因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

地点『コリオレイナス』

2014-08-28 | 舞台

*ウィリアム・シェイクスピア原作 福田恆存翻訳 三浦基演出 桜井圭介音楽監督 あうるすぽっとシェイクスピアフェスティバル2014より 公式サイトはこちら あうるすぽっと 31日まで
 本作は2012年、ロンドンオリンピック文化プログラム「ワールド・シェイクスピア・フェスティバル」の一環として、ロンドンのグローブ座の依頼により制作された。この企画は、シェイクスピアの全37作品を37の言語で上演するプロジェクトに日本代表として参加したものだ。かの地での高評をひっさげて2014年の夏、あうるすぽっとシェイクスピアフェスティバル2014に凱旋公演のはこびとなった。今月初めの杉原邦夫によるKUNIO11『ハムレット』につづいて、気鋭の演出家によるシェイクスピアに期待が高まる。

 三浦基の舞台をみたのは、記憶にあるかぎり、2005年年明けの『雌鶏の中のナイフ』(デイヴィッド・ハロワー作 谷岡健彦翻訳 アトリエ春風舎)だけである。好き嫌いといった原始的、感覚的な好み、理解できるかできないか、そこまで行けなくとも少なくとも作り手の意図や意欲に共感ができるかできないかが極端に分かれる作りで、自分はもうまちがいなく後者のほうであった。以来、三浦は多くの舞台を発表しているが、劇場に足を運ぶアクションに結びつけることはできなかった。ほぼ10年を経ての再会である。

 舞台中央にアップライトのピアノが置かれ、その前に敷きものがあり、開演が近づくとそこにさまざまな楽器を持ちこまれてくる。音楽の生演奏の趣向であろう。下手と上手には花で飾られたお立ち台のようなものがあり、そこから上にロープが伸びて、天上の中心で結ばれている。物語の舞台であるローマの広場であろうか。

 大きな特徴は、明確に役柄を与えられているのはコリオレイナスの石田大のみで、ほかの人物はすべて「コロス」の男女4人が演じることだ。あとひとりはただ「男」と名づけられた人物がときおり舞台を通りすぎたり、たたずんだりする。

 コロスの俳優はめりはりのある演技をしているので、さほど混乱もなく、ローマの将軍コリオレイナスが一度は頂点に立ちながら、市民の反感を買って失脚し、母の懇願にほだされながらも、あえなく命を落とすまでを、何とか理解することはできる。
 音楽監督の桜井圭介とNoricoが舞台で楽器を鳴らす様子は、生演奏というより町辻の楽士の風情があって楽しい。しかし事前に戯曲を読んでどんな人物が登場するのか、どういった物語なのかなどを多少は、いやある程度以上知っておかないと、観劇はつらいかもしれない。

 後半でコリオレイナスの母ヴォラムニアが息子に大演説をする。コロスのひとり安部聡子は細身で小柄、声もかぼそい印象だが、けっして大声を出して大芝居をするのではなく、シェイクスピアの台詞を肉体に落とし込んで咀嚼して栄養分にしたのち、自分の肉声にして発語する。声の強弱、高低はもちろんのこと、ひとつのことばをすらぶつぎりにして観客に投げつけているかのような独特の発語法である。圧巻の場面であり、地点・三浦基の真骨頂であろう。
   
 これをどうとらえるかはむずかしい。台詞を、ことばを重要視する演技法からすればむちゃくちゃなことをしていることになり、反対に台詞、ことばを解体し、俳優の肉体と肉声から感じとれることを「演劇」ととらえることで、戯曲じたいを解体し、再構成、再生産する手法ともいえる。この人物はこのような背景と性格で、造形はこのように、あの俳優さんの個性にぴったりだ・・・などという既成概念がことごとく消え去ってしまう。

 前述のように本作は2012年にロンドンで産声をあげ、その後モスクワ、サンクトペテルブルク、京都を経てノウゴロド(ロシア)、イマトラ(フィンランド)など海外で高い評価を得ており、当日リーフレットに記載の各国の劇評を読むと、「こういうふうに鑑賞すればいいのか」と思わされるが、むしろ日本語のわからない海外の観客のほうが、地点の試みを素直に受けとめられるのではないか。

