因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

ジェットラグプロデュース『幸せを踏みにじる幸せ』

2010-05-30 | 舞台

*谷賢一作・演出 公式サイトはこちら 新宿タイニイアリス 31日まで
 作・演出の谷賢一(DULL-COLORED POP)はじめ、永山智啓、山口オン(elePHANTMoon)、小松美睦瑠(コマツ企画)、玉置玲央(柿喰う客)、百花亜希と、小劇場界の強烈な精鋭が顔をそろえた舞台。受付でチケットといっしょに一輪の花を手渡される。劇場に入ると舞台中央に祭壇があり、若い男性の遺影が飾られている。「どうぞ献花を」ということだ。こういうのはちょっと苦手なのだが、一応言われた通りに。それ以上の客いじりはなく安心する。開演前遺影のそばにずっと立っている女性は、遺族と思われる。やがて1人の女子高生がアザミの花をもってやってきた。ただごとではない様子。男性はなぜ死んだのか、女子高生との関係は何かが明かされる1時間45分の物語である。

 賑やかな登山者のグループが実は集団自殺志願者たちであり、遺影の男性松岡(玉置玲央)も女子高生幸子(我妻三輪子)もその中にいた。ところが松岡は自殺志願者の救出とその後の支援をするNPO職員で、彼らを思いとどまらせるために志願者を装って潜入したのだ。彼らは山小屋に松岡を監禁し、自殺にみせかけて殺すために遺書を書かせようとあの手この手で痛めつける。死ぬことに迷いがある幸子はどちらにも加われず、追いつめられていく。

 松岡が舞台中央の椅子に縛られたままリンチをされる場面は、かなりのところで俳優に肉体的負荷(とても痛そうなところもある)をかけている。この描写については長短あるだろう。一滴の血も使わず、俳優のからだに傷跡や痣すらつけずに描いた点は辛抱強さが感じられ、舞台がいたずらにスプラッター化することを防いでいる。しかしそれでも映像ならばもっとリアルにできるわけで、舞台で直接的な暴力を描くとき、作り手側はよほど慎重で巧妙になる必要があると思う。ほんとうに描きたいのは何か。これほどに痛めつけられても意志を曲げない松岡の強さとその理由か、死にたいと集まった人々が次第に加虐的になっていく様相か、舞台でここまでの暴力行為をやることと、それにぎりぎりまで耐える俳優をみせることか。

 ここで例にあげるのは見当ちがいかもしれないが、ハロルド・ピンターの『新世界秩序』(喜志哲雄翻訳)を思い出す。目隠しをされた男をめぐって2人の男たちが短いやりとりののち、「こいつ(目隠しの男のこと:因幡屋注)もお前さんと握手することになるね・・・35分後には。」という終幕だ。目隠しの男は何もされない。しかし35分後には口を割る、転向すると2人は確信しているのである。これからいったいどんなことが行われるのか。想像がつかないだけに却って恐ろしく、背筋が一瞬鈍くヒヤリとするあの感覚である。

 当日チラシの挨拶文の「矛盾した要素を内包している人間というものを、僕はとても憎んでいて、同時に深く愛している」という言葉がずっと気になっている。演出家としての谷賢一、劇作家としての谷賢一が自分の中ではまだひとつのイメージに結びつかない状態だが、後者の谷賢一をもっと知りたい。公演に足を運ぶたびに、その世界を鮮やかに立ち上げる力量と魅力ある俳優はじめ、公演を成功させようとする熱意にあふれたスタッフ、そして彼の劇世界にぶつかって受け止めようとする観客が確実に存在することを実感するからである。

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龍馬伝第22回『龍という女』

2010-05-30 | テレビドラマ

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 攘夷派の土佐勤王党に対する山内容堂(近藤正臣)の弾圧がはじまった。勝塾で学ぶ龍馬たちにも、土佐藩から帰国命令が下る。勝塾の仲間たちはからだを張って龍馬はじめ土佐藩士たちを守り、しかし藩の命に背いたということで、彼らは脱藩浪士とみなされることに。いちじは脱藩の罪を赦された龍馬だが、ここで再び脱藩浪士になってしまう。運命はわからない。そしておそろしい。兄の権平(杉本哲太)が迎えにきたとき一緒に土佐に戻っていたら、いまごろは捕えられて吉田東洋(田中泯)暗殺のかどで詮議をうけていたかもしれないのだ。

