因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

龍馬伝第8回『弥太郎の涙』

2010-02-21 | テレビドラマ

*これまでの記事(1,2345,6,7
 江戸で学ぶ岩崎弥太郎(香川照之)のもとに、土佐の父親(蟹江敬三)が大怪我をしたという便りが届く。ひと月かかる江戸からの道中を弥太郎は昼も夜も走り抜き、文字通り泥だらけの血まみれになって16日で帰還。庄屋と田んぼにひく水のことで諍いがあり、父親は庄屋一味に半殺しの目にあわされ、奉行と賄賂で通じている庄屋はお咎めなしの沙汰に弥太郎は怒り、直談判を繰り返す。乱暴狼藉の現場に居合わせた龍馬もこの理不尽に納得できず、吉田東洋(田中泯)へ訴え出る。

 香川照之が相変わらず汚し度150%の大熱演で、いささか疲れました・・・。
 江戸で剣術修行に励み、千葉定吉のお墨付きをもらい、黒船に人生観を変えるほどの衝撃を受けた龍馬も、土佐に帰れば「下士」の身分に耐えるしかない。その境遇を吉田東洋に思い知らされる。田中泯の震え上がるような迫力。この人の真意はどこにあるのだろう。

 「泣き寝入り」と「受容」の違いについて考えた。それは「我慢」と「辛抱」の違いだろうか。第1回の後半、龍馬と弥太郎が上士にいたぶられ、川に落ちる場面を思い出す。「いつか上士も下士もない世の中になる」。龍馬はいたずらっ子の大発見のように嬉しげに言う。夢のようなありえない話。弥太郎は「どうしたらそんな世の中になるのか」と一蹴する。しかし龍馬のひとことは弥太郎はもちろん、その場に居合わせた武市半平太(大森南朋)や姉の乙女(寺島しのぶ)に衝撃を与えた。身分の違いによる理不尽な扱いに下士とその家族がどれほど辛い思いをしてきたか。どうしようもない。諦めていた。希望を封じ込めていた。龍馬は皆の心の奥底にあるほんとうの気持ちを、言葉にしておもてに出したのだ。その龍馬も次の台詞では「どうしたらそうなるのかわからない。昼も夜もずっと考えているがわからない」と悲しみを溢れさせる。やりきれない。しかし龍馬は泣き寝入りではなく、受容しようとしている。泣き寝入りは泣きながら眠って終わりだが、受容には先がある。ただ唯々諾々と従うのではなく、どうすればこの状況を変えることができるのかを模索し、新しい道をみつけようとする密やかな意志が。

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アクターズ・ラボ第三期生卒業公演『海辺のバカ』

2010-02-17 | インポート

*劇団東京乾電池×ノックアウト アクターズ・ラボ第三期生卒業公演 加藤一浩作・演出
 公式サイトはこちら シアターイワト 14日で終了(1,2,3,4
 ほぼ1年ぶりの神楽坂だ。小さなお店がたくさんあって楽しい街、散策を楽しみたいが、今夜はお芝居のみ。今回は研究生の卒業公演で、直接の知り合いはもちろんのこと、これまでどこかでみた俳優さんもおそらく誰もいない。とっかかりは「加藤一浩の作品」であることだけだ。

 題名のとおり、海辺にある喫茶店が舞台である。喫茶店を経営する姉妹と弟の3人きょうだいがまずひとつ。ほかには自主映画の撮影にきたあやしげな監督とその助手、俳優たちのグループ、近所に住む主婦(なのだろうか)と、甥の大学生とその友人がレポート作成のために訪れている。ほかにも不動産業者、元漁師、耳鼻科の夫婦など、ざっと20人くらいが出たり入ったりする。
 

 岩松了を思わせる作風で、登場人物の性格や背景、物語の流れなどをはっきり示すものではない。俳優の演技も、一部に何を言っているのかよく聞き取れない人がいたが、いわゆる「研究所の卒業公演」の生硬さよりも、よく言えば堂々とした、そうでない言い方をすれば人を食ったような大胆な演技をみせる。
 これをどう捉えればいいのか、いまだによくわからない。