 地点の『コリオレイナス』は、自分がぜひみたいと身を乗り出すよう舞台ではない。ここにわざわざ書かずとも、気心の知れた観劇仲間なら「因幡屋さんはだめでしょうねえ」と苦笑いするだろう。しかし、地点の『コリオレイナス』は、自分がみておくべき舞台であった。それは保守的で安全安心な作りだけでなく、アバンギャルドや前衛もいちおう抽斗に入れておけば、いざというときネタになるかもしれないよというもくろみではない。
 この舞台が、『コリオレイナス』の戯曲に立ち戻るか、逆に戯曲から離れるかの分岐点を示しており、自分はどんな『コリオレイナス』をみたいのか、本作に限らず、自分が演劇に求めているのは何かを思索させるためである。

 自分は『コリオレイナス』の戯曲に戻る。そしてこのつぎ、どこかの公演をみるときまで自分の脳内で俳優を動かし、声を聴く。主人公の母は、蜷川幸雄演出版の白石加代子よりも、安部聡子の肉体と声のほうがしっくりきそうだ。

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アロッタファジャイナ公演『安部公房の冒険』

2014-08-26 | 舞台

*荒戸源次郎演出 松枝佳紀(1,2,3,4,5,6,7)企画・脚本  公式サイトはこちら 新国立劇場小劇場 31日まで

 三島由紀夫とならび、もっともノーベル賞に近いと言われていた小説家であり、映画やテレビ、ラジオ、音楽、写真など多方面で活躍していた安部公房(Wikipedia)が、1970年代にたどり着いた演劇、そこで出会った俳優志望の若い女性と舞台美術家である妻、ふたりのあいだで彷徨するさまが作品の核であるが、もういっぽうで彼らが演劇において何をしようとしたか、映像や小説とはどのようなところがちがうのかという比較文化的な問題もまた重要な核である。
 舞台上手に妻の真知子(辻しのぶ)と暮らす部屋の食卓、下手には恋人あかね(縄田智子)と過ごす書斎がつくられ、安部公房(佐野史郎)はそのりょうほうを行き来しながら、小説を書き、大学のゼミで教え、映画の準備などを行う。ピエロのような格好をした男(内田明)が劇の進行役、狂言回しをつとめる。

 大がかりな舞台美術はなく、照明も控えめで、音楽は終幕近くにフォーレの「夢のあとに」が流れるのみだ。あるのは俳優4人、というより4人の生身の人間がぶつかりあい、傷つけあい、交わり合うさまである。多くの映画のプロデュースを行い、自身も映画監督である荒戸源次郎(Wikipedia)の演出は、ぎりぎりまでものを削ぎ落し、人間の肉体、肉声、魂を舞台にさらけだし、観客に迫る。生々しい男女の交わりを描きながらも、舞台には静謐な空気があって、新国立劇場小劇場の空間によく合っている。

 安部公房が亡くなって20年が経ち、昨年出版された山口果林の『安部公房とわたし』(Amason)によって、その才能の非凡なることが再び注目されている。松枝の企画もこの回顧録を舞台化したいという荒戸源次郎の希望からスタートしたとのことだ。

 パンフレットにはたいてい稽古場風景など写真がたくさん掲載されているものであるが、文字がいっぱいである。驚いたのは本公演の上演台本を事前に読んださまざまな人と松枝佳紀との対談が掲載されているところである。対談のお相手は劇作家の川村毅、映画監督の行定勲、評論家の池内ひろ美、劇作家の谷 賢一、女優の橋本マナミ、松野井雅、小池花瑠奈と多士済々。
 さらに映画監督の金子修介や燐光群の坂手洋二の寄稿もあって、非常に読みでのあるも のになっている。ごたぶんにもれず松枝も台本の完成が本番直前になることが珍しくないそうで、今回はよほどがんばったらしい。もっとも台本は日々改稿されるため、坂手洋二は「本編中に安部公房のアの字もない」初稿を読み、ある女優さんは、演出の荒戸源次郎の要請によって、編集者や青年といった役柄をひ とまとめにした「道化」が登場する稿を読んだという。
 対談はいずれも公演がはじまる8月に行われており、稽古と編集作業を並行して行うのは大変な労苦だったのではないか。

