因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

龍馬伝第26回『西郷吉之助』

2010-06-28 | テレビドラマ

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 海軍操練所が閉鎖されることになり、龍馬たち脱藩浪士は行き場を失う。勝麟太郎(武田鉄矢)は、龍馬を薩摩藩の西郷吉之助(高橋克実)に会うように勧める。蛤御門の変で長州藩を打ち砕いた薩摩藩の中心人物西郷と、勝の一番弟子とはいえ、一介の脱藩浪士にすぎない龍馬がはじめて顔を合わせる緊張の一場である。

 通された部屋の奥には「敬天愛人」の掛け軸。長州藩の銃弾で西郷は怪我をしており、杖をつき、足を半分投げ出してゆったりと鷹揚な佇まいだ。初対面の西郷に、龍馬は何を思ったのか「西郷さまは太ったおなごがお好きと伺った」と切り出し、2人はオンナの話で盛り上がることに。

 ここでぐっと打ち解けてから、龍馬は西郷に「長州征伐をやめてつかあさい」と意見する。相手がどんな人かもわからず、場合によっては自分の身に危険がおよぶかもしれない場において、龍馬は驚くほど大胆な振る舞いをする。それもこずるい計算や駆け引きと感じさせない、まっすぐなものだ。素直に自分の思うところを相手に投げかけ、相手の話もじゅうぶんに聴く。歴史上の大物たちが、何の後ろ盾も実績もない龍馬に心を動かされたのは、彼のこういうところに魅力を感じたからであろうか。

 海軍操練所の閉鎖によって、訓練生たちは目標と夢を失った。故郷に帰れるものはまだいいが、脱藩した者たちはそれも許されない。文字通り路頭に迷うわけである。ハローワークもNPOもなにもない時代における、青年たちの生きるか死ぬかの就活サバイバルが始まる。

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パラドックス定数第22項『元気で行こう絶望するな、では失敬。』

2010-06-27 | 舞台

*パラドックス定数+三鷹市芸術文化センターpresents 太宰治作品をモチーフにした演劇 第7回 野木萌葱作・演出 公式サイトはこちら 三鷹市芸術文化センター 星のホール 7月4日まで (1,2,3,4,5,6,7)
 いまや「パラ定」の公演は自分のスケジュールからぜったいはずせなくなった。三億円事件やグリコ・森永事件の怪人二十一面相、東京裁判など、史実に基づいた硬質な舞台に毎回ノックアウトされるような爽快感をもちながらも、昨年の『五人の執事』のように(おそらく)完全なオリジナル作品にはいまひとつはっきりした手ごたえが感じられなかった。今回は太宰治作品をモチーフにした演劇であり、特設サイトをみると、学校が舞台らしい。登場人物は20人とこれまでみたパラ定のなかでは最多である。

 前から2列め中央に座って舞台に目を凝らしたが、暗くてほとんど様子がわからない。霧のようなスモークが焚かれており、少し煙たく感じる。やがて始まった舞台は、オープニングから度肝を抜かれるものであった。

 いや驚いた。星のホールに「迫り(せり)」があるとは、そして野木萌葱が、星のホールの空間をこのように大胆に使うとは。公演はあと1週間あり、オープニングからして詳細を書くことは憚られる。しかしこの日みたこと、感じたことを何とかしてことばにしたい。その気持ちは溢れるほどなのだが、うまく表現できず、出逢えた嬉しさと、それをじゅうぶんに書けないもどかしさが自分の心を混乱させる。

 地方の男子校の教室を舞台に、20人の生徒たちがところ狭しと全力疾走する。演じる俳優の実年齢はバラバラだ。その意図と効果は芝居が進むにつれて、わかってくる。全員が18歳の第1場が終わると、18年後、36歳になった第2場になる。しかし時系列にきっちり沿って進行するわけではなく、過去と現在が微妙にからみあったり、場所も教室や廊下や下校する道、診察室や駅のホーム、高級クラブなどに変化する。おとなになった俳優が少年を演じるという趣向については、5月にみた『モジョ ミキボ―』を連想させるが、本作は18歳と36歳の彼らを描くという設定に加えて、彼らのなかに長じて劇作家と俳優になった者がいて、「36歳の俳優に高校生を演じさせる」作品を書こうといるという、いわば三重構造になっているのである。

