因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

太宰治作品をモチーフにした演劇公演第15回日本のラジオ『カケコミウッタエ』

2019-05-31 | 舞台

*屋代秀樹作・演出 劇団サイトはこちら1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13
 三鷹市芸術文化センター星のホール 2日終了
 同ホールの「太宰治をモチーフにした演劇公演」第15回参加作品。
 太宰治の『駆込み訴え』は、イエス・キリストの弟子の一人であったユダが師のいどころを密告する様相が一人語りで記された短編である。冒頭の「申し上げます。申し上げます旦那さま」に始まり、最後の「へっへ。イスカリオテのユダ」まで一気呵成。その間ユダの心は激しく揺れ動き、イエスに対する複雑にねじくれた愛と、それゆえの憎しみが溢れるように綴られている。朗読、スタジオソルトのリーディング公演も忘れがたい。内容も形式も、演劇の作り手の意欲を掻き立ててやまない作品であろう。

 劇場サイトには、主宰の屋代、構成員の安東信助、沈ゆう子のインタヴューが掲載されており、屋代が太宰のほかの作品も十分に読み込んだ上で本作を選んだことなどがよくわかる。「私が一番好きな小説」であるからだけでなく、劇作家としての戦略、自分たちの舞台として構築する意志をもっての上演である。

 原作はひたすらユダが一人で語り尽くすものであるが、本作は、インタヴューで語られた通り、「現代のおける群像劇」である。舞台は現代の日本、「健康道場」と言う名の自己啓発コミュニティを装った新興宗教団体に出入りする人々の交わり、後半からは政治利用を目論む市議会議員が絡み、コミュニティの変容と、人々のなかでいちばんニュートラルで真っ当な感覚を持つ粕井(ユダ)の自死が描かれる。登場人物は、イエスと12人の弟子、マルタとマリアなどを微妙にもじった名で、太宰の原作や聖書にしるされたエピソードも周到に織り込まれている。

 昨年、屋代が劇団おおたけ産業に書き下ろした『はこぶね』も、新興宗教団体がモチーフになっていたが、ごく小さなコミュニティの変容と崩壊に凝縮されていたこともあり、わりあい受け止めやすい印象であった。今回の『カケコミウッタエ』は手強い。俳優は皆自分の持ち場と、作品ぜんたいへの役割を的確に理解し、決して易しくはない作業であったと思うが、ある人物は自然体で、別の人物は極端に、それぞれ今までにない造形を誠実につとめている。圧巻はフジタタイセイ演じる粕井の長い独白の末の死の場面であろう。

 しかし、いわゆる俳優の独壇場にならないのが日本のラジオの不可思議な魅力であり、上演前の注意事項のアナウンスからそのまま芝居が始まり、いったいどう終わるのかと固唾をのんでいると、登場人物のひとりが「ここで〇〇(題名)は終わります」と唐突に(自分にとってはそのような感覚である)締めくくるのもいつものことなのだが、毎回そのタイミングが読めず、「やられたな」と劇場をあとにするのである。今回の『カケコミウッタエ』は、自分にとって不完全燃焼感の濃い観劇となったが、それは残念なことではなく、むしろこれから先の作品への足がかりになりそうだ。

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リーディングシアター『レイモンド・カーヴァーの世界』

2019-05-31 | 舞台

*レイモンド・カーヴァー作 村上春樹翻訳 谷賢一演出 公式サイトはこちら 兵庫県立芸術文化センター企画 トライストーン・エンタテイメント共同製作 6月2日終了 六本木トリコロールシアター トライストーン・エンタテイメント主催公演の過去記事はこちら→(1,2,3
 2018年兵庫県立芸術文化センターの初演が好評を得て、このたび東京、兵庫2劇場での公演となった。カーヴァーの小説を村上春樹が翻訳し、演出は谷賢一。仲村トオル、手塚とおる、平田満、矢崎広がふたりずつ日替わりで出演する。語る作品は、仲村トオル『コンパートメント』、矢崎広『収集』『菓子袋』、手塚とおる『ダンスしないか?』と『もうひとつだけ』、平田満『愛について語るときに我々の語ること』。4日間6公演、俳優ふたりずつすべて違う組み合わせのステージで、どの回にするかは大変悩ましかったが、
平田満と手塚とおるの回を観劇した。ピアニストの阿部篤志がオリジナル曲を生演奏する。

