因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

劇団肋骨蜜柑同好会第8回公演 『愛の技巧、または彷徨するヒト胎盤性ラクトーゲンのみる夢』

2016-10-31 | 舞台

*フジタタイセイ脚本・演出 公式サイトはこちら シアター風姿花伝 11月1日まで(1,2,3
 昨年秋より「見逃せない劇作家」として強烈に印象づけられた劇団肋骨柑同好会のフジタタイセイの新作である。山合いの村で旅館を経営していた父が亡くなり、5人きょうだいとその連れ合いや子どもたちが、久しぶりに顔をあわせた。そこへ見知らぬ美しい女性が弔問に訪れてから数時間の物語である。

 小説の舞台化や古典、近代戯曲の演出ではなく、フジタタイセイオリジナルの作品の観劇は、これがはじめてである。舞台は亡くなった父が経営していた旅館の母屋で、そこに総勢16名の人物が出入りする。当日パンフレットには、登場人物の一覧表が俳優の写真入りで掲載され、餌取家の親族と旅館の従業員、旅館に宿泊していた三流小説家、そして弔問に訪れる謎の女によって繰り広げられる120分である。

 葬儀や四十九日に、予期せぬ来客によって一家が大混乱に・・・という流れは珍しくない。本作も、謎の女によって5人きょうだいの兄たち3人の夫婦、子どもたちの秘密が次々に暴露される。アル中や浮気、不妊に(おそらく)セックスレスなどは特異なことではなく、むしろ凡庸である。しかし秘密が明かされる過程や俳優の演技は決して凡庸ではなく、思わず前のめりになるほどであった。

 長男夫婦には娘がふたりおり、高校生の次女は相手のわからぬ子を身ごもっている。謎の女はその相手すら知っているようであり、のみならず長男の心の闇にまで踏み込んでいく。このあたりから、舞台である田瓶市沼田町に古くからまつわる道祖神信仰に話が及び、物語の着地点がわからなくなった。謎の女が何ものであり、故人とどのような関係にあったかは最後までわからず、よって一家を掻き乱す目的も不明のままであった。一家の話に割り込んでくる三流小説家が物語を導いているようで混乱させていたり、彼の立ち位置をよく把握できなかった。
 男兄弟のなかでたったひとり独身のまま、東京で劇団員をしている四男(フジタタイセイ自身を投影した人物か)が、人間として演劇を作る者として再生を決意することに集約すれば、ぐっとわかりやすい構図になるが、やはりフジタの作劇は一筋縄ではいかないようだ。

 終幕は、カーテンコールと見せておいて芝居が続き、一種の「屋台崩し」になだれ込み、まさに圧巻であった。ただし、そのあともさらにもうひとつ場が続くというのはいささか歯切れが悪かったのでは?いずれにしても「見逃せない劇作家」フジタタイセイは、「目を離せない劇作家」として、いよいよその魅力を増したのであった。

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2016年11月の観劇と句会

2016-10-29 | お知らせ

 11月は例年にも増して慌ただしくなりそうで、一つひとつ大切に見ていきたいですね。決定と悩み中のものも含め、観劇予定は以下の通りです。ご参考までに。

*劇団チョコレートケーキ第二十七回公演 『治天の君』1,2,3,4,5,6,7,8
 2013年の初演を見のがしたので今回はぜひにと。

Minami Produce verse.07 「ドラマリーディング『近・現代戯曲を読む』」
 友人から「あそこは時空が飛ぶ」と教えられた浅草橋のルーセントギャラリーにはじめて足を運ぶ(先月ビニヰルテアタア『楽屋』にはついに行けなかった・・・)。夜の部の三島由紀夫の近代能楽集より『葵上』と『班女』を聴きに。

劇団フライングステージ 第42回公演『Family,Familiar 家族、かぞく』(1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15)
 昨年秋上演された『Friend,Friends 友達、友達』は、パートナーシップ制度を利用しようとするカップルと彼らをめぐる人々の物語と、彼らのその後を描いた今回の新作が交互上演される。

てがみ座 第13回公演『燦々』(1,2,3,4,5,6,7,8,9
 爽やかに誠実に、手ごたえの確かな作品を世に送り出し続ける劇作家長田育恵の最新作は、鬼才の絵師・葛飾北斎の娘お栄の青春記の物語。これまでとずいぶんイメージの変わった公演チラシに興味深々だ。

