因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

因幡屋7月のおしばい&俳句日記

2013-06-30 | お知らせ

 そろそろ因幡屋通信、えびす組劇場見聞録の次号を視野に入れる7月であります。毎年関東地方の梅雨明けの猛暑には悩まされますが、元気を出して。
*劇団青羽(チョンウ)『そうじゃないのに』 @新宿タイニイアリス
 今年のアリスフェスティバルは、いつもより早くはじまる。そのオープニング公演に、昨年大活躍のソウルの劇団青羽(チョンウ)が登場する。
*ハイリンドvol.14『ヴェローナの二紳士』(1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13
 ハイリンドが初のシェイクスピア作品に挑戦、しかも「めったに上演されることのないマイナー作品」(公演チラシより)。初沙翁とは意外に思ったが、今回演出を担当する西沢栄治が主宰するJAM SESSIONの『夏の夜の夢』に、ハイリンドのメンバーが客演していたためだろう。出産と育児でおやすみしていたはざまみゆきが復帰するのもうれしいかぎり。
*新国立劇場マンスリープロジェクト トークセッション「別役実の世界」
 劇作家・別役実と演劇評論家・扇田昭彦の対談。
ゲンパビギャラリー公演『トーキョー拾遺』
 前回の企画公演『明け星の頃には~セロ弾きのゴーシュ~』の印象があざやかなうちに、新しい舞台に会えるのはうれしい。
杮葺落七月大歌舞伎1,2,3
 夜の部『東海道四谷怪談』尾上菊之助がお岩、小仏小平、佐藤与茂七の三つの役を初役で演じるのが大きな話題で、染五郎も松緑もそれぞれ初役に挑戦する。若手が初役というと、「清新な舞台に期待」となるが、「フレッシュでさわやかな四谷怪談」とはゆくまい。さあどうなるか。
*劇団民藝稽古場公演『ヨールカの祈り』1,2,3,4,5,6,7
 『イルクーツック物語』などで知られる劇作家アレクセイ・アルブーゾフの本作は、民藝で1981年に初演された。今回は配役を一新し、新しい構成と演出でお目見えとなる。
声を出すと気持ちいいの会 本公演 山本タカ作・演出『女郎蜘蛛』(1,2,3,4,5,6,7,8,9
 「コエキモ」一年半ぶりの本公演は、谷崎潤一郎の『刺青』をモチーフにした「肉体不在の恋愛」とのこと。2009年に起こった「新橋ストーカー殺人事件」がどう絡むのか。
*こまつ座『頭痛肩こり樋口一葉』1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16
 井上ひさしの代表作として配役を変えては繰りかえし再演されてきた作品だ。1984年こまつ座の旗揚げ公演から長きにわたり、けがによる休演が一度あったきりで、一貫して新橋耐子が演じてきた「花蛍」が、ついに新しい女優に手渡されることになった。担うのは若村麻由美である。新橋耐子の一挙手一投足が記憶にしみついているから、これは観客にとっても挑戦だ。
ミナモザ#14 瀬戸山美咲作・演出『彼らの敵』
 (1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19)
 実際に起こった事件をモチーフにするのが瀬戸山美咲の劇作の特徴だが、今回は芝居の題材と事件当事者との距離が非常に近いものである。ん、この書き方で伝わるかしら。昨年好評を博し、今回の新作のベースになったリーディング公演『ファミリアー』も上演される。
 早く観劇の日にちを決めて予約しましょう。
*演劇集団円『ワーニャ伯父さん』
 台本・演出を内藤裕子が担う。タイトルロールは、ずっと「この人でみたいな」と思っていた金田明夫。こちらも早く予約を入れましょう。