 「カーヴァーの小説は詩のように美しく、奥行きがある。言葉は極めてシンプルで平易だが、読み進めるうちに行間から溢れるさみしさの深さや広さに読者はすっかり飲み込まれてしまう。こんなに簡単な言葉でこんなに複雑な心情が描けるものかと感動する。どうしようもない男と女の、どうしようもないすれ違いや破綻を描いたこれらの作品群は、人生に疲れたことのある聴き手の心にそっと寄り添うだろう」
 長くなったが公演チラシに記載の谷賢一の寄稿をそのまま紹介した。谷自身がカーヴァー作品の愛読者であること、作品の世界に共感し、慰められた実感を持つこと、その魅力を、この一文のように見事に表現している。カーヴァーの短編を読むと、ほんとうにその通りなのだ!

 『ダンスしないか?』…自宅の前庭(公演では「ぜんてい」と発語されていたが、「まえにわ」では違う意味になるのだろうか?)に、家財道具の一切を並べ(しかも家の中にあるのと同じ位置に)、ガレージセールをする男。若いカップルが品定めをはじめ、やがて一緒に酒を飲み始める。レコードもかけて気分が盛り上がったところへ、男が言う。「君たちダンスすればいいのに」。何週間かのち、カップルの彼女のほうが、この日の出来事を周囲に語る。「しかしそこにはうまく語り切れない何かがあった。彼女はそれをなんとか言い表そうとしたのだが、だめだった。結局あきらめるしかなかった」。こういう終わり方をするのかとしばし考え込むような一文である。うまく語り切れない何か。そのもやもやした気持ち。それこそがこの短編の眼目であり、魅力である。

 『愛について~』…二組の夫婦が夕食前の酒を飲みながら、愛について語り合う。再婚同士の夫婦の妻は、前夫の暴力的なふるまいについて、「クレイジーに思えるかもしれないが、それが愛だったとわかる」と言い、心臓外科医である夫は、交通事故で瀕死の重傷を負って運び込まれた老夫婦のことを話したあと唐突に、別れた妻が引き取っている子どもたちに電話をかけたいと言い出す。これもそう単純ではない話である。中編といってもよいくらいの尺があり、終始場が動かず男女4人のやりとりが続くところなど、語るにはハードルの高い作品だ。

 『もうひとつだけ』…親子喧嘩、夫婦喧嘩の果に、妻子から家を追い出される男の悲喜劇。題名が示す終幕に向かって一気呵成に語られる。ピアノの演奏は毎回異なるそうで、俳優とピアニストの競演もみどころのひとつだ。

 それぞれのステージを味わったが、文学作品の朗読という点において、物足りない印象が残る。生のピアノ演奏とのセッションは刺激的であり、ステージも華やかになる。しかし物語が佳境に入ったあたりで、ピアノの音に遮られて俳優のことばが聞こえないことは残念であった。味つけのまえに、素材をじっくり味わいたい。単純ではなく、複雑で微妙であり、日本人の会話のリズムや呼吸とは明らかに異なる文体であるのに、読む者の心を捉えるのはなぜだろう。読み手がカーヴァーの世界近づくというより、谷賢一が記したように、作品がこちらの心に「そっと寄り添う」のだ。その感覚をリーディングで味わってみたいのである。

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studiosalt 番外公演 初期作品記録映像上映&リーディングVol.1 旗揚げ公演『父の骨』

2019-05-30 | 舞台

*椎名泉水作・演出 公式サイトはこちら 神奈川県立青少年センター2階HIKARI 31日(金)14時、19時30分公演あり 1,2,3,4,5,6,6`,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20,21
 studiosalt(スタジオソルト。以下ソルト)が番外公演として、初期作品記録映像上映&リーディングと銘打った公演を2か月連続して行う。第1回の今夜は、旗揚げ公演の演目『父の骨』(公式サイトの記録)である。まず「記録映像上演&リーディング」という形式が、今回の眼目のひとつである。リーディング上演前にロビーで当時の映像を流すのか、上演後少し時間をとり、映像の一部を披露するのかと予想したが、そのどちらでもない。明日も公演があるので、詳細を書くのは控えるが、ひと言でいえば、映像とリーディングの「同時上演(上映)」という非常に珍しい趣向である。驚くほど自然であり、当時を知る人にとっては懐かしく、はじめて見る者にとっては新鮮な体験であり、15年の月日を経てなお生き生きとした劇世界がスクリーン上にあり、同時に目の前の俳優の舞台にも存在するという稀有な劇空間を構築したのである。

