因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

劇団コルモッキル公演『満州戦線』

2015-03-30 | 舞台

*朴根亨作・演出 Alice Festival2014参加作品。大阪のMay『零度の掌』と、ソウルから来日のコルモッキルの交互上演 新宿タイニイアリス 29日で終了 
 1940年代の満州国の首都新京に、朝鮮から満州国陸軍軍官学校に留学して卒業した飛鳥を祝う同胞たちが集った。医師の木村、木村と将来を誓い合い、キリスト教の伝道に情熱を注ぐ尚美、文学を志す金田、市役所の公務員として働くヨシエたちがにぎやかに祝宴をはじめる。そこへ飛鳥の妹の慶子も訪れるが、歌手になりたいと夢を語る妹に飛鳥が激怒したり、ヨシエが日本人上司と不倫関係にあり、子どもを身ごもっていることなどが明かされ、祝宴は険悪な雰囲気に。

 満州国は、昭和6年(1931年)満州変勃発を機に、日本の関東軍の主導によって作られた国である。本公演の当日リーフレットには、「(満州国は)建国にあたって、自らを満州民族と漢民族、モンゴル民族からなる「満州人、満人」による民族自決の原則に基づく国民国家であるとし、建国理念として日本人・漢人、朝鮮人、満州人、蒙古人による『五族協和』を掲げた」とある。1905年から日本の統治下におかれた朝鮮からは、多くの抗日運動家や農民が満州に渡ったとのこと。
 『満州戦線』に登場する朝鮮人の若者たちは、みな日本名を持ち、その名前で呼び合う。ほぼ全編朝鮮語による上演で、舞台上部に日本語の字幕がつく(翻訳・字幕制作は石川樹里)。時おり日本語が発せられるのがどのような意図をもつのかはわからない。彼らには立派な軍人になること、医療者として多くの患者を救うこと、優れた詩を書くこと、キリスト教の伝道など、それぞれに夢を持つが、すべては日本人と同じようにこの満州国での地位を得ることにつながっているらしい。
 丸刈りの頭と軍服の似合う飛鳥は彼らのヒーローであり、夢の象徴なのである。

 満州国とえば、敗戦まぎわにソ連軍に侵攻され、関東軍に置き去りにされた日本人の塗炭の苦しみを描いた文学や映像作品の印象があまりに強烈で、同じ国で生きた朝鮮の人々のことを知ったのは、まことに不勉強ながらこの作品がはじめてであった。歴史はさまざまな方向から光を当て、考えなければならない。

 ヨシエが家庭のある日本人上司とのあいだに生んだ子、その孫が本作の軸となり、物語を導く。人間関係と人物の設定、配役との関係が少しわかりにくいが、詩人の金田役の俳優が、生まれた子のそのまた息子を演じ、父と祖父や祖母たちの物語を語るという趣向である。俳優は40年代の場面では首に赤いスカーフを巻き、客席に向かって現代の私として父たちのことを語るとき、スカーフをはずす。
 血のつながった祖母ヨシエは、日本人との不倫の果てに父を身ごもり、取り上げたのは医師の木村である。飛鳥は生まれた子を慶州李氏の籍に入れ、飛鳥の妹がその子を育てた。木村の恋人の尚美も子育てに加わったので、現在の私には、産みの祖母だけでなく、育ての祖母、育ての祖父が何人もいたのである。祖母たちを語る現在の私の台詞に、「私はいまだに○○おばあさんの本名を知らない」ということばがあり、日本による創氏改名の命令のために祖国の名を失った悲しみが伝わってくる。

 このような内容の物語であるから、終始重苦しいのかといえば決してそうではない。クリスマスに教会で「聖劇」の企画を立てた尚美は、日本人の子をみごもったヨシエを聖書に登場する姦淫した女役にしたストーリーを考案、友人たちも大乗り気で歌あり踊りありの劇になるのだが、果たしてこれがキリスト教の伝道にふさわしいかどうかは大いに疑問である。主役を演じたヨシエは観客の喝采を浴び、会場では不倫相手の上司も涙して観劇していたというから、どこまで本気の、というかどういう方向性を持った聖劇なのか。また実に清廉な印象の医師木村は、恋人の尚美がいるにもかかわらず、物語終盤になって「とうぶんうちには帰らない」と言ってそそくさと去ったと思ったら、勤務先の病院の上司の娘の婿になったというナレーションに唖然としたりする。