 龍馬はようやく岡田以蔵に再会するも、新撰組の刃から以蔵を守ることだけで精いっぱい。結局以蔵は土佐藩に捕えられてしまう。友を救えなかった自分を責めて龍馬はむせび泣く。

 タイトルからわかるように、今回はのちに龍馬の妻となるお龍(真木よう子)が初登場したのだが、このくだりについては正直なところあまり強い印象を受けず。

 土佐では岩崎弥太郎(香川照之)の商売がだんだん上向いてきた様子。町で乙女(寺島しのぶ)と出会った弥太郎が武市半平太(大森南朋)について話す。弥太郎はだいたい次のようなことを言ったと記憶する。「容堂は武市さんを嫌っていた。自分の嫌いな者から忠義を尽くされても、うっとうしいだけだ」。武市びいきの乙女が、それを聞いて押し黙る。弥太郎の言うとおりだ。そのことを武市にちゃんと理解納得できるように教えてやれなかったものだろうか。神のごとく崇拝し、忠義を誓う相手が、自分の心をわかってくれないばかりか、尽くされて迷惑だという。非常に気の毒だが、ありうる話である。この点を武市が理解し、その上で自分が何をすればよいかを考える力をもっていれば、そして彼を助ける仲間があれば、これほどまでに多くの人々を巻き込んで犠牲を強いることなく、彼の志を実現することができたのではないか。

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KAKUTA『めぐるめく』

2010-05-28 | 舞台

*桑原裕子作・演出 公式サイトはこちら シアタートラム 30日まで(1,2)
 KAKUTAの舞台でブログ記事にしたものは、偶然だがいずれも因幡屋通信のお題として少し長い劇評を書くことができた。1は『神様の夜』、2は『帰れない夜』である。それに対して桑原裕子のオリジナル作品である『甘い丘』は2007年冬の初演をみたものの残念ながら楽しめず、ブログ記事も書けなかった。桑原裕子はグリングやブラジルに客演した際の女優としての強い印象がまずあって、続いて短編小説をリーディング公演として「構成・演出」する鮮やかな手腕については確かな手ごたえを得ているが、「劇作家」としてどうとらえるかについてはまだ曖昧なのである。

 四姉妹の話。長女は交通事故にあってから11年間眠り続けている。夫はそのときの事故でなくなり、小学生だった息子は高校生になった。次女はベストセラー作家として成功しているが、担当編集者に頼りっぱなし、三女はダメ男と結婚し、四女は雀荘の店員をしながら酒びたりの日々というありさま。病院の費用は次女が出しているが、見舞いに訪れることもほとんどなく、連絡も取り合わず疎遠になっていたところに、長女が突然目覚めたとういう知らせが。

 四姉妹と周辺の人々、複数の役を演じるアンサンブルキャストも含めると出演者は総勢17名になる。薄いブルーの抽象的な舞台装置がおもしろい。手前上手部分が病室や三女のアパートになり、下手部分が次女のうちや列車の座席、宿屋のサウナ、公園の池など、階段をあがって2階部分が病院の待合室や山道や墓地などに変化する。天井の高いシアタートラムを巧く使って、めまぐるしい物語の進行もあまり無理なく把握できる。

 お姉ちゃんが目を覚ましたことはもちろん嬉しい。しかしこれまでの不義理や、とくに息子の世話をじゅうぶんにしていない後ろめたさがあって、妹たちの気持ちは複雑である。誰も幸せとはいえず、男運がなく、失礼ながら男をみる目もあまりなさそうな彼女らに対して、目覚めた長女はよほど明るく元気である。物語をどこに着地させるのかがまったく読めないものの、賑やかを通り越してけたたましい四姉妹と、彼女たちに振り回されたり振り回したりする周辺の人々の様相が描かれる2時間である。

