因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

因幡屋の4月の観劇と句会

2014-03-31 | お知らせ

 2度の健診も無事終わり、もろもろ煩雑なあれこれも3月いっぱいで落ち着くと願って、いよいよ春本番を迎えます。観劇の予定はまだ少しですが、あっという間に次の句会の締切が迫ってきて、しかし指南役の方は「せめてあともうひとつ句会に出てごらんよ」とおっしゃる。どんなことになるのだろうか、でも遠くない日、きっとそうなる予感がしている自分がこわい。兼題は、俳句をつくる演劇人の会が「東踊」(あずまおどり)と「蝌蚪」(かと=おたまじゃくし)、金星句会が「乗込鮒」(のっこみぶな)と「桜餅」であります。←お詫び:当方のかん違いで、乗込鯛を訂正いたしました。「乗込鮒」とは、3月末から4月、水温が上がってきたとき、産卵のために浅瀬や細い小川、水田にまで群れをなしてものすごい勢いで乗り込んでくる鮒のことだそう。腹いっぱいに卵を抱いているので美味だとか。みたこともなく食べたこともなく、いやいや今度も苦労しそうです。

ハイリンドvol.15 『きゅうりの花』 (1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14)
 劇団員4人ぜんいんが揃って出演するのは、vol.11『牡丹灯籠』以来だというから、短いあいだにメンバーのお一人おひとりにいろいろなことがあったのだと察する。最新の舞台『きゅうりの花』は土田英生の代表作であり、ハイリンドは土田作品に並々ならぬ思い入れがあるとのこと。演出に気鋭の扇田拓也を迎え、2月にオープンしたばかりの「小劇場B1」でのお披露目、ますます楽しみである。

★shelf volume17[deprived(仮)] (1,2,3,4,5,6,7,8,9,10)
   古典戯曲や小説などを、独自の視点で構成して斬新な劇世界をみせるshelfが、今回また新たな試みに挑戦するらしい。「今回は『政治』の話をしたい。政府や政治家の話ではなく、人が二人以上いる<場所>に必ず発生する「政治的」な「ふるまい」や「言葉」の力について考えたい」とのことだ。明大前キッド・アイラック・ホールはとても好きな劇場だが、5Fギャラリーには入ったことがないので、それもまた楽しみである。

★新国立劇場 『マニラ瑞穂記』
 予備知識ほぼゼロ。

★劇団民藝 『シズコさん』 (1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11
 『100万回生きたねこ』などでよく知られている絵本作家・佐野洋子の自伝が舞台化される。とにかく原作がものすごく(苦笑)、これが舞台になるなんて、それもバリバリ新劇の民藝さんがいったいどんな舞台を・・・とあれこれ想像するのはやめにして、楽しみに劇場に行くとしましょう。

★green flowers vol.15  『こんこんと、』1,2,3,4
 前回公演『かっぽれ!~夏~』の舞台の記憶は、ゆうべみたばかりのように生き生きしている。ご覧になった知り合いの方々が異口同音に「楽しかった!」と喜んでくださったのも、わがことのように嬉しい。今回は久々に劇作家イトキチの登場である。ある結婚披露宴での悲喜こもごもらしい。

★ゲンパビ#8 『積雨、舟を沈む』 (1,2,3
 はじめての出会いから、もう1年近くが経つ。優しく瑞々しい舞台を楽しみにしている。いや、でもそうでない方向に進んでも構わないのです。受けとめたいので。

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燈座第二回公演『父を葬る』

2014-03-27 | 舞台

*石原燃作 キタモトマサヤ演出 公式サイトはこちら  梅ヶ丘BOX 30日で終了
 劇作家の石原燃の作品はいくつかみたことがあるが、(1,2,3,4,5)、2012年に石原を主宰として大阪で旗上げした演劇ユニット燈座(あかりざ)の公演は今回がはじめてである。本作は第24回テアトロ新人戯曲賞佳作受賞作品で、先に地元の大阪で幕を開け、つづいて東京公演を行った。ぎっしり満員の盛況が嬉しい初日の観劇だ(プロフィールには燈座以前の上演記録も掲載あり)。