 終幕は舞台に重々しく「君が代」が流れ、この物語をどう受けとめればよいのか戸惑いながらも、1940年代の満州国で、朝鮮の若者たちが熱く激しく交わったこと、その流れが連なって「現在の私」が、2015年の春、新宿タイニイアリスの舞台から日本の観客に語りかけることの意味を考えた。
 ずっしりと中身のつまった濃厚な舞台でありながら、みる者それぞれが多様な切り口で味わうことが可能なゆとりというか、おもしろみをもつ作品である。

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May's frontview Vol.34『零度の掌』 

2015-03-29 | 舞台

*金哲義作・演出 公式サイトはこちら Alice Festival2014参加作品(1,2,3,4,5,6,7,8)29日で終了
 ソウルの劇団コルモッキル公演『満州戦線』との交互上演で、Alice Festival2014の掉尾を飾る。
 2013年のおそらく秋のことだろう。大阪で暮らす在日朝鮮人ソンフォが、北の祖国に旅をする。在日韓国人である妻に手伝ってもらいながら、北で暮らす親戚たちのために、衣類や食糧、現金など持てるだけの荷物を用意する場面にはじまる物語である。北朝鮮行きの飛行機の搭乗口は空港のはずれにあり、ソンフォはともに旅立つ老女や老人たちを気づかいながら長い通路をひたすら歩く。ソンフォ役の柴崎辰治以外の俳優が、手に仮面をもって顔を隠し、腰を曲げたゆっくりした歩みで老人を演じる。今回のソンフォの帰国は高校生のときから24年ぶりになるのだが、親戚との再会への期待というより、どこか不穏な空気が漂う。
 やがてソンフォは、自分たちを出迎えたアンネウォンと呼ばれる北朝鮮の案内員や、サチョッチェギンブと呼ばれ、在日が北朝鮮訪問時に親戚や友人との面会などの世話係、つまり同胞たちとのやりとりに神経をすり減らすことになる。

 漠然と「在日」「コリア」としか捉えていなかった自分は、祖国が南北に分断されたことの想像の及ばないほど深い悲しみ、それでも熱く生きていくことを、Mayの舞台から学び、感じとってきた。血と祖国。これが金哲義の、そしてMayが作りだす舞台のキーワードである。家族の情愛を軸にしたややドタバタ風のコメディであっても、祖父母から三代に渡る重厚な大河ドラマ風であっても、血と祖国が描かれていることに変わりはない。いまさらながらすごいと思うのは、じつに単純な表現になってしまうが、どの作品もちがうことである。また血と祖国の話かと辟易したことは一度もない。劇作家にとってそれほど重く深い課題であり、どうしても書きたい、書かなければならないことなのである。

 ぜんそく持ちのソンフォが、10日間の滞在期間中に何度も傷つき、消耗してゆくさまは非常に痛ましい。それでも日本にいる妻との国際電話で、漫画家のやなせたかしが死んだことや、「笑っていいとも!」が終了することを聞かされて嘆いたり、驚いたりする場面に救われて、問題をただ重く前面に出すだけではない金哲義の作劇の巧みなることに気づかされる。

 物語がはじまったとき、ソンフォが北の親戚と再会する場面が作品の中心になると予想した。祖国に到着した早々から彼はさまざまなことに巻きこまれ、利用され、困惑と疲労を深めていく。その頂点で、親戚に再会するタイミングとなる。ソンフォは再会の様子を淡々と語る。持参した金の分配に不満をもつ親戚が怒って席を立とうとしたところを、べつの親戚が激しく止め、こう一喝したというのだ。「ソンフォをもてなすのは国家の意志だ」。
 国家の意志。そこにひとりの人間の、相手に対する心はないのか。

 親戚との再会をソンフォの台詞だけで示したことは、自分のなかでもまだ落としどころがみつかっていない。金哲義の筆の力があって、それを信頼する俳優陣の技量をもってすれば、二役や三役で親戚たちを演じることは可能なはずだ。そこをなぜ台詞だけにしたのか。ソンフォの台詞は決して長くないため、説明台詞には聞こえない。これを独白形式にすれば、もっと長く、しかも劇的に表現することもできる。しかしソンフォは、これだけ話すのがやっとというほど傷つき、疲れ果てている。再会の夢が裏切られたことは辛く悲しいことだろう。話したくない、しかし黙って抱えているのも辛い。ソンフォの悲しみがそくそくと伝わってくる。