 ★因幡屋の俳句日記★(1
 先週は第30回金星句会で、投句者13名がそれぞれ5句ずつ、のべ65句を前に喧々諤々の2時間あまり。不思議なのはあれやこれや何度もつくりかえた句は、演劇評論家の江森盛夫さんふうにいえば「一顧だにされず」、なんとなく出来てしまったものに選がはいることだ。文章とおなじ、肩の力を抜きなさいということか。
 しかし歳時記をしっかり読み、面倒がらずに辞書を引いて、ことばひとつひとつを確認し吟味しなければ、季がさなり、字あまりや字足らず、旧かなづかいのまちがいを起こす。そういう隙のある句はまずまちがいなく選ばれない。
 内容を批評されることもなく、それこそ一顧だにされないのである。

 今回の兼題のひとつは「葛餅」である。
 「葛饅頭」をつかった自分の句に対して、指南役から注意を促された。「葛餅」と「葛饅頭」はべつのたべものであり、同列の使い方はできないこと、兼題はあくまで「葛餅」であり、ほかに置きかえはできない。どうしても「葛饅頭」を出すならそれをよく理解した上にすること・・・ということである。
 実はそのときよくわからなかったため、べつの方に伺ったところ、「主季語」と「傍題」というものについて、「蜜豆」と「餡蜜」の例をあげて教えてくださった。「ものすごく単純なNG例を教えて」という不勉強な問いに対して懇切丁寧に、しかも食い意地の張った自分には実にぴったりの解答に感激しきり。ありがとうございました。この場を借りて厚く御礼申し上げます。

 このように、初心者、初学者の失敗をひとつひとつ着実に重ねて俳句にもならないものをお目にかけながら(泣)、それでも楽しくてなりません。句会の皆さまに感謝して、7月は「熱帯夜」と「百合」でがんばります。
 どうぞよろしくお願いいたします。

 とまとめようと思いましたが、来月早々に木挽町句会の締切が迫っているのでした。こちらの兼題は「梅雨」、さて、これからもうひとがんばりです。

 

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shelf volume15『班女/弱法師』

2013-06-30 | 舞台

*三島由紀夫作 矢野靖人構成・演出 公式サイトはこちら 日暮里d-倉庫 30日まで(1,2,3,4,5,6,7)
 d-倉庫のロビーは開場を待つ観客で込み合っている。開演まで15分をすでに切っているのだが、直前の調整がつづいており、なかなか劇場に入れない。客層は老若男女入りまじり、外国の方もいらっしゃる。
 本作は昨年12月、長久手市文化の家×三重県文化会館合同プロデュース公演として、第七劇場とともに行った『三島ル』(未見)の、いわば東京凱旋公演である。
 shelfの三島は2009年冬の「横濱リーディング」における『班女』をみているが、おそらくそれをさらに精度をあげたものが『三島ル』であると思われる。
 独自の活動をつづけて11年めにはいったshelfの三島作品、いよいよd-倉庫にお目見えである。

 ぎりぎりまで開場しなかったわけは、ステージをみるとすぐに理解できる。出演俳優たちが板付きになって、すでに濃厚な空気を発しているためだ。shelfではめずらしくない導入部であるのに、いつもとちがう劇場のせいもあって、新鮮な印象だ。

『班女』
 老嬢・実子、狂女・花子、その恋人吉雄に加えて、「女」がひとり存在する。当日リーフレット掲載の演出家ノートによれば、「『班女』という物語を耽溺してやまない一人の女」であるとのことだ。
 「女」は劇中で登場人物の台詞をともに発したり、ときには割り込むこともあって、「女」は実子のようでもあり、花子のようでもある。それぞれの成れの果てとも思える。発語のタイミングや形式は場面によって異なり、観客の安易な予測を阻み、裏切りながら、いびつな流れのままで終幕へすすむ。

『弱法師』
 これもそうとうにエッジの効いたステージングである。家庭裁判所の調停委員・桜間級子と、盲目の孤児・俊徳いがいの人物4人を男女合わせて6人の俳優が演じるのだ。黒ずくめの衣装で俊徳を円形に取り囲み、奇妙な動きをしながらあるときはひとりが、あるときは数人が声を合わせて台詞を発する。