 本作は、椎名泉水が初めて書いた戯曲とのこと。60分の短編であるが、劇中の台詞や場面に(お弁当にバナナが入っている、動物園のふれあい広場のウサギたちの扱い等々)、その後の椎名の作品に結びつくところがいくつもあり、自分の知らないソルトの世界を年月を遡って味わうことができた。

 父の葬儀が終わり、次男と三男が遺骨を抱いて実家に戻る。そこには引きこもりの長男がおり、引きこもりサポートのボランティア氏が来訪する。登場人物4人だけの会話劇だが、三兄弟それぞれの描き分け、ボランティア氏と彼らの意外なつながり、兄弟たちが終始「あの人」と呼ぶ母親のことなど、背景や事情を少しずつ自然に明かしながら、最後まですべてを明かさないところ、そこにあざとさのないことが、第一作にして椎名の劇作家としての確固たる基本的な資質として表現されていることに感銘を受けた。

 将来に対する明るい展望とまではいかないが、晴れやかで微笑ましい終幕の情景は、見る者の心を温め、柔らかくする。

 初期からのメンバー(主宰の浅生礼史、作・演出の椎名泉水)はじめ、その後に入退団の俳優、現在活躍中の若手の加わった座組で「あのときのソルト」から「今のソルト、これからのソルト」を体験する今回の企画は、ソルト歴2006年冬の横濱リーディング「福田恆存を読む!」からの自分にとって、大いなる収穫となった。

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MSPインディーズ・シェイクスピアキャラバン 読上歌舞伎『何櫻彼桜銭世中』(さくらどきぜにのよのなか)

2019-05-25 | 舞台

*テキスト/宇田川文海(大阪朝日新聞 1885年掲載)新井ひかる(Triglav 1,2)、西村俊彦演出 井上優(明治大学)補綴・監修 西村俊彦脚色 早稲田大学演劇博物館・演劇映像学連携研究拠点主催 公式サイトはこちら 5月25日のみ 早稲田大学小野記念講堂1,2,3)
 本作は1885年(明治18年)、大阪戎座で『ヴェニスの商人』を大阪を舞台に翻案して上演された日本で最初のシェイクスピア作品だ。それをMSP(明治大学シェイクスピアプロジェクト 1,2,3,4)出身の俳優、演出家たちによるMSPインディーズ・シェイクスピアキャラバンがリーディングによって再現する試み、すなわち「読上歌舞伎」(よみあげかぶき)である。
 開演前に井上准教授による日本におけるシェイクスピア作品上演のいきさつの解説があり、現在わたしたちが何の違和感もなく観劇している沙翁の作品が定着するまでの紆余曲折、翻案と翻訳の相違点、そもそも演劇とは何かというところまで行き着く内容であり、もっとたくさん聞きたし、早く舞台を見たしの20分であった。メモを取らなかったことが悔やまれる。「何の違和感もなく」と書きながら、一方で、「いや、そうでもないではないか」とも。翻訳劇に対する何となくしっくりしない感覚は、確かにあるからだ。

 さてリーディングと銘打ちながら、現代語による語り手が要所要所に登場し、物語の進行や人物関係を要領よく解説し、みずからも人物を演じながら、テンポよく進めていく様子から、脚色、演出の手腕、それに応える俳優の力量が感じ取れる。原作のシャイロックは完膚なきまでにを叩きのめされるが、悪者も最後には皆改心してめでたしめでたしの大団円となる歌舞伎版は、いかにも歌舞伎らしい終幕であった。

 台本を手に持つとは言え、慣れない文語体の台詞はじめ、原作が二通りあるかのような作品を、原作の匂いや色を損なわず、いかに現代の観客に示すかという、ある意味で矛盾した目的に向かって、相当な稽古が積まれたことが想像される。今後も何らかの機会を得て、それぞれの活動の経験値をもって、気心の知れた仲間と遠慮なく創造することが継続されればと願っている。