 アパートの一室と思われる空間には、正面に窓らしき枠、奥側には少し大きめの枠があり、中央にテーブルが置かれ、ごくわずかに小物類があるのみ。公演チラシには「東日本大震災の東京。ある日、娘のもとに父の訃報が届いた」とある。当日リーフレットの配役表には父、娘、そして太郎と記されており、震災が深くかかわった父と娘の物語であることは明らかだ。

 残念ながら困惑と疑問が消えない観劇となり、いまの段階ではその理由も明確に記せない状況なのだが、ともかく書いてみよう。

 芝居がはじまってすぐ、これは井上ひさしの『父と暮らせば』と同じつくりであると多くの人が気づくはずだ。『父と暮らせば』は、広島の原爆で生き残った娘のもとに、亡くなった父親が幽霊となって現れる。父を助けられなかった罪悪感に苦しみ、原爆症への恐怖から新しい恋に踏み切れない娘を父は懸命に励まし、背中を押してやる。
 死んでいるはずの父が、生きている娘と会話をする。その生き生きしたやりとりから、父の亡くなったいきさつや娘のいまの暮らしぶり、それぞれの思いなどが決して説明台詞ではなく、あるときはゆっくりと、あるときは堰を切ったように示される。観客はそれを聴きながら自然に劇世界に導かれ、いつのまにかしっかりと包み込まれているのである。

 本作は2011年3月の大震災の後、ある劇団から「井上ひさしの『父と暮らせば』のような父と娘の芝居を書いてほしい」との依頼によって執筆された由。劇作家は『父と~』の構造を踏襲して311以降を生きる娘を励ます父を描こうとしたという(当日リーフレット挨拶文より)。
 この成り立ちをどう捉えるかで、本作の受けとめ方は大きく変わってくると考える。構造を踏襲するのは劇作家と作品への表敬であるが、「そのまますぎる」というのが率直な印象であった。つくりをそのままではなく、べつの形をとりながら、もっと深い部分において『父と暮らせば』を想起させる物語。
 非常にむずかしいことだが、石原燃さんならできるのではないだろうか。

 『父を葬る』の父はのっけから酒を飲んでおり、娘と終始ぎすぎすした諍いを繰りかえす。この親子がどのような年月を過ごしてきたのか、いつ、どのようにして父は亡くなったのか、母親はどうしているのか、娘はこれまでどのような人生を送り、いまはどんな状態なのか。
・・・というあれこれを、観客は何とかして知りたいと身を乗り出して台詞を聞き、人物の表情や動作から読み取ろうとする。目の前に提示されたものだけではわからないことを必死で探す。それが緊張感のある観劇の楽しさだ。少しずつ芝居の世界に近づきながら、終幕に確かな手ごたえを得たいのである。

 それが今回の場合、あまりうまく運ばなかった。高度成長期の思い出が語られたり、阪神大震災の話もあったようで、しかし311の話もあって、ならばいったいこの娘は何歳なのかということすら、実に情けないのだが自分は把握できなかったのだ。あのころに4歳くらいだったということは・・・という具合に何とか計算しようとはしたのだが、物語ぜんたいとして時間軸の整合性はどのようになっていたのだろうか。このつまづきは大きい。

 また細かいことであるが、物語後半で太郎という第三の人物がアパートの窓ガラスを割る。部屋のなかはガラスの破片が飛び散っているはず。部屋に侵入してきた太郎は最初こそ足の裏に破片が刺さって痛がってはいるが、娘に同様の演技はない。しかしそのあとで父親が丹念にガラスを拾っている場面もあったり、このあたりも何となくしっくりこない。父と娘ははっきりと特定できる地方のことばを話してはいなかった。ふたりのやりとりから各地を転々としていたらしいが、そのあたりの流れもわかりにくい。こういうところが散見しているために、いまひとつ父と娘の心象の変化をじっくりと味わうことができなかったのだ。

 死んだはずの父親が娘のところに現れたという劇的な構造を活かすためには、さまざまな面を細部にわたって場面や台詞を整え、慎重に筆を運ぶ必要がある。また3人の俳優の演技にもう少し緩急があれば、台詞のひとつひとつが粒立ち、確実に客席に届いたのではないか。