 開演まで場内にはクリスマスソングが流れていた。クリスマスのころ、長女が目覚めたのである。それから春先までの数カ月の物語。ロジカルな思考ではないとわかっているが、「やっぱりクリスマスはいいなぁ」とこの段階でこれから始まる舞台を受け入れてしまったようなのである。季節は冬から春へと移っていく。それらは台詞で示されるだけで舞台装置はそのままであるし、登場人物たちの服装もほぼまったく変わらず、ことさらクリスマスにこだわった設定とも思えないのに。いやこれは余談であった。

 長女はしばらく目覚めていたが、また眠りについてしまった。しかし妹たちの人生はわずかながら新しい方向へ着実に進んでいく。当日チラシに桑原裕子が保育園時代の母との思い出を記しており、これがなかなかいいのである。家族だからといって、何もかもわかりあえるわけではない。しかし目にはみえないけれども、濃く温かい交わりが確かにあって、それぞれが心配したり心配されたりしながら不器用に生きていく。長女の目覚めと再びの眠りが意味するものは明確に示されない。また物語の発端としてそうとうに特殊で強烈であるわりに着地点が不明瞭であり、俳優の演技も少々テンションが高すぎてじっくりした味わいに欠けるきらいがある。にも関わらず、自分は今回の舞台が楽しく、いい夜を過ごせた。幼いころの思い出を自分のなかで大切に温めつづけて、今回の『めぐるめく』を作り上げた劇作家桑原裕子の思いが伝わってきたからではないかと思う。

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中野成樹+フランケンズ『寝台特急“君のいるところ”号』

2010-05-27 | 舞台

 ソーントン・ワイルダー原作 中野成樹誤意訳・演出 公式サイトはこちら こまばアゴラ劇場 30日まで 外部も含め中野成樹演出作品の記事はこちら(1,2,3,4,5 6,7,8,9)
 中野成樹と柴幸男が発起人となってスタートしたWWW2010(ワイ!ワイ!ワイ!ワイルダー!)こと、ソーントン・ワイルダー作品の連続上演の第1弾だ。「おそらく日本初の大型ワイルダーフェスティバル」だそう。もう20年前になるだろうか、中村伸郎主演の『わが町』が最初のワイルダー観劇であった。その後MODEの「わが町」シリーズをずいぶんたくさんみたけれども。

 ニューヨークからシカゴへ向かう寝台特急列車のなかで起こる一晩のさまざまな出来事、乗客たちの人生模様を描いたもの。舞台正面には模型の線路が張り付けられた白いパネルが3枚並び、出演俳優が折りたたみの椅子を移動させながら車中や外の風景などとさまざまに表現していく。フランケンズがこの作品を上演するのは、これが4回めとのことだ。中野成樹による誤意訳の舞台をみるようになってから自分はまだ3年と少々、“君のいるところ”号にはこれが初乗車だ。アゴラ劇場で中フラをみるのもこれが初めてで、見知らぬ町へ旅立つときのような期待と不安が高まる。

 戯曲を読んでいないので、どこまでが原作どおりでどこからがフランケンズの創作なのかがわからない。これは致命的でつい筆が鈍りがちなのだが、“君のいるところ”号には、「いつもの中フラ」とは少し違う感覚があった。今回も遊び心満載ではあるものの、寝台特急列車の一晩のうちにあっさりと逝ってしまう若い妻が登場するせいだろうか、しんと寂しく厳粛なものが漂う。さっきまでこの世に生きていた人が、さよならも言わずに旅立ってしまう。それは逆らいがたい運命で、人智の及ばないものである。残された者の辛さばかりを考えてしまうが、ワイルダーは旅立っていく者にも自らの死を受け入れるまでの葛藤があり、それを乗り越えて新しい世界へ踏み出していくさまを示している。自分がもうこの世に生きていないことを理解できないでいる妻の肩を抱き寄せ、天使が何かをささやいている。客席には聞こえないが、妻は次第に自分の死を理解し、受け入れ、この世に残した家族や先生や生まれ育った町に別れを告げる。パネルに張られた線路が取り外され、天国への梯子になり、おぼつかない足取りながらもひとりでそれを昇っていく。生きている者に対して死者は何も話してくれないが、ワイルダーの舞台をみていると、自分がこれまでに見送った何人かの大切な人々もこうして旅立っていったのではないかと思わされる。

