因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

2006年 因幡屋演劇賞

2006-12-30 | 舞台番外編
といっても表彰式も賞金も何もありませんが、素敵な時間をくださったことへの感謝を込めて以下のみなさまに。
*横濱リーディング『福田恆存を読む!』より「わが母とはたれぞ」、『太宰治を読む!』より「駆込み訴え」の椎名泉水の演出
*ミナモザ公演 瀬戸山美咲作・演出『夜の花嫁』
*ハイリンド公演『牡丹燈籠』
*演劇集団円公演『ロンサム・ウェスト』
*ブラジル公演『恋人たち』
 今の時期 新聞各紙で「今年のベスト5」記事が掲載されております。そののいずれともだぶってないのが嬉しい・・・。

 朝日新聞土曜版に作家の山崎ナオコーラさんのエッセイが連載されていますが、12月9日に次のような一節がありました。「文章を書くのは、本当に楽しい。ぎょっとするほど楽しい。真剣に楽しい。『この喜びをありがとう』と四方に額ずいて礼を言いたいくらいだ。」同感です。お芝居を見るのは楽しい。本当におかげさまで真剣に楽しい。そしてぶろぐの記事を書くのもわたしには楽しくてなりません。幸せなことです。ありがとうございます。来年も頑張ります。

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ミナモザvol.7『テーブルクロス』

2006-12-29 | 舞台

*瀬戸山美咲作・演出 OFFOFFシアター 上演は29日で終了 公式サイトはこちら
 昔むかし、教育実習(高校 国語科)をしたときのことだ。指導教官が少し気障な言い方になるが、と前置きをしてこう言った。「何をいかに言うかは、何をいかに言わないかでもある」と。今日ミナモザの新作をみて、この言葉を思い出した。

 何かの事故で崩落し、瓦礫と化した地下のレストランに閉じ込められた4人の客とウェイターの会話劇。結婚記念日を祝うために妻(サチコ)と待ち合わせしていた夫(工藤良輔)がいる。夫には他に帰る家があり、離婚を切り出すつもりだった。妻は怪しげな霊能力者にはまっている。この夫婦の話がまずひとつ。もうひとつは女性客ふたり。中学からの仲良しだが、いじめにあって新興宗教に走った綾子(木村桐子)と、彼女にべったり依存しているようで支配しているような明里(川島早貴)とのちょっとイヤーな関係。ウェイター(衣川藍)は何かというと得意のクラリネット演奏をしたがる(衣川さんの本業はクラリネット奏者!)が、実は妻とウェイターは既に死んでいるのだった。

 まだ生きている人と、死んでしまった人が会話をする。生きているときに話せなかったこと。もしかしたらありえたかもしれない会話は、何が正常で常識的で、何が異常で反社会的なのかわからなくさせる。こちらとあちらが複雑微妙に行き来する作劇は、瀬戸山美咲の得意とするところだ。中盤から劇の緊張感が高まってくる。

 観客の生理はとても正直である。冗長だったりくどかったりもどかしかったりすると、頭でそう認識するより先にからだが反応して、すーっと引いてしまうのである。幕開けで明里が綾子を探すところと厨房の惨状に驚いて「コックさんが」と繰り返すところで早くも気が緩んでしまう。見終わって真っ先に感じたのは「今回は上演時間が長い」ということだった。実際これまでみたミナモザの舞台に比べると15~20分長かった程度だろうと思うが、実感としてはもっと長く思えたのである。

 「演劇的必然」について考えた。それは必ずしも観客が芝居を理解するための情報ではないということだ。例えばウェイターの存在である。彼のクラリネット演奏は、芝居の本筋に直接関係ない。しかし不要とは思わなかった。それに対して綾子と明里の関係で考えると、綾子がいじめられていたという話で充分ではないか。宗教に走っていたことやそこから脱退した云々がすべて明里の台詞によって説明されるのだが、教祖からもらった指輪のことなど、着地点がなかったと記憶する。また終幕、綾子と明里の会話と照明の演出ももどかしい印象。照明じたいは繊細で美しかったけれども。

 何をいかに言わないか。それを観客に想像させてほしい。この人は(登場人物、作者)は何を言おうとしているのかと同じくらい、何を言わないでいるのかを感じ取りたいのだ。あの人が、ほんとうは何を言おうとしているのか、どんなことに堪えているのかを必死で聞き取ろうと思わず身を乗り出す。そんな喜びを味わいたいのである。わたしの望みは矛盾しているかもしれないし、無茶な要求をしているのかもしれない。でもそんな舞台をきっと作り出せると思うのです、瀬戸山美咲さん、あなたなら。

