因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

因幡屋5月の覚え書き

2011-05-30 | お知らせ

 5月は観劇本数が多く、どうなるかと思いましたが無事終了。wonderlandのクロスレヴューにも参加でき(1,2)、因幡屋通信38号、えびす組劇場見聞録37号も完成いたしました。感謝です。

 とくに心に残った舞台は、声を出すと気持ちいいの会『被告人ハムレット』と、スタジオソルト『ビタースイート』でした。前者はメンバーがこの春大学を卒業し、いよいよ学外での活動に向けて走り出そうとする疾走感がこちらの心まで高揚させ、後者は若いとは言いかねますが(ごめんなさい)、舞台をみるごとに劇作家の作風や俳優さんの持ち味が親しく感じられるようになりました。ある劇評サイトに「自分が愛してやまない劇団」とあるのを読んで、身贔屓では決してなく、みる側からきちんと距離を保ちながら、率直に「愛しやまない」というその方のお気持ちに共感を覚えます。
 以下今月の本と映画です。
 

【本】
*秋田光彦 『葬式をしない寺 大阪・應典院の挑戦』(新潮新書)
 2月から3月にかけて観劇した劇団Mayの当日リーフレット記載の活動予定に、夏公演が「シアトリカル應典院」という劇場で行われるとあり、お葬式や法事をせず、檀家をもたないでNPO運営するこのお寺のことを知った。自分の寡聞、不勉強を恥じながら本書を一気読みする。お寺らしいことをしないにも関わらず、最もお寺にふさわしい在り方を模索する記述に引き込まれた。
 シアトリカル應典院さんへは、最新号より通信、見聞録ともに設置していただくことになりました。重ねて感謝いたします。
*川上弘美 『神様 2011』(群像6月号)
 1993年発表の『神様』を自分ははじめ、ラジオドラマで聴いた。すぐに原作を読んで大変好きになった。KAKUTAの朗読シリーズ「神様の夜」(1,2,3,4)はもう4年近く前のことだが、いまでも瑞々しく心に蘇る。その作品の2011年版である。「くまにさそわれて散歩に出る。川原に行くのである」。この書きだしは同じであるが、主人公がくまを散歩に出たのは「あのこと」、すなわち福島第一原発事故から数年後の同じ川原なのだった。物語の基本的な流れ、作者の飄々とした静かな筆致も前作と変わらない。しかしあの日以後であることの絶対的な違い、どうしてもそれ以前には戻れないこと、それでも日常は過ぎていくことが淡々とした記述の中に冷徹に示されている。
【映画】
『キッズ・オールライト』 女性ふたりの同姓事実婚カップルが、同じドナーから精子提供を受けて娘と息子をひとりずつ産んだ4人家族。成長した子どもたちが遺伝子上の父親を知りたくなり、彼に会ったことからいろいろな騒動が起こる。
 5月6日付朝日新聞に指摘されていたように、日本には本作の先駆的作品『ハッシュ!』(橋口亮輔監督)があった。これは子どもを産みたい女性(片岡礼子)がゲイのカップル(高橋和也、田辺誠一)に精子提供を持ちかける話で、身近にない設定に気構えたが、家族や家庭についての普遍的な物語と受けとめた。
 「自分の息子は性転換手術をして女になろうとしている」と勘違いしている母親(富士真奈美)や、不仲な兄夫婦(光石研、秋野暢子)の日常の殺伐感、妻の一挙手一投足すべてに敵意と嫌悪を露わにする夫に対し、それらを無感覚に受け流す妻の気丈、険悪な両親のあいだで暗い顔もせず、ぽっちゃりと太って明るい一人娘等など、周辺の人々の描写が心に残っている。
 『キッズ~』で感じたのは、同性愛のカップルのあいだに、夫=働いて家族を養う、妻=夫に養われるという図式、力関係があったことだ。夫的なほうは相手が仕事を辞めることを願い、自分の考えを強く主張し、妻的なほうは相手が自分を型にはめようとしていることに抵抗を覚える。そしてその両親の力関係が子どもたちに影響を及ぼすのは、どこの家庭でも変わりない。息子がふたりのママたちに、「お互いもう若くないんだから、別れるなんて言わずに仲良くやれよ」と言うラストシーンにほろり。
 

