因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

8月の予定

2007-07-29 | 舞台番外編
 旅行や帰省があって、8月は観劇が激減しそうです。ちょうど因幡屋通信、えびす組劇場見聞録次号の原稿提出の時期なので、こちらも一生懸命やりなさいということでしょう。
テアトル・エコー SIDE B公演 e-blood『遭難、』
ハイリンド『幽霊はここにいる』
黒色綺譚カナリア派『リュウカデンドロン』
机上風景『乾かせないもの』

 夏休みと言えば読書です。
 まだ読めていない本→ドストエフスキー『罪と罰』。6月のJAM SESSION公演『罪と罰』の宿題を延々とやっています。
 これから読む本→長谷部浩『菊五郎の色気』 このところ歌舞伎にご無沙汰しており、少し感覚を取り戻したくて。
 読み直そうと思っている本→吉田秀和『音楽の光と翳』ずっと以前友人が「自分が知る、最高の音楽批評」と勧めてくれた。先月NHK教育テレビで放送された「言葉で奏でる音楽 吉田秀和の軌跡」の録画を何度も見直している。吉田さんの評論は(様づけ、先生じゃないと畏れ多い?)読み終わったあとにも深い余韻が残り、対象となった音楽を聴くと「ああ、こういうことだったんだな」と、より音楽を楽しむことができる。音楽の素晴らしさを言葉によって伝えたいと言葉の力を信じて、93歳の今も現役として評論活動を続けているその姿には、ほんとうに背筋が伸びる思い。演劇の素晴らしさを伝えたい、言葉の力を信じたいという自分の願いの支えです。

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散歩道楽プロデュース第1回公演 ドリームダン

2007-07-23 | 舞台
* アートスペースプロット 公式サイトはこちら 公演は22日で終了
1本め:「ブランコに行列」川原万季作・演出 開幕前黒いドレスで肩に鳥を止まらせた川原万季が来場御礼の挨拶。は、いいのですが、「ではちょっと待ってください」と裏に引っ込み、上手天井から吊るされたブランコに乗って再登場したのにはちょっと拍子抜け。こういう登場をするのであれば、ご本人状態でのご挨拶は興をそぐのではないか?しかし歌い始めた「あなた」のド迫力に驚いて、もろもろぶっとんでしまった。小坂明子の「あなた」は愛を夢見る女の子の歌なのだが、川原は1オクターブ低く歌い始め、「(小さな家を)建てたでしょう」の箇所では息が荒くなったりして、夢など一切叶わなかった女の怨念のよう。この役は劇の途中で再び唐突に現れるが、歌いだしてすぐカーテンが閉められてすぐいなくなる。冒頭、部屋のベッドで寝ている男の妄想の中にいる女なのか、彼の過去に関わった女なのか。実際の劇中人物との関連がほとんどなさそうなところが却っておもしろかった。いくつかの恋が変化したり生まれたり、あっという間に消えたりという他愛もない物語。少し刈り込んだほうがいいかなとも思うが、人物の描き方、配役はじめ演出は的確。
 2本め:「朝がくるたび、そう思う」太田善也作・演出 舞台には荒れ狂う荒波を描いた幕がかかり、一人の女が靴を脱いでそろえ、飛び込もうとする。装置や小道具を思い切り省略した大胆な作り。自殺を止めに入った漁師とともに、自分の過去を振り返るというのが話の筋なのだが、過去の人物がどんどん入れ替わり立ち替わりで、まったく見飽きない。体操服姿のいじめっ子たち(ブルマなんて久しぶりに見た)や、いかにも嘘くさい悪魔、異様に若い祖母など、演劇はこんなにも自由でいろんなことができるのだなと嬉しくなるようなおもしろさだった。一人の女性の自分探しという題材は割合よくあるし、物語のまとめ方、終幕についてはあと一歩何かが欲しいとも思うが、観劇環境としては決してよいとは言えない小さな劇場で、これだけ楽しませてくれるとは。

 阿佐ヶ谷はもともと好きな街だが、商店街はずれにあるこの劇場は今回が初めてである。寝不足もあって疲労困憊の果ての観劇だったが、気持ちが軽くなった。今度は商店街をゆっくり散歩しながら来るとしよう。

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ダンダンブエノ 双六公演『砂利』

2007-07-22 | 舞台
*本谷有希子作 倉持裕演出 公式サイトはこちら 青山スパイラルホール 31日まで
 歌舞伎俳優の坂東三津五郎と、あの片桐はいりが同じ舞台に立っている。このありえない、冗談のようなことが目の前で起こっているのだ。三津五郎は旧家の長男で、小学校時代に自分が苛めた女の子が復讐に訪れると思い込んで怯えている。身重の内縁の妻(田中美里)の姉(片桐)がうちを訪れ、どんどん話がおかしくなっていく・・・。

 知らなければ、スウェット姿で右往左往する情けない長男を演じているのが歌舞伎俳優とは思えないだろう。それくらい三津五郎は台詞にも動作にも、歌舞伎俳優であることを見事なまでに消していた。日本刀を構える所作や庭に敷き詰めた砂利の上を音がしないように歩く動作にもまったく。自分がこれまでの俳優人生で培ったものを敢えて見せずに、新しい世界へ飛び込んだその心意気にまずは拍手。