*第13回明治大学シェイクスピアプロジェクト 『Midsummer Nightmare』
 2011年の『冬物語』からしばらくご無沙汰しておりました。お稽古もいよいよ大詰め、後輩たち、がんばれ。
 自分が観劇する11月12日(土)は、終演後に中高生限定のバックステージツアーがある由。あらあ、中高年限定の〇〇とか、ないでしょうか。いや冗談です。

*朗読劇 『季節が僕たちを連れ去ったあとに』
 昨年夏の『女中たち』は、若い俳優の誠実な姿勢が強く印象に残った。今回は山田太一編『寺山修司からの手紙』を原作に、広田淳一(アマヤドリ)が構成・演出を行う。「若者たちでなければありえなかった、創造するエネルギーの入り口で出会った二人の永遠の時間」(公演チラシより)を読み、語るのは、間宮祥太朗&玉置玲央、山口翔悟&矢崎広、首藤康之&中島歩の若手俳優3組だ。

日本のラジオ 『ヒゲンジツノオウコク』(1,2,3,4,5,6,7
 こちらも変わらず静かな快進撃を続ける屋代秀樹の新作は、「小説を書くことを諦めた辺見は、恩師の伝手で、家庭教師として四姉妹のもとに訪れる。永遠の少女たちと、彼女たちの創造した一人の男の短い物語」とのこと(公演チラシより)。さらに「てえぶるのしたで/きようだいたちが/わたしのほねを/ひろつてうめる」と、旧かなづかいで書かれているではないか。出演俳優は、四姉妹なのに女優は3人、男性は宮崎雄真(アマヤドリ)の名。すでにやばそうな気配が。

*演劇集団円 『景清』
 近松門左衛門の浄瑠璃台本「出世景清」を原典に、フジノサツコが脚本を、森新太郎演出を担い、橋爪功が主演するというものすごいもの。平幹二朗の急逝が日を追うごとに心に堪える。ベテランの舞台は少々のことがあってもみておきたい。

新宿梁山泊 第58回公演 『マクベス』
 遅ればせながら、はじめて芝居砦満天星へ。不案内な場所なので、詳しい友人のお伴をする。唐組から藤井由紀が客演するのも嬉しい。

トム・プロジェクトプロデュース『挽歌』
 劇団チョコレートケーキの古川健の戯曲を日澤雄介の演出で。これも遅ればせながら鳥山昌克の舞台をはじめて見ることになる。大鶴美仁音の出演も楽しみだ。

*以下追加の1本です。
 笛井事務所第8回公演 三好十郎作 望月順吉(文学座)演出『冒した者』
 設立から4年、「戦後日本文学を通して現代社会にも通じる人間の不変の姿を見ることをテーマに、公演毎に演出家・出演者をアレンジして活動」(公式サイトより)という硬質な事務所である。
 自分自身もここ数年三好十郎作品と幸せな出会いが続いており、そのご縁に導かれたのだと思う。

