因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

3月の予定

2007-02-28 | 舞台
 2月の予定は無事に終了しました。今月も実り多く、刺激的でした。ありがとうございます。未定のものも含めて3月の予定はこんな感じです。春風に乗って舞台の魅力をますます味わえますように。
とくお組『TOWER OF LOVE』
ユニークポイント『イメージの世界』
『浮力』リージョナルシアター・シリーズの創作・育成プログラム部門というプロジェクトなのだそうですが、下総源太朗さんがみたい、ひたすらそれだけなのです(笑)。
COLLOL『きみをあらいながせ』 横濱リーディングコレクションの勢いに乗って、宮沢賢治の世界をもうひとつ。
*ロック★オペラ THE WHO'S『TOMMY』
龍昇企画 漱石プロジェクト第3弾『夢十夜』 
五反田団『いやむしろわすれて草』
イキウメ『狂想のユニオン』
ニットキャップシアター『お彼岸の魚』

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庭劇団ペニノ『笑顔の砦』

2007-02-25 | 舞台
*タニノクロウ作・演出 下北沢駅前劇場 公式サイトはこちら 公演は3月4日まで 第17回下北沢演劇祭参加作品
 この記事にはネタばれがあります。これからご覧になる方はご注意ください。
 公演チラシには「介護とは何か?痴呆とは何か?を世に問う」とあって、いずれは避けては通れない道だけに、きっと楽しいとは言いがたい舞台であろうとあらかじめ心に予防線を張って客席についた。どこか海辺の小さな町の古いアパートの2部屋が舞台である。下手には漁師タケさん(久保井研)が住み、漁師仲間が朝夕に訪れる。タケさんは45歳の独り者で彼らの兄貴分らしく、料理の腕前もなかなかのようだ。男たちが取れたばかりの魚で豪快に朝飯を食う(是非こう表現したい!)場面は、むさくるしい中にも人間の基本的な欲望のひとつ、食欲というものが自然に描かれており、舞台で実際に飲み食いすることの効用については懐疑的なわたしも、普通に受け入れてしまっていた。

 上手の部屋にはいつのまにか30歳くらいの女が引っ越していたらしい。老婆(マメ山田)のお襁褓を換える場面から始まって、いよいよリアルな介護ドラマが始まるかと身構えた。女は介護士(五十嵐操)で、老婆の肉親ではないらしいのだが、押し入れに自分の着替えを用意していたり、時には部屋に泊まったりとよくわからない。「隣に若い女が引っ越して来た」と男たちは色めき立つが、女はただならぬ雰囲気で彼らを全く受け付けない。そしてタケさんは女と老婆のとんでもない様子を覗き見てしまう。

 老婆の行為は、女に対して「迷惑かけてごめんね」という気持ちなのか、石のように心を閉ざす女に「ほんとうはこうして欲しいんだろう」と捩じれた肉欲をいたぶっているのか、またそれを女がどう感じているのか、どれでもあってどれでもないような、曖昧なままであった。描き方によってはとんでもないキワモノ的場面なのだが、みていて不愉快な気持ちにはならないことが不思議であった。
 
 音楽のせいなのか、終演後思いがけず優しい心持ちになっている自分に気づく。物を食い、排泄をし互いの肉体を求め合う。これは普通の自然な行為である。どれも人間のありのままの姿であることだと素直に受けとめられた。特に大事件も起こらず、何か強烈なメッセージがあるわけでもないが、これはやはり愛の話ではないかと思う。誰かに今の気持ちを話したいような、黙っていたいような不思議な感覚。電車の窓からの風景が柔らかく目に映った。

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東京Ne+wS『嘘つきなひだりがわ』&『蛇がわの女』

2007-02-24 | 舞台
*ハナヲ作・演出 下北沢OFFOFFシアター 公式サイトはこちら 公演は28日まで  第17回下北沢演劇祭参加作品
 雪深い地方のペンションの1階ロビーの午後3時。東京からの客に加え、地元の青年や休暇で帰省中の警官、オーナーの奥さんのいとこなどがやってきている。オーナー夫婦のきさくな人柄もあって、人々が気楽に立ち寄れるペンションらしい。だが話が進むうち、奥さんのいとこがほんとうは赤の他人だったり、警官が実は仕事をやめていたり・・・と登場人物のほとんどが少しずつ嘘をついていることがわかってくる。ペンションの従業員の広(ひろむ)くんは、人の左側に立つとその人の言うことが嘘かそうでないかがわかるという不思議な能力がある。折しも町ではバラバラ死体の一部が発見され、ここにいる人たちの誰かが犯人ではないかという疑いが広がりはじめ、舞台は次第にサスペンスドラマ風に。

 内容が内容だけにネタばれの記事は書けないのだが、これは「プチ公演」と銘打たれた『蛇がわの女』と是非セットでご覧になられたし。本編約80分に対して30分ほどの小品なのだが、同じペンションの2階客室の同日午後3時15分が舞台なのである。ロビーでこういうことを言っていた人が、2階ではこんなことを言っている。え、この人さっきいなかったよなどなど。すべてが明らかになるわけではなく、逆に謎が深くなるところもあって混乱させられる。できればどちらもちゃんと起きて(ぜんたいの雰囲気が緩いので、ついつい眠気が)もう一度見直したい。しかし何度みても人の心のほんとうのところはわからないのかもしれないが。他人どころか自分の心だって。