 いつもは作・演出を兼ねる松枝が、今回は演出を荒戸源次郎に委ねたこと。この決意と意味を、観客としてもきちんと考えなければならないと思う。

 今回の舞台で松枝は劇作家として新境地を開いた。荒戸源次郎と出会い、ワークショップなどを通して人がらに接し、同じ舞台をつくる交わりを持てたことは、松枝自身がパンフレットの挨拶文に「幸運です」と記しており、舞台からも彼の喜びが伝わってくる。
 これまでの松枝の舞台作品には映像の色合いが濃い印象があり、出演する若手俳優陣も汗や泥の匂いより、さっぱりと都会的な雰囲気の人が多く、舞台でみるにはいささかもの足りなかった。こうしたさまざまな既成概念を、今回の舞台によって払拭され、新しい目を開かされたのが、客席における自分の幸運である。

 さまざまな資料を読み、じゅうぶんに考えて書かなければならないと思う。しかしともかく観劇当日にできるところまででよいから書いておきたかった。初日でも千秋楽でもないが、松枝氏はじめ今回の舞台に関わった方々に「おめでとう」と伝えたい。

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ミュージカルスクエア公演『ワン語レッスン・初級編』

2014-08-24 | 舞台

*しのみや蘭脚本 徳武詩野作・編曲 大堀茜演出 林なつき振付 公式サイトはこちら 8/23,24イマジンBスタジオでプレ公演ののち、 8/30,31武蔵野芸能劇場で本公演
 主催のミュージカルスクエアは、子どものためのミュージカルスクールである。小学生から高校生まで、歌とダンスなどをレッスンして、年1,2回の公演、年2回の成果発表会を行う。プロのミュージカル俳優の養成ではなく、子どもたちが楽しみながら成長するための学校だ。しかしお金をとって公演をする以上、「ビスケット」と「ミルク」のダブルキャストによる配役もきちんと組まれている通り、一般的な「お稽古ごと」とは一線を画するものがあるのではないか。
 来週の本公演を前にしたプレ公演を観劇した。場内は家族や知り合いがほとんどと思われるが、ぎっしり満員の盛況である。

 プロの演劇公演にも、大劇場でのいわゆる商業演劇もあれば、20人足らずののスペースで行う小劇場演劇もある。それに加えてアマチュア演劇に社会人演劇 (1,1',2,3)、今回のように発表会的な公演もある。観劇、論考するさい、公演の性質をある程度は考慮に入れる必要もあるだろうが、演劇をみることにかわりはない。どんなところがよかったか、問題がある場合、どこをどのようにすればもっと楽しめるかを考えることに対して必要以上に遠慮したり、逆にあまりに手厳しくなる必要はないと思う。なのでできるだけいつもどおりに書きたい。

 とは言ったものの、やはりいつもとは勝手がちがいますね(笑)。

 出演は小学校1年生から高校生までの子どもたちに、母親や先生役など、大人のプロの俳優も数人加わる。これまで何度か舞台に立ったことのある子どももいれば、今回が初舞台の子もいる。顔立ちや背の高さ、得意なのは歌かダンスかなど、個性や適性によって実年齢と役柄の年が逆転している配役もあったが不自然なところはなく、適材適所の好キャストである。
 残念だったのは、男の子がみごとにいなかったことだ。ミュージカルスクールの生徒は女の子が大多数と予想はつくし、かりに男子がひとりかふたりで女子に混じるとしたら、お互いやりにくいかもしれない。女の子もがんばって男の子役を演じており、とくに不自然なところはなかったが、何とか3分の1か4分の1は男の子がいる舞台にならないものだろうか。そのほうが脚本や演出、演じるほうもおもしろいと思うのである。

 おおぜいの子どもたちに歌とダンスと演技を教え、1時間を越える舞台に立てるように指導する先生方の忍耐は察してあまりある。しかしおそらく苦労というよりは、ご自身も楽しみながら、子どもたちの変化や成長を願って地道な努力を継続していらっしゃるのではないか。それはステージの子どもたちがみないい表情でじつに楽しそうに演じているところに感じとれる。

 プレ公演用の当日パンフレットには、出演者ぜんいんのプロフィールと抱負などがきちんと記されており、子どもたち一人ひとりを大切に育てて舞台を作っているこのスクールの姿勢がうかがわれる。それにしても子どもたちはがんばりやさんが多いな。なかには今回初舞台の小学一年生が、「おきゃくさんがかえらないようにがんばります」と決意表明をしていて、いや涙ぐましいというか。「がんばらないと、お客さん帰っちゃいますよ」と言われたのかな。

 ソロを歌う子どもがいずれも美しく伸びやかな声質で、とても丁寧な歌唱をしていたことが心に残る。いっぽうで台詞が聞きとれない箇所が散見しており、歌とダンスに加えて堅実な台詞術の必要が感じられる。