 本作は評価も好みも分かれるであろう。しかし想像を越えて「妄想」の面が濃厚に出た前作より、自分は作者の劇作に対する強い意志、新しい地平をさぐろうとする懸命な姿勢を感じた。20人の実年齢はバラバラでも皆かつては高校生だった男たちが舞台を駆け抜け、奇妙なリズムで三本締めをするラストシーンは壮観である。

 上演台本を読むと、ト書きに込められた劇作家の思いに引き込まれる。このト書きを表現するために、野木はどんな演出をしたのだろう。そして演じる俳優は劇作家の思いをどうやって自分の肉体にたたき込み、吐き出していったのだろう。前述のように心は混乱しているが、その混乱にしばし身を委ねてみることにする。

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鵺的第2回公演『不滅』

2010-06-24 | 舞台

*高木登作・演出 公式サイトはこちら 下北沢「劇」小劇場 27日まで
 どこかの観光地のホテルのオープンテラス。テーブルがふたつに椅子が数脚、上手奥にベンチがあるだけだ。凹凸(おうとつ)のある白い壁には、中央に赤い溝のようなものが掘られている。最初に登場するのは携帯電話からメールを打っている女子高生(板倉美穂)とその父親(荒井靖雄)。年頃の娘が父親を疎ましく感じるにしては、少々度を越した嫌悪の表現に、早くも不穏な空気が漂う。つぎはテーブルの裏側を触って何かしている男(浜野隆之)と、奥のベンチでメールを打っているさっきの女子高生に執拗な絡み方をする男(実近順次)がいて、続いて男はわけあり風の男女(平山寛人、菊地未来)にも、暴言を吐き、ひどく暴力的な振る舞いをする。この人々はなぜこのホテルにいるのか、どういうつながりがあるのか。

 旗揚げ公演の『暗黒地帯』において、ぎりぎりまで人を追い詰めていく高木登の筆致はいよいよ鋭く激しくなり、それが顕著に示されるのは前半では病的なまでに相手にからむ男であり、後半は一見普通の人と思われたが、次第にカルト集団のリーダーのごとき暴走をはじめる男である。

 少年時代に大罪を犯した過去をもつ青年を演じた平山寛人の造形がみるものを惹きつける。懸命に彼の心に寄り添おうとする恋人役の菊地未来の質実なすがたや、前作『暗黒地帯』ではこれ以上ないくらいに感じの悪い居丈高な在日韓国人を演じた荒井靖雄が、今回は実に辛抱強い演技をしていて、これも心に残る。そのなかで特殊で極端なキャラクターである男ふたりと女子高生の位置づけと、特に演技に関しては少し違和感をもった。もちろん人々の関係に対して破壊的な言動をとる人物であるのだから、ことばづかいや振る舞いが暴力的になるのはいたしかたないだろう。しかしもっと抑制して直接的でなく、切れ味の鈍い刀のような、ざらついた味わいを出すことはできないだろうか。

 本作のキーワードは「人間って脆い」である。17歳の少年が犯行声明文に記した言葉だ。あっけなく殺されてしまう人間の命は脆い。心に抱えた鬱屈をコントロールできずに凶行に及んでしまう人間の心は脆い。殺人者をヒーローに見立てて自分を投射し、代理殺人を幇助する人間の心も脆い。娘と心を通わせられない父親、恋人から拒否されてしまう女性もみなそれぞれに脆さをもっている。その両者の葛藤がみるものの安易な予想や思い込みを破壊するかのような激しさで描かれる。

 自分は生きていて、家族や友人も生きている。殺人を犯したことがない。これは言いかえれば、自分も周囲の人々もいまのところ生きており、自分もいまのところ人を殺すほどには至らずに済んでいるだけだと気づかされる。救いのない結末に暗澹たる気持ちになりながら、本作のタイトル『不滅』について考えた。公演チラシには、「決して滅ぶはずのないもののかたちが失われたと知ったとき、彼らはただ風吹きすさぶ荒野に立ち尽くすしかなかった」とある。これは父親と恋人の終幕の姿と思われるが、自分は「不滅」とは、人が生まれながらに持っている原罪と、生きている限り繰り返す罪の連鎖が不滅であることの絶望とともに、それでも人のなかにはきっと人間らしさ、人間的なものが消え去ることはない、不滅であってほしいという願いではないかとも思うのである。これは自分がよく陥ってしまういつもの思い込みかもしれないが。