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堀越富三郎企画 語りライブ 楽語会VOL.4

2019-05-19 | 舞台

*荻窪/かふぇ&ほーるwith 19日 14時、18時2回公演 VOL.1観劇の記事
 語り、朗読、リーディング、ひとり芝居…舞台のパフォーマンスの形態はさまざまである。俳優の堀越富三郎が主宰する「楽語会」は、「語りライブ」と銘打ち、基本的に俳優が台本を持たずに作品を語る形式をとる。日ごろはそれぞれ別の場所で活動している俳優が自分の得意とする分野の作品を持ち寄り、披露する公演と捉えた。

☆平野夏那子 星新一『鏡』 
 本作をネットで検索すると、「後味の悪い話」をまとめたサイトに行き着く。鏡合わせで現れた悪魔を壺に閉じ込め、夫婦が代わる代わる暴行を加える。悪魔というのに弱々しく無抵抗な悪魔は絶好の「捌け口」となり、鬱憤が晴らされるために夫婦仲は円満、それぞれの仕事も順調に進む。が、うっかり悪魔を逃がしてしまったことで険悪な状況に陥った夫婦は遂に…。自分より弱いものへ加虐を増す人間のすがたは醜悪であり、そういったものが自己にも潜むことが想像できるだけに、まことに後味の悪い物語である。難しいのは、悪魔というものの捉え方である。人間ではないが、童話や絵本などの物語において、悪魔は基本的に人間の姿の変形として描かれることが多い。憎々し気に、あるいはいかにも恐ろし気になど、造形はさまざまであろう。本作の場合、前述のような悪魔である。語り手は、舌足らずの幼児の口調を少し戯画的に色付けした声と話し方であった。人間とは違う生き物であることは明確だが、まだ創造の余地があると思われた。3月の「朱の会」公演の際、子ぎつねの台詞に対して抱いた若干の違和感、阿部壽美子の朗読勉強会において、「その役の生理を捉える」ことの重要性を聞いたことなどを思い出した。

☆堀越フサ子 「私の青春航路 涙の幾山河」
 主宰の堀越富三郎のご母堂御年93歳が登場し、ご自分の半生を語り、自作の短歌を読むステージである。激動の時代を生き抜き、多くの困難を乗り越えて穏やかな老年を迎えた女性のすがたは神々しくさえあり、感銘を受けた。しかしながらプロの俳優のステージのなかにおいて違和感があることは否めない。もっとリラックスした場において、参加者もともに語り合えるような会がふさわしいのではないだろうか。

☆神由紀子 夏目漱石『夢十夜』より第一夜と第三夜。
 自分は今回が初見であるが、これまで何度か上演されてきた神由紀子の代表作である。第一夜は台本を持たず、たっぷりと語り、目の前の女が死ぬ緊迫感が息苦しいほど伝わってくる。対して第三夜では神は台本を手に持ち、朗読する形式をとった。第一夜では神自身が物語の女に見えてくる感覚があり、物語がいっそう生々しく感じられたが、台本を読む形式になると、自分が薄気味の悪い子どもを背負った父親のような気分になるのはなぜだろうか。台本のあるなしによって、物語とステージ、客席の距離感が変容するのである。子どもが「ふふん」と言うところで、神は非常におもしろい造形を見せる。この笑いに限らず、いかにも子どもこどもした声や話し方ではない。つまり口先だけの作り声ではなく、たしかに「六つになる子供」の声だが、「言葉つきがまるで大人である。しかも対等だ」という奇妙で不気味な様相が目に浮かぶ…いや耳に聞こえてくるのである。

☆石井麻育子 芥川龍之介『蜘蛛の糸』
 パントマイムを得意とする石井の技と個性が発揮されるステージだ。カンダタが懸命に糸を手繰りる手つきなど、ほんとうに糸が見えるかのように見事である。しかしここでむずかしいのが、パントマイムが台詞無しで、からだの動きで語るものであることと、そこに物語の語りがどう融合するかだ。ある動きのために腕が口を塞いで台詞が聞き取りにくくなるところもあり、これからさまざまに試行錯誤を重ねて、独自性のあるステージに変容していくだろう。

☆堀越富三郎 落語『死神』 
 主宰による〆の1本は、作品成立の経緯から、噺家によってさまざまなサゲがあることなど、大変興味深い演目である。堂々たるひとり芝居の趣。

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