 句会の予定は以下の通り。もう晩秋から冬の季語になります。
*本部句会 「凩」(こがらし)、「霜除」(しもよけ)
*かさゝぎ俳句勉強会 これまで『現代の俳句』(平井照敏編・講談社学術文庫)から毎月俳人をひとり選び、各自3句を選んで鑑賞を述べていたが、先月から新しい勉強がはじまった。山本健吉の『基本季語五〇〇選』(講談社学術文庫)をテキストに、まずは季語を3つ決める。そしてテキストに掲載のたくさんの例句から3句を選び(別の本から選んでも良し)、鑑賞を発表するというものだ。さらに「事前担当」というのがあり、その場合は、担当になった季語について200~300字でまとめておく。とうぶん順番は回ってこないと思うが、ひとつの季語でこの字数とはむずかしそう・・・。かねてより「季語の勉強が足りない」と痛感していたので、この新しい試みはほんとうにありがたい。けれど事前の勉強も、会のあとの課題提出も大変だ!
 11月は、「水鳥」、「北風」、「茶の花」。どれも使ったことがありませんわ。
*演劇人句会 「顔見世」、「小春」
 「顔見世」は以前も兼題になったことがあるが、実際の舞台の様子や贔屓の役者のことを取り入れてみたり、劇場の内外の風景を詠んだり、とても楽しい季語である。「小春」は初挑戦だ。
*金星句会 「小春」、「蜜柑」
 俳句結社・銀漢俳句会に正式に入会して、もうじき丸3年になる。伊藤伊那男主宰から、「最初の3年は雑巾がけですよ」と言われた。毎月の句会では、よい手ごたえを得られるときもあれば、スッカスカのときもあり、それがまったく予想できないのがおもしろさでもあり、つらいところでもある。相当のベテランでも予想通りの結果になることは少ないらしく、多くの人に共通する悩みであることもだんだんわかってきた。銀漢の皆さんをみていると、そういった不安や焦燥、落胆があっても表には出さず、大いに飲み、かつ楽しく語らい、次の句会に臨んでおられるようである。しっかり勉強するし、句作はもちろん必死でやる。けれどあまり自分を追い込まず、リラックスして楽しむことが長く続ける秘訣なのだろう。金星句会ではいつも叱咤激励される。凹むことも少なくない。しかし無駄なことはまったくなく、必要なこと、大事なことを学べる。別の句会では「ゆっくりやりましょう。趣味ですからね」と労わってくださる方もある。どちらもほんとうで、どちらも大切なのだな。

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文学座創立80周年記念公演『越前竹人形』

2016-10-25 | 舞台

*水上勉作 高橋正徳演出 公式サイトはこちら 紀伊國屋ホール 11月3日まで
 文学座創立80周年記念公演第一弾が本作。小説家である水上に、戯曲の書き下ろしを委嘱したのが文学座であり、1966年に『山襞』を上演して以来、『海鳴』、『飢餓海峡』、『五番町夕霧楼』、『雁の寺』と、数々の舞台を上演している。今回の『越前竹人形』は36年ぶりの水上作品にして、はじめての上演となった。
 紀伊國屋ホールでの観劇は久しぶりである。背もたれの傾斜の具合なのか、座りにくい座席にはいささか閉口したが、この劇場には、長年に渡ってさまざまな舞台を作り、支えて来た方々の息づかい、温もりというものがたしかにあって、通い慣れたサザンシアターとは明らかにちがう空気を持つ。そんななかで、「縁」(えにし)を感じさせる作品を体験するのは、非常に幸せなことである。

 今さらながら、文学座の俳優の層は厚い。娼妓の玉枝(山本郁子)の美しさを馬方の安蔵(常住富大)が、「美しい人はたくさんいるが、あの人は自分たちを見下すようなことをしない。優しい人だ」と讃える。山本郁子はひな人形のようにすっきりとした顔立ちで、日本髪や和服が似合う。声はしっとりと低く、味わいがあり、玉枝のイメージにぴったりだ。夫となる人形師の喜助(助川嘉隆)は、愚直を絵に描いたような男性で、仕事のことしか考えない。助川は事情があって休座し、宅配便のドライバーをしていたとのこと。今回7年ぶりに舞台に復帰した。懸命な仕事ぶり、小柄であるという設定か、終始腰を曲げた姿勢で喜助を演じるすがたは誠実そのもので、「お帰りなさい、良かったね」と声をかけたくなるほどであった。

 村の人々、京の商人、色街の女たち等々、玉枝と喜助をめぐる人々については、いささか類型的な印象を否めない。そもそも戯曲の設定によるのだろうか。遊廓の強欲な女将、表面は明るいが、不幸を背負った娼妓たち、喜助の竹人形に群がるような商売人たち、村の男たちの慰みものにされる知恵遅れの少女。いずれもいかにもいそうな人物であり、設定である。演じる俳優が戯曲の人物に血肉を通わせるごとく、堅実で熱のこもった演技をすることで、類型的な面がいっそう強く押し出されているかのような印象をもった。

