因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

NINAGAWA 十二夜

2005-07-18 | 舞台
  *シェイクスピア作 小田島雄志訳より 今井豊茂脚本 蜷川幸雄演出 歌舞伎座にて上演
  数日前にTBSの『情熱大陸』で紹介されていたので今回の演出の外枠は把握していったつもり。幕が開いて舞台全面鏡張りで客席がずらりと映ったところでは、「おお」とため息が聞こえ、「これか!」という感嘆の声も聞かれた。バロック風の音楽や賛美歌やいつもと少々変わった趣きの衣装など、みどころは満載。だがわたしが最も驚いたのは、この舞台のお稽古がわずか8日間であったことだ。全員が初役なのである。歌舞伎狂言なら形もあるし、どこそこのおじさんに習いにいくこともできようが、今回は皆が初体験。数人台詞の危ない方もいらっしゃいましたが、初日開けてまだ一週間というのにこの出来栄え。千秋楽にはどうなっているのだろうか。
 歌舞伎役者の底知れぬ力に改めて感じ入った。
 実に特殊な才能の持ち主の集団なのである。
 鏡の使う演出は蜷川の別の舞台で体験済みなので、正直今回が特別に目新しいとは思わなかったし、もう少しメリハリが欲しいなとは思ったが、 歌舞伎座ぜんたいがいつもと違った雰囲気であったのは新鮮な体験だった。
 次はどうなるのだろうというわくわくした期待と、「おもしろいなぁ」と素直に思える楽しさだろうか。
 春の十八代目中村勘三郎の襲名披露の賑々しさとはまた違った空気が満ちていた。
 『十二夜』はシェイクスピアの喜劇の中で、もっとも好きな作品だ。
 さまざまな上演の思い出や思い入れの多い、特別な作品である。
 内容に直接関係ないが、ばかばかしくて大好きなある台詞がカットされていたのは残念だが、今回の歌舞伎座の『十二夜』もわたしの「十二夜リスト」の大切な一本になるだろう。(七月十五日観劇)

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燐光群公演『上演されなかった三人姉妹』

2005-07-18 | 舞台
 *坂手洋二作・演出 紀伊國屋ホールにて上演
 これまでみたどの『三人姉妹』よりも刺激的な体験をした。ある国で、ドイツ人演出家によって二十年ぶりにチェーホフの『三人姉妹』が上演されようとしている劇場をテロリスト集団が占拠してしまうという設定である。いつもの紀伊國屋ホールの客席前方のほぼ半分が空席のままになっており、「ああ、不入りなのね」と思っていたら、さっきまで観客を席まで案内していたスタッフ(と思っていた。今回出番のない役者さんかもと思ったが)が、その占拠の様子を生々しく語り始める。彼らは偶然その場に居合わせてしまった観客。わたしたち本物の観客も客席後方に押し込められた人質という仕掛けなのだった。
 劇場の通路がふんだんに使われる。テロリストたちは銃を構えて通路に立ち、床に地雷のようなものを貼付けたりしている。客席の空席部分は出番待ちの俳優や人質たち(これは俳優さんが演じている)の自由空間?のようになっており、がらんとした劇場が何やら本当に占拠されてしまったかのような雰囲気を醸し出している。
 通路を使った演出はシアターコクーンで慣れている(飽きている?)はずだが、今回は実に新鮮で効果的。
 『三人姉妹』を上演しながら、俳優たちは自分のプライベートな問題、恋愛だの劇場経営だのをどんどん持ち込む。その間にもテロリストと政府との攻防は次第に切羽詰まってくる。百年前の『三人姉妹』の物語と、今世界のどこかの国で起こっているいる事件が入り交じり合いながら、チェーホフのお話はわかっているけれど、いったいこの劇場は俳優たちは、そしてわたしたち観客はどうなるのだ?という緊張感を生み出していくのである。
  そして終幕、三人姉妹たちは舞台中央に立ち、「ああ、あの楽隊のマーチ。あの人たちは去っていく」という有名な台詞を言い始める。 政府がテロリストにした約束は守られず、無血の解決はなされなかった。
 生きていきましょう。何のために生きているのか、何のために苦しむのか、それがわかったら、それがわかったら。
 聞くたびに違った印象を持つ台詞である。何のために戦うのか、なぜ争いはなくならないのか。何のために演劇は存在するのか。聞き慣れた『三人姉妹』の台詞がいつもよりも複雑で重い問いかけとなって胸に残った。(七月九日観劇)
 