 本作は人間と犬が心を通わせる物語である。犬役の子どもたちも服装やメイクは人間と変わらず、舞台装置はじめ大道具や小道具をほとんど使わずに学校や公演、ペットショップや工場など複数の場面で展開するため、多少混乱するきらいはあったかもしれない。
 しかしこちらの視線、気持ちを素直に舞台に持ってゆけたのは、前述のように子どもたちがとても楽しそうに演じていたことや、一人ひとりに配慮した脚本はじめ演出、振付、作曲など作り手の配慮の賜物と言えよう。

 お稽古ごとはほかにもたくさんある。その子が楽しくやれるなら、野球でもピアノでも将棋でも俳句でも何でもいい。でもそのなかからお芝居を、ミュージカルを選んだのは、やはり何かの導きがあるはず。
 プロ、アマチュアの枠組みを越えて、演劇の可能性はさまざまなところにある。自分が楽しむこと、多少つらいことがあってもがんばれること、その様子をみて喜んでくれる人のあることを、小さな人たちが心にしっかりと刻み、豊かな人生をおくってくれることを願っている。

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因幡屋9月の観劇予定

2014-08-21 | お知らせ

 みるみるうちに観劇予定が入ってゆき、それでもまだ増えるかもしれないという・・・。
文学座有志による自主企画公演 久保田万太郎の世界第11回より『冬ざれ』『釣堀にて』
 これまでの記事(1,2,3,4) 参考までに同じく久保田万太郎作品を上演しているみつわ会の記事はこちら→(1,2,3
 帰りはぜったいフルーツパーラーフクナガでパフェを食べるのだ。メインはそれか?!
*風琴工房秋公演『わが友ヒットラー』
 詩森ろばが三島由紀夫戯曲に挑む。ヒットラーに古河耕史、レームは浅倉洋介、シュトラッサーに山森大輔、クルップに小田豊の布陣。本作はこれまで2度観劇記録あり。ただし1本目は題名と演出家名くらいしか・・・→1,2
したまち演劇祭in台東より 
 ①文学座有志による久保田万太郎の世界 『十三夜』リーディング公演
 樋口一葉の短編を久保田万太郎が脚色したもの。大好きな作品、と言うのことに胸の痛む作品である。これまでに2003年1月に文学座の勉強会で第二稽古場の公演をみたことがある。因幡屋ぶろぐをはじめる前のことだ。ほかにはみつわ会公演を1度。
 今回の会場は、竜泉町の一葉記念館である。地下鉄三ノ輪駅から歩くかな。
 ②橋爪功の語り『おとこのはなし』
 2012年夏、NHK特集オーディオドラマで放送されたもの。こちらは木馬亭にて。
*パラドックス定数第33項『怪人21面相』 (1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19
 野木萌葱の真骨頂とも言える作品と再会できる。
*演劇集団円 女流劇作家書き下ろしシリーズ
 2005年に行われた次世代の作家シリーズの第2弾。9月に座付作家であり、green flowers(グリフラ1,2,3,4,5)主宰でもある内藤裕子、10月にKAKUTAの桑原裕子、11月に関西演劇界から角ひろみが新作を競う。まずは9月に内藤裕子の『初萩ノ花』から。
『炎 アンサンディ』
 本作は『灼熱の魂』のタイトルで映画化もされた。映画にはたいへんな衝撃を受け、舞台が楽しみでもあり、怖くもある。麻実れい、岡本健一に加えて、『ボビー・フィッシャーはパサデナに住んでいる』の舞台の記憶が生々しい那須佐代子、中嶋しゅうが共演する。

 そして!
*九十九ジャンクション『本間さんはころばない』
 土屋理敬の最新作である。ブログの記録こそ少ないが、上演を心待ちにしていた劇作家のひとりだ。1,2,3
 そのほかにも、
*劇団ロ字ック番外公演 2014夏『姦~よこしま~』 (1,2,3,4
*オクムラ宅 『さくらんぼ畑 四幕の喜劇』 (1,2,3,4,5
unks第5回公演「二本の二人芝居」
などなどあり、無理なく賢く予定を組みましょう。

 

