因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

因幡屋6月の観劇と句会の予定

2017-05-31 | お知らせ

「若葉風」や「新樹光」などの季語を使う間もまく、あっという間に夏の日差しです。何とか関連サイトと過去記事のリンクをいたしましたので、改めてお知らせいたします。まずは6月の観劇予定から。
*語りライブ「楽語会」
 俳優が小泉八雲や太宰治、谷崎潤一郎などを語る会。西武新宿線野方駅から徒歩5分のブックトレードカフェ「どうひん」にて。
*劇団民藝公演 小幡欣治作 丹野郁弓演出『熊楠の家』1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20,21,22,23,24,25,26,27,28
 在野の碩学として名高い南方熊楠の後半生を豊かに描き、第19回菊田一夫演劇賞特別賞を受賞した作品が22年ぶりに再演される。折しも熊楠生誕150周年。
パラドックス定数 第38項『九回裏、二死満塁。』(1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20,21,22,23
 野球の話なのだろうか。想像しただけで動悸がする。あまり思い込まないようにしよう。
日本のラジオ6月本公演『ミズウミ』(1,2,3,4,5,6,7,8
 作・演出の屋代秀樹の創作は静かに、しかしたゆみない。今回はクトゥルフ神話がモチーフになったり、劇団肋骨蜜柑同好会の舞台が生んだ「田瓶市」が舞台になるとのことで、まったく予想がつかないが。
新宿梁山泊第60回公演 創立30周年記念第2弾 唐十郎作 金守珍演出『腰巻おぼろ 妖鯨篇』(1,2,3)大鶴義丹客演。
*新劇交流プロジェクト公演 三好十郎作 鵜山仁演出『その人を知らず』
  文学座、文化座、民藝、青年座、東演の5劇団が結集し、三好十郎の大作に挑む。
*文学座創立80周年記念公演 真船豊作 上村聡史演出『中橋公館』

 映像関連では、早稲田大学演劇博物館の企画展「テレビの見る夢ー大テレビドラマ博覧会」より、脚本家の坂元裕二と映画監督の是枝裕和の対談「ドラマの神様は細部に宿る」を聞きに行く予定。

 俳句関連では、
*女性ばかりの句会「十六夜句会」に、今月はじめて参加予定です。兼題は「父の日」と「茄子の花」。この会の特徴は、兼題のほかに席題(句会の当日出される季語で作句すること)があること。苦手分野だが(得意な人はいないよとの声があるが)気負わずやりたいもの。
*演劇人句会「さくらんぼ」「単衣」
*金星句会「酢漿草」(かたばみ)「雨蛙」

コメント

因幡屋通信56号完成のお知らせ

2017-05-28 | お知らせ

 おかげさまで因幡屋通信56号完成し、設置先各劇場やギャラリー宛に発送いたしました。今回はピンクです。お題は以下の通り。
*連なってゆく物語~回収されないことのいくつか~
 日本のラジオ公演『ラクエンノミチ/ボディ』と、九十九ジャンクション第4回公演『赤い金魚と鈴木さん~そして、飯島くんはいなくなった』についてのやや長編劇評と、1月から4月まで心に残ったいくつかの舞台の覚書です。今回は映画のことも少し書きました。リンクは観劇後のブログ記事です。ご参考までに。
 えびす組劇場見聞録は55号のぞろ目になりました。
*観客A~女優たちの「楽屋」につながるもの~
 えうれか第3回公演『楽屋ー流れ去るものはやがてなつかしきー』の印象をまとめました。こちらはブルーです。

 アトリエみるめの時代から、通信、見聞録ともに設置してくださいました静岡の「七軒町このみる劇場」さんが、4月22日をもってその歴史を閉じられました。これまでのご厚情に感謝するとともに、新しい暦が始まることを心よりお祈り申し上げます。ありがとうございました。

コメント

唐組第59回公演『ビンローの封印』

2017-05-27 | 舞台

*唐十郎作 久保井研+唐十郎演出 公式サイトはこちら1,2,3,4
 4月に大阪は南天満公園で初日を開け、新宿・花園神社から雑司ヶ谷・鬼子母神へ。再び花園に戻ったのちは、長野市城山公園・ふれあい広場、山梨は甲府市歴史公園・山手御門前で千穐楽となる。毎年のことながら、唐組の春公演は大ツアーだ。

