因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

アロッタファジャイナ番外公演『かもめ』Bチーム

2014-02-27 | 舞台

*アントン・チェーホフ原作 松枝佳紀翻案・演出 中田顕史郎ドラマターク 公式サイトはこちら 渋谷ギャラリー・ルデコ4F  3月2日まで アロッタファジャイナ公演の記事(1,2,3,4,5,6
 このブログに記録のある『かもめ』は(1,2,3) 。今年の芝居はじめが東京乾電池の『かもめ』であり、早くも2度めの『かもめ』を体験できるのは幸せなことである。

 公演チラシ掲載の出演俳優はAチーム、Bチームそれぞれ6名である(アルカージナとマーシャをのぞいてダブルキャスト)。主だった人物だけでも4人、料理人や小間使いなどはまるまるカットされている。また「~21世紀になり全面化しつつある中二病は何によって癒されるのか、あるいはついに癒しえないのか、に関する一考察~」という長いサブタイトルがつけられており、今回のアロッタ版『かもめ』に込めた作り手の情熱が強く伝わってくる。

 登場人物が減ると、その人物の台詞をあとの6人が話すことになる。台詞の話し手が変われば台詞の意味もニュアンスも物語の方向も変わらざるを得ない。その変化を引き受けたのがマーシャとメドベージェンコであった。

 メドベージェンコは『かもめ』の本筋に強く関わらず、恋愛や結婚による幸せや仕事の成功など、人生の多くの面において「諦めて下りている」人、ライバル意識や競争心を抱かない、少なくとも表面には出さない人というイメージがある。
 マーシャのトレープレフへの思いはもはや病気であり、別の男性と結婚しようと遠くへ転勤しようと治る見込みはないと思われる。トレープレフは彼女を全く意に介さないのでメドベージェンコとして恋敵にどうこう言えない。それが今回は後半のある場面において、冷たいトレープレフに対し彼は、「マーシャにもっと優しくしてくれないか」と喧嘩腰で言う。
 原作ではマーシャの母親が、自分も同じく夫以外の男性への片恋の苦しみを抱えながら、「お願いだからこの子にもっと優しくしてやって」と懇願する。
 同じ台詞でもちがう人物が言えば、意味も目的も印象もすべてが変わってしまうのだ。それはこの場面だけに終わるものではなく、ひとつが替わればそれがぜんたいによくも悪くも影響を及ぼす。新しい演出や解釈には両面あって、未知の劇世界の構築がかなう場合もあり、壊してしまうこともあり得る。
 この場面で言えば、メドベージェンコという人物のある一面を表出させ、マーシャとトレープレフ、メドベージェンコの三角関係の一端を描いた一方で、ここまでメドベージェンコに強い主張をさせたことの余波を、ほかの人物やあとの場面がじゅうぶんに受け切れていたかどうかは判断がむずかしい。

 終幕、二―ナが出て行ったあと、トレープレフは自分の原稿を破り捨て、奥の部屋へゆく。アルカージナとトリゴーリン、マーシャが賑やかに部屋にやってくると奥から銃声らしき音。一同に緊張が走る。客席の自分も緊張した。最後の場面にアクションを起こし、台詞を言うドールンがアロッタ版にはいないのだ。マーシャが動くしかない。彼女はトレープレフのデスクに破られた原稿を見て少し顔色を変えており、その時点ですでに何らかの予感をしていたと想像する。しかしあくまでも冷静に「わたしがみてきます」と奥へゆき、戻ってくる。「やっぱりそうでした。エーテルの瓶が破裂して。子どもがいたずらをしたんでしょう」と告げ、話があると装ってトリゴーリンをアルカージナから遠ざけ、トレープレフの自殺を告げるのである。
 一連の流れに大きな綻びはなく、自然にみることはできるだろう。しかし非常に細かいことを言えば、戻ってきたマーシャが「やっぱりそうでした」と言うには、奥の部屋へ行く前にそれを裏づける台詞が必要であろう。ドールンのいかにも医者らしい「きっと僕の薬カバンのなかで何か破裂したんでしょう」という台詞をそのままマーシャに言わせることはできず、といってマーシャにしっくりする新しい台詞をつくるのはむずかしい。
 この場にメドベージェンコがいれば、もう少し自然になったかもしれない。しかしそうするためには、妻に「うちへ帰ろうよ」と懇願する場面をどうにかしなければならない。