 10日間の滞在を終えて人々は日本へ戻ってきた。出発と同じように到着ロビーから空港の長い通路をひたすら歩く。顔に仮面をつけた何人かの老人たちと、ソンフォはうつむいたまま黙々と歩く。どうか顔を上げて!思わず声をかけたくなった。彼がどんな気持ちで歩いているのか。自分がどれほど知識を得て考え、想像したとしても、理解すること、共感することは困難であろう。かんたんにわかる事柄ではない。しかしMayの舞台に出会ってからの自分は、それでも知りたい、近づきたい、感じとりたいと願うようになった。
 しかも観劇を重ねるごとに、以前よりわかるようになったわけではなく、正直に言えばますますわかりにくくなるのである。いや、わかるわからないで考えないほうがいいのだ。毎回Mayは全力でいろいろな球を客席に投げてくる。直球あり変化球あり、予想がつかない。それを受けとめる。登場人物たちの饒舌なやりとりに身を乗り出して聞き入りながら、それでもなお聞こえてこない何かに耳をすませよう。

 タイニイアリスの閉館によって、Mayの東京での活動が案じられたが、8月28日~30日に阿佐ヶ谷のシアターシャイン10周年記念提携公演として、新作の『メラニズムサラマンダー』が上演される由、嬉しいことだ。また5月2、3両日は中野富士見町のplan-Bで、金哲義と劇団タルオルム主宰の金民樹が結成したふたりユニット「unit航路-ハンロ-」の2年間を追ったドキュメンタリー映画『航路/ハンロ』が特別上映が決まっており、自分のMayへののめり込みはますます強くなりそうだ。

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パルコ劇場『趣味の部屋』

2015-03-25 | 舞台

*古沢良太作 行定勲演出 公式サイトはこちら パルコ劇場
 都会のマンションの一室、水色のジャージの上下を着た男(戸次重幸)が奇妙なストレッチをやっている。それに茶々をいれつつ、中年の男性(中井貴一)はキッチンで何やら料理をこさえている。シェフらしき服装も調理の手つきも玄人はだしだ。そこへ同じく中年の男たちがひとりふたりとやってくる。舞台上手側に直進してガンダムのプラモデル?を一心に作りはじめたり(白井晃)、軽やかなステップで、反対の下手側のコーナーで江戸川乱歩(記憶があいまい)の古本を嬉々としてめくりはじめたり(川平慈英)。
 彼らは昼間はそれぞれ別の場所で仕事をしており、夜になると共同で借りているこの部屋に訪れ、誰の邪魔もされずに「趣味」に没頭しているという。まさに趣味の部屋。タイトルの通りである。

 2013年に初演の大好評に再演を望む声が多く、このたび初演メンバーの男優が揃って再演の運びになったものである。主演の中井貴一がプロデュースし、人気テレビドラマ『相棒』や『リーガル・ハイ』の作者である古沢良太が書き、『Go』や『北の零年』など、重厚で硬質な作品を次々に発表している映画監督の行定勲が演出した。テレビや映画に多く出演する知名度が高く、実力も折り紙付きの俳優が顔を揃える豪華版サスペンスコメディだ。

 この作品のひとつのポイントは、「趣味」というもののとらえ方である。明らかに仕事や勉強ではなく、それによって利益は生れない。いくら腕がよくてもプロではない。アマチュアである。没頭するあまり、場合によっては家族にも理解されず、友だちも離れていくようなこともある。。だからこそすべてを忘れて没頭でき、そうすることで仕事や家庭生活とバランスをとりながら、より豊かで楽しい人生を送ることができる・・・といったところか。
 男たちの趣味は、料理にガンダム、古本収集である。それぞれ没頭するさまがおもしろくて、ほとんど「おたく」の様相なのだが、皆に勧められるままにいろいろなことに手を出しては、「何にも夢中になれない」と悩む戸次は、「趣味とはこうあらねばならない」という一種の幻想、固定概念に縛られている人の正直な気持ちを代表していて、これもおもしろい。

 メンバーのひとりが行方不明になり、この部屋を不審に思った婦人警官(原幹恵)が乗りこんでくるあたりから、物語はどんでん返しにつぐどんでん返しが続く。

 ここから先は舞台をご覧にならない方だけどうぞ・・・。

 もうひとつのポイントは、「演劇」というもののとらえ方であろう。趣味の部屋に集う仲間が解散することで物語が終わったと思わせて、再び戻ってくる男たち。たしかに男たちは料理も古本もガンダムも好きなのだが、彼らのほんとうの趣味は「演劇」であるというのである。ひとりが台本を書き、ひとりひとりがアドリブもまじえながら演技をする。婦人警官は彼らが演劇をやっているとは知らないので、台本があるとはいっても、アクシデントや想定外のハプニングにも柔軟に対応しながらの演技していることになる。「これぞ演劇の醍醐味だ」とご満悦の男たち。最後の最後はもうひとつオチがあるのだが、予測できるものであり、これはもうとくにいいと思われる。