 そのなかで驚いたのは若手の増岡裕子である。増岡は前半で娼妓を演じるが、後半は玉枝がかつてのなじみ客(今で言うところのゲス野郎である。原康義好演!)と密会する旅館の女中役で登場する。玉枝を相手にお茶を出したり、風呂をすすめたりする場面で、それが増岡とはすぐに認識できなかった。もっと年齢の高い俳優が扮している思われたのである。あまり上等な旅館ではなく、曖昧宿らしき雰囲気もあるところである。そこで働く女中も京言葉ではあるが、ぽんぽんしたもの言いをする。玉枝が身ごもった子を始末するために医者を探してほしいと懇願するところを立ち聞きしてしまい、一度去って再び部屋にやってきたときの女中の様子かから、「お客さん、いい医者を知ってますえ」などと言いそうに思ったが、彼女はあの口調のまま、自分の身の上を語りながら「女はそれでも生きていかなければなりませんしね」と玉枝を労わる。べたべたせず、自分には玉枝を助ける力はないと重々わかった上で、最低限の優しさをさりげなく見せるのである。この複雑でむずかしい役どころを、増岡は実にさらりと、端正に演じており、みごとであった。

 地道に培った伝統が感じられる舞台であることはたしかである。しかし残念ながら、この美しくも悲しい物語を、なぜ今上演するのかという根本的な問いに対する明確な答を舞台から得ることはできなかった。斬新な演出を期待したり、今日性、現代性を示してほしいわけでもない。しかし文学座ホームページにある「ずっと新しい、いつも刺激的」を、自分はどうしても求めてしまうのである。

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シアターコクーン・オンレパートリー2016 『るつぼ』

2016-10-24 | 舞台

*アーサー・ミラー作 広田敦郎翻訳 ジョナサン・マンビィ演出 公式サイトはこちら シアターコクーン 30日まで その後大阪・森ノ宮ピロティホール 
 『るつぼ』は、新国立劇場での宮田慶子演出の舞台が記憶に新しい。当然のこととはいえ、翻訳、演出、出演俳優が変わると、舞台はこうも変容するものか。絶対的な良い悪いではもちろんなく、単純にどちらが好き、そうでないでもなく、翻訳のちがいが生むことばの味わい、演出家の冒険、献身的な俳優の姿勢を堪能できるのは、観客として何と幸せなことか。とくに自分は堤真一が本作のジョン・プロクターを演じることを長いこと願ってきたから、その夢が叶ったという点でも喜ばしく、幸せな3時間であった。

 雷鳴とも猛獣の雄たけびとも聞こえる不気味な音が響くなか、森の中で少女たちが焚火を囲み、踊り狂う。戯曲にない場面であり、ジョナサン・マンビィの演出は、冒頭から容赦なく観客を異様な世界を提示する。これは只事ではないと、見る者を震撼させる。劇中では繰りかえし「子どもたちが森の中で踊っているのを見た」と語られる。実際に見ていない人々の困惑や恐怖を前に、観客は冒頭からその恐ろしげな光景を見せつけられたのだ。この効果は大きい。黒田育世の振付はまさに狂気じみておどろおどろしく、本作のイメージを強烈に印象づけることに成功した。

 ほかにも、知らず知らずのうちに抱いていた『るつぼ』のイメージが変容する箇所がいくつかあった。ひとつはレベッカ・ナースである。人々から厚く信頼され、尊敬される敬虔なキリスト者ある。彼女については、たとえば南美江のような女学校の校長先生風のイメージを強く抱いていた。宮田慶子演出では佐々木愛で、南とはタイプがちがうけれども、知的で上品なイメージはゆるぎない。今回のレベッカは立石涼子である。声や話し方はぐっと庶民的であり、女学校の校長先生というよりは、何でも相談できる保健室のおばちゃん先生風である。しかしながら何かというと浮足立って動揺する町の人々の中で、「どの子もみんなおかしな時期がありましたよ」と言ってのける場面に、度胸の良さを感じさせたのは立石の個性であろう。終幕、処刑される朝、思わずよろけながら「朝ご飯食べなかったから」とつぶやく場面は、誇り高い女性が最後にほんの少し強がりを言っているようで可愛らしく、ユーモアすら感じさせた。ささやかだが、嬉しい発見である。

 同じ時期に観劇した文学座の『越前竹人形』について、改めて考えざるを得ない。今なぜこの作品を上演するのか、見る者に何を伝えたいのかを明確にし、次はどうすればそれが伝わるかを考え、示すこと。それがいま現在の観客に向けて古典を上演する意味であり、演劇のおもしろさであろう。演出家のなかには戯曲じたいを変える人もある。しかしそれは禁じ手だ。変えずに変える。一種の矛盾であり、困難なことであろうが、不可能ではないはず。