 舞台をみるとき、お芝居の構造、物語の流れ、登場人物の性格を通して、劇作家の言おうとしていることを知ろうとする。その気持ちは自然なものだと思う。そして劇作家もまた、客席に自分の思いを知ってほしいのだと想像する。しかし加藤一浩の作品をみていると、何をどう伝えようとしているのか、そもそも伝えたい、わかってほしいと思っているのかな?とすら感じられてくるのだった。観客にとって決して理解しづらくても耳障りがよくなかろうと、この劇作家は言いたいことがあるのだと感じさせる舞台には勢いがあり、それが客席にも伝わって劇場ぜんたいが熱くなるが、ぎっしり満員のシアターイワトには熱気とともに、表現しがたい困惑の空気が流れていたことも確かである。

 理解しようと無理をしてがんばらなくてもいいと思うのだが、加藤一浩が描こうとしていること、劇作家の声をもう少し手ごたえをもって感じ取りたい。本作は6月に今度は東京乾電池公演として上演されるとのこと。行かないわけには。

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空想組曲vol.5『遠ざかるネバーランド』

2010-02-15 | 舞台

*ほさかよう作・演出 公式サイトはこちら 中野・ザ・ポケット 14日で終了
 先月の風琴工房公演 ろばの葉文庫『僕らの声の届かない場所』ではじめて出会ったほさかようの作品に惹かれて、今回本拠地での公演に足を運ぶ。

 だいぶ前になるがホリプロの『ピーターパン』をみてほとんど楽しめなかった。ディズニーランドも苦手である。こういうことは言いにくい。あんなに夢いっぱいの楽しいところが嫌いだなんて、何と可愛げのない、夢のない人だと言われる(実際そこまで批判されたことはないけれども)からだ。大人になってからではなく、たぶん子どものころこから苦手だったのだろう。たとえ子どもがいても、自分は子どもをディズニーランドに連れていかない親になる。悪い親をもってかわいそうに・・・としてもしょうがない極端な想像すらしていた。自分には演劇集団円の「こどもステージ」があるじゃないかと思いなおしても、「ディズニー嫌い」をあたかも自分の欠点のように引け目に感じるのだった。

 本作も冒頭からウェンディとネバーランドの子どもたち、住人たちが繰り広げる非常にベタな描写が続き、気恥ずかしくてなかなか集中できなかった。まさかずっとこの調子ではあるまい。どこかで捻じれてくる、新しい展開がはじまるはずだと待ったが、その待ち時間が自分には少々長く感じられた。後半、どの登場人物も実はウェンディこと「ウエダイズミ」という女子高校生の話に集約されていくところから頭がはっきりしてきた。
 泳ぎの苦手な人魚が、勇ましいタイガーリリーが、ひとりぼっちの高校生イズミを映す鏡のひとつひとつだったことが明かされるところや、子どもたちのリーダーで、正義の味方であるはずのピーターパンが、実は空を飛べないことや自分の意のままにならない者を次々に消してしまう展開も予想外であった。客演含め、俳優はみな適材適所でダンスもアクションも稽古がしっかりされていることを示すものであった。

 ウェンディことウエダイズミが「空を飛びたい」というのは、この物語の場合自殺願望であり、自分の現実から逃げずにしっかり歩き出そう、あなたはひとりではないのだという地味ではあるが極めてまっとうな、皮肉っぽく言いかえるととややありきたりな地点にもっていく話と思えたが、どうなのだろうか。居心地のわるい感覚を抱えたまま劇場をあとにし、少し歩いてファーストフードの店でひといき入れる。店内が静かでありがたい。当日リーフレットの余白に今の思いをともかく書き出してみる。その内容は、本稿には半分しか表現できていない。もやもやした気分を切り替えるため、しばらく『坂の上の雲』を読んで、次なる劇場、神楽坂のシアターイワトに向かう。

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龍馬伝第7回『遥かなるヌーヨーカ』

2010-02-14 | テレビドラマ

 これまでの記事(1,2345,6
 龍馬は江戸での剣術修行を終えて土佐に帰り、家族から歓喜をもって迎えられる。武市半平太(大森南朋)は吉田東洋(田中泯)に意見書を踏みにじられた恨みで顔立ちが変わり、尊王攘夷の急先鋒として道場の門人たちに君臨している。加尾(広末涼子)に結婚を断られた岩崎弥太郎(香川照之)は江戸行きを決める。
 土佐には河田小龍(リリー・フランキー)という博学の絵師がおり、外国の話をしてくれるという。河田の家には多くの武士が集まるが、自由奔放というか気の抜けたような河田の話に攘夷の志に燃える彼らは怒ってどんどん帰ってゆく。残ったのは龍馬と弥太郎と半平太。3人それぞれに自分の志を喧嘩腰でぶつけあう。その様子を厠で聴くリリー・フランキーなのだった。