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グリング『虹』

2006-12-28 | 舞台
*グリング第13回公演 青木豪作・演出 紀伊國屋ホール 公演は24日で終了 公式サイトはこちら
 春の『エスペラント』、秋の『獏のゆりかご』がいずれも物足りなかったので、1年ぶりになるグリングの公演を心待ちにしていた。所属の俳優4名に文学座や円などの客演陣もなじみの俳優がほとんどで、とてもいいアンサンブルである。自分でも大変な集中力で舞台をみることができた。

 だが見終わっていろいろなことが気になり始めるのだった。
 
 アルプスがみえる町のカトリック教会が舞台である。高山神父(東憲司/桟敷童子)とその家族や信徒たちがクリスマスを前にわさわさと教会に出入りするなか、敷地内で小火があったり、病的な主婦(藤本喜久子/無名塾)が駆込んできたりする。教会は祈りの場であるが、そこに集められるのは生身の人間だから、夫婦のもめごとや仕事のことなど、世知辛く生臭い匂いもしてしまうのである。神父の家族も難しい問題を抱えており、信仰によってすべてが救われていない現実が垣間見える。

 高山家の現在の問題は、妹夫婦(萩原利映、杉山文雄)に子どもが授からないことだ。神父は結婚できないから、娘が頼みの母親(井出みな子/演劇集団円)は気弱な婿に辛く当たる。婿は婿で深刻な悩みがあるらしい。教会にはもう一組子どものいない夫婦がいて(高橋理恵子/演劇集団円、中野英樹)、それぞれの事情は違うものの、夫婦の問題がこの芝居のひとつの核である。

 現在と過去が行き来する場面があって、兄(鈴木歩巳)が離婚するために改宗したいと言い出す。妻と母親の折り合いが悪いらしい。その後兄は不慮の事故で亡くなった。信仰心が強いゆえに狭量な母親に対して反発する妹は「絶対洗礼なんか受けない」と心を閉ざす。駆込んでくる主婦は、その兄らしい人物の姿が見えると言い、主婦のからだを借りて死んだ兄の霊が話し始める場面がある。発想としてはおもしろいのだが、主婦の出番が霊媒の役目を果たしたところで終わってしまったのは残念。グリング常連の藤本喜久子だから、その美しさ、謎めいた魅力がつい期待させてしまうのである。兄役の鈴木歩巳にももっと出て欲しかった。幽霊という方法も悪くないが、必然性があっただろうか。舞台が教会だからこそ、もっと小さく平凡な出来事によって神の意志が示されることを描いてほしいのだが。

 後半からラストにかけては壊れていく信徒夫婦(高橋、中野)と、必死で歩こうとする妹夫婦のそれぞれの姿が描かれる。前者は妻以外の女性との間に子どもができたため、夫が離婚したいと告げる。後者は夫がHIVに感染していることがわかる。特に後者については作者も俳優も力を込めて作っていたことがわかるし、「ここで泣かされた」というネットの感想も多く聞いた。だが自分はこの場面が冗長で、違和感を覚えた。妹は看護士として働くしっかり者である。気弱な夫を叱咤激励し、支え抜こうとする。だがその台詞が夫婦のセックスに関することを相当にあけすけに語るもので、夫を元気づけようと敢えてこういう言い方をするのかもしれないが、もっと違う声や表情で密やかに言って欲しいと思うのだ。信仰を持たない妹が(夫は信徒である)、すべての運命を受け入れて果敢に闘おうとしていることを、もっと静かにみつめたい。

 あらら、何だか不平不満だらけです。それだけ青木さんには、グリングには期待してしまうからなのだ。
 グリングはこれが紀伊國屋ホール初出演である。カーテンコールの拍手は長く続き、「よく頑張ったね、よかったね!」という空気が場内を温かく満たした。なかなか鳴り止まず、アンコールがあるかと思ったほどである。しかし願わくはシアタートップスやザ・スズナリなどのもっと小さな空間で、もっと長い期間上演してほしい。わずか5ステージとは残念である。

 特筆すべきは神父役の東憲司!柔和で穏やかな神父さん。どなたかモデルがいらっしゃるのだろうか。聖書について説明したり、信仰について説く様子に違和感がまったくなく、思わず聞き入ってしまう。10月上演の演劇集団円公演『ロンサム・ウェスト』にも神父が登場したが、日本人が神父という役柄を演じることはとても難しいとの印象をもったし、今回の『虹』のチラシをみたとき、誰が神父なのか、まったく想像がつかなかったが、素晴らしい・・・。

 題名の『虹』は旧約聖書のノアの箱船のエピソードから来ている。自分の印象に残っている虹は、3年前の春の夕暮れどき、渋谷駅前の交差点で見た虹である。信号待ちの人々から歓声があがった。雨上がりの空気は柔らかで、虹は人を不思議な気持ちにさせる。このつぎ虹をみるときは、きっとこのお芝居のことを思い出すだろう。