 むずかしいなあ・・・と思いつつ、このように頭のなかであれこれ考えることがいつのまにか楽しくなっていることに気づいて少々たじろいでいる。松枝マジックにはまってしまったのだろうか?この記事はおもに翻案面や演出面についての記述にとどまるため、作り手が狙った「中二病」のことばが象徴する日本の今という面をどうとらえるかはこれから考えたい。
 公演パンフレット「アロッタ版『かもめ』を楽しむための12の証言」(500円)には、出演俳優全員と制作者と松枝佳紀との対談が丁寧にまとめられてい る。それを読むと創作段階の苦労は並々ならぬものであったが、やがてそこに喜びを見いだしていっそう励んだことが伝わってくる。皆さんよい体験をなさった のですね。客席から祝福を贈りたい。

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小西耕一ひとり芝居第四回公演『蜜月の獣』

2014-02-26 | 舞台

*小西耕一作・演出 公演情報はこちら 東中野RAFT 3月3日まで (1,,2
 開演前の楽しみは、当日リーフレット掲載の「ご挨拶」である。いつも小西耕一自身の過去、それも恋愛体験がことこまかに綴られており、芝居をみる前に読んでしまってよいものか、しかしおもしろくて途中でやめられないというジレンマに陥る。
 今回は小西ふくめ3人の俳優が出演するから、「男女の三角関係のドロドロの愛憎劇に違いない、きっと小西さんもそんな実体験が」と勇んでRAFTに向かったのだが、内容についての記述は控えめで、「小西耕一ひとり芝居」をはじめたきっかけや、ユニット名に込めた思いなどが記されている。
 第一回と第二回公演はユニット名の通りひとり芝居をやったのだが、第三回のとき「次は二人芝居がやりたいなあ」と思い、小西耕一ひとり芝居という名前はそのままに二人芝居を上演したという。第三回公演が二人芝居と知ったとき、「あれ、ひとり芝居なのに」と戸惑ったのはたしかである。しかし菊地未来と共演した『破滅志向』は、まぎれもなく「ひとり芝居」だと実感できるものであった。
 そのために、「小西耕一は、ひとり芝居というジャンルを敢えて枷にした独自の劇世界を構築しようとしているのだ」と認識するに至った。しかし今回の挨拶文には、「なんかもう本当にすみませんって思いました」と記されていて、「小西耕一ひとり芝居」というユニット名をもっと自由にのびのびと捉えてよいのではないかと思われる。

 1983年生まれで同い年のケンジ(河西裕介/国分寺大人倶楽部)、ショウヘイ(小西耕一)、ミツコ(宍戸香那恵)の3人が、一筋縄ではゆかない三角関係をくりひろげる90分だ。

 登場人物の背景や、それが相手に及ぼす影響など、話の流れはなかなか複雑で先が読めない。それが舞台をおもしろくもし、同時にわかりにくくもしている。いやすべてが明確に理解できればよいわけではないのだが、個々のエピソードなどをもう少し交通整理することもできるのではないだろうか。

 たとえばミツコがはたちのときに体験したことを語る場面である。バイトをしていたスナックのママとの会話じたいは興味をそそるもので、劇作家としての腕が凡庸でないことを控えめに示している。しかしそこからママの常連客がミツコにどんなことをしたかという話の流れがいまひとつしっくり来ない。台詞を聞きのがした可能性もあるが、やや不自然に思えるのだ。ただこの場面で流れるピアノの曲が非常に美しく、そのなかで淡々と語るミツコは痛ましくもぞくぞくするほど魅力的で、多少の疑問は消えてしまうのだが。