 リリー・フランキーを俳優としてみるのはこれがはじめてである。や、寡聞にて俳優としてのリリー氏を知らない自分は実に不覚であった。時代劇それも大河ドラマであろうが何だろうが、まったく自分の居どころがぶれていない。錚々たる出演者のなかに畑違いの人が飛び込むと、演技の質が違いすぎてぎくしゃくしたり、無残に浮いてしまうものだが、気持ちがよくなるほどのマイペースぶり。みていて楽しくなる。

 今回の大河ドラマは音楽も変わっているなと思った。今日の河田小龍が出ているところで、あれは何の楽器だろう、木琴と鉄琴がまじりあったような不思議な打楽器の音色がリリー・フランキーの雰囲気にぴったりだったし、後半、龍馬と父が語り合うところから流れるピアノの音色の何と優しく静かで美しいことか。こういう控え目なメロディを大河ドラマで聴くことはあまり(いやほとんど)なかったのでは?

 一家が桂浜で龍馬の壮大な夢を聴く場面は、父親役の児玉清に泣かされた。「黒船を作って家族でそれに乗り、世界をみてまわる」など、今の段階ではあまりに荒唐無稽で実現するとはとても思われない。しかし我が子が自分の道を歩き始め、夢を語る姿をみるのは親にとって幸せなことあろう。それを見届けるまでの時間がもはやないとわかってはいても。父親は万感の思いをこめて「そんなことを考えていたのか」とだけ言う。龍馬はこれから家族や友達はもちろん、本人すら想像もしていなかった数々のことを成し遂げる人物に成長していく。龍馬が壁にぶつかるときも、ぐんぐんと前進していくときも、自分はこの場面の父親の表情を思い出すだろう。

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モダンスイマーズ『凡骨タウン』

2010-02-12 | 舞台

*蓬莱竜太作・演出 公式サイトはこちら 東京芸術劇場小ホール1 21日まで
 このところ評価がうなぎのぼりで、旺盛な創作活動している蓬莱竜太の新作である。蓬莱の舞台は2007年4月に『回転する夜』をみたのが初めてで、これはどういうわけかブログに書かず、スルーしております。その後外部書き下ろし作品としてこちらを1本(1)。本作の前篇にあたる2008年上演の『夜光ホテル』は未見。

 場所や時間軸が前後交錯する作りは珍しくない。うっかりすると、それすら「お約束事」に陥る場合もある。客席にわかりやすく親切な作りはありがたい半面、すぐ飽きて続きが読めてしまう。今回の交錯ぶりはいささか手が込んでいて、容易に把握できない。12日朝日新聞に劇評が掲載されており、それを読んで「復習」を試みたりもしたのだが、その方法も違うようだし、さらにまだまだ上演が続くのに、ここまで内容が書かれていて大丈夫なのかなと思ったり。

 萩原聖人、千葉哲也、辰巳智秋、佐古真弓、緒川たまきと、実力も実績も重量級の男優に、才色兼備の女優。素晴らしく充実した客演陣である。劇団メンバー4人もまったく負けておらず、火花を散らすごとくにぶつかりあう。蓬莱竜太の勢いが劇団ぜんたいの力になっていることが伝わってくる。特に暗黒街のボス的存在を演じる千葉哲也の迫力は大変なものだ。萩原聖人はその千葉の長台詞をほとんど動かずに聞き続ける場面が多い。辛抱が必要なむずかしい役どころをよくがんばったと思う。

 俳優陣に圧倒されながらも、やはりぜんたいの話や何を言おうとしているのかがわからずに困惑したまま終わってしまったというのが正直な気持ちである。時空間が交錯するなかで、物語の骨格を客席にしっかり届けたいのか、グレーゾーンを残したままにしたいのか。結末が曖昧だったり、客席に謎を与えて終わる舞台も悪くないが、その余韻を味わうほど甘い内容でもなく、終演後同道の友人との会話もいまひとつ弾まず、しかしこれをきっかけに、もう少し蓬莱竜太の舞台を見続けたいという気持ちは明確になった。まずはこれを収穫としよう。

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