 一方で列車には精神に異常をきたした女性も乗っている。おそらくシカゴの施設に送られるのだろう。看護士の目を盗んで逃げだした彼女には、天使と死にゆく若妻の様子がみえる。彼女は生と死のはざまにいるのだ。この人も梯子を昇っていってしまうのかと思われたが、彼女はぎりぎりのところで踏みとどまり、看護士のところへもどっていく。狂女を演じた斎藤淳子をはじめてみたのは劇団掘出者公演『チカクニイテトオク』だったが、みるたびに少しずつ、控え目に新境地を開いている印象だ。この女優さんは、これからもっといろいろな役柄を新鮮に演じることができるだろう。

 本作は初演が40分、、再演55分、再再演65分、今回が80分で、次回は120分を予定しているのだという。自分の性格からいって、おそらく40分の初演がもっともしっくりくる長さになると思う。終演後、舞台でつかった西瓜が切り分けられて、振る舞い酒ならぬ「振る舞い西瓜」がでたのだが、この夜は寒過ぎてご遠慮した。肌寒く静まり返った駒場の町を満たされた心で駅まで歩く。

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龍馬伝第21回『故郷の友よ』

2010-05-26 | テレビドラマ

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 毎日が運動会と文化祭のように賑やかで熱気に溢れている勝塾、平井収二郎が切腹し、岡田以蔵が土佐藩に追われて行方知れず、武市半平太も失脚したいま、元気に振舞っている龍馬だが、故郷の幼な友だちが案じられてならない。

 岩崎弥太郎(香川照之)は何かと言うと坂本家に上がり込み、材木を買ってくれとやら、茶を出せ、ぬるいのはいかんとやら厚かましい。坂本の女性たちは弥太郎をこてんぱんにけなし、それでもまったくめげない弥太郎とのやりとりは、もはやコントの領域である。龍馬が誰からも好かれる好青年であるのに対し、弥太郎はなりは汚いわ、態度は横柄、香川照之の熱演にも食傷気味で、みるたびにほとんど不愉快の一歩手前の気分だったのだが、今回武市とのやりとりに変化がみてとれた。

 遠くの高知城を見つめる武市に、弥太郎はまたぞろ悪態をつく。武市は「自分は今までお前を馬鹿にしていた。でもお前のような人間がいてもいいと思う」と、これまた随分なことを言う。弥太郎は武市が「辛そうにお城をみていた」と言い、「自分のような人間がいてもいいと思うなら、武市さんも自分に正直に生きてみればいいじゃないか」と、これまでのような揶揄や嫌みやからかいではなく、武市の両肩をつかんで揺さぶりながら、本気で語りかける。この日初めて材木が売れた。商売にはものよりも、気持ちが必要だということを弥太郎は知ったのだ。

 武市が妻の冨と向かい合う最後の朝餉の場面は一幅の絵のように美しい。夫婦がじゅうぶんに語り尽くさないまま、武市は捕えられ、投獄される。武市半平太と冨はまさに天の配剤というべき夫婦であり、今回の大森南朋と奥貫薫の配役は唸るほどぴったりだ。お似合いのいいご夫婦。一方で「なぜこんないい娘がこんな男のところに」と家族すら不思議がる弥太郎と喜勢(マイコ)夫婦もあって、この可愛らしくて気立てもよく、賢くて優しい申し分のない嫁が来たことで、岩崎家は確実に明るい方向へ進んでいく。材木がぜんぶ売れたことを弥太郎夫婦はもちろん、両親たち(蟹江敬三、倍賞美津子)も抱き合って喜ぶ様子にはほっとさせられる。

 逃げる岡田以蔵を追って、新撰組が登場した。さまざまな思想、行動をもつ人々がいっそう激しく入り混じり、ぶつかりはじめる。

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