因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

因幡屋12月の観劇と句会

2015-11-29 | お知らせ

 2015年の最後の月、観劇と句会の予定をお知らせいたします。
ガラス玉遊戯vol.8 『わたしのゆめ』 (1,2,3,4
 2011年に初演された作品(劇評サイトwonderlandクロスレヴュー参加)が大幅改訂され、新しい配役、劇場で再演の運びとなる。憧れの職業についている人をゲストに迎える課外授業を行っている小学校で、子どもたちが希望したのは「キャバ嬢」であった。これは是か非か。
*劇団民藝 『根岸庵律女-正岡子規の妹-』 1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19
 俳人正岡子規と妹・律の物語といえば、NHKドラマ『坂の上の雲』の香川照之と菅野美穂がどうしても思い浮かぶが、気持ちを切り替えて。
十二月大歌舞伎 
えうれか第二回公演『岸田國士短編四作品上演』(1
 旗揚げ公演から1年余、岸田作品に挑む。『ぶらんこ』と『恋愛恐怖病』は今回がはじめての観劇、とても嬉しい。
ハイリンドvol.16 『弥次喜多』 (1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15
 前回公演よりほぼ1年半ぶり。
劇団肋骨蜜柑同好会 meetsCLASSICS No.1 『恋の手本~曾根崎心中~』
 10月に観劇した板橋ビューネ2015『散る日本』の印象強く、劇団の公演にも挑戦。
*シアター風姿花伝プロデュースvol.2 『悲しみを聴く石』
 大好評を博した2014年夏の『ボビー・フィッシャーはパサデナに住んでいる』に続く第二弾。同じく上村聡史の演出で、本邦初演に挑む。
劇団チョコレートケーキwithパンダ・ラ・コンチャン 『ライン(国境)の向こう』 (1,2,3,4,5,6,7
鵺的第一短編集  (1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11
『ふいにいなくなってしまった白い猫のために』、『ステディ』、『くろい空、あかい空、みどりいろの街』
パラドックス定数 第36項 『東京裁判(2015 pit北/区域 )』  (1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20,21,22
 サブタイトルにある通り、pit北/区域の閉館記念公演。そしてこれが因幡屋2015年の芝居納めの舞台になる。

 句会の兼題、および課題は以下の通り。毎月の句会提出句だけでなく、来年1月に行われる新年俳句大会の句もあるのだった。今年の新年俳句大会のときに、「このつぎはもっとがんばろう」と思ったはずだが、あらら締切まで、あと一週間ではないか!
*かさゝぎ俳句勉強会 課題:三橋敏雄作品
*本部句会 「煤払」、「冬夕焼」
*金星句会 「蕪」、「年惜しむ」
*俳句をつくる演劇人の会 「救世軍」、「クリスマス」関連
 年の瀬から新年にかけて、歳時記を眺めているだけで「いいなあ」と思う季語がたくさんある。冬灯し、義士討ち入りの日、除夜の鐘、仕事納め、初暦、初鏡、初芝居・・・。眺めてないで、作りましょうね。

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梅左事務所・シアターχ提携公演『清姫異聞 道成寺より』

2015-11-25 | 舞台

*堀川登志子作・演出 公式サイトはこちら シアターχ 26日まで
 当日リーフレット掲載の作者堀川登志子の挨拶文によれば、本公演の『清姫異聞』は、能、歌舞伎、浄瑠璃などの伝統芸能に多くの名作を生み、さらに現在においても次々と新作が作られているという道成寺物語に、日本各地に伝わる雨乞いの「沈鐘神事」を取り入れたものとのこと。道成寺物語、つまり「安珍・清姫伝説」(Wikipedia)は、思いを寄せた安珍の裏切られた清姫が怒りのあまり蛇になり、道成寺の鐘のなかに逃げ込んだ安珍を、鐘ごと焼き殺し、みずからは入水するという話である。

 今夜の舞台では、旱魃が続いて村存亡の危機にある紀伊国日高において、帝の勅命により祈祷に遣わされた修験者の安珍に、地元の長者の娘清姫が思いを寄せ、夫婦になる約束まで交わす。安珍の祈祷は効き目がなく、責めを追って死なねばならない苦境に追い込まれた。清姫は彼を助けたい一心で、水を司る神・龍神に真心を捧げると誓い、結果ようやく恵みの雨が降る。しかし安珍は清姫の愛を退け、都へ帰ろうとする。怒り悲しむ清姫は・・・という流れである。