 本作の初演は1992年。実に四半世紀前である。台湾は台北の林海公園で幕を開け、大盛況を博した。その勢いで日本で凱旋公演を行ったが不入りに泣かされたという。その作品を、まさに題名と同じく封印を解いて再演する理由については、エンタメ特化型メディア「SPICE」4月14日号に掲載された久保井研のインタヴューに詳しい。また唐十郎の代表的著作のひとつである「特権的肉体論」には、台北公演の一部始終が活写され、戯曲が併録された「桃太郎の母」のあとがきには、演劇評論家の長谷部浩が「海の化石」と題して、1992年から1993年における唐十郎と唐組の「演劇的収穫期」の豊かな訪れを期待を込めて記している。

 靖国通りや明治通りを走る救急車のサイレンはじめ、街の喧騒が遠慮なく飛び込んでくる花園神社での舞台は、観客をネオンやデパートやコンビニなどの日常から力づくで劇世界へ引きずり込む勢いがある。雑司ヶ谷の鬼子母神は、地下鉄の駅からの道にも境内にも人は少なく、深い森の中へ迷い込む感覚だ。それが夕闇が濃くなるにつれて少しずつ人が増えてゆき、劇団員の一声「大変お待たせいたしました!」が響いて客入れとなる。この瞬間はいつものことながらぞくぞくする。

 周辺が静かなこともあって台詞の一つひとつが粒だち、テント内の空気も、盛り上がるというより、強い集中力を保ちながら静かに高揚するといった感じであろうか。長年唐組の舞台を見続けている知己が、「唐組を見るなら、鬼子母神と決めている」と言うのも頷ける。その一方で、シアターコクーンという大劇場での蜷川幸雄演出の唐作品の舞台にも別の魅力があり、入れ物や場所を選ばず、どんな条件であっても柔軟に変容し、その場に応じた魅力を発揮する可能性を持つことがわかる。

 戯曲の構造や人物の相関関係、物語の流れを理解し、把握するのは今回も困難であったが、目を見張ったのは若手俳優の変化であった。前回公演に比べて出番も台詞も格段に増えていたり、客入れの際、堂々たる声量と、ほとんど貫禄に近いホスピタリティで客席誘導をし、舞台の立ち姿も地にしっかり足がつき、ただ声を張り上げるのではなく、台詞が自分の腹にきちんと入っていることが感じられたり等、嬉しい発見がいくつもあった。

 劇団を継続するのは、こちらが想像するよりもはるかに困難であるだろう。しかしながら前述の久保井のインタヴューには、今年入団の新人4人全員が「劇団だから(唐組を)選んだ」とある。個人ユニットやプロデュース公演があまたある中で、行く先々でテントを張り、劇団員が寝食を共にするという昔ながらの流儀を貫いている唐組。収穫の前には入念に土を掘り起こし、慎重に種を植え、辛抱強く世話をしなければならない。劇団が再び豊かな収穫期に向かう途上を、あたかもテントの桟敷席から伴走する喜びを予感した一夜であった。

コメント

7度『ビジテリアン大祭』

2017-05-18 | 舞台

*宮沢賢治原作 伊藤全記構成・演出・美術 東京バビロン演劇祭2017参加作品  シアターバビロン流れのほとりにて 21日まで(1,2,3
 生誕100年を過ぎてなお、多くのファンというより、信奉者から作品にもその人自身に対しても揺るぎない信頼と尊敬と愛情を注がれている宮沢賢治。彼の「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」という思想は、限りなく優しく温かで、自己を犠牲にしても他者の幸福を願う姿勢のあらわれであろう。『銀河鉄道の夜』をはじめ、賢治の作品はわたしたちを魅了してやまない。

 しかしながらそのような作品群のなかに、時おり調子の異なるものも存在する。2007年の冬、「横濱リーディングコレクション」において、studio salt公演『飢餓陣営』(椎名泉水演出)を見たとき、「ずいぶん人を食ったような話だ」という印象を持った。
 今回の『ビジテリアン大祭』(青空文庫で読める)は、ビジテリアンすなわちベジタリアン(菜食主義者)たちが集う大イベント(大祭)である。彼らは肉食主義者という異教徒たちを「改宗」させようと大激論を交わす。その甲斐あって、その場にいた人々がすべてビジテリアンに改宗するも、実はお祭りを盛り上げるための茶番であったことが明かされるという顛末だ。『飢餓陣営』以上に、まさに人を食った話なのだが、7度の伊藤全記による舞台はまことに不思議な空気で劇場を満たすものであった。