 随分前になるが、利賀村の演劇祭のリポートだったかNHKの番組で、片桐はいりについて演劇評論家の大笹吉雄が「片桐はいりっていう役者っていうか女優っていうか俳優っていうか、その超人間性というのか、はじめてみたとき何が出て来たんだろうと思って」と言いよどむのを対談相手の衛紀生が「おっしゃりたいことはよくわかります」と苦笑していたことを思い出す。この印象は今も変わらず、登場しただけで舞台の空気を一変させ、「こ、これはいったい何?」と客席を動揺させる。

 ふたりのやりとりは大変におもしろいのだが、舞台ぜんたいの印象はあまりはっきりしなかった。敢えて坂東三津五郎を、片桐はいりを配役したのはどうしてだろうと、ある意味身も蓋もない疑問を抱いてしまう。さらに砂利を踏む音で台詞がよく聞き取れないところもあって、何とも不完全燃焼。もっと先が、もっと深いものがあってほしいのだけれど。

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ブラジル公演『天国』

2007-07-21 | 舞台
*ブラジリィー・アン・山田脚本・演出 公式サイトはこちら ザ・ポケット 公演は22日で終了
 「期間工」とは、ある一定期間住み込みで働く期間労働者のこと。当日チラシ掲載のアン・山田の「ごあいさつ」によれば、給与はじめ待遇は悪くないが、単純作業なのでいくら働いても技術の習得にならず、体力はもちろんそれ以上の精神力が必要とされるとのこと。仕事は何でも大変だが、大変さの度合いや喜びや誇りを見いだすことができるかどうかは仕事によって、働く人によって異なるだろう。ブラジルの新作は、どこか地方の町の自動車工場の期間工たちの物語である。

 彼らが美人女将を目当てに夜な夜な集う居酒屋が舞台。期間工として働く理由はそれぞれあって、日頃の憂さを安酒と女将の手料理で晴らす男たちの会話のおもしろさが開幕直後あっと言う間に客席を掴む。謎めいた女将と男たちとの関わりが、過去のものが知らされるだけでなく、どんどんもつれていく。過去はいったい誰の話すことがほんとうなのかよくわからないし、「過去+新規の出来事」が次々に起こって、最後は血まみれの惨状となる。ん?これは先月みた阿佐ヶ谷スパイダースの『少女とガソリン』に似ていないかしらん。

 話が妙な展開を始める前兆として、女将の口調(アクセント)に突然過剰反応する期間工サトウ(西山聡)のリアクションが少々わからず、早々と躓いてしまった。そこまでは馬鹿話だったのが、この場面を分岐点としてとんでもない方向へ暴走していくのであるが、酔っぱらいの奇態にしてはちょっとくどいなと感じ、そのあとの急展開に結びつかなかった。未来の不確かなことの象徴であるかのような期間工を描くことと、過去が明かされ、どんどん事件が起こっていくことのふたつがどちらも重すぎて最後はいささか拍子抜けの印象。結論が欲しい、オチを知りたいというわけではないが、これでは終わっても帰るに帰れず、場内に流れる越路吹雪の『サン・トワ・マミー』を意味もなく口ずさむ。

 設定(場所、登場人物など)と事件のバランスは難しいのだと思う。設定が重すぎて事件が受けきれない場合もあるし、かといって淡々と流れる日常を描き通し、舞台として成立させるにはまた別の力量が必要になる。アン・山田氏は「期間工」という生き方に、どういう距離感をもってこの物語を書いたのだろうか。寄り添う優しさでもなく、冷徹な観察眼とも違う何かがあることは感じ取ったのだが。

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蜻蛉玉公演『たいくつな女の日』

2007-07-19 | 舞台
*島林愛作・演出 公式サイトはこちら プーク人形劇場 公演は17日で終了
 劇作家はどんなことを描いてもかまわないと思う。ごく個人的なレベルの内容であっても、ハードな政治的な問題であっても、そこに観客にみせたい、伝えたいという意志があり、それが客席に伝われば、劇場は幸福な空間となる。そうするためには何が必要だろうか。たとえば柳美里は、自分の生い立ちや家族など、決して幸福とは言いかねる現実に食らいつくように、「これでもか」という気迫で舞台や小説を作り出していった。また劇団フライングステージの関根信一は自分がゲイであることをカミングアウトし、ゲイのコミュニティと周囲の人々との共生を描こうとしている。どちらも一見極端な世界や設定であるが、次第に引き込まれていくのは、劇作家の思いと観客をつなぐ何かが確かにあるからだろう。それは人物の設定やストーリーの工夫など、具体的な一種の職人芸的面もある。しかし何より、お芝居が始まってすぐに感じる「空気感」、舞台からの吸引力とでも言えばいいのだろうか。それがあれば、どんなに小さな世界を描いていても、劇作家の自己満足や自己救済、自己解放にとどまらず、演劇として成立するだろう。

 今回の『たいくつな女の日』に、残念ながらそれらは感じられなかった。水瓜とトマトがなった不思議な場所、上にも下にも果てしなく続いていく螺旋階段の作りや、その階段を必死に上り下りする女の子たちが求めているのは水だけではない、自分の存在を確かにするための何かだとは思うのだが。

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