 星埜恵子による舞台美術がすばらしい。今回の公演には、両国シティコアと三菱製紙が特別協力し、同社の紙を使った舞台美術がお披露目された。当日リーフレットとは別のチラシに、美術助手、美術応援に幾人もの方々が名をつらね、さらに「美術協力」として「清新第三小学校5年生‎の皆さまと先生、<地球との対話>プロジェクト21」と掲載されている。大きな白い箱状のものが舞台にふたつ置かれ、舞台側の面がところどころ薄く切り取られていて、浄瑠璃、鼓、笛の奏者のすがたが少しだけ見える作りになっている。
 白い箱は抽象的ではあるが決して無機的ではなく、でこぼこした面の様子が不思議な温かみを醸し出す。

 清姫や安珍、巫女たちを演じるのは東京演劇アンサンブルや青年座、前進座などに所属する舞台俳優で、「現代劇と浄瑠璃の融合」が本作の眼目である。記憶をたどってみると、女性による浄瑠璃の語りを聞くのはおそらくこの舞台がはじめてであり、演じる俳優を支えながら、ときには語りが前面に出て、あたかも物語を支配するかのような迫力をみせるところもある。
「融合」、今風にいえば「コラボレーション」ということであろうが、きれいに混じり合う、調和することを目指したのか、それとも互いの魅力をときにはぶつけあい、競いあう様相もみどころにしようとしたのか、どのあたりに到達点を見いだそうとしているのかわかりにくい印象であった。
 とくに物語後半、安珍の命乞いをする清姫と、そうしてほしいなら自分の妻になれと言う龍神とのやりとりなど、浄瑠璃は人間でないものの声までも表現しており、逆に声だけだからこそ観客の想像力を活発にさせるのだろう。その一方で、人物を演じる俳優の造形がそれに拮抗するにはいささか凡庸であったことが残念である。

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らまのだ旗揚げ公演『青いプロペラ』

2015-11-22 | 舞台

*南出謙吾作 森田あや演出 公式サイトはこちら 渋谷EDGE 23日で終了
 大阪で劇団りゃんめんにゅーろんの主宰をつとめた劇作家南出謙吾が2013年上京、演出家森田あやとともに劇団らまのだを旗揚げした。当日リーフレット掲載のプロフィールには、「近年、数々の戯曲賞の最終候補にノミネートされては惨敗を続ける南出戯曲に、ひと花咲かせようと森田あやが立ち上がり誕生」とある。この心優しい劇作家の温かな作品を、多くの観客に知ってほしいという切なる願いであろう。戯曲は多くの人が関わってはじめて世に出る。作品が魅力的であることはもちろんだが、それに共感し、あとおしする人の存在が不可欠だ。
 二つ折良質のカラー印刷の立派なチラシには、先輩劇作家たちからのエールがびっしりと掲載されている。6月に行われた「月いちリーディング」で、本作は非常に高い評価を得たようだ。さらに日本劇作家協会の第21回劇作家協会新人戯曲賞最終候補作品に選ばれており(協会サイトには旧題の『ずぶ濡れのハト』にて掲載)、12月13日にはほかの候補作とともにプレヴューリーディングののち、公開審査会が行われる。
 10月に公演にさきがけてリーディングライヴが催されたり、キャスト一行で作品の舞台である石川県へツアーを行ったりなど、旗揚げ公演に対する作り手の意気込みや、見守る方々の期待が伝わってくる。その結果、前売は完売、増席のため当日券も出ない大盛況となって、みごとに実を結んだ。自分の観劇日も、桟敷席客に「もう少しずつお詰めください」とスタッフが頭を下げておられる。東京進出の旗揚げ公演でこれだけの集客が実現するのはすばらしいことだ。

 南出の故郷石川県のとある町のスーパーの従業員控室を舞台に、全編石川弁の作品である。劇中の音楽は、スチールパンバンドの生演奏だ。

 当日リーフレットの南出謙吾の挨拶文には、石川県の「加賀温泉駅」から路線バスで20分にある故郷の温泉街について記されている。自然は豊かであっても「絶景とまで言えず」(→つまり観光名所にはなれない)、中途半端に開発され、活気があるとは言えない町の様子が簡潔だが非常に適切で、客観的な表現であっても決して無関心ではなく、冷たくはない筆致で記されている。このような表現はなかなかできるものではないだろう。故郷への思いは人それぞれであろうが、そう単純に「ふるさと大好き」と言えるものではない。自分も地方出身であるから、そのあたりの複雑で微妙な心持ちを、少しは理解できる。

