因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

朱の会Vol.7 愛の三重奏―朗読シリーズ~矢代静一 ―『宮城野』

2024-05-30 | 舞台
*公式サイトはこちら 阿佐谷/アートスペース・プロット(1,2,2',3,4,5,5',6,7,8,9,10)6月2日まで
 回を重ねるごとに新鮮な刺激と深い安定感が増す朱の会が、山本周五郎『三年目』と小川未明『愛は不思議なもの』を茜組、藍組のダブルキャストで、矢代静一『宮城野』を主宰の神由紀子と高井康行で上演する。4日間毎日2回公演というハードなスケジュールだ。観劇した茜組の初日夜の回は満席の盛況である。ステージには箱型の椅子が数脚置かれているが、紫色の絣のような模様のある美しいものだ。出演を予定していた辻田豊が体調不良で降板したが、高橋壮志と羽生直人が代役をつとめて無事に上演が叶った。

★小川未明作『愛は不思議なもの』・・・寄る辺のない少女おしず(木村優希)は、奉公先でお守りをしている幼い坊ちゃんを探して、凍った湖の上を駆けてゆく。心優しい薄幸の少女が捧げる無償の愛を、淡々とした筆致で描いた短編である。木村の澄んだ声が切なくも悲しい。俳優は友人(日髙悠美)、母(玉木文子)も皆着物に襟巻をして、寒い季節の出来事であること示す。着物の柄や襟巻の色合い(毛糸や別珍など人物によってさまざま)を見るのも楽しい。

 「愛は不思議なもの」。一見ベタなタイトルである。教会の結婚式で必ず読まれる聖書(コリントの信徒への手紙13章)には、「愛は忍耐強い」に始まって、愛が如何なるものであるかが美しい詩のように述べられている。愛がどれほど気高く素晴らしいものか、それだけに、人間がそれを得て絶やさないことが如何に困難であるかがわかる。しかしおしずの坊ちゃんへの愛は自然で、見返りを望まないものであり、長じて青年彫刻家となった坊ちゃん(安藤俊昭)が、おしずその人ではなく、彼女にお守りをされた当時の幼い自分の顔を作ってみるという物語は、まことに「愛は不思議なもの」という題名がしっくりくる。耳にすんなりと入ってくる文章だが、何度でも読み返したくなる美しい小説だ。

★山本周五郎『三年目』・・・朱の会では第3回公演で藤沢周平の『三年目』を上演しており、今回は同じ題名の山本周五郎作品であることに少々混乱したが、すぐに物語の世界にぐいぐいと引き込まれた。大切な人と佳き人生を送るために精進し辛抱し、待ち続ける年月は1年では短すぎ、5年になると長い。やはり3年なのだろう。現代のように連絡を取り合う手段が無い時代、相手の顔や声はおろか、手紙のやりとりさえしない3年とはどのようなものなのだろうか。友吉(佐藤英征)、お菊(日髙)、角太郎(安藤)の関係は、同じ山本周五郎の『さぶ』を思わせる。互いを思い合う心が強いほど、裏切られたときの失望は怒りとなって暴走する。それを鎮め、さらに強い交わりを生み出すのは…やはり「愛」なのだろう。主軸を担う3人とお米・語りの木村の若手を、ベテランの玉木と吉田幸矢が支える。吉田は男性の台詞もみごとにこなした。

★矢代静一『宮城野』・・・休憩を挟んで第二部、圧巻のステージである。江戸は天保年間の麻布の色街で、女郎の宮城野(神由紀子)と偽絵師矢太郎(高井康行)のかわすやりとりは、本音と嘘が目まぐるしく展開し、観客を翻弄する。人間はほんとうは美しいのか醜いのか、賢いのか愚かなのか。いったい何が幸せなのか。宮城野と矢太郎だけでなく、二人の会話の中に登場する宮城野の妹、矢太郎の師匠の東洲斎写楽とおぼしき人物、その孫娘のおかよまで、「こういう人物」と簡単に言えない。神と高井は並んで座り、譜面台に置かれた台本を読むが、終盤は黒子(羽生)が台本を台ごと運び去り、最後には出演者全員総出となる特別な演出が施される。この場の俳優が皆出過ぎず引き過ぎずの絶妙の造形で、特に玉木と安藤が佳き味わいを醸し出す。当日パンフレットによれば、矢代静一事務所に許可を取っての演出とのこと。秋元松代の『近松心中物語』を想起させたが、神由紀子はさまざまなジャンルの舞台作品を多く観ており、そこから得たものを味わい、咀嚼し、朱の会の作品世界にふさわしい演出を施す技と志を持つ。加えられたラストシーンは、朱の会流の「屋台崩し」とも言えよう。
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