 2本ともに、登場人物たちは互いに顔を合わせて対話するのではなく、どちらも客席を向いたままであったり、べつべつの方向をみながら台詞を言う。舞台にはまちがいなく生身の俳優が存在するのだが、その俳優が「実子」という人物に入りこんで同化して台詞を発するのではなく、戯曲のことば、劇作家が構築した劇世界のことばを取り扱っている。そのような印象を受けた。

 「エッジの効いた」などという、使い慣れないことばで書いてしまったが、たとえばshelfの舞台は「シャープ」や「スタイリッシュ」ともちがうのである。尖ったところばかりではなく、やわらかでつかみどころのないものもあり、ごつごつした不協和音風のものもある。
 その表現によって、戯曲の台詞をよりわかりやすく客席に届けるというより、むしろ聞き取りにくくなったり、いっそう難解に聞こえてしまうこともある。
 『弱法師』では俊徳の実の両親と育ての両親が激しく言い争う場面がある。ふつうの形式で上演するなら、それぞれの役柄に適した俳優が配され(おそらく中堅からベテランの俳優になるだろう)、たっぷりと熱演する。俳優の表情、声、しぐさのひとつひとつが、客席にその人物についての情報となって、作品を理解する助けになるのである。

 shelfの場合、複数の俳優によって台詞が発語されるために、ときに機械的、記号的に聞こえるときもあり、では人物が物語の記号のようになるかというと、よりいっそう生々しい息づかいが伝わるところもあるから、まったくもって不思議だ。
 そして劇場をでるときには、三島由紀夫の『班女』と『弱法師』を、目に見えない2冊の本のように受けとっていることに気づくのである。

 

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林光・歌の本Ⅰ~Ⅳ全曲を歌う第2回

2013-06-27 | 音楽

*ティアラこうとう・小ホール 27日のみ
 オペラシアターこんにゃく座の歌役者である金子左千夫によるコンサート(1)の第2回。前回とおなじくソプラノの中馬美和、ピアノ伴奏を大坪夕美がつとめる。ティアラこうとうははじめて訪れた。中央ステージから扇のように広がっている客席のかたちや、床の傾斜、座席のゆとりなど、その名のとおり小さなホールだが、温かみのあるよい空間である。
 今回は林光歌の本Ⅰ「四季の歌」より秋と冬の歌11曲、歌の本Ⅱ「恋の歌」より8曲、ほかに宮澤賢治の詩による歌、萩京子作曲による歌数曲が披露された。
 金子が2006年から行っていた「ソングコンサート・イン・ムジカ」や、今年いちばんの大雪が降った日に行われた林光さんの追悼コンサート「希望の歌」で聴いた歌もあり、とても親しみやすく楽しいステージであった。テノールの金子とソプラノの中馬の二重唱の歌、ぞれぞれソロの歌のバランスもよく、金子や中馬が短く曲の解説をしながらときおり脱線する演出?もほどよく、よいチームワークである。

 今回はとくにピアノ伴奏の大坪夕美の演奏に目や耳を奪われるところが多くあった。けっしてピアノが主役になるわけではないが、歌を構成する大切な要素のひとつとしてしっかりと存在し、あるときは歌い手を優しく支え、またあるときは力強くけん引する。音色の変化、テンポや間合いの絶妙なること、まことにすばらしかった。
 千駄木のムジカホールではグランドピアノのかげになっていたが、今回は演奏の様子をしっかりとみることができた。背筋はすっきりと伸び、肩や腕や手首にもむだな動きがなく、とても美しい。林光の歌は、歌唱部分はもちろんのこと、ピアノ伴奏のパートももうひとりの重要な登場人物のように魅力的だ。歌とともにピアノを聴き、演奏のすがたをみる楽しみがあるのである。