 気になるのは、ケンジの妻、ミツコのりょうほうが非常に辛い体験をしているという設定である。女性にとって有無を言わせぬ災難であり、絶対的な不幸不運だ。これを出されるとその人物がよくも悪くも固定されてしまい、俳優の造形や劇の展開に「縛り」をもたらすのではないか。また男性の視点による女性のその種の体験の描写は、その体験がどうであったか、それによってどのように傷つき、どれほどの影響を及ぼすかというもろもろにおいて、「何かがちがう」と思わされるのである。これは筆者自身のつまらぬこだわりや偏見かもしれないのだが、やはりこの手はぎりぎりまで使わないでほしいのだ。

 疑問や困惑を感じたところを重点的に書いてしまったが、まさに小西耕一独自の劇世界は公演を重ねるごとに力が増し加わっており、あとどれくらいこの魅力的なお芝居が続くのか、しかしあと何分とわかってしまったらつまらない・・・と時計で時間をたしかめたい、たしかめたくないと葛藤する幸せな観劇となった。決して後味のよい話ではないにも関わらず客席の雰囲気は温かく、ひとり芝居が劇場にも観客にもなじんでいることがわかる。

 ふたりの共演者、スタッフをはじめ、よき理解者協力者に恵まれて、よい手ごたえの初日だったのではなかろうか。早くも7月に第五回公演が行われる。出演者募集のワークショップも開催されるというから、今度はいったい何人芝居になるのだろうか。
 いやもう何人でもよい。小西耕一ひとり芝居、どうかこの意気で。

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elePHANTMoon#13『成れの果て』

2014-02-21 | 舞台

*マキタカズオミ作・演出 公演特設サイトはこちら1,2,3,4,5,6,7,8,9,10
 2009年初夏の本作初演が自分とマキタカズオミ作品の出会いであった。
 舞台設定や物語の流れ、登場人物の配置や造形のことごとくが、これまでほかの舞台でみたことのないざらついた不快感を醸しだす。いま目の前で起きていることの要因になった過去の事件がヒルのようにまとわりつき、離れない。よどんで腐臭を放つ泥沼のごとき劇世界に一輪の蓮の花のごとく、はかなげで清らかな姉のあすみ(津留崎夏子ブルドッキングヘッドロック)が終盤に痛ましく変貌する衝撃は、いまだに忘れられない。
 マキタカズオミの作品をみるようになってから、自分の演劇に求める方向性が確実に変容した。ねじくれたもの、汚いもの、救いのないものにより強く吸い寄せられる。醜悪で陰惨だが、決して「人はこの程度にキタナイものなんだよ」と開き直っているわけでもなくく、ことさら偽悪的、露悪的になっているわけでもない。
 マキタカズオミの魅力は何か。もっと知りたい、考えて書きたい。その気持ちを強く掻きたてられる。まさに「演劇的希望」を与えられたのである。

 今回の再演は物語や人物の設定など、基本的なことは初演とほとんど変わりないと思われる。変わったのは配役である。劇団員(菊地奈緒、江原大介、永山智啓)は初演と同じ役を演じるが、そのほかはすべて新しい俳優が演じることになった。とくに姉のあすみ役に山田佳奈(劇団ロ字ック 1,2,3)、妹の早代に川村紗也が配されたことは、演じるご本人はもちろん、迎える劇団員にとっても挑戦だったのではなかろうか。
 初演で姉のあすみを演じた津留崎夏子にぞっこん参ってしまった自分にとっては、山田佳奈の配役は正直なところ不安もあった。タイプがまるで異なると思われたからである。

 不気味な音楽が高まって客電が落ち、舞台にあかりがつくと、居間にひとりで座ってプリンを食べているのが山田佳奈である。しばらく台詞はない。行儀よく、カップの底についたカラメルを丁寧にすくって食べているその様子、化粧気のない顔に髪型も服装も構わないその風情は、観劇前の懸念をすべて吹き飛ばすものであった。