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岸田今日子さん

2006-12-23 | 舞台番外編
 12月17日、脳腫瘍による呼吸不全により死去。享年76歳。
 アニメの「ムーミン」の声を聞いたのが岸田今日子との出会いであった。「女の人が動物の男の子の役をするんだ」と不思議に思ったことを覚えている。
 印象に残っている舞台は、太田省吾『午後の光』、岩松了『赤い階段の家』、同じく『隠れる女』。坂手洋二『ブラインド・タッチ』。新劇の大御所的威圧感がなく、どんな作品でも無理なくふんわりと溶け込んで、雰囲気を作ることのできる女優さんだったと思う。
 実を言うと、わたしは十数年前フジテレビで深夜に放送されていたバラエティ番組『そっとテロリスト』の女主人役が大好きだった。森の奥にある古い洋館に若い女性たち(たぶん一般人)が訪ねていくと、岸田今日子演じる「奥様」が十二単やチロリアン風などとんでもない衣装に身を包んで階段を降りてくる。金田明夫の執事に世話をさせながら、奥様と女性たちがいろいろなビデオをみる。お笑い系下ネタ中心で、深夜でなければちょっと放送できない内容がほとんどであった。みたものがおもしろければ花瓶にバラを、つまらなければドクダミを投げ込むという趣向である。新劇系の女優で、これができる人は他に考えにくい。11月に亡くなった仲谷昇が『カノッサの屈辱』に出演していたことも思い出す。
 演劇集団円は新劇の老舗というより、自由で軽やかな遊び心を持つ演劇人の集まりという雰囲気があって、その中心にいるのが岸田今日子であった。さらに女優業だけでなく、円こどもステージや新作戯曲の上演、若手演出家の起用など、プロデューサーとしての手腕に稀有なものがあった。いい意味で、女優としての業を感じさせない人だったとも思う。訃報に際し、別役実が「劇の中で独立した風景を作れる俳優」と朝日新聞の記事で語っているのを読んで、岸田今日子の作ったさまざまな風景を思い出した。

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アロッタファジャイナ第7回公演『偽伝、樋口一葉』

2006-12-11 | 舞台
*松枝佳紀作・演出 金子修介監修 新宿シアターモリエール 公演は10日で終了 公式サイトはこちら
 冷たい小雨の中、劇場入り口には既に列ができている。チケットの引き換えのために受付にいくが、自由席なので外に並ぶように言われる。チケットには番号が記載されているが、その番号順に並んでいる様子はなく、そのような指示もなく、かと思うと入場している人も。スタッフが少ないわけではなく、丁寧にしてくれているのだが、並ぶのか入場していいのか、傘の引換券を出すのはいいが、半券を渡す指示がない等々肝心なところがわからないので非常に戸惑う。他の劇場ならまったく問題なく普通にされていることなのに。開演が少し押す旨アナウンスがあったが、定刻10分以上過ぎているのに悪びれた様子もなく入場する人が多くて、ちょっとびっくり。客層がいわゆる演劇のそれと異なるような感じである。そんなわけで、開演までの気分は最悪に近かった。

 当日チラシには主宰の松枝による挨拶文があり、本作上演までの経緯が記されおり、監修に映画監督の金子修介が関わっていることはじめ、並々ならぬ思い入れと熱意が伝わってくる。事情を知らない者にとっては戸惑い、引いてしまうほどの熱さである。

 登場人物は皆白の衣装をつけている。髪型も現代風で、一葉を演じる女優が二人いたり(満島ひかり、広澤葵)、一葉が思いを寄せる半井桃水が、その年代によって3人登場したり、彼の翻訳した小説が劇中劇のように演じられたり、なかなかに凝った作りである。描きたいこと、伝えたいことがたくさんあり、その情熱がさまざまな形で表現されているのだろう。秋に永井愛作・演出の『書く女』をみていたので、登場人物のことも復習をするような感じで把握することができた。俳優は皆一生懸命な熱演で、とくに主演の満島ひかりの可愛らしい中にも凛とした雰囲気と「一葉を演じ抜くのだ」という気迫は客席を圧倒するものがあった。本公演のチラシやHPにある過去の上演記録をみて、アイドル系の女優を集めたキワモノか?と身構えたが、そのことを申し訳なく思った。

 いろいろな面で、あとひと息だと思う。物語をもう少しタイトに整理し、演出を整え、俳優の演技も訓練を重ねれば(あ、結構ある)、井上ひさしや永井愛も凌ぐ、独自の樋口一葉評伝劇になるのではないか。下北沢の演劇とも、その周辺の高円寺や阿佐ヶ谷のものとも異なる雰囲気が、いい感じで持続し、変化していくことを願っている。

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