因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

因幡屋通信49号完成&新規設置先「穂の国とよはし芸術劇場PLAT」

2015-01-31 | お知らせ

 おかげさまで因幡屋通信49号が完成し、本日設置先各劇場、ギャラリーあてに発送いたしました。
 今回は薄いグリーンで、「ゆたちゃんがつなぐ夢」と題し、studio salt第18回公演『柚木朋子の結婚』を取り上げました(観劇後のブログ記事はこちら→1,2)。2006年に出会ってから今日までのstudio saltと客席の自分の歩みを振り返るものとなり、偶然の出会いに導かれた「演劇的必然」に驚きつつ、嬉しく感謝しております。

 えびす組劇場見聞録では、十一月新派特別公演から『京舞』、みつわ会公演から『舵』を取り上げました。
 観劇後のブログ記事をリンクしておきますね。ご参考までに。

 また今号より、愛知県豊橋市の「穂の国とよはし芸術劇場PLAT」さんに設置していただくことになりました。
 ありがとうございます!
 ご理解ご協力に心より感謝いたします。

 気がつけば因幡屋通信、えびす組劇場見聞録ともに、50号が目前に迫ってまいりました。最初は区民館のコピーサービスコーナーに版下を持ち込んで印刷し、近所に住むメンバーのうちで2つ折り作業、送り先ごとに重さを量り、切手を貼ってポストから投函していました。ほぼ半日作業です。
 いまは印刷屋さんから2つ折りされたものが納品される上に、メール便の集荷にきてもらうので2時間で終わります。
 年月の流れとともに、クロネコヤマトメール便が3月いっぱいで廃止されることによる経済的、作業的負担をどう解決するかという課題に直面することになりました。メンバー一人ひとりの生活にもさまざまな変化があり、仕事が忙しくなる一方のなかで観劇の時間とお金をやりくりし、文章を書きつづけるためには、小さなハードルを日々越えなければなりません。

 けれどこれからも舞台を大いに楽しみつつ、劇場を訪れる方々ひとりでも多く手に取っていただけるよう精進してまいります。
 どうかよろしくお願いいたします。

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東京乾電池公演 岸田國士ふたり芝居

2015-01-29 | 舞台

*公式サイトはこちら 新宿ゴールデン街劇場 2月1日まで (1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14
 岸田國士の短編『命を弄ぶ男ふたり』、『葉桜』、『ヂアロオグ・プランタニエ』の3本立て。演出家はとくに存在せず、出演者、スタッフ協力し合って行ったものと思われる。

★『ヂアロウグ・プランタニエ』
 「シアターアーツ」2009年春号に掲載の演劇時評「綿密に目論むべき大切な仕事」(谷岡健彦)を読んでから、興味を持っていた演目で、今夜が初見となった。

★『命を弄ぶ男ふたり』 川崎勇人、前田亮輔
 どういうわけか、この作品は何度もみる機会があった。→1,2,3

★『葉桜』 上原奈美、中村真綾
 こちらも2010年1月西川信廣演出版、同年6月shelf公演 を観劇体験あり。もっとあるような気がする。

 1本めの『ヂアロウグ・プランタニエ』をとてもおもしろくみた。
 舞台の細かいところを書きますので、これから観劇される方はご注意くださいませ。

 ふたりの若い女性(沖中千英乃、松元夢子)が、ひとりの青年の愛がどちらに向けられているかを話す15分ほどの小品である。
 しかしこのふたりがどこでおしゃべりをしているのか、そもそも何歳でどういうつきあいの友だちなのか、戯曲には何の指定もない。
 ほんとうにあっけにとられるほど、ないのである(注:戯曲は青空文庫で読めます)。
 