 人が人と出会うとき、定めとしか言えないほど逃れられないものがはたらく。その出会いは本人どうしはもちろん、周囲の人誰にも幸せをもたらさない。なのに離れられない。
 姉のあすみと妹の早代、そして姉妹に深く関わる布施野(永山)の3人が、まさに宿命としか言えない関係だ。相手に対して単純に好きとか嫌いなどと括れない感情があり、何を言っても相手を傷つけ、自分もまた後悔にさいなまれる。そんな3人が行きつく先、題名のとおり「成れの果て」が描かれる1時間50分である。

 あすみを演じた山田佳奈がすばらしい。「女優開眼」とは、こういうことを指すのではないか。主宰する劇団ロ字ックではまったくみせない顔、観客が知らなかった表情をみせる。いかにも幸薄い女、不幸が似合う役柄というのは、観客に強烈に刷り込まれたイメージがあるものだが、山田はそのどれにもあてはまらない。複雑で陰影に富み、どうしてそんなに穏やかでいられるのか、ほんとうは何を考えているのか、観客の安易な思い込みや予想を少しずつ裏切り、最後に恐ろしいまでの変貌をとげる。
 しかしあの顔とても、あすみのほんとうの顔ではないのではないか。

 というより、あすみに限らず人々が舞台で観客にみせている顔は、その人の心のほんの一部に過ぎないのだ。たとえば姉妹のおさななじみの竹内(寺井義貴/ブルドッキングヘッドロック)は、人物のなかではほとんど唯一といってよいほど善良で心やさしい男性のように描かれているが、職場になじめないと悩む中尾(後藤ユウミ)に、こっそり姉妹の過去を教え、ちゃっかりと関係まで持つ。この話なら町じゅうの人が知っているから、仲間ができるよということなのだ。子どものころからずっといじめられてきた彼が身に着けざるを得なかった処世術なのだ。
 人の心の弱く醜いところをここまでみせることはないじゃないか。ああ嫌だなあ。そう思いつつ、あすみに罵倒されたあとの竹内の表情から、彼の気持ちがまことに読みにくいことにぞくぞくするのである。竹内はきっとまた何かをする。そうやってこの町で生き延びてゆくのだ。

 『成れの果て』は盤石の劇団員と新しい客演陣によって、いよいよ深く激しく観客を魅了するものとなった。そしてこれほどまでに後味のよくない物語でありながら、自分はまことに晴ればれと幸せな心持ちで劇場をあとにした。
 マキタカズオミによって今回もまた自分は変えられたのである。

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劇団民藝『蝋燭の灯、太陽の光』

2014-02-19 | 舞台

 *テネシー・ウィリアムズ作 吉原豊司翻訳 高橋清祐演出 公式サイトはこちら 紀伊國屋サザンシアター 25日まで (1,2,3,4,5,6,7,8,9,10
 無名時代のテネシー・ウィリアムズが、1937年セントルイスのアマチュア劇団「ママーズ」のために、本名のトーマス・ラニア・ウィリアムズで書いた戯曲が本邦初演の運びとなった。本作にはジョセフ・フェーラン・ホリフィールドという共作者の存在があり、彼が書いた『ランプ』という一幕劇をベースに、ウィリアムズが長編戯曲に仕上げたと言われている。原稿が散逸していたために作品が出版されたのは2004年、それも元劇団員のひとりが持っていた上演台本がたまたま見つかったためだという。作者が亡くなって21年後のことである。

 1927年からおよそ10年間のあいだ、アメリカはアラバマ州の炭鉱で、ある炭鉱夫一家と彼らをめぐる人々が貧困と過酷な労働、相つぐ炭鉱事故と会社の搾取に苦しみながら、懸命に生きる様相が描かれる2時間30分の物語である。

 原題は「Candles To The Sun」だが、この「To」のもつ意味は非常に深く、作者が示そうとしたこと、託したいと願ったことがまさにこの一語に集約されていると思われる。
 邦題の『蝋燭の灯、太陽の光』は覚えにくいこともあって、正直なところあとひと息しっくりこない印象があった。しかし公演パンフレット掲載の翻訳の吉原豊司の寄稿からは、翻訳者が作品を掌中の珠のように慈しみ、何とかして原作者の心を伝えようと誠心誠意向き合ったことが伝わってくる。演出の高橋清祐に寄せる信頼も強い。