「シアターバビロン流れのほとり」の全体のイメージは黒であり、劇場入口の受付からすぐに場内に行く印象であったが、今回はどこをどのように変えたのかはわからないのだが、受付を済ませて床に描かれた矢印に従ってぐるぐると歩いてようよう場内にたどり着いた。演技スペースには椅子が数脚、その前に横長の台が置かれ、全体が白に作られている。モーツァルトの「アイネクライネナハトムジーク」が、あれはリコーダーだろうか、軽快にアレンジされた曲が流れ、何やら楽し気な雰囲気である。

 登場するのは女優ばかり4人、丁々発止、ところどころに休憩風の場面も折り込みながら、激論の末に異教徒が次々にビジテリアンに改宗し、しかしすべてが異教徒のふりをしたビジテリアンたりによる狂言、大祭を盛り上げるための余興であったことが明かされる75分の議論劇である。3人が濃いめの舞台メイクをし、センスがいいとは言えないが目立つ服装をしているのに対し、主人公を演じる女優はほとんどノーメイクに近く、服装も地味で、すべてのからくりを知った失望と虚無感を一身に背負う。

 伊藤全記は本作を「集団から個が生まれる瞬間が大胆に描かれた作品」「集団への幻想がこわれる物語」と捉える(当日リーフレット掲載)。ひとり取り残され、立ちすくむ主人公の目からは涙がこぼれ落ち、見守るこちらの心も寒々とする。集団への幻想を無残に壊され、孤立し、生きる方向性を失った人のすがたに戦慄を覚えるのは、いまこの国を覆わんとしている不穏な空気のなかで、みずからの足で立ち、自分の言葉で主張したとき、この主人公のようになる可能性があり得るという恐怖であろう。

 打ちのめされた主人公の痛ましい立ち姿に暗澹たる気分に陥りながらも、終演後は意外にも爽快で、説明のし難い力が湧いてきた。これは重苦しい芯の部分をきっちりと押さえた上で、前述のような白を基調とした明るい舞台美術や軽快な音楽に加え、この『ビジテリアン大祭』を舞台化するという大胆かつ挑戦的な作り手の意志が感じられるためであろう。

 決して読みやすい小説ではない。物語の世界に入り込んでしまうとほとんど戯画風になってしまい、そうすまいと意識すると字面を追うばかりとなる。台詞はたくさんあるのに、発する人の顔が見えず、声が聞こえてこない。まことに厄介な作品なのだ。

 中盤と終幕間近に映像を用いられており、これについては作り手の意図がやや直截に表れた印象で、惜しいと思う。たしかに強烈なイメージを与え、観客の理解を促す効果はあるが、これがなくとも想像することは可能である。

 7度と伊藤全記が、この作品をリーディングではなく、本式の上演に取り組んだことを非常に喜ばしく思う。短編とはいえ台詞の数は多く、しかも演じる人物に感情を入れにくい。4人の女優は大変な苦労があったのではないか。リーディングなら、却って大胆に演出を加えることができるし、何より俳優の負担も軽減される。楽をせず、敢えて労苦の多い方を選ぶ。ここに作り手の演劇に対する信念が潜んでいるのではないか。

「今度は何を見せられるのか」という若干引き気味だった姿勢がいつのまにか、「この次は何を見せてもらおうか」と前のめりに変容しており、苦笑しつつ喜んでいる。

コメント

文学座5月アトリエの会 文学座創立80周年記念『青べか物語』

2017-05-12 | 舞台

*山本周五郎原作 戌井昭人脚色 所奏演出 公式サイトはこちら 文学座アトリエ 26日まで
 戌井の舞台を見たのは、彼の本拠地である鉄割アルバトロスケット『高みからボラをのぞいている』(2006年8月)と、あうるすぽっとプロデュースの『季節のない街』(2012年10月)であろうか。後者は戌井が山本周五郎の原作の脚色と演出を担い、所が演出助手をつとめている。これまでのさまざまなことがつながって、今回の『青べか物語』に結実したのであろう。