 聴衆は林光さんの曲を1曲覚えて帰る。これが本コンサートのウリのひとつである。今回は、コンサート中盤に「かわいいシュゾン」(「フィガロの結婚」劇中歌 ボーマルシェ詩 内藤濯訳 林さん18歳のときの作曲!)、アンコールに「わたしのすきなこなひきさん」(マザーグース詩 谷川俊太郎訳)をうたった。前者はフィガロの主旋律を歌う金子に合わせて、「ゾゾン、ゾゾン」と繰り返す。それだけなのだがこれがめっぽう楽しく、この歌がいっぺんに好きになった。
 後者は粉ひきの若者を恋する娘の可愛らしい恋歌である。聴いているぶんにはとても易しい歌のようだが、じっさいに歌ってみると、冒頭の「つむじまがりでこなまみれ」の「こなまみれ」のメロディが「ソソソファレ」となるところ、とくにファ→レへ下がるのは、素人には意外にむずかしい。この歌だけでなく、林光の歌は耳になじみよく、すぐに覚えて歌えそうだが、歌いこなすにはそうとうの修練が必要なものではないか。

 日ごろ芝居に明け暮れて歌やピアノのコンサートを聴く機会がほとんどない身にとって、心身ゆたかに養われるひとときであった。滋養になるとはまさにこのことであろう。願わくはプログラムについて、ある曲からある曲への関連性など、コンサートの構成に明確な「芯」があれば、受けとめ方も変わって、ますます楽しく豊かな時間になるのではないかと思われる。

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劇団民藝公演『無欲の人 熊谷守一物語』

2013-06-20 | 舞台

*相良敦子作 兒玉庸策演出 公式サイトはこちら 紀伊國屋サザンシアター 7月2日まで (1,2,3,4,5,6) 豊島区立熊谷守一美術館では28周年展が行われている。こちらは今月30日まで。
 『ウェルかめ』や『シングルマザーズ』など、テレビドラマ界で活躍する脚本家の相良敦子がはじめて舞台の戯曲を執筆した。サブタイトルにあるように、洋画家・熊谷守一とその家族、友人たちの物語だ。実在の人であり、いまなお多くの信奉者をもつ画家を題材にする。しかもなにかと勝手のちがう演劇の世界である。クローズアップやカット割りなど、映像ならではの手法が使えないことが、大きな障害になったのではないかと想像した。
 しかし初日を開けた今夜の舞台は、このような懸念を吹き飛ばすものであった。

 物語は明治の終わりごろ、画家のモリカズ(千葉茂則)の下宿で、生涯の友となる作曲家の信時潔(西川明)が出会う場面にはじまる。千駄木の車引きの二階は、つぎつぎに訪れる画家仲間たちでたちまちいっぱいになり、芸術談義や恋愛論を闘わせる。貧しくとも志と希望に満ちた青春の輝きがまぶしいほどに・・・演じているのは民藝のベテラン俳優さんがたで、役柄と実年齢とのギャップはそれはもうたいへんなものだ。
 演技力やメイクアップなどで青年にみせるというのはどだい無理な話であり、みるほうもそれを特別にあれこれ言おうとは思わないのである。これも芝居の味わいであると自然に受けとめられたのは実に不思議であり、ここから大正時代をすぎ、太平洋戦争が終わり、主人公が文字通り仙人のような老人になるまでつづく数十年の物語を違和感なく気持ちよく楽しむことができた。
 考えてみると、その要因はベテランのかたがたが役柄を演じる姿勢にあるのではないだろうか。二十代の若者の役だから、ほんとうにそう見えるように演技するのではなく、物語ぜんたいをゆったりととらえ、役の二十年三十年先までを視野にいれて、そのなかに自分の身をおく。無理な若づくりはみるほうも辛い。若者が若者の役をするのでは到底生まれない奥ゆきが、みるものを物語のなかに自然に引き入れるのである。

 
 熊谷守一は人と争わず、競わない、まさに「無欲の人」なのだが、舞台のモリカズは決してもの静かではない。売るための絵は描かない。展覧会への出品も拒否する。とうぜん生活は窮し、病気の子どもの治療費にも事欠く。彼の絵を売ろうと申し出る友人を拒否し、忠告にも耳を傾けず、画商を追いかえす。つねづね「絵なんて人生の滓だ」と言い捨てながら、わずか3歳で病死した次男の亡き骸を抱いて悲嘆にくれながら、突然キャンバスに食らいつくようにして子の死に顔を描こうとする。「こんなときに、おれはどうして絵を」と絶句するすがたにはさすがに胸がつまる。