 ジョン・プロクターは署名を拒否し、誇りを取り戻して処刑台に向かう。しかし悪魔を見たと虚偽の告白をし、後ろめたさに苦しみながらそれでも生き延びようとするプロクターもまた存在し得るのではないか。そして生きる選択をしたプロクターもまた、自分は愛したいと願うのである。いや、堤真一だからということではありません。ゆるぎなく構築された戯曲であってなお、観客に「あり得たかもしれない物語」を想起させる。重苦しくやりきれない物語でありながら、かすかな「夢」や「希望」を抱かせてくれる。『るつぼ』の新たな魅力、凄みを感じとることができたということである。まことに嬉しい一夜であった。

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劇団唐組 第58回公演『夜壺』

2016-10-15 | 舞台

*唐十郎作 久保井研+唐十郎演出 公式サイトはこちら (1,2,3) 明治大学構内の猿楽通り沿い特設紅テントでの公演は23日まで その後雑司ヶ谷の鬼子母神で11月6日まで
 今回の『夜壺』公演は、自分にとって特別なものとなった。それは明治大学和泉図書館ギャラリーで10日に終了した企画展「演劇人、詩人、文学者としての唐十郎展」の関連イベントである「唐組 久保井研によるワークショップ『夜壺』を読む」を体験したためである。
 ワークショップは2回にわたって行われた。1回めは明大のグローバルホールにて、演出の久保井研みずから、『夜壺』40ページまでを読み解いた。唐組のテント芝居の醍醐味は、布1枚で外界と隔てられた空間で、俳優たちが弾丸のように台詞を飛びかわし、肉体をぶつけあう物語を浴びるように体験するところにある。しかし台本の台詞一つひとつを丁寧に読み、ときに立ち止まったり、前の箇所に戻ったりしながら、人物の背景や性質、そこに至る経緯を想像する静かな作業は、まことにおもしろいものであった。
 2回めのワークショップは紅テントで行われた。初日があけて10日ばかり。休演日とはいえ、舞台のセットが組まれており、俳優の熱気ばかりか、大道具小道具からも得体のしれぬ何かが発せられているような異空間での本読みである。久保井氏の指名で、時おり場面を区切り、役を交代しながら10名ほどの参加者が『夜壺』を読み継ぐ。

 演出の久保井研いわく、「台本をはじめて読んだときの先入観はあてにならない。何度も何度も戻って読み直して構わない」。さらに「唐十郎の作品は情報量がものすごく多い」。

 舞台を見ていると、設定も展開も奇想天外と思いがちであるが、こうして戯曲を読んでみると、人物一人ひとりの性格、設定、作品における役割、ぜんたいのバランスがあり、緻密に構築された繊細な物語であることがわかる。戯曲の最初の40ページをプロの手ほどきを受けながらほんの少し読んだだけで、舞台に対して今までとちがった向き合い方、受けとめ方、のめり込み方ができるようになったのである。

 さあ、では『夜壺』実際の観劇の印象はいかに?!ということなのだが、今回はとくに俳優の配役についておもしろく見ることができた。たとえば冒頭から登場する看護婦には若手の清水航平が抜擢された。つまり女装なのだが、単なるゲテモノではなく、どういう目的の女装なのか最後までわからないところがよい。清水はさらに№1ホストの追っかけで自分もホストになった?分次郎という男も演じており、これが台詞はないが、舞台であるマヌカン屋の棚の上で延々奇妙な振る舞いをしたりなど、本筋にしっかり絡まないのに舞台の滞留時間が長いという、おいしいのかそうでないのか、しかし客席に「あの役者は誰だ?!」と強烈な印象を与えている。今後清水がどんな役を得て、どのように変化していくのか大いに楽しみである。
 また演出の久保井研がまさかの役柄でツ―ポイントの登場(天童よしみかと思った・・・)、もったいないと言うのは野暮であろう。

 物語後半に登場する白皮夫人は、唐組の名花・藤井由紀が堂々と演じる。しかしかつて唐十郎自身が演じたこともあったと聞いた。となると、唐十郎作品はあらゆるセクシュアリティ、ジェンダーを越えて成立し得るものではないかと、ますます興味が募るのであった。

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