因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

劇団民藝 『野の花ものがたり』

2017-02-07 | 舞台

*徳永進『野の花通信』より ふたくちつよし作 中島裕一郎演出 公式サイトはこちら 紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA 14日まで (1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20,21,22,23,24,25
 内科医の徳永進さんは、勤務していた鳥取の総合病院を出て小さなホスピスを作った。名づけて「野の花診療所」。そこでの日々を記した『野の花通信』を原作に、ふたくちつよしが書き下ろした新作だ。見る者の心へまっすぐに届く、とても温かで気持ちの良い舞台である。

 公演パンフレットに掲載されている徳永医師のインタヴューが大変おもしろい。聞き手である演劇評論家の河野孝の話の引き出し方や、合いの手の巧さも大いにあるのだが、単にユーモアのセンスがあると言い切れないところ、字面だけ読むと、「ええっ?」と驚くようなエピソードや、物議を醸しそうなアイディア、患者の家族に対する失言の体験までが遠慮なく語られている。この医師はその場しのぎのきれいごとやごまかしを言わない人だ。もっとも大いなる魅力は、死をネガティブにとらえないところだ。死を前にして、茫然自失する人々を目の当たりにしてきた。「もう少し自由でやわらかな空気を病室に届けることはできないか」、「死への案内は、同時に生きることへの案内」(いずれも「民藝の仲間」掲載の談話)と語り、劇中でも徳丸医師は「死って、そんなに悪いものでしょうか」と客席へ語りかける。

 当初徳丸医師(徳永さんのこと)役は西川明であったが、病気療養のため杉本孝次に変更になり、杉本が演じる予定であったがん患者の妻を見守る浦沢長太郎を安田正利がつとめることになった。結果的にこの配役変更が非常に効果的で、とくに院長の杉本孝次が、その風貌や、温かみのある声質が徳丸院長にぴったりであった。初日前の朝日新聞掲載のインタヴューにおいて、杉本は30代のがん患者から死期を尋ねられ、「知りたいですか?」と聞き返す台詞のむずかしさについて語っている。この記事を読んでいたせいもあり、思わず前のめりで聞き入ったのだが、杉本は非常にさらりと自然に「知りたいですか?」と問いかけていた。知ってどうするのですか?知らないほうがいいのじゃないですか?等々の含みや意図などが感じられない。言葉通りの意味だけである。台詞を目で読めば、まことに素っ気ない。それが杉本の温かで柔らかな声で発せられた瞬間、死期を知りたい、でも知るのは怖いと揺れ動く患者の心がまるごと受け止められたことが伝わるのである。

 舞台には4つのベッドが置かれ、それぞれの患者の病室となる。前面の中央にラウンジ、下手には院長室らしきスペースがある。徳丸医師が劇全体の進行役となり、野の花診療所の成り立ちや自分の思い、患者や看護師たちのことを客席に語りかける。4つの病室には末期を迎えた患者が入院しており、付添いの家族や担当の看護師たち、ボランティアとのやりとりが点描される。
 そのなかで、徳丸先生はあまり働いていない。というのは、徳丸医師が病室で患者の脈をとったり、医学的処置をしたり、レントゲン写真を見たりするシーンがほとんどない・・・というか、あっただろうか。もっぱら院長室スペースや、外に出てもラウンジであり、患者やその家族に比べて、舞台にいる時間が非常に少ないのだ。

 たとえば自力で歩くことができなくなった浦沢ユイ(箕浦康子)が、「どうしても村の地蔵さんのところへ行きたい」と言う。夫の長太郎(安田)は無理だとなだめ、夫婦喧嘩になるのだが、担当の看護師(藤巻るも)が「何とかやってみよう。うちの院長、こういうの好きだし」と胸を叩く。ならば徳丸先生はどのような知恵と工夫で、ユイの希望を叶えるのかを知りたい!と思うのが観客である。しかし具体的な経緯はまったく描かれず、地蔵参りの叶ったユイ夫婦が晴れ晴れと病室に戻ったところで、このエピソードは終わりである。それをもの足りないと不満に思わせないのが、劇作家ふたくちつよしの筆の力であり、徳丸医師を演じる杉本はじめ、俳優陣の真心のこもった演技であろう。願いが叶って幸せそうなユイ(しかし確実に死期は近づいていることがわかる)、立ち振る舞いすべてに妻への愛情がにじみ出る長太郎を見ていると、もうそれで観客も満足してしまうのだ。
 決して自分がヒーローにならない徳丸医師。それが舞台を非常に好ましいものにしている。

 とは言え、「もっと知りたいな」と思う場面もある。30代のがん患者松永(みやざこ夏穂)は、看護助手の富田(和田啓作)の振る舞いに激怒するが、彼もまた重い病気を抱えていると聞かされる。和解につながらう何らかの場面があると待っていたが、しばらく見かけない彼が亡くなったことを知った松永が、衝撃を受けつつも「謝ることができて良かった」と少し安堵するところで終わった。ふたりの和解を敢えて舞台で示さないことを「良し」とするには無理がある。また患者やその家族の造形がやや凡庸ではないか。素直に受け止めればいいのだろうが、徳丸医師のあからさまではないが、複雑な内面を想像させる造形が非常に魅力的なので、重病の家族を抱える健気な妻や妹に、もう少し陰影があればと欲が出るのである。

 野の花診療所にテレビカメラでを入れ、徳永医師や看護師、患者さんやご家族の様子をドキュメンタリーで紹介すれば、もっとダイレクトに、劇場に来る観客よりも遥かに大勢の視聴者に伝えることができる。しかしラストシーンの夏の花火大会。河原で花火を眺めている人々のなかに、先に旅立った人々が加わってともに夜空を見つめる。この場面の美しさ、清々しさは、舞台でなければ表現できない。

 舞台『野の花ものがたり』はまことに地味で、静かな作品である。しかし単に「良かったな」で終わらない足跡を観客の心に残す。人間という矛盾だらけの生きものに等しく与えられた、たったひとつの命。それをどう生かし、どう終わらせるか。決して暗くならず、どちらかと言えば少々脱線してもよい、朗らかに楽しくありたい。そのためにはどうすればよいか。さまざまな問いを与え、一歩踏み出すきっかけを生む舞台なのである。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 下北沢演劇祭・下北ウェーブ2... | トップ | 7度『M.M.S~わたしのシュル... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

舞台」カテゴリの最新記事