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因幡屋通信38号完成

2011-05-28 | お知らせ

 因幡屋通信38号が完成し、本日各設置先へ発送いたしました。お読みくださる皆さまのおかげと感謝しております。カラーは浅黄色(うすいブルーとも言う)です。そして今回から以下新規で設置してくださることになりました。貴重なスペースをありがとうございます。この場を借りて御礼申し上げます。
アール座読書館 高円寺にある「私語厳禁」の読書喫茶店です。はじめて伺ったのが4月初旬でした。新聞記事にあった通り静寂が保たれ、心静まるひとときが楽しめます。設置のご相談もささやき声と筆談で行いました(笑)。
シアトリカル應典院 こちらは大阪は天王寺にある浄土宗のお寺で、お葬式や法事をせず檀家を持たず、NPOによって運営されており、本堂を「シアトリカル應典院」という劇場として広く開放されているとのこと。秋田光彦住職の著作 『葬式をしない寺 大阪・應典院の挑戦』(新潮新書)については、「因幡屋5月の覚え書き」にもう少し詳しく記す予定です。

 さて今回は、「シングルマザーズからシングルファーザーズ」と題しまして、二兎社公演 永井愛 作・演出の『シングルマザーズ』について少々長い劇評を1本書き、「1月から4月のトピック」として、心に残った舞台について短く書きとめてみました。
 えびす組劇場見聞録37号はピンク色 「鍋とお菓子」と題して、劇団May公演『晴天長短-セイテンチャンダン-』について書かせていただきました。新しい劇団との出会いはいつも心弾むものですね。

 震災後は混乱して不安におののき、一時はどうなることかと思いましたが、こうして最新号をお届けすることができました。ありがとうございます。
 通信、見聞録、いずれもお楽しみくださいませ。
 これからもどうかよろしくお願いいたします。
 

 

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演劇集団未踏 創立45周年記念 『うそつきテコちゃん』

2011-05-26 | 舞台

*立川雄三作 原田一樹演出(劇団キンダースペース) 公式サイトはこちら 両国シアターχ 28日まで 
 知り合いのご紹介で劇団初見となった。子どもが多いかと予想したが年配の観客が多く、劇団創立45周年の重みは客席にも現れている。昼間子どもへの虐待の連鎖を描いた作品、夜は「子どもたちだけの芝居ではありません」と銘打ったミュージカルである。どちらも子どもと大人の心模様を描いたものだが、手つきはまったく異なる。どちらにも需要があって劇作家の必然があり、舞台が成り立つのである。

 

 主役の「テコ」は小学5年生くらいの少女で、演じる女優さんは子どものような大人のような不思議な印象の人である。そのほかは間違いなく成人の俳優さんだ。大人が子どもを演じている不自然さはどうしてもあって、それをみるのは何とも居心地が悪く、気恥ずかしいのであった。

 もう長いことみていないが、自分は演劇集団円の「こどもステージ」が大変好きである。また山崎清介による「子どものためのシェイクスピア」もできれば毎年ゆきたい。それはこの両方とも子どもに向けて作られた舞台でありながら、手抜きや手加減をいっさいせず、難しい言葉や概念も敢えてわかりやすく言い変えたり省略しないことに、大人もまた手ごたえを得て、楽しんでいる子どもの様子にいよいよ幸せが増す。退屈したり困惑したりする子もあるだろう。しかし今すぐこの舞台がわからなくても落胆することはない。その子の心に今日の舞台の何かが残り、いつの日か芽吹くことを秘かに祈ろう。そんな気持ちにさせられるからである。

 今夜の舞台に手抜きや手加減や省略があったということではなくて、決してそういうことではなく、むしろ歌もダンスも入念に稽古を重ね、子どもたちに喜んでほしい、子どもたちの未来が明るく笑顔が多いことをひたすらに祈り願うものであることは確かだ。信じて願って45年、演劇活動を続けてこられたことは壮挙であり、敬意を表する。しかし劇団を支えてきた需要と、自分の演劇的需要とは残念ながら接点がみつけにくいということだ。
 この記事が説得力と意義をもつためには、どこにどのように接点がないか、どうすれば接点が見いだせるかを論考しなければならないのだが、本日ただいまはここで筆を納めることをご容赦願いたい。

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風琴工房code.29 『紅き深爪』

2011-05-26 | 舞台

*詩森ろば 作・演出 公式サイトはこちら 渋谷ルデコ4F 29日まで (1,2,3,4,5,6,7,89,10)
 『紅き深爪』は今回で3度めの上演とのこと。自分は優秀新人戯曲賞2004(ブロンズ新社)掲載の戯曲を先に読んでいたが、実際の舞台をみるのはやっとこれがはじめてである。

 親がわが子を虐待し、そのまた子へと連鎖する様相を描いた作品だ。虐待が子どもの心身に深い傷を残し、成長して子どもを持っても自分がされたようにその子を虐待してしまうことは、既にさまざまな媒体で広く語られている。本作初演当時から今日まで、子どもの虐待死の事件は枚挙にいとまがなく、当日リーフレットに掲載の詩森ろばの挨拶文にあるとおり、大阪で母親が幼児を置き去りにして飢死に至らしめた事件が記憶に生々しい。
 親による子の虐待は、あまたある事件のひとつとしてことさら特殊性を持つものではなくなっており、演劇の題材に取り上げることに対しても、「これは大変なことだ」という感覚は持ちにくく、うっかりすると「またか」と思いかねない。虐待の連鎖についても、本作のなかで既に「『愛されなかった記憶が、子供を虐待する母親を作るのです』ってどうよ。まるで昼メロ」と痛烈批判する台詞があるとおり、既視感のある設定であろう。