 演劇時評「綿密に目論むべき大切な仕事」によると、2008年12月の公演では、窓のかたちをしたパネルを舞台の前面に置き、あたかも観客は、このふたりが喫茶店の窓際のテーブルについておしゃべりしているところをみているというこしらえだったそうだ。この装置によって、観客は視野を狭められ、小さな窓枠のなかで行われる対話、ふたりの表情の微細な変化などに注目するようになる。映像でいえばクローズアップの手法が効果的に用いられていたというのである。

 今回上演前の舞台には中央には木の丸椅子がふたつ置かれている。上手には何か装置があるらしげに黒幕で覆われ、その上に公演名の書かれた白い布が掛かっている。あの窓枠はないんだな。
 幕が開くとそこにあらわれたのは緑色の板!それがまるで川の土手のようなあんばいで舞台上手に斜めに立てかけられている。由美子と奈緒子はその板の上部に腰をおろして対話するので、観客はどうしても見上げる姿勢になる(ふたつの丸椅子はぎりぎりに入場した観客用だったらしい)。
 なぜこんなに見上げねばならないのか、ゴールデン街劇場は意外と天井が高いんだななどと考えながら、このいかにも嘘くさいというか、とってつけたような舞台美術に吹き出しそうになった。

 さらに女優ふたりの服装やメイクがおもしろいのだ。奈緒子役の沖中はショートカットにパンツスタイル、踵の高いパンプスを履く。おまけに濃いアイシャドーと太いアイラインで目元を強調し、まるで宝塚の男役のようだ。いっぽう由美子役の松元夢子は、髪をおさげのように両脇に垂らし、眼鏡をかけて化粧気もない。どうということのないスカートに短いソックス、ズックのようなものを履いている。服装とメイクによって、ふたりの性格がどのように違うかを示す意図も感じられるが、おかしいのは、ふたりともこれ以上ないというほど垢抜けない、おそろいの事務服を着ているところである。
 着ているものや化粧の趣味、性格も大きく異なる由美子と奈緒子だが、男性から見れば似たような年頃の、同じ事務服を着た若い女性であり、終盤で、ふたりの心を支配している「町田」という男性が由美子のほうを好きらしいとわかるが、それにもことさらに決定的な理由もなさそうに思われる。

 戯曲に指定がなければ、ふたりの服装やメイク、場所なども自由に設定できる。しかし何でもいいわけではなく、何かしらの必然や効果、戯曲の本意を示すものであってほしいと思うわけである。というか、観客はどうしても「意味」や「意図」を知りたい、答を求めてしまう。だから蜷川幸雄が『マクベス』で舞台に仏壇をこしらえたり、『ハムレット』では巨大な金網のなかで藤原竜也を暴れさせたりするたび、「演出家の意図はどこに?」と前のめりになるのだ。どんなこしらえ、趣向になるのかは観劇の楽しみのひとつではあるが、それが前面にですぎると、戯曲の本意を見失うことになりかねない。

 さて小さな窓枠を置いてクローズアップに成功した『ヂアロウグ・プランタニエ』は、今回の「緑の土手」でどのような効果を上げたのか。まず場所がはっきりと屋外に指定されたことを考えたい。好きな男性の話、仕事の悩み。話す内容は同じでも、喫茶店で向き合うのと、川べりの土手に並んで座り、空や川を見るでもなく見ないでもなく話すのとでは、やはり対話の色合いや話す人の心もちが変わってくるのではないか。
 むろん同じ戯曲で、同じセリフを言っているのだから大きく意味が変わったり、それによってちがう結末になるわけではない。
 しかしひとりの男性の愛を得られるか失うかという人生の大問題において、「恨むでせうね」、「きっと殺すわ」、「死んでしまふわ」といった切羽詰まったことばであっても、緑の土手で語られる場合、どこか風に乗って流されていくような解放感、あてどのなさが漂う。
 若い女性の思いが凝縮され煮詰まるのではなく、虚しく散らされ、消えていくのである。