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俳優座『樫の木坂四姉妹』

2014-08-08 | 舞台

*堀江安夫作 袋正演出 劇団サイトはこちら 4,5日は練馬区立練馬文化センター 31日まで東京、埼玉、千葉を巡演  
 本作は2010年に初演され、2012年に再演ののち、2013年からは演劇鑑賞会の上演演目として全国を巡演中だ。2014年冬に大塚道子が亡くなってからは中村たつが引き継いだ。今年は3~4月北海道、東北、5~6月中国地方、そして7~8月は首都圏をまわる。
 観劇のきっかけは、何と言っても6月の早稲田大学エクステンションセンターの新劇講座に登壇した岩崎加根子との出会いである。

 この猛暑のなか1500名近い大ホールは老若男女、いや「老」と「女」が圧倒的多数であるが(失礼)、演劇をみたい!という熱気があふれんばかり。演劇鑑賞会の雰囲気は独特だ。舞台には黒字に白で樫の木が描かれた大きな幕が下がっている。樫の木が観客を迎えてくれるかのようだ。全国各地の劇場を巡演している本作をこれまでみた人、これからみるであろうすべての人が、この樫の木に対面することになる。ただタイトルの樫の木が描かれているというだけでなく、みる人に何かしらの感慨を呼び覚ますものだ。

 長崎港を望む坂の中腹、樹齢100年を越える樫の老木のそばの古い一軒家が舞台である。おっとりとした優等生タイプで、原爆の語り部をしている長女(中村たつ)、あれこれ浮名を流していたらしい奔放な次女(岩崎加根子)、事実上一家の主婦である末っ子四女(川口敦子)の3人が暮らす。居間には古いピアノ、いくつかの遺影が置かれている。
 東京からたびたび長崎を訪れ、被爆地に暮らす人々を撮りつづけているカメラマン(武正忠明)は、いまではすっかり姉妹の家になじんでいる。

 物語は2000年夏のはじめから、太平洋戦争中、長崎の「あの日」をはさみながら、初秋の日までを描く。タイトルの「樫の木坂四姉妹」にある通り、彼女たちには四女と双子である三女がいた。生きている姉妹たちとともに、生きていた家族、とくに三女の存在が色濃く示される舞台である。  

 劇団の制作者山崎菊雄は、「三姉妹を演じる3人の女優は私にとって至宝である」と絶大な信頼を寄せる(パンフレット寄稿)とおり、中村たつ、岩崎加根子、川口敦子のベテランを中心に、戦争中の家族の場面には兄や姉妹たちの青年、少女時代を演じる若手俳優も検討しており、俳優座の財産演目であると同時に、全国の演劇鑑賞会から上演を求める声が多いこともうなづける舞台である。

 偶然みたテレビ番組に長崎で被爆した男性が(故人)、核兵器廃絶を訴える運動の様子が紹介されていた。アメリカを訪れたとき、家族が日本軍による真珠湾攻撃で亡くなったという女性が、男性に向かって「核兵器によって戦争が抑止される。あのとき核兵器があれば、わたしの家族は死ななかった」と主張するのである。目の前の老いた日本人男性が、原爆によって深い傷を負ったことを知ってはいるのだろうが、まったく臆することなく自分の考えをぶつけるのである。
 核兵器が戦争の抑止力になることや、広島と長崎への原子爆弾投下によって、戦争が終結に導かれたのだ、人々を救ったのだという思考に、自分はどうしてもついていけない。
 ふたつの原爆によって多くの市民が命を奪われ、生き延びた人々は69年経過した今も放射能による病魔と心の傷に苦しんでいる。これほどの悲しみを生んでいて、いったい何をどれほど抑止したというのか。核兵器が戦争の抑止力になるというのは、結局力にはより強い力をもってするという力=暴力の構図、断ち切られることのない続く暴力の連鎖にほかならないのではないか。

 俳優座の『樫の木坂四姉妹』。ひとりでも多くの人に味わってほしい舞台であることはまちがいない。しかし核兵器の必然性を一点の迷いもなく、まっすぐに主張するあのアメリカ人女性の鋭いまなざしが、悲しみを湛えてなお、客席に優しさとぬくもりを手渡す舞台の印象を刺し貫くのである。たまたまつけたテレビで放送していた番組の、おわりのほうをちょっとみただけなのに、タイミングがよかったのか悪かったのか、『樫の木坂四姉妹』の舞台は、自分の心のなかで宙に浮く存在になってしまった。
 番組をみたこと、あのアメリカ人女性の声を聴いたことを良しとする(いや、思っているけれども)方向に導かれることを願っている。

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