 厳しいことばかりを挙げてしまったが、これまでみた石原燃の作品の印象があるだけに、どうしても求めるものが大きく高くなるのである。観劇日はミナモザ主宰の瀬戸山美咲氏とのアフタートークがあった。お二人とも311以降の劇作の苦悩を語っておられたが、トーク後半になって、最近起こったベビーシッター幼児殺害事件の話から、広島の被爆患者の治療にあたった肥田舜太郎医師のことば、「狂ってしまった一人ひとりの人生を掬い取らねばならない」(記憶があいまいだが)に共感し、「これこそががわたしたち劇作家の仕事だ」と決意したという発言には、まさにわが意を得たりと嬉しく思った。

 『父を葬る』はまだまだ変容の余地がある作品だと思う。それは客席の自分にとっても同じであり、劇作家の思いをじゅうぶんに感じとれなかった反省を忘れず、どこかでもう一度、しっかりと受けとめる機会があることを願っている。

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劇団印象Vol.19『グローバル・ベイビー・ファクトリー』

2014-03-26 | 舞台

*鈴木アツト作・演出 公式サイトはこちら せんがわ劇場 30日まで (1,2,3,4 5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18
 本作は第18回劇作家協会新人戯曲賞最終候補作になり、審査会前のプレヴュー・リーディングをみた。受賞は逃したものの、おそらく今回は劇作家鈴木アツト、劇団印象にとって、満を持して上演ではなかろうか。アフタートークも27日14時永井愛、28日14時松田正隆、29日17時坂手洋二と大変な顔ぶれだ。

 37歳の砂子(小川萌子)は大企業でバリバリ働きながらジムやエステにも通い、美しい容姿を保つことにも金を惜しまない。しかし40歳が近づくにつれ、将来に不安を抱く。両親からのプレッシャーもあって見合い結婚をし、幸せな新婚生活がはじまるが、癌のために子宮の全摘出手術を受ける。子どもが産めなくなった砂子は、日本では認められていない代理出産という選択をする。

 結婚するかしないか、子どもを産むか産まないか。極めて個人的なことでありながら、結婚難で少子化の現代、国や自治体までもが対策に乗り出す昨今である。
 どうしても子どもを産みたいと願ったとき、自分とパートナーの子どもでなければならないか、精子はほかでもらってもよいのか、受精卵は自前でも、産むためのからだを貸してほしいのかなどなど、事情はさまざまで一筋縄ではゆかない。
 生殖技術の進歩に法律がついてゆかず、さらに倫理面の問題もからんでくる。選択肢が増えたからといって、すべてが幸せに結びつくわけではない。

 「どうしても子どもがほしい」と願う経済的に何不自由ない先進国の女性と、暮らしのために代理母をせざるを得ないインド人女性とという社会格差の図式があぶりだされる。その一方で、頭にきのこのようなかぶりものをつけた精子たちが射精されるのをおののきながら待っていたり、そのなかのひとつが卵子とくっついて仲よくおしゃべりをしたりなど、衣裳(西原梨恵)や振付(スズキ拓朗)も可愛らしい。「生殖」を扱ってはいるが表現はファンタジックであり、生々しい社会派ドラマの印象はない。

 しかし出産が近づくにつれて、舞台は次第に重苦しくなる。代理母のナジマ(水谷圭見)は、金のために産むからだだけを貸すことを割り切れず、激しく苦悩する。待望の赤ちゃんを得て幸せいっぱいの砂子が終幕にふと見せるあの表情は、彼女にこれから訪れる新たな苦悩を予感させ、複雑で苦い印象を残す。
 まったく予備知識なしにこの舞台をみたら、「書いたのは女性だ」と思うかもしれない。しかし当日リーフレットの挨拶文にあるように、作・演出の鈴木アツトは過去に父親が子どもを産んでしまう『父産』(とうさん1,2)という作品を上演している。女性だけが行う出産という行為への憧れなのか、身体的なタイムリミットを否応なくつきつけられる女性とは、少し違った視点で子どもを持つことについて考えているのかもしれず、このあたりは興味深い。