 上品なコントのような味わいがあって、これは東京乾電池の財産演目・・・というより実験演目として、ぜひこれからもときどき上演してほしい。といって「今度はどんなこしらえに」ということを過剰に期待せぬよう、自戒しつつ。

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「加藤武 語りの世界」

2015-01-29 | 舞台番外編

*公式サイトはこちら 1月17日のみ 日本橋亭
主催者である宮岡博英事務所は、2005年より「加藤武の宮本武蔵」と銘打ち、吉川英治の「宮本武蔵」朗読独演会を行ってきた。今回はその『宮本武蔵』と小山内薫の『息子』の二本立てだ。前者はこれまでの公演で語られなかった箇所が披露されるとのこと。「お江戸日本橋亭」の小さな会場は満員札止めの大盛況。椅子席につけず、桟敷席に座った。舞台がこんなに近いとは・・・。

 まずは今回のゲスト・落語家の桂三木男による一席。猿に似たご面相であることから、「猿」が禁句のこわいおかみさんをうっかり怒らせてしまった。どうすればご機嫌をなだめ、お小遣いがもらえるか。ない知恵を絞ったあげく、とんだ「猿知恵」となる顛末。

 つづいて加藤武が登場し、小山内薫『息子』を語る。
 手に台本を持つ朗読ではなく、いわゆる「無本」の語りである。
 当日リーフレットによれば、この一幕ものは歌舞伎でもたびたび上演され、戦前戦後の学生演劇でも人気演目であったとのこと。とはいえ、3人の登場人物をひとりで語るにはさまざまな困難があり、工夫が必要であったと思われる。大雪の日に突然小屋に飛び込んできた見知らぬ男と、火の番の老爺の会話が中心の短い物語だ。この男がお尋ね者であり、かつて出奔した息子であるらしいことなど、はじめてみる(聞く)ものであっても話の筋はわりあい読めるものだ。
 「朗読が読書会になっちゃあいけない」というポリシーで、あくまでも芝居の一環(公演チラシより)というのが、加藤武の心意気であるとおり、座ったままの姿勢がときに窮屈に感じられるほど、からだの動きも加わっての熱い語りであった。

 中入り後はもうひとりのゲスト・三味線のお囃子・岡田まいによる音曲の一幕。
 これが軽やかで非常に楽しかった。
 岡田さんは日ごろは都内数か所の寄席で、舞台の袖から落語家の出囃子、落語の中に出てくるさまざまな音曲を弾いておられるとのこと。まだ若く、しかもこんなに美しい女性がお客さまに顔を見せないとはもったいない話である。
 さて岡田さんはお客さまの前で語るのはあまり慣れておられないようだったが、そこがかえって好ましく、それが謡いの「梅は咲いたか」になると一遍、艶やかな声になるところがいっそう魅力的だ。
 また出囃子の曲は噺家によってすべて決まっており、「たとえば林家三平師匠はこれ、木久蔵師匠はこれ」と、いくつか例をあげて披露された。なかには亡くなった先人があまりに偉大であるため、同じ曲を使う人がいないなどのエピソードも語られ、不勉強の門外漢は聞き入ることしきり。さらに今度は客席からリクエストを募り、「志ん生」、「志ん朝」(ここの記憶はあいまい。お許しあれ)とつぎつぎにあがる声に即座に対応し、あざやかに弾いてくださる。

 すごいのは岡田まいさんだけではない。この日の太鼓は前半に登場した桂三木男で、三味線と同じく、どの師匠の何の出囃子であってもすぐさま調子を合わせ、小粋な響きを聴かせるのである。
 最後の曲は「かっぽれ」(これなら知っている!)で、「ついさっき決まったのですが」と、なんと加藤武が太鼓を演奏することに。出囃子の太鼓というものに、ピアノやヴァイオリンのような「楽譜」があるのかどうかはわからないが、決まったリズムで叩けばいいというものではなく、三味線と呼吸を合わせ、ほんの少しのタイミングもはずさず、ぴたりと収めねばならない。そうとうな年季が必要ではなかろうか。
 小気味よく、うきうきするようなか「かっぽれ」のあとは、いよいよ「宮本武蔵」である。

