産演目・・・というより実験演目として、ぜひこれからもときどき上演してほしい。といって「今度はどんなこしらえに」ということを過剰に期待せぬよう、自戒しつつ。

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