 事件性も低く、演劇の題材とするにも既に多く語られてきた感のある作品をなぜ再び上演しようとしたかは、公演チラシに詩森ろばの簡潔な決意が記されており、それに納得して、戯曲だけで知った『紅き深爪』を舞台で是非みたいという明確な意志を与えられた。

 病室のベッドに老いた母が眠る。母には娘がふたりあり、妹が泊まり込みで看病を続け、姉は病室には来るが母の顔も見ようとしない。妹には気弱で優しげな夫と、少し様子のおかしい娘がおり、姉は初めての子どもを身ごもっている。姉妹とも幼いときから母親の虐待に苦しめられ、妹は自分の娘を殴り、姉は妊娠中の身で酒におぼれ、胎の子を呪わしく思う。このあたりまでは想像の範囲である。

 本作に複雑な味わいをもたらしているのが姉の夫だ。高価な服飾に身を包み、病室の差額ベッド代を支払っているというから暮らしぶりもよく、仕事のつきあいも華やかな印象。その上彼はおっとりなよなよした身振りでオネエ言葉を使う。といってもゲイではなく、バイセクシャルでもない。からだは男で心は女であり、女として女の妻が好きなのだという一筋縄ではいかないセクシュアリティ、いやそれすらも超えた人格の持ち主なのである。これまでみた芝居や読んだ小説のどこにもいなかった人物であるが、自分は違和感なく彼をみつめることができた。
 ひとことも発しない妹の娘に、「女の子はね、カロリー表示になんか負けずにパフェを食べなきゃ駄目。それで太っちゃうような女は気合いが足りないのよ」と優しく言う。自分はこの台詞が大変好きである。今回の佐野功はしなやかな身体と確かな台詞でこの複雑な人物を的確に造形した。この人が劇中でもっとも深い悲しみを抱いているのだ。

 観劇の翌日、民法と児童福祉法の改正案が参院本会議で全会一致で可決、成立した。これで児童虐待防止のため、親権を最長で2年間停止できる仕組みが設けられたのだ。子どもを救う朗報と喜ぶ人もあれば、「親権を停止され、追い込まれる親もいるのでは」と案ずる人もある。法律は苦しむ人を助け出し、守るためにある。それでも双方の問題がすぐに解決されるわけではない。子どもの虐待は防いでも防いでも、もしかしたら人が存在する限り起こってしまうのではないか。

 『紅き深爪』は問題意識を喚起したり、社会的に何かを告発するものではなく、姉妹の傷が癒えないまま母が亡くなってしまうことなど、問題は何も解決せずに終わる。愛されなかった女性を妻とする夫その人にも救いの手が必要であることがわかる。まことに苦く痛い物語である。ただ、殴る親がいて殴られる子がいる。そのことの善悪を示すのではなく、どうしようもなくそうしてしまう人のすがたをまっすぐにみつめる劇作家の姿勢を、自分は信頼したいと思う。法律や社会制度が整ってなお、解決されない人の心を救う希望が演劇にはあると信じている。

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wonderlandクロスレヴュー挑戦編・趣向 『解体されゆくアントニン・レーモンド建築 旧体育館の話』

2011-05-25 | 舞台

*オノマリコ作 黒澤世莉演出 公式サイトはこちら 神奈川芸術劇場大スタジオ 23日まで
 劇評サイトwonderlandのクロスレヴュー挑戦編 趣向公演『解体されゆくアントニン・レーモンド建築 旧体育館の話』に参加いたしました。高評価が多いなか、自分は控え目な星数になっております。黒澤世莉氏の演出は、リアリズムの戯曲に愚直なまでにぶつかった『廃墟』の印象が生々しいこともあって、今回の舞台には戸惑いました。自分がバンカラ(死語ですかね)の男大学出身のせいか、女子高や女子大の雰囲気がピンとこないこと、レヴューに書いたとおり、手法が前面に出ている(と自分が感じる)作品に対して、もしかすると軽い拒否反応を抱く体質になっているのかもしれません。これは柴幸男氏の舞台に対して持つ感覚と似ています。
 さまざまなものを柔軟に受けとめたいと思いながら、みずからの意志や努力では変えられないものがあるのも確かで、自分の心の奥底を静かにみつめ、それを的確なことばで表現してゆきたいと思います。

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