 吉川英治の「宮本武蔵」の「二天の巻」より、『魔の眷属』の一段。これは武蔵と鎖鎌の名手・宍戸梅軒の対決の場である。
 小説であるから地の文と台詞の部分があるのだが、内容が内容だけに、加藤武の語りは前半の『息子』よりも数段熱く、全編がダイナミックに躍動しながら客席に押し寄せるかのような迫力である。かといって過剰な演技とは感じられない。十年以上前に放送されたNHK大河ドラマ『武蔵』で、市川新之助(現・海老蔵)の武蔵と、吉田栄作が演じた梅軒の一騎打ちを思い出しつつ、しまいにはそれもどこかに消し飛んで、加藤武の語りに前のめりで聞き入った。

 これは語る俳優はもちろんのことだが、吉川英治の「宮本武蔵」じたいにそうとうな熱量があると思われる。これほど熱く力強い声と演技がぶつかってきてもびくともしない。
 逆に言えば、語る者はここまで気合を込めねば文章に負けてしまうのだ。
 昨今さまざまな形式のドラマリーディングが行われるなか、「加藤武 語りの世界」は極めてシンプルなつくりである。演出家がみずからの視点で読み込み、新しい切り口を示すといった色合いは影をひそめ、原作と役者があるのみ。潔く、あっぱれである。
 今年の春で86歳になる加藤武は、 かつての雄姿を思い起こすと、さまざまな面で衰えが感じられるのは否めない。しかしこの方にはなんというか、「おれはぜったいにがんばるぞ」という若手顔負けの懸命な熱意が溢れており、しかもそれが暑苦しく押しつけがましいものではなく、ユーモラスな愛嬌を醸し出し、加藤武しか持てない魅力に通じているのだ。
 必死のご本人には失礼かもしれないけれど。

 松はとうに過ぎたが、小ぢんまりした寄席で落語と三味線、語りをたっぷりと味わい、お正月らしい心持ちになれた。落語をもっと知りたいと思うのだが、寄席にはなかなか足を運べない。今回の会がきっかけになって、つぎの一歩に踏み出せますように。 

 

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劇団俳優座『桜の園』

2015-01-27 | 舞台

*アントン・チェーホフ作 湯浅芳子翻訳 川口啓史演出 公式サイトはこちら 俳優座劇場 25日で終了
 今回の公演チラシはB4サイズ二つ折の立派なもので、俳優座におけるチェーホフ作品上演年表が掲載されている。1950年の『三人姉妹』にはじまり、『かもめ』、『ワーニャ伯父さん』、そして今回の『桜の園』まで、俳優座創立70周年の歴史のなかで、チェーホフが繰りかえし上演されつづけてきたことが一目瞭然である。
 なかでも岩崎加根子は1951年『桜の園』のアーニャ役を皮切りに、『三人姉妹』のマーシャ、『かもめ』のアルカージナ、東山千栄子亡きあとの『桜の園』のラネフスカヤ夫人を演じ継いできた。千田是也の薫陶を受けた、いわば「筋金入り」である。演出の川口啓史も千田是也の遺志を汲んで、まさに満を持しての舞台に挑戦するわけである。