 心理学でも法律でも宗教でもない、演劇ができる人間のすがたの示し方、演劇による魂の救済が可能なのか。そういう問いを今夜の舞台から受け取った。

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龍馬伝第25回『寺田屋の母』

2010-06-22 | テレビドラマ

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 龍馬は神戸村の海軍操練所にもどる途中、伏見の船宿「寺田屋」で亡くなった母にうりふたつのお登勢(草刈民代 二役)に出会う。
 池田屋で多くの同志を殺された長州藩士は再起をかけて京に攻め入り、会津藩と戦いを始めた。会津藩に薩摩藩が助力し、長州は敗れ、久坂玄瑞(やべきょうすけ)は自刃して果てる。焼け野原となった京の町で、龍馬は桂小五郎(谷原章介)に出会う。「このままでは済まさぬ」と暗い目をした小五郎は薩摩への憎しみに満ちている。
 土佐では吉田東洋暗殺をめぐって後藤象二郎(青木崇高)による岡田以蔵(佐藤健)の取り調べがいよいよ過酷になり、その様子を見せつけられる岩崎弥太郎(香川照之)はほとんど怒って牢の武市半平太(大森南朋)に叫ぶ。「いい加減にしろ、ほんとうのことを話せ」。武市は何と毒まんじゅうを差し出し、「これを以蔵に食べさせて、楽にしてやってほしい」と泣き伏す。

 以後お登勢はさまざまな形で龍馬を支え、助けることになる。そのお登勢とお龍(真木よう子)を龍馬が結びつけ、それまでまったく関係のなかった者たちが関わり合いを持ち、次第に互いに歩みよっていくわけだが、お登勢が亡くなった龍馬の母とそっくり云々あたりにはどういうわけか心が動かず、お龍とのやりとりも同様で、設定や話の運びに少し無理を感じる。おおらかな龍馬が頑ななお龍の心を和らげていく。お龍は龍馬に対して、おそらく彼女がこれまで体験したことのない感情を抱き始めており、自分の心をまだ素直に受け止められないでいるように見受けられる。一方龍馬は、大変大雑把な言い方をすれば女性に対しては相変わらずで(笑)、お龍に特別な気持ちはまだ持っていない様子だ。あれだけ悲しんで苦しんで平井加尾(広末涼子)との愛を断ち切ったのだ。お龍と夫婦になるほどの心の変化がどのように訪れるのだろうか。

 さて土佐の武市さんである。もどかしい。弥太郎でなくても「いい加減にしろ、どれだけ仲間に辛い思いをさせるのだ」と歯がゆくなる。毒まんじゅうは牢番の和助(小市慢太郎)に作らせたのだというが、よしんば弥太郎が以蔵にそれを食べさせて以蔵が死んだとしたら、毒を盛らせたのは誰だということになり、今度は弥太郎や和助が詮議をうけるのではないか。武市には土佐勤王党を立ち上げて出世したときの面影はすでになく、理性や判断力を失っている。プライドや自尊心や意地も大切だが、度を越しては周囲が大変辛い思いをする。考えてみると龍馬と弥太郎と武市の関係は不思議である。性格も考え方も生き方も異なり、たとえばこの3人が同じ職場にいたとして、仕事がうまくゆくようにも思えない。互いを大切に思っていることは確かで、特に弥太郎と武市は水と油のように相反するけれども、この相手には図らずもほんとうの自分の姿をさらけ出してしまうところがあるのではないか。武市は弥太郎に、かつての「武市さん」とは思えないくらいよれよれの情けない姿を見せるし、弥太郎が武市に向かって本気でぶつかっていく様子には心を打たれる。2人とも申し分ない妻にぞっこんの愛妻家だが、これは妻にも見せることがない心底の姿ではないだろうか。