 芸術と生活、志と現実が相容れないのは常であり、モリカズ自身のなかにも激しい葛藤があったのではなかろうか。

 登場人物は「濃い」が、戯曲の筆致はすっきりしている。モリカズは人妻であった秀子に恋をした。ふたりが結ばれるまでにどんな修羅場がと思わせたが、場面が変わって関東大震災の大火事から逃げてゆくモリカズは赤子を抱いている。ご近所さんに「奥さんは」と聞かれて、「母ちゃんを忘れていた」。「モリー」と呼びながら追いかけてくるのはモリカズの女房になった秀子(白石珠江)であり、「いっしょになるのに手間がかかった相手なんだから、忘れていかないで」という。客席はどっと笑いながら、「いろいろあったみたいだが、こうして家族になったんだな」と納得するのである。わずかの台詞でそれまでのあれこれをさらりと表現し、聴く者にやわらかな余韻を与える。ここだけでなく、子どもたちが成長した戦中戦後の場面においてもどうようの印象があり、これが劇作家デヴューとなった相良敦子の手腕とともに、劇の人々に寄り添うまなざしの温かさが伝わる。

 ただ途中から信時さんが語り部風になるところと、終幕に熊谷守一の絵が何枚も(多くてびっくりした)映写されたところにはあともうひと工夫必要なのではないだろうか。登場人物のひとりが進行役をするつくりは珍しくなく、このように数十年間を描く評伝劇ではむしろ定番であろう。ならばもう少し早い場面において導入的な見せ方があったほうがよいのではないかと思われ、何より凡庸なつくりにみえたのが残念であった。後者も長々とした映写には演出上の理由があることもじゅうぶんわかるのだが、そこを何とか!と欲が出る。

 欲が出るのは、やはり舞台のモリカズと家族、友人たちが魅力的であるからだ。ドラマや映画、ドキュメンタリーではない演劇の魅力。堅実で地味なつくりであるが、新鮮でさわやかな評伝劇に出会えた。
 熊谷守一は晴天よりも雨が好きだったという。今日のように降ったりやんだりを繰り返す梅雨の日に、自分が主人公で、大切な家族や友だちもおおぜい登場するお芝居が初日を迎えたことをきっと喜ぶのではなかろうか。

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劇団青年座第208回公演『崩れゆくセールスマン』

2013-06-20 | 舞台

*野木萌葱作 黒岩亮演出 公式サイトはこちら 青年座劇場 23日で終了
 パラドックス定数を主宰する野木萌葱が青年座に新作を書きおろした。パラ定の観劇記事はこちらで、(1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17)当方の入れ込みよう、入れあげようはもう・・・。現実に起こった事件をモチーフにした作品は、史実を丹念に読み解きながら、そこに劇作家が大胆な発想、ときに妄想をからませて、小さな劇空間がときにふくらみ、ときにねじれながら観客を迷わせ、思いもよらないところへ連れてゆく。
 この感覚を一度味わうと、まさにやみつきになる。年に2~3回の公演をコンスタントに行い、その都度エネルギッシュに新作を披露する勢いに加え、『東京裁判』のように再演を繰り返す演目のいずれも、数年前から自分の観劇スケジュールに欠かせないものとなっている。

 その野木が外部の劇団に、それも老舗の新劇系劇団の青年座に戯曲を書きおろした。
 幅広い年齢層の俳優が男性も女性も在席する青年座が、野木作品をどのように上演するのか。

 前回がいつだったか思い出せないほど久しぶりの青年座劇場は、パラドックス定数の客層とは大きく異なり、年配の方々が多くを占めるものであった。演技エリアと同じ高さの椅子席が数列、そこからわりあい傾斜のきつい階段席が通路ぎりぎりまで作られている。ほぼぎっしりの満席だ。