 石炭掘りひとすじに生きてきたブラム(千葉茂則)は仕事に誇りをもつ亭主関白な男だが、妻のヘスター(箕浦康子)もなかなか勝気で家を仕切っている。夫婦には息子のジョン、娘のスター(桜井明美)がいる。ジョンは数年前に家出したきり音信不通、スターも父親に逆らって恋人のもとへと走る。ブラムは暗い穴ぐらでの仕事がたたり、目が悪いらしい。
 早朝の食事にはじまる夫婦のやりとりは毎日の日常の一こまであるが、そのなかにこの一家が抱えている問題、日々の不安、相手への不平不満がじつに自然に織り込まれていて、観客を一気に劇世界に引き寄せる。

 彼らの住む町は炭鉱によって成り立っている。買物できる店は1軒だけ、それも炭鉱会社が発行する金券しか使えない。生活のすべてが会社に支配されているのである。あきらめて黙々と従うか、いつかこの町を出ると決め、わき目もふらずに働くか、この事態を変えようと命がけで社会に立ち向かうか。
 いろいろな考え方の人々がぶつかりあい、そのたびに悲しみや苦しみを味わいながら決断し、行動を起こす。大切な家族の幸せを一心に願う心が小さな蝋燭の灯なら、そこから周囲の人々のこと、ひいては町ぜんたい、社会ぜんたいのことを、太陽の光がこの世を照らすように考える。題名が示す作者の願いである。

 その象徴がブラム一家の長男ジョンの未亡人ファーン(日色ともゑ)だ。夫に先立たれ、幼いその忘れ形見ルークを連れて、一度も会ったことのない夫の両親の家を訪れる。雨に濡れて疲れ切ったその姿に心を打たれ、それまで「そんな女はぜったい受け入れない」と頑なだった母親のヘスターは孫を抱きよせてすぐ、初対面のファーンに同じ気づかいをみせる。
 不自然なところのまったくない、心からの行動だ。ファーンを一目見て、裏表のないきちんとした女性だと見抜き、それまでの激しい怒りや疑念をすべて捨て去った瞬間である。
 ファーンはその登場シーンで勝気なヘスターをそうさせるだけの何かがある女性だと、客席に示さねばならない。母親が息子の妻に求めるのは、息子を心から愛すること。それに尽きるだろう。ファーンはジョンを愛していた。それがわかったからこそヘスターは彼女を受け入れたのだ。日色ともゑの佇まいや声は控えめだが、ヘスターの豹変が不自然にみえないだけの魅力をみせる。ヘスターを演じた箕浦も一筋縄ではゆかない複雑な感情を辛抱強く、しかし自然に(ここがすごいと思うのだ)みせて心を打つ。
 ベテラン俳優の技術や経験値だけでなく、作品そのものから力を得てのあの演技ではないだろうか。失礼ながらお二人とも役柄が設定された年齢からはそうとう年を重ねておいでのはずだ。しかしそのギャップをまったく感じさせない。無理な若づくりなどという小細工を一切せず、自分を作品にぶつける、あるいは委ねる、そして強く信じることが産んだ演技ではないだろうか。

 ベテラン、中堅、若手が心をひとつにして取り組んで堅固な舞台を作り上げた。劇団の財産演目になる可能性をもった作品であり、初演から80年が過ぎた今でも観客の心に強く訴えかける力がある。観客もまた心を新たにして向き合いたい、そう感じさせる舞台であった。