 間近ではオクムラ宅公演『さくらんぼ畑』を楽しんだことが記憶に新しいが、いわゆる新劇系の上演をみるのはほんとうに久しぶりなのではなかろうか。

 岩崎加根子のラネフスカヤ夫人は想像通りの、いや想像以上に魅力的だった。
 まず冒頭、わが家に戻ってきたときの最初の一声。長旅に疲れ果て、家族や召使にからだを支えられてよろよろと登場する。しわがれた弱々しい声で「子供部屋・・・」とつぶやく。これまでみた舞台で、この台詞はもっと華やかで賑々しい調子で言われていたと記憶する。岩崎加根子のラネフスカヤ夫人は、もう若くないこと、疲れきっていることを隠さない。さらに、この人にはこんな過去と背景があって、性格はこう、だからこんなふうに話したり振るまったりするのだ・・・といったこちらの既成概念や思いこみを忘れさせる。
 ときにやんわりと優しく、ときに鮮やかに激しく、しかもそれらは実に自然で納得のいく造形であることに驚く。演出家がどれほど戯曲を読み込み、ひとつひとつの場面や台詞を吟味して、どのような演技がふさわしいか、どうすれば劇作家の本意が客席に伝わるかを考え抜いたことが想像される。
 公演チラシには岩崎加根子の「俳優はいただいた役を精一杯するだけ。作家の言いたいことの根っこを、わかるように伝える代弁者」ということばが掲載されている。咋年夏に参加した早稲田大学エクステンションセンター主催の「新劇の歴史と現在」でも同じことを語っておられ、これは女優・岩崎加根子の矜持であり、その姿勢が今回のラネフスカヤ夫人に如実にあらわれている。

 その岩崎のラネフスカヤ夫人によって活かされたのが、千賀功嗣が演じたロパーヒンである。千賀は長身のすっきりした容姿で、スマートなやり手のビジネスマン風だ。ロパーヒンの造形にありがちな、いかにも成上がりのギラギラした雰囲気は纏っていない。しかし桜の園の行く末を案じて、再三にわたってラネフスカヤ夫人に進言する真剣なまなざしに嘘はなく、子どものころ父親に殴られて怪我をした自分を労わってくれた夫人の優しさに感謝していることなど、夫人を心から慕っていることがわかる。だからこそ、たびたびの忠告に耳を貸さず、桜の園を手ばなす羽目になってしまった夫人の愚かさを、本人以上に悔しがり、彼女を傷つけてしまったことを激しく悲しむ。その一方で、自分がこの桜の園のあるじになった歓喜を爆発させるのだ。
 ただの悲しみや単純な喜びではない、実に複雑な感情の表現である。泣きながら喜び、地団太を踏みながら踊り出す。桜の園をめぐる勝者と敗者の感情が溢れでるこの場面。何度もみているものなのに、胸が締めつけられるような痛切を味わったのは、今回がはじめてであった。

 そして終幕、出発を促す声に、ラネフスカヤ夫人は「いま行きますよ」と応じる。思いのほか小さな声で、部屋のそとで呼びかけている者には聞こえまい。彼女は自分に言い聞かせたのだと思う。
 

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文学座公演『女の一生』プレ・イベント

2015-01-26 | 舞台番外編

*文学座、早稲田大学演劇博物館共催。1月14日18時30分~早稲田大学大隈講堂小講堂
 3月に三越劇場で行われる文学座公演『女の一生』上演ににさきがけて行われた。事前予約申し込みなしのイベントだが、小講堂はほとんどの座席が埋まり、なかなかの盛況である。

 第一部は、主人公布引けい役平淑恵と、堤栄二役上川路啓志による同作品の朗読だ。俳優お二人は台本をもって椅子にかけ、けいと栄治の場面に限って読み合わせを行う。第一幕第一場、焼け跡となった堤家でけいと栄治が再会する場面にはじまって、若いふたりの最初の出会い、中年になってからの再会と訣別、そしてふたたび最初の場面にもどって老境のふたりが穏やかにほほえみあって幕となる。今回演出を担当する鵜山仁も登壇し、読み合わせの途中でト書きを読んだり、かんたんな状況説明をしつつ、ダイジェスト版『女の一生』を導く。
 衣裳もかつらもつけず、椅子にかけたままの朗読である。しかし台詞のひとつひとつが粒だってこちらの耳に、心に響いてくる。上演のたびに清新な心持ちになれる大好きな演目だから、台詞を覚えてしまっている場面もあって、しかし「知っている台詞や場面をまたみている」という気持ちはまったくない。どうしてこんなにぐいぐいと惹きつけられるのだろう。