 もしこれが本多劇場だったら、ひとつの舞台に1階と2階を作って同時進行の芝居にできるだろう。そうすればもっとわかりやすいだろうが、謎解きに心が奪われて平凡な芝居になったかもしれない。これが初見の劇団、今後も要注意である。

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横濱リーディングコレクション#2宮沢賢治を読む!『セロ弾きのゴーシュ』

2007-02-23 | 舞台
*宮沢賢治作 構成・演出大岡淳(普通劇場) 相鉄本多劇場 公式サイトはこちら 公演は25日まで
 開演前の場内には賑やかなロック?が流れ、舞台には譜面台が3脚。昨夜までの静けさとは違うライブハウスのような雰囲気である。上演中の録音や録画は普通「固くお断り」なのだが「特にこだわりませんのでご勝手にお願いいたします。」だと。どうも今夜は様子が違うぞ。開演するとステージ中央に走り出たのは、演出もしている大岡淳。これから始まる『セロ弾きのゴーシュ』の前振りのMC風の軽快な、というか相当てんぱったトークに始まり、楽長役の俳優の登場をアナウンス。まさにロックのライブである。

 大岡淳の名前を知ったのは随分前になる。若手評論家として演劇批評誌で鋭い論評を執筆していた。才気煥発な印象で、自分の感覚、演劇観とはあまり接点がない、難解な批評家というイメージがあった。みずから演劇活動もしていることも知っていたが足を運ぶこともなく、実質今夜が演劇人としての大岡氏を初めてみたことになる。

 気になったのは、客席の内輪観客の大笑いである。自分たちは既にこの世界を知っている。わかるわかるという共感の意思表示であるが、言い換えるとそれを知らない他の観客に対して「自分たちは違うぞ」という少々特権的な意識の表われに感じられるのである。この公演に限ったことではないが、あまり感じのいいものではない。

 大岡の司会?によって『セロ弾きのゴーシュ』のライブが進行する。歌のあいまにMCが軽快なトークをはさみつつ盛り上げるライブ感覚である。リーディングとは作品に対する演出家の批評であることが改めてわかる。まったく予想外の作り方であっけにとられてしまった。誤意訳の中野成樹の手法を連想させるところもある。

 終演後のポストパフォーマンストークで、猫役を演じた今井尋也(メガロシアター)が、「賢治の見方や視点が偏っていないか、彼のネガティブな部分を隠して美化している。もっと違うものにしたかった」と述べていて、舞台とは別人のように穏やかで思慮深い話口で、思わず聞き入ってしまった。

 今夜の『セロ弾きのゴーシュ』は、作品そのものよりも演出の大岡淳が脱演劇宣言をし、新しい方向を見いだすための決意表明の場のようであった。彼の演劇感、人生行路とでも言おうか。評論家としての彼しか知らなかったので、とてもいい声をしていること、実に頭脳明晰であること、しかし観念に走ることなく、こちらで思うよりなりふり構わず必死なところもあって、幸せなのかそうでないのかわからない人だなと思った。いや、こんな言い方とても失礼なのだが。「自作を批評してくれる人が誰もいない」と嘆いていたが、それも彼の資質なのでは?少なくともわたしの演劇観や思考回路では彼の役には立てそうもない。こんなところにこんなことを書かれてしまって。

 うちへ帰ってささやかに祝杯をあげる。今回のシリーズを楽しめたのは、自分が熱烈なる賢治ファンではなかったことが大きい。不勉強であること、過剰な思い入れがない分、自由に楽しめたのだろう。刺激的で実り多い横浜の夜に感謝。


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横濱リーディングコレクション#2宮沢賢治を読む!『オツベルと象』

2007-02-23 | 舞台
*宮沢賢治作 構成・演出 鳴海康平(第七劇場) 公式サイトはこちら 公演は25日まで。
 昨夜より開場時刻が5分遅い。劇場に入ってその理由がわかった。既に俳優が板についているのである。布のかかった寝台のような箱の上に一人が横たわり、それを取り囲むようにして数人が立つ。微動だにせずひたすら立っている。今夜の舞台は『オツベルと象』のほかに賢治の評論や詩集『春と修羅』からも引用があって、一筋縄ではいかない構成になっている。俳優の演技には緊張感が漲っており、舞台にはただならぬ熱気が渦巻いていることは感じられるのだが、それが客席に伝わって観客の呼吸と交じり合い、劇場ぜんたいの空気を熱くしていたとは言いがたい印象がある。演出家の手法、作品の解釈という面が強すぎて、『オツベルと象』という作品そのものが遠のいているのではないか。波長の合う舞台があるのと同時に、合わないものもある。単純に好みの問題とするのは残念だが、たとえば宮沢賢治のことをもっと勉強したら、今夜の舞台を充分に理解し楽しむことが果たしてできるのだろうか。

 うちに戻って『オツベルと象』を読み返す。するとオツベルの姿や「もう、さようなら、サンタマリア」という象の声がいろいろなイメージで広がってくることに気づく。おそらくあまりに強烈な舞台をみたために、それまで自分の中にあったイメージが消え去ってしまい、解放されたのだろう。「リーディング効果」である。

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