 演劇とは何だろうと、ものすごく根本的なことを考えるのだった。

 そして演劇をみるのではなく、みずからが台本を書いて演じること、演劇をつくる醍醐味とは何だろう。『趣味の部屋』の男たちが言うところの「演劇」は、「演劇」なのだろうか。プロデュースした中井貴一は、演劇をはじめて見る観客に、演劇のおもしろさを知ってもらおうと、脚本を古沢良太、演出を行定勲という映像分野で名の知れた人に依頼したという話である。
 適材適所の配役といい、コメディのなかにサスペンスの要素が次第に色濃くなっていくところなど、観客を飽きさせない工夫が随所に施されている。舞台の人物といっしょに呼吸しながら成り行きを見守る楽しさやわくわくした感覚を味わえるとも言える。

 しかし、演劇は、演劇のおもしろさというのはこういうことなのだろうか。

 もちろん、何をおもしろいと思うかは人それぞれであり、どちらが正しい、まちがっているというものではない。だが『趣味の部屋』は、言うなればよくできたテレビドラマ風の印象であった。逆に2時間ドラマであれば、クローズアップやカットバックなどの手法で、もっとサスペンスの度合いを鋭くすることも可能であり、パルコ劇場のサイズでは俳優ぜんいんが終始テンションたかめの演技をせざるを得ないが、映像ならばもっと抑制して微妙な味わいを深めることもできると思うのだ。

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第40回名作劇場『女よ、気をつけろ!』、『或る夜の出来事』

2015-03-21 | 舞台

*公式サイトはこちら1,2) 川和孝演出 両国・シアターχ 21日で終了
 川和孝企画公演+シアターχ提携公演 日本の近・現代の秀作短編劇100本シリーズ。
 北尾亀男『女よ、気をつけろ!』 大正14年発表
 白髪の講演者が「若き婦人へ」という演題で話しはじめる。話の途中から舞台は二等車の車内になり、座席には中年の婦人と若い男、通路を隔てた隣には初老の紳士がかけている。夜行列車だ。婦人は若い男と次第にうちとけてくる。旅の開放感と夜汽車のロマンティックな雰囲気のせいか、一夜のアバンチュールとほんの軽い気持ちのふるまいがとんでもないことに。
 鳥居與三『或る夜の出来事』大正13年発表
 関西のどこかの町の料亭で、絵描きの男がその友人と話している。絵描きは料亭で働くある女性に執心しており、店から連れ出そうとしているが・・・。

 名作劇場のありがたいところは、上演される演目を中心に、上演される機会の少ない戯曲の解説など、公演パンフレットがとても充実している点である。これを読むと、大正から昭和時代において「戯曲」というものの存在は、いまよりはるかに身近であり、文芸誌にも普通に掲載されていたこと、人々にとっても、戯曲を読む行為がそれほど特殊ではなかったらしいことがわかる。

 しかし今回とりあげた劇作家・北尾亀男と鳥居與三については、情報が非常に少なく、上演された記録になかなかたどり着かないとのこと。従って仮に過去の上演があったとしても、それがどんな印象の舞台だったのか、客席の反応はどうだったのかなどということもわからない。

 たとえどれほど前に書かれた作品であろうと、時代や人物の設定が変わっていようと、今に通じるものがある舞台というものはある。それは舞台の設定を現代にしたり、劇中劇的な趣向にしたりなどの策を弄さずとも、伝わるときには伝わる、わかるものはわかるのではないか。
 戯曲の世界を忠実に、誠実に立ち上がらせ、いま目の前にいる俳優の肉体と肉声で客席に届けることは可能であると思う。

 日本の近代、現代の短編戯曲を掘り起こし、上演を継続する名作劇場の活動はすばらしい。舞台美術、衣裳、小道具なども丁寧に作られていて、頭が下がる思いである。それだけに、舞台からもっと強い何かが伝わってほしいと思うのである。今日性や普遍性を求めているわけではないのだが、せっかく俳優さんが演じるのだから(へんな言い方だけれど)、戯曲の世界にもっと近づきたいではないか。
 『女よ、気をつけろ!』では旅の気分からつい迂闊なふるまいをしてしまう女性を、『或る夜の出来事』ではおめでたい男性を、それぞれ「笑ってもらいたい作品」(演出家の寄稿)とのこと。
 設定のちがいこそあれ、いつの時代であってもこうした男女はいる。自分にしてもいまは笑っていても、いつ笑われるほうになってしまうかわからない。このような感覚が得られれば、数十年前に書かれたまま、あまり知られずにいた戯曲が現代の俳優を得て、現代の観客の前で再生することの意味がより確かになるのではなかろうか。