 作品に直接関係ないことだが、本作には食事をする場面がいくつかあって、そこで女優さんが足を組むところが気になった。お茶やお酒を楽しむのであれば、ゆったりと足を組んでも構わないのだろうし、場所の設定が和室ではないのだからいいようなものなのだが、姉妹で焼き鳥を食べたり、家族ですき焼きなべを囲む場面で、パンツルックで足を組み、お茶碗と箸を持つという動作はしっくりしない。自然に組んだにしてはきれいに見えず、それとも演出がついたのだろうか。

「優秀新人戯曲集2013」(劇作家協会編/ブロンズ新社)に掲載された本作の戯曲をとてもおもしろく一気読みしたので、本番の舞台もさぞかし笑いがあ ふれるかと予想したが、客席は思いのほか静かであった。妙なもので「おもしろい」と感じても、すぐに声を出して笑うという行為にはならないのである。周囲 に同じように声に出す人がいるかいないかを瞬時に察知して、いなければ声を出せない。動物的な勘というのか、「ひとりで笑うのは淋しい」という本能なのか。たまたま今日の客席が控えめだったのかもしれず、これから回を重ねるごとに客席の雰囲気が温まれば、もっと舞台も弾むことだろう。
 ぜひそうなってほしい。

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スーパー歌舞伎Ⅱ『空ヲ刻ム者―若き仏師の物語―』

2014-03-24 | 舞台

*前川知大作・演出 市川猿翁スーパーバイザー 公式サイトはこちら 新橋演舞場 29日まで その後大阪・松竹座で上演
 これがはじめてのスーパー歌舞伎観劇となった。とくに避けていたわけではないが、やはり本家本元の歌舞伎のほうが好きであるし、もうひと押しアクションを起こせなかったのである。今回も友人から誘われてようよう腰があがった次第。

 Ⅱ(セカンド)と銘打つからには、市川猿翁がつくり上げたスーパー歌舞伎の単なる続きではなく、それを乗り越えんとする気概をもっての上演と想像する。イキウメ主宰の前川知大の作・演出は、以前彼の書いた現代劇に出演した市川猿之助の依頼であり、その舞台で共演した佐々木蔵之介の出演も、猿之助の肝入りで実現したとのこと。ほかにも若手の福士誠治、ベテランの浅野和之も加わった。
 歌舞伎の舞台に現代劇の俳優がともに立つなど想像したこともなく、いったいどうなることかと心配ですらあったのだが…。

 結論から言うと、開演前のあれこれはすべて杞憂であった。開幕してすぐ「口上」がはじまったのには驚いたが、役者各自自分が何の役を演じるかということを語ったり、上演がかなったいきさつなどがわかりやすく語られるので頭の整理になり、観劇のウォーミングアップとして効果を上げていた。
 ひとりだけ「自分は浅野ではない。鳴子(役名)だ」と頑なに口上を拒否する浅野和之演じる祈祷師の老婆がおり、口上という歌舞伎はじめ古典芸能特有の慣習への皮肉(といっては言い過ぎか)をちょっぴり滲ませながら、役者本人の素と演じるときの顔、役柄そのものの存在など、複雑な構造をさらりとみせる。

 現代劇の俳優3人に、不自然な印象はまったくといってよいほど感じなかった。そうとうな稽古を積んだと察せられるが、それは無理やり歌舞伎風の台詞術や所作事を会得するためではなく、歌舞伎俳優たちと同じ板の上に立って違和感なく劇世界をつくるための呼吸のしかたというようなものではなかろうか。
 見栄を切る箇所も少なからずある。佐々木蔵之介は猿之助から見栄の所作を教わったものの、基本的に「気持ちでやればいい」と言われたそうで、たいへん好ましい演技であった。ますますファンが増えたのではなかろうか。福士誠治もどうようで、出番の少なかったのは残念だった。