 休憩をはさんで第二部は、演劇評論家の大笹吉雄氏と演出家の鵜山仁氏をパネリストに、本作についてのシンポジウムが行われた。司会は早稲田大学教授で同大学演劇博物館副館長の児玉竜一氏。
 日本の演劇界の歴史における『女の一生』の特殊性を、その成立の発端から敗戦の数カ月前に行われた初演時の状況、劇作家森本薫のこと、杉村春子の俳優としての特殊性などがさまざまな方面から解説され、とてもメモ書きが追いつかなかった。『女の一生』を、そして杉村春子のことを語る大笹氏の熱いこと熱いこと・・・。

 シンポジウム終盤では、さきほど朗読を行った平淑恵にもマイクが渡され、杉村春子から布引けい役を受け継いだ1996年当時の思い出が語られた。文学座大看板であり、『女の一生』と言えば杉村春子しかないほどの当たり役が、まだ存命中に後輩に引き継がれることを知ったときは非常に驚いた。そして自分がまだ現役のうちに、この役を後輩に譲った杉村春子の潔さ、懐の深さに感服した。しかし長年のファンにとってはただごとではなかったらしく、杉村さんの自宅には、「どうしてあなたが演じないのだ?」という電話が鳴りつづけ、杉村さんは「電話線を抜いちゃった」とのこと。

 いまでこそ笑い話だが、これは本作のありかたを象徴するできごとではないだろうか。というか大問題であると思う。
 自分は文学座の内部の事情についてはまったく知るものではなく、以下の記述は作り手側ではなく、受け手、観客について考えたことである。

 何十年も演じつづけてきた杉村春子の「けい」がみたい。初々しい娘時代から堤家の女主人となり、夫や娘にも背かれて孤立し、それでも必死で家と仕事を守り抜く。主人公のすがたに劇団を背負ってきた杉村春子の人生がだぶり、有無を言わさぬ迫力、円熟の極みを堪能したい。その気持ちはよくわかる。しかしそこを一歩堪えて、若手の舞台を受けとめることも必要ではないか。
 杉村春子と比較するのではなく、いま演じているその人の生身のすがたから、将来の伸びしろを想像するのである。そのなかで、「こんな布引けいがみたい」、「この作品のこういった別の面を知りたい」という夢も生まれるはずだ。
 作品を受け継ぐのは作り手の劇団や演出家、俳優たちだけではない。観客もまた、この複雑で一筋縄ではゆかない過程を背負い、70年の長きにわたって上演されてきた『女の一生』を、観客の立場から継承するのである。

 大笹氏は、「にもかかわらず」ということばを何度も使われた。『女の一生』は、当時の国策によって書かされた作品であり、森本薫が書きたくて書いたものではない。にもかかわらず、これほどの長寿作品となった。また主人公の布引けいは、非常に癖があり、傲慢なところもあって、いわゆる「愛されるヒロイン」ではない。にもかかわらず、多くの観客が本作を支持した。ひとりの人物の少女から老年までを同じ俳優が演じることも、近代戯曲ではあまりない。にもかかわらず、新劇の老舗劇団である文学座の財産演目となった。

 自分にも、本作に対するいろいろな「にもかかわらず」がある。自分は杉村春子の熱心なファンでは決してない。にもかかわらず、『女の一生』が好きでたまらない。布引けいのことも、実をいうと共感できるところがあまりない。にもかかわらず、この女性の一挙手一投足から目が離せないのだ。
 『女の一生』をみるのは、作品じたいがもつさまざまな「にもかかわらず」をひとつひとつ検証することであり、自分の心にもある「にもかかわらず」から目を逸らさず、その理由を根気よく考えつづけることなのである。

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