因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

劇団民藝『ヒトジチ』

2015-02-06 | 舞台

*ブレンダン・ベーハン作 丹野郁弓翻訳・演出 公式サイトはこちら 紀伊國屋サザンシアター 17日まで 1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15
 劇団民藝とアイルランド演劇の関わりは長い。1955年にシングの『西の国の人気者』が上演されたのを皮切りに、58年には本作『ヒトジチ』の本邦初演、つづく60年代にはベケットの『ゴドーを待ちながら』、『しあわせな日々』に連なる。
 昨年没後50年を迎えた作者のベーハンは、記念切手になるくらいの人物であり、わずか8歳でIRAの下部組織に入り、青春時代の多くを監獄で過ごしたなど、強烈な人生を生き抜いてきた。したがってその作品は、その体験や影響が濃厚に反映する、極めて作家性の強いものである。

 舞台はアイルランドのダブリンにあるうらぶれた宿屋だ。年老いた家主は、反英独立戦争が今でも続いており、この宿を共産主義者の隠れ家と思い込んで、何かというとバグパイプを鳴らしては士気を鼓舞している。実際はみずからも独立戦争で片足を失ったバットと古顔の娼婦メグが采配をふるう売春宿であり、このはきだめのような場所に集まってくる人間たちもまた、日々の鬱屈と酒や歌、ダンスや冗談で無理やり吹き飛ばしながらその日暮らしを送る。
 ある日イギリス軍にとらえられたIRAの少年兵が明日朝処刑されるというニュースが飛び込むが、その折も折、IRAに人質にされた若いイギリス軍兵士が連れてこられる。

 物堅い戯曲を、きっちりと演じる民藝の俳優陣が、けばけばしい化粧や衣装をまとい、猥雑な台詞の応酬をする。またミュージカル並みに歌の場面も多く、ダンスもふんだんに取り入れてある。ピアニスト役の武田弘一郎の生演奏で人々が歌うところは井上ひさし作品のようでもあり、それが物語の内容や作者の思い、人物の心象をより強く観客に伝えるというより、何かそれまでの流れが急に変わってしまう印象があるのはブレヒトのようでもある。
 民藝の公演でこれほど歌を聴いたりダンスをみることははじめてだ。

 公演パンフレット記載の丹野郁弓と、翻訳家の小田島恒志の対談がおもしろい。小田島は『ビッグ・フェラー』『海をゆく者』など、アイルランド演劇の翻訳の仕事が続いていることもあり、丹野と大いに話が弾む。
 なかでも、「翻訳劇をみにきて、文化がわからないから芝居の内容がわからないっていう人の気持ちがわからない」に端を発し、「舞台をみにくるのは、自分と異質の環境にいる人間たちのドラマをみにきているのだから、知らないことを言っているのはあたりまえ。言っていることが全部わかったら、むしろみる意味もないかも」という小田島発言に対し、「すごい開き直りだね」とずばり応じる丹野に、「わたしもそう思う!」と強く同意した。

 舞台をみて、理解しよう、把握しようと思ってしまうのはいたしかたないことだ。しかし自分の知識にないことが目の前で展開するとき、そこで文化や宗教、歴史背景などのために舞台そのものをあきらめてしまうのはもったいないことである。
 とは言ったものの、知らないというのも程度問題であり、小田島氏は欧米戯曲を多く手がける専門家であるからそこまで言い切れるのではないかとも思う。「せめてあの本を読み、あの映画のDVDをみていれば、もっと感じるところがあったはずだ」と歯噛みする経験はあとを絶たない。
 本作は冒頭で主要人物のひとりに「いまは1960年だ。英雄気取りなんて40年も前におさらばなの。(中略)IRAだの独立運動だの、チャールストンと同じくらい時代遅れだ」と喝破させている。その40年前がどのような時代であったのかなど、やはり周辺知識は持っていても損にはならないだろう。
 そしてこれはどうしても避けようがないことなのだが、「ヒトジチ」という題名に対する感覚が、この半月あまりですっかり変容してしまった。言うまでもなく、1月後半に起こったイスラム国による日本人の人質殺害事件である。「人質」ということばを聞いた瞬間、ざらついた感覚に襲われ、持っていき場のない恐怖や怒りがわいてくるのを止めようがない。
 本作はチケットの申し込みをした昨年からでは非常に大きな変化を持たざるを得なくなっている。舞台を味わうのに決定的な妨げになるほどではないにしても、50年前に書かれた作品が、期せずして恐ろしいまでの現実味を生んでしまったわけである。

 初日のことでもあり、芝居と歌とダンスを「こなしている」印象は否めないが、日にちが進むごとに手馴れて余裕もでてくるだろう。気になったのは、台詞のところどころに、「癒し系女子」などの現代風(といってもこれすらもはや古いだろう)ことばづかい、「ためしてガッテン」風の所作や、果ては水前寺清子の演歌などを取り入れてある点だ。舞台の空気にそぐわないだけでなく、こういった小手先のテクニックで舞台の人間模様が近しく感じられはしない。丹野郁弓さんにはもっと堂々と開き直り、大胆に演出してほしい。こちらも開き直って受け止めようと思っているのだから。

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