 浅野和之は舞台の進行役らしい場面もあるのだが半端であり、しかしそこが逆におもしろいつくりになっている。市川猿弥や笑也はじめ澤瀉屋の面々とも違和感なく・・・というよりぎくしゃくしたところもたしかにあって、それすらも今回の舞台ならではのおもしろみに転化させていて、これはまったくもってお見事である。

 歌舞伎役者が現代劇に出演することはめずらしくない。しかし逆はぜったいにないだろう、というより想像したこともなかった。しかしそれが実現したのだ、それもこんなに力強く熱気あふれる舞台に。
 スーパー歌舞伎の舞台づくりは、現代劇と比べて戯曲の執筆と演出と演者の役割分担が明確に分かれているものではなく、すべてのスタッフが稽古場で試行錯誤しながらどんどん替えていくものではないかと想像する(公演パンフにおいて佐々木は「稽古場ではものすごいスピードで戯曲が立ち上がっていく」と驚嘆していた)。なのでどこまでが劇作家の書いた台詞であり、演出家の指示であったかはわからないが、作り方や経緯ふくめて本作の魅力だと考える。

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TABACCHIプロデュース「40Minutes」

2014-03-22 | 舞台

*公式サイトはこちら スクエア荏原/ひらつかホール 24日まで
 「演劇界において受賞歴があり、尚且つ勢いのある人気と実力を兼ね備えた3団体(電動夏子安置システム、劇団チョコレートケーキ、JACROW)が、持ち時間40分を使って共通のテーマ「サムライ」というキーワードをどう表現していくのか?」(公演チラシより)という企画だ。
 40分×3劇団=120分を一気にみせ、観客の投票によって選ばれた団体には賞金100万円が進呈されるという、なかなか豪気な試みである。スクエア荏原は客整数360あまり、紀伊國屋サザンシアターに似た雰囲気の立派なものだ。
 参加団体の演目は、上演順に以下のとおり。

劇団チョコレートケーキ (1,2,3,4
 古川健作 日澤雄介演出 『〇六〇〇猶二人生存ス』
 太平洋戦争末期、海軍の特攻兵器として開発されたのが人間魚雷「回天」である。昭和19年9月6日、2人の海軍大尉が訓練中に回天に閉じ込められた。実際に起こった事故をもとに、極限状態に置かれた人間の最後の時間を描く。

☆JACROW (1,2,3,4,5,6,7,8,9
 中村暢明脚本・演出 『刀と天秤(はかり)』
 1997年に起きた「東電OL殺人事件」を芝居にしようとしている劇作家が登場し、彼が進行役となって、事件の真相に迫る。

電動夏子安置システム
 竹田哲士作 中山隼人演出 『召シマセ腹ヲ』
 電動夏子安置システムは今回が初見となった。劇団ウェブサイトによれば、「ロジックコメディ」と称される手法が特性とのことだ。まったく想像のできない劇団名の由来など、主宰である竹田哲士の挨拶を読んでもよくわからないのだが(苦笑)、「哲士」というお名前は、近所の神社の神主さんがつけたという結びには妙に納得できたり。

 保守本流を掲げる「新党もののふ」は、わずか5名の弱小政党である。通常国会の会期中、党幹事長である国防大臣が過激な発言を連発、さらに対立する大臣の公用車と交通事故を起こしてしまう。火消しに躍起になる党事務所に、どうみても中華の出前のような男がいる。

☆『〇六〇〇猶二人生存ス』
 脱出不可能と知った2人の大尉は、この事故を今後の回天の開発に役立てられるよう、遺書がわりの記録を記した。タイトルは午前6時零分、なお二人は生きているという意味である。
 ステージ上手に回天内部に閉じ込められた大尉たち(西尾友樹、岡本篤)がほぼ動かず、下手には回天の整備士(浅井伸治)が立つ。出発前の大尉たちと整備士の会話、敗戦を迎えた日のことなどが交錯しながら、刻一刻と死に近づいてゆく様相を描く。
 こちらまで息苦しくなるような物語だが、2人の大尉はほとんど取り乱すこともなく、端然と死を迎える。しかしそのことが、これから回天に乗りこまんとする後輩たちにどのような影響を与えたかという複雑な投げかけも含むのである。
 死に赴く人と、生きつづけている人が時間と空間を異にしながら交わる様相を、もっとみたい気がした。また今回の劇場は広過ぎたのではなかろうか、3劇団のなかでは残念ながらマイナス面を際立たせてしまった。
 回天の2人の台詞はマイクを通しているように聞こえたが、それでも聞きとりにくいところが多かった。たとえばリーディングというかたちでの上演など、ぜひもう一度出会いたい演目である。