 本作は1985年に起こった豊田商事による詐欺事件をモチーフにしている。金現物まがい商法による大型詐欺事件は、永野一男会長が取材に訪れたマスコミ関係者約30人の面前で、自宅に侵入した二人組の男に刺殺されるという衝撃的な結末を迎える。
 ひとり暮らしのお年寄りが狙われ、まずは無差別に電話セールスをし、手ごたえのあった家をたずねる。いったん家にあがると、仏壇に線香をあげたり買い物など身の回りの世話をして家族のようにふるまい、相手を安心させ人情にうったえて契約にもちこむ。

 だます側の戦略や思惑が緻密に描かれるいっぽうで、本作はだまされる側の心の奥底に目を向けさせる。さまざまな詐欺事件を見聞きするたびに、わたしたちは「なぜこのような口車にかんたんに乗せられてしまったのか」と不思議に思い、その感覚は往々にして「だますほうも悪いが、だまされるほうも悪い」という決めつけにつながる。

 そうではなくて、「わかっていてだまされる」人がいる。その心象に焦点をあてたのが『崩れゆくセールスマン』である。

 公演パンフレット記載の演出家の挨拶には、「青年座でやるわけですから、同じ野木作品であっても『パラドックス定数』とはおそらく違うテイストの作品になります」とある。当然だ。それをみたくて足を運んだのだから。
 しかし残念ながら、そのちがいを楽しむところには至れなかったのが率直なところであった。
 違うテイストは、開演前に場内に音楽が流れていたり、劇中でも音楽が使われていること、老若男女の俳優が出演することなど、あらゆるところに現れている。それが「野木作品に、新境地あり」とプラスに受けとめられなかったのは、俳優の演技が役柄と設定にふさわしく、しっかり稽古を積んだ熱演型であったためではないだろうか。

 むろんパラ定でも、舞台の眼鏡スーツ男子たちは激しい演技をみせ、みるものを惹きつける。青年座の熱演は、なぜだろう、みながらだんだん引いてしまうのである。
 野木作品で女性が登場するものをみたのはこれがはじめてだが、好成績の女性セールスマンと社長の愛人である秘書など、設定や造形がいささかありきたりなところが散見しており、率直にいって、予備知識なしに本作を観劇したなら、野木萌葱の作品であるとは思いにくいほどである。
 目の前の部屋が老女の済む団地の応接間になったり、詐欺会社の社長室になったりする。演技エリア前面の通路を巧みにつかってはいるものの、靴の脱ぎ履きの動作をみせるときにいかにも不自然であったり、細かいところが目についてしまったのが残念である。

 野木作品の特徴のひとつは、上演台本のト書きである。たんに人物の動きや場の説明ではなく、人物の心の声や作者自身の声がひっそりと息づいているかのように微妙な表現があって、終演後の帰路で台本を読みながら、劇世界に野木その人が存在しているごとく思われるのである。パラ定の公演では、上演の前説と終演後の挨拶を野木本人がみごとにつとめている。必要事項をもれなくユーモラスに伝え、あわただしい観劇前の心を整え、終演後の余韻をこわすことなく、アンケートやリピート観劇を呼びかけ、観客は拍手をもってそれに応えるのである。
『崩れゆくセールスマン』には、野木さんはどこにいるのだろうか。その不安が終始つきまとった。むろん青年座の公演であるから野木さんが出てくることはなく、何よりパラ定と青年座の比較に終始して、「こちらのほうが好き」となるのはあまり楽しい見かたではない。

 素直な気持ちで新しい場所での上演を楽しみ、パラ定の魅力を再認識する。それができなかったことが非常に残念だ。わかっていて騙される老女役の山本与志恵のふところの深い造形、セールスマンを演じた石母田史朗が鋭利な刃物のような敏腕ぶりが鈍りはじめるところを興味深くみた。このふたりの関係が今後どうなるのか。      

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