 次週龍馬は薩摩藩の西郷吉之助(高橋克実)にまみえることになる。まだ無名の脱藩浪士にすぎない龍馬が大きな一歩を踏み出すのだ。

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東宝ミュージカル『キャンディード』

2010-06-20 | 舞台

*ヴォルテール原作 レナード・バーンスタイン作曲 ジョン・ケアード台本改訂・演出 公式サイトはこちら 帝国劇場 27日まで
 物語は18世紀のフランスに端を発して、世界各国への旅を余儀なくされた青年キャンディード(井上芳雄)の「人生すごろく」のかたちをとりながら、壮大な叙事詩であり、深遠な思想や哲学を示すものでもあり、台詞と音楽と歌とダンスのあるいつものミュージカルとは大きく趣がことなる。事前に何も下調べも勉強もせず、気楽に観劇しようとしていたら、いやこれは大変なものをみにきてしまったと次第に背筋が伸びてくるのだった。

 「純真、天真爛漫」を意味する名をもつ私生児のキャンディードは、男爵のお城で哲学博士バングロス(市村正親 原作者ヴォルテール役も演じる)の説く「楽天的最善説」を信じ切っている。しかし男爵令嬢との恋を見とがめられ、城から追い出されて諸国を放浪することになる。そこで彼がみたものは戦争、略奪、予期しない自然災害、理不尽な宗教裁判であり、彼は人々に利用され騙される。いっぽうで彼に救いの手を差し伸べてくれる人もあり、これで何とかなりそうかと思っていると、また散々な目に逢わされるのだった。

 舞台には何もなく、床から金色の円環がゆっくりと天井にあがり、劇中ずっと舞台上方にやや斜めの角度で止まっている。これは物語の世界を支配すると同時に見守っている存在、人ではない何かを象徴的に示すものと思われた。ヴォルテール役の市村正親が物語の進行役となってほぼ出ずっぱり。小説でいえば「地の文」を語るかたちをとっており、この形式は珍しいだろう。休憩をはさんで第二幕、オーケストラの演奏がはじまると急に拍手が起こったので何かと思ったら、市村正親が客席を通って舞台に向かって歩き出していたのだ。ゆっくりと客席通路を歩き、ステージ近くで両手を高くあげたとき、拍手は最高潮に高まった。この瞬間、市村は満場の観客すべてを掌中にしたのだ。

 バーンスタインの作品を語るときに、多くの人が異口同音に口にするのが『ウェストサイドストーリー』であるが、自分はきちんと聴いたこと、舞台をみたことがなく、バーンスタインの曲について自分の印象がないのだが、『キャンディード』は素人が聴いても難曲が多いと感じた。猛練習があったとは思うが、出演俳優は主要な人物はもちろん、アンサンブルにいたるまで抜群の歌を聴かせてくれる。正直これには感嘆した。前半の「着飾って輝いて」これは曲じたいに歌い手のテクニックを披露する印象がなきにしもあらずだが、ここは素直になって、小鳥のさえずりのよう超高音域の難曲を歌いこなした新妻聖子に拍手をおくろう。後半では人々がわが身の不運を次々に嘆き、怒りをぶつけ、「どうしてこうなの?!」という大合唱になる場面では、歌をきいて背筋がぞくぞくするような感覚を久しぶりに味わった。

 各国のかつての王たち6人がひとつのゴンドラにのって運河をわたる場面は、シェイクスピアの『マクベス』後半で8人の王たちが登場する場面を想起させるし、死んだと思った人たちが実は生きていて再会の大団円にまとまるところは、同じく『ペリクリーズ』を思わせるが、ご都合主義とは感じられず、ヴォルテールによって命を吹き込まれた人物たちと3時間の旅を終えた達成感が得られた。

 西洋の思想、哲学、信仰が背景にある本作は、作る側にも受け取る側にも難しさがある。しかしジョン・ケアード版『キャンディード』から、自分はまず「信じることを恐れまい」という課題を与えられ、途中「疑問に思う自由もあるし、疑うことは罪ではない」と教えられ、そののちにたどりついた信じる心が最善なるものへ導かれていく希望を贈られた。楽しむだけではない、心の深いところに何かを残す夜になった。

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