 戌井昭人の祖父は文学座創立メンバーであり、演出家でもある戌井市郎だ。孫の昭人自身も文学座附属演劇研究所の35期生として研修科に1年通い、退所した。文学座通信693号に掲載の「文学座とわたし」には、かつて祖父が心血を注いで演劇活動を行った場であり、自分も学び、考えるところあって退所したいきさつのある文学座で台本を書けることを、祖父もきっと喜ぶであろうし、「一番喜んでいるのは、実はまだ生きている、わたしなのです」と記されている。
 今夜の初日の舞台は、その戌井の素直な喜びが気持ちよく伝わってくるものであった。何せ創立80周年を迎えた日本演劇界屈指の大劇団である。祖父への畏敬の念もあろう。祖父と長年ともに仕事をしてきた大ベテランの俳優やスタッフもいる。また原作者の山本周五郎作品には長年の熱い読者が多く存在する。大変なプレッシャーもあったはず。戌井には大胆で伸び伸びと自由な舞台を作る、開放的な演劇人のイメージがあるが、原作に対する謙虚な姿勢や先輩方への畏怖があり、複雑で微妙、繊細な色合いを感じさせるところもある。しかし最終的には「これで悪いか!」という堂々たる書きっぷりが好ましい。演出の所との息も合っているのであろう。

『青べか物語』は、うらぶれた漁師町・浦粕(うらかす。浦安のこと)を訪れた作家の「私」がしばらく暮らした町と人々の暮らし、そこで起こった出来事が短い章で書き連ねられた小説である。ノンフィクションの性質もあり、老若男女、あくの強い人々がこれでもかと登場する群像劇でもあり、それをひとつの舞台にまとめあげるのは大変なことだ。『赤ひげ診療譚』のようにどっしりした人物が軸になるヒューマンな内容ならまだしも、作品の核、芯をどこにどう捉えるか。うっかりすると冗長で、とりとめのない舞台になる危険がある。

 細長い演技スペースを、客席が左右から挟む形になり、俳優は主人公であり、語り部でもある「私」役の上川路啓志含め、10名全員が複数の役を演じ分け、演じ継ぐ。「このダンスシーンをカットすれば、もっとエピソードが盛り込めるのでは?」と感じるところもあったが、最終的に1時間50分休憩なしの1本の舞台として成立したのは驚くべきことだ。

 小説の舞台化ということを、改めて考えてみた。小説の内容をすべて舞台にすることは困難であるし、そうすることが「舞台化」ではないから、逐一原作と比較して、ここは同じ、あそこは違うと「照合」していてはつまらない。戌井の脚色には突き抜けたところがあって、冒頭の人物の登場の動きや、最後に小説の世界と今現在がぶつかり合い、劇世界を混沌に陥れるところなどに、それが現れている。主人公が子どもたちから魚を買わされるエピソードは、原作では非常に深く、複雑な内容と表現を持つものである。舞台はシンプルにさっぱりと仕上がっており、それを物足りないと感じなかったのは、前述の戌井の「突き抜け感」と、小学三年生の長を演じた鈴木亜希子の造形のためであろう。鈴木は昨年の久保田万太郎作品『かどで』では、乳呑み児を抱えて北海道へ旅立つ、苦労の塊のような「忍ぶ女」役の印象が強い。そこから想像もできない今回の弾けっぷり。後半の巡査役も、相当に作り込んだ演技なのだが、あざとさやわざとらしさの一寸手前で踏みとどまっているところに「良心」が感じられて出色である。

 欲を言えば、いささか大仰な造形の人物が幾人かあり、もう少し抑制しても大丈夫ではないか。そして、もし希望を抱くことが許されるなら、まことに不勉強だが山本周五郎作品好きとして、また今夜の舞台で鈴木亜希子に魅了された者として、戌井昭人と所奏なら、原作の「繁あね」の章(繁役はもちろん鈴木さんで)をどう舞台にするのかを知りたい。自分の気になる箇所が舞台化されていないことを物足りない、残念だという不満ではなく、希望として抱ける舞台に出会えたことは、観客としてやはり大きなる幸福なのである。

コメント