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水素74%vol.6  田川啓介作・演出『荒野の家』

2014-02-08 | 舞台

*田川啓介作・演出 公式サイトはこちら こまばアゴラ劇場 16日まで 3月8日、9日は大阪市立芸術創造館でも公演あり (1,2,3,4,5,6,7,8,9,10) 観劇日は批評家の佐々木敦氏と田川啓介氏によるアフタートークがあった。司会進行は演劇研究・批評の山崎健太氏。
 今回は家族の物語である。10歳のときに母親のふるまいに傷ついて引きこもりになったまま30歳になってしまった息子と困り果てる両親、嫁いだものの帰って来た娘、彼女を追ってくるその夫、義父の世話に嫌気がさして「うちのお父さんの面倒をみて」と家に乗りこんでくるとなりの主婦、息子を更生させようと父親が連れて来た登山スクールの校長とスタッフ。
・・・と書いてみると、いかにもありそうな話ではある。ドラマや映画などのフィクションでも、現実の社会にも。

 これまでの田川啓介の作品を思い浮かべると登場人物の人数が多い。しかも3人以上の会話がもつれたり、相手の話を遮って自己主張したり、まったく無視したりなど、重なりやずれの多いやりとりが展開する約90分である。

 俳優の配役のバランスは絶妙で的確、それぞれの個性や持ち味を受けとめた上で役柄の特質をきちんと反映させた丁寧できめ細かい演出がなされている。俳優のちょっとしたからだの動き、声の色合い、表情の変化などが巧みで、どの人物からも目が離せない。

 しかしそれにも長短があって、俳優の巧みな演技をみることは確かに嬉しいのだが、そこで笑ってしまってよいのだろうか。たとえば父親が山梨にある登山スクール(あからさまに戸塚ヨットスクールを模している)の校長とスタッフを呼んでからのやりとりである。
 登山スクール側の芝居の巧いことといったら、これはもう舌を巻くほどである。居丈高な校長、かつては悩める人であったというスタッフも、そうとうに細かい演出がつけられていると察するが、みごとに応えている。
 だが「ここであっさりおもしろがってしまっては何かを見失うのでは?」と不安にかられる。観劇日は一部のお客さまが大笑いしておられ、その素直な反応にもとまどいがあった。おもしろいのだが、笑えない。自分は笑うためにここに来たのではない、というか。

 ならば何をしに来たのか。この日のアフタートークゲストの佐々木敦のことばをお借りすれば、演劇をみる喜びを求めて来たのである。佐々木氏の演劇をみる喜びは、筆者が求めているものとはちがうところもあるが、微妙に重なる部分もある。
 物語の家族の様相や設定は、リアルでありながらリアルでないところがある。子どもが引きこもりになり、夫婦仲もぎくしゃくし、周囲からも孤立したまさに「荒野の家」という状況は、じゅうぶんに想像できるものである。
 舞台の家族は、テレビドラマでも映画でも、ドキュメンタリーやさまざまな報道など、どこかでみたことがある雰囲気をつくっている。しかし冒頭から「コーラを買ってきて」、「お母さんは行かない」という母と息子のやりとりは、ありそうにみえてどこかヘンである。
 そのどこがヘンであるのは、何にくらべてヘンなのか、どのあたりがヘンなのか・・・などに思いをめぐらせることが本作の魅力であり、まさに演劇をみる喜びなのではないか。

 問いがあり、それに対する答を求める方向性を示す舞台ではない。かといってトークで佐々木氏が指摘されていたと記憶するが、「観客に委ねているわけでもない」ので、個々の場面の鋭さや活きの良さはいいとしても、あの終わり方をどう判断するのかはむずかしいところである。放り出したようでもあり、観客が困惑するのをわかっていながら敢えてこうしたのか、もっと作為的な意志をもって「わざと」こうしたのか。

 自分の受けとめ方もまとまっておらず、もやもやと煮え切らない気分がつづく。わかりやすい結末や結論がほしいわけではないが、あとを期待させるにせよ、もう一歩何かが必要なのではないか。具体的に言えば、となりの主婦と娘の夫(妻から犬扱いされている)は、もっと活かせる。劇作の技術をみせるのではなく、観客が演劇をみる喜びと言えるような何かを得られる作品が、田川啓介という人にはきっと書けると思うのである。

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