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『死の棘』

2005-07-18 | 舞台
 *島尾敏雄原作 鐘下辰男構成・脚本・演出  シアタートラムにて上演
 上演が始まってからチケット予約を申し込んだのは、本作をギリシャ悲劇の『メディア』と対比した文芸評論家の山本健吉のコメントが掲載された新聞記事を読んだためである。舞台一面に本水を張った中に円形の台が浮かんだような演出がされていることにも興味をそそられた。同じく本水を使った蜷川幸雄演出の『メディア』の不完全燃焼感を解決する道を探したかったのである。
 しかし残念ながら今回も本水の扱いが難しいことを改めて実感する結果となった。上演が始まった直後は目をひくが、ずっとあると気にならなくなるのである。登場人物が円形台から降りて水の中を歩いたり、そこから水を汲んで相手に掛けたりという場面が続くにつれ、みている緊張感が緩んでしまう。
 舞台に俳優がいるだけで充分生々しいのである。その上にほんものの何か(火や水や生き物)をプラスするのは難しい。
 高望みかもしれないが、水がなくても水の存在を感じさせる舞台に出会いたいのである。(7月2日観劇)

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TBSドラマ特別企画『赤い疑惑』

2005-07-10 | テレビドラマ

*6月15日から3週連続放送
三十年前の大ヒットドラマがリメイクされた。当時わたしは小学校高学年だったが、クラスの女子たちの盛り上がりは相当なものであった。今の冬ソナブームのようなものである。で、その中でわたしはブームについていけない女の子だった。かといってそれをはっきり言うとどんな目に遭うか怖かったので、一応ついていっているふりをしていた。理由の最大はおもしろいと思わなかったからである。あまりといえばあまりだが。さらにもっと言うとわたしは当時から山口百恵という人がなぜそんなにすごいと言われるのかほとんど理解、実感できないのである。
 さて今回にリメイク版をみて驚いた。時代設定もクレジットの大きな文字もテーマ曲も音楽もオリジナルのまんまなのである。今の俳優で新しい演出で、2005年の今作る意味はどこにあるのだろうか?ここまで「まんま」に作るくらいなら、いっそオリジナルを再放送したほうがよかったのではないか?
 リメイクの例を挙げて、『白い巨塔』や『砂の器』がよかったのは、かつての名作を「自分たちはこう作るのだ」という作り手側の強い意志、心意気がみるほうにもびんびん伝わってきたからである。
 熱演すぎて狂気じみている陣内孝則、やりすぎなあめくみちこ(うわ、全部ひらがなだ)、いいのか悪いのかよくわからないヒロインの石原さとみ、特別出演しているのが気の毒にすら感じられる三浦友和などなどの中で、わたしが強く心引かれたのはヒロインの恋人光夫役の藤原竜也であった。
 山口百恵論は書けず、リメイクの功罪についてはいずれ考えたいが、舞台出演を中心に見てきた藤原竜也について、これを機会にきちんと書いてみたい。因幡屋通信の次号に向けて頑張ります。



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ポかリン記憶舎『短い声で』

2005-07-09 | 舞台

*ポかリン記憶舎公演 明神慈作・演出 東京デザインセンター ガレリアホール
 少し無理をしてこの日二本めの観劇。五反田の東京デザインセンターは初めて足を運ぶ場所だ。今回のような演劇の公演ができるフリースペースもあり、食器や家具などさまざまな展示があるらしい。日曜なのでしんと静まりかえっている。
 おなじみ和服美女の案内で、入り口から奥まったところにあるエレベーターで地下に降りる。ぜんたいに白っぽい色彩の建物だが無機質ではなく、ほんのりと温かみの感じられる不思議な空間である。
 横に長い舞台には波を象ったような大きなオブジェが置かれている。美術館の展示スペースとして使われている場所がそのまま舞台空間になっているところがおもしろい。
 個展開催直前になって作者が交通事故に遭い、意識不明の重体になった。彼の仕事のパートナーや助手たち、マスコミや元恋人、母親など彼に関わる人々によって物語が紡がれていく。
 大仰な演技も演出もなく、静かな会話のなかでものを作ることに携わる人々の思いが静かに伝わってくる。
 だが母親が登場したあたりからいささか平凡な印象に。90分のテレビドラマ、秋に放送される芸術祭参加作品のようにまとまってしまったのが少し残念である。
 上品なキワモノを期待した身には少々物足りなかった。
 ポかリン記憶舎の舞台をみる前と後で、自分がまとっている空気が変わっている感覚はどうにも忘れがたく、「もう一度味わいたい」と思ってしまうのである。(6月5日観劇)
 



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