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モズ企画韓国新人劇作家シリーズ第三弾

2015-03-20 | 舞台

*公式サイトはこちら 新宿・タイニイアリス 23日まで
 韓国・新春文芸戯曲部門受賞作より選り抜きの短篇を、いち早く日本語で紹介するこのシリーズには一度足を運んだことがあり(1)、以来2度めの観劇となった。

 『童話憧憬』、『憂鬱群悲し村老い里』、『とんでもない同居』が、3本一気に上演される日もあり、2本ずつの日もある。
 自分は『童話憧憬』(キム・ソンジェ作 金世一翻訳、荒川貴代演出・衣裳)と、『憂鬱群悲し村老い里』(イ・ミギョン作 李知映翻訳 鈴木アツト演出)の2本を観劇した。この日は、本公演のコーディネーターであり、劇作、翻訳、演出、ときに出演もこなす金世一の司会進行によるアフタートークも行われ、この日のために来日した劇作家のキム・ソンジェとイ・ミギョンが登壇、韓国の演劇事情について興味深い話を聞くことができた。

 イ・ミギョン作の『憂鬱群悲し村老い里』は、2013年朝鮮日報新春文芸戯曲部門受賞作品である。ミギョンさんは学校の教師をしながら、さまざまな戯曲のコンクールやコンペに応募しているとのこと。韓国では日本にくらべて作・演出を兼ねる人が少なく、劇団に属していない劇作家は、戯曲を執筆しても上演の機会を得ることがむずかしいそうだ。
 イ・ミギョンの作品では、2年前の本企画第1弾の折、『そうじゃないのに』をみているが、今回はそのときよりもずっと強い印象をもつことができた。

 『憂鬱群悲し村老い里』には、老いの哀切と若さの残酷が描かれている。ある過疎の村で事件が起こった。七十を過ぎた老人が、若い女性から暴行罪で訴えられたのだ。物語は警察署で刑事が老人を取り調べる場にはじまり、老人の言い分と回想場面が交錯する。若者たちに対する老人の親切に偽りはないが、妻を亡くした独り身の淋しさがあったことは否めない。老人と女性の証言は食い違い、平行線をたどるばかりだ。老人は断じて不埒な真似はしていないと主張し、女性は恋人といっしょだったと言う。しかし女性は自分はひとりであり、老人をぜったいに許さないと息巻く。

 両者にはそれぞれうしろめたいところがある。老人は決して清廉潔白ではなく、若い恋人たちが愛し合う様子をのぞき見して思わず欲情してしまった。女性はいくら相手が老人とはいえ、男の独り住まいにひとりで立ち入っている。露出の多い服装や、なれなれしい振る舞いは、軽率のそしりを免れないだろう。老人は「こんな年寄りが今さら女をどうこうしようなんて」と容疑を否認するが、女性から「老人だからそんなことはしないと思っていた」と言われて甚く傷つく。

 独り居の暮らしに若い女性の訪問があまりに嬉しく、妄想が膨らんでつい・・・というのが真相らしいが、白黒を明確に示すつくりではないように感じられた。物語の圧巻は、若い恋人たちのあられもない営みの現場をのぞき見している老人の妄想が暴走する場面であるが、男女の営みを敢えて舞台ではみせず(戯曲ではそうなっているらしい)、声や気配だけで示す方法も成立するし、もしこれをリーディング上演したら、きっとおもしろいものになるのでは?

 アフタートークでミギョンさんは自作の上演の感想を聞かれ、「戯曲を忠実に上演してくださって嬉しい」(発言は記憶によるもの)と言っておられた。司会の金世一はすかさず、「ということは、戯曲通りに上演されないことが多いのですねえ」と絶妙のコメントで、場内を沸かせた。この現状に問題はあるが、演出家によって、本作がどのように変容するのか知りたいとも思う。

 幕間に、タイニイアリスの30年をまとめた「小劇場タイニイアリス」の紹介がされていた。会場で購入すると消費税無しだそうである。
 買いそびれたので、劇団May公演に行くとき忘れずに!

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