 

 ☆『刀と天秤(はかり)』
 当日リーフレットには3つの劇団主宰の挨拶文や作品説明などが掲載されている。本作については、この作品説明の段階で何度もつまづくことになった。
「(事件をモチーフに)被害者渡邊泰子を描きます」の一節。たしかに殺されたのであるから、彼女は被害者である。しかしこの段階で被害者と括るのは種明かしをすること、舞台をみる観客が想像しようとるす意欲を削ぐことになりはしないか。また同劇団の公演においても、どうようの記述を何度か読んだ記憶があるのだが、被害者の冥福を祈り、事件の早期解決を願うという結びである。実際に起こった事件をもとに演劇をつくるとき、事件に巻き込まれ、関わった方々に対して謙虚な姿勢でのぞむことは大切だ。しかしこの一連の文章を、筆者はすんなりと受けとめることができない。なぜここで言ってしまうのか。
 というのは、じっさいの舞台から冥福の祈り、被害者への供養、解決への願いといったものが感じられないためである。ないからだめだというのではない。なくてもいいのではないかとすら思う。かんじんなのは、実際に起こった事件を作り手がどのようにとらえ、舞台に構築しようとしているのか、何を伝えたいか、訴えたいかである。

 劇中、主人公(蒻崎今日子)は舞台上で何度も衣裳を着替える。そのたびに黒い下着すがたをさらし、ときにはその格好のままで母親と会話したりする。なぜこういう見せ方をするのか。劇の進行役をつとめる劇作家の扱いにも疑問がわく。彼は事件の概要や主人公の家庭環境などを要領よく解説し、「ではこれからその場面をはじめます」と言って袖に引っ込む。「照明さんお願いします」とスタッフに指示を出したり、衣裳を替えて劇中の人物として登場するところもある。舞台上で着替えるとき、客席に向かって、「ちょっと失礼します」と断ったりする。そのひとつひとつに筆者はつまづき、終幕で劇作家が主人公に向き合って、「あなたは幸せですか」と問いかけたのにも著しく興を削がれた。

 作者は演劇において、何をみせようとしているのか。何をしたくて経済効率の悪い演劇をつくっているのかを根本から考え直したほうがよいのではないか。作り手がやろうとしていることと、こちらが求めていることの「ピントのずれ」が大きすぎる。リアルな表現を追求し、濃厚な空気を観客にも体験してほしいなら、劇の構造はもちろん、俳優の演技、人物造形など、さまざまな面において、もっと深い掘り下げ、違う方向から描くことが必要だ。何より作り手はもっと気持ちを抑制して、観客の想像力を喚起させてほしい。

☆『召シマセ腹ヲ』
 40分がもっとも短く感じられた演目である。ドリフターズを連想させるドタバタコントがこれでもかと炸裂する。新党もののふの幹事長の問題発言や対抗政党の大臣との交通事故に愛人スキャンダルが絡み、謎の出前男の正体など、話はなかなか複雑だ。早口の台詞のせいもあり、おそらく正確に理解、把握できなかった。3劇団のなかでは、もっとも会場に適したつくりの演目だっただけに残念だ。

 頼りない3人の政務官が、女性広報官に作らせた想定問答のメモを見ながら会見する場面は圧巻であった。これには広報官の策略があって、会見は大混乱に陥る。最後の最後、与党副幹事長から「きみ、次の選挙にウチから出ないか?」と打診され、広報官が「お願いします!」と最敬礼した瞬間、いや一瞬早かったか、一気に幕を閉じる手並みに舌を巻く。
 この劇団さんはぜひ本公演を拝見したい。
 

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