 しかしながら、目の前の舞台は劇作家の思いをじゅうぶんに描いていたかというと、何とも言えないというのが正直な印象である。方言の芝居はむずかしい。大阪弁ほどメジャー?であればさほど違和感なく受けとめられるが、そうでない場合、地方が舞台になっていること、全編その土地のことばで上演されることの意味を、作り手の意図以上に観客は考えようとしてしまうのだ。大変テンションの高い演技をする人物に対して、「なぜ最初からここまで大声で話すのか」というところでつまづき、彼(または彼女)の心情についていけなかったり、逆に台詞が小声で聞きとりにくい場面もあった。劇作家が自分の故郷のことを舞台にしたいと強く願った気持ちを、あと一歩、確かに感じとることができなかったのは残念である。

 リーフレット掲載の挨拶文を何度も読みかえし、これほど簡潔で適切、それでいて詩情のこもった文章を書く劇作家の戯曲、とくにト書きはどのようなものなのかを知りたくなった。6月の月いちリーディング、10月のリーディングライヴに足を運ばなかったことが悔やまれてならない。もし戯曲を先に知っていたなら、おそらく今日の観劇の印象も変わっていたのではないか・・・と思いながら、こうも考えた。

 ト書きを読めば劇作家の意図も理解でき、舞台のことをもっと楽しめる可能性は確かにある。会話に加えて地の文で、作者の言わんとすることをつまびらかにできる小説とちがい、戯曲のト書きとは、本来観客の目に触れることのないものだ。したがって観客は、今目の前で行われていることが、その作品のすべてではなく、すべてを理解することは非常に困難であることを謙虚に自覚する必要がある。その上でなお、舞台をしっかりと受けとめて、見えない部分、聞こえてこないものを想像する柔軟性を持とうと思う。

 らまのだは、東京での第一歩を力強く踏み出した。そして客席の自分のらまのだへの歩みも第一歩だ。つぎの一歩のための日々がはじまったと心得たい。

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iaku『walk in closet』

2015-11-20 | 舞台

*横山拓也作 上田一軒演出 公式サイトはこちら 吉祥寺シアター 23日まで(1,2,3,4,5,6
 今回はセクシュアリティの話である。関西地方のある町で、公務員の父と専業主婦の母と暮らす20歳の青年が、自分のセクシュアリティのことを両親に告白し、両親がそれをどう受けとめるかを描いた90分だ。近所の川が決壊するかもしれないという大雨のなか、帰るに帰れない人々が次第に集まってくる。青年が小学生のときに通っていた体操教室の教師、うわさ好きでお節介のご近所の奥さん、青年がバイトをしている山カフェの店長とバイトの女性などなど、この家族とさまざまな流れでつながっている人々が否応なく一堂に会し、ひとりの青年の生と性について議論が戦わされる。

 青年がほんとうにゲイであるかどうか、最後まで明確にならなかった。彼が苦しんでいるのはまさにその点であり、ここをどうとらえるかによって、作品に対する見方が分かれるであろう。作者の横山拓也自身がゲイの友人と話すときに、「そっちの人たちは・・・」と言ってしまい、「小さな差別心みたいなものをたくさんみつけてしまった」(当日リーフレット挨拶文より)ことに対する現時点での精一杯の答であると思われる。

 おののきながら懸命に受けとめようとする母、「親をみくびるなよ」とみずからを鼓舞しながら励ます父。山カフェの店長はゲイであり、以前青年と交際したことのあるバイトの女性は、彼に振られた心の傷に痛みを覚えながらも、大人たちの無理解や無意識な差別発言に懸命に応戦する。一方で芸能週刊誌的な興味であれやこれやと口を出すご近所さん、はじめこそ穏やかに振舞っていたが、過去のできごとを蒸しかえし、恨みを晴らすごとく執拗に絡む元体操教師。これらの人物一人ひとりのなかに、作者の目があり、心があるのだ。

 そして作者の目の向かうところ、心の動きはまだ定まっておらず、戯曲を書き、舞台を作る過程において、迷い悩み、自分の心に問いかけ、懸命に模索していると感じられる。創作行為とは、「これが正しい」と確信して突き進むこともあれば、「何かが間違っている」ことに気づくこと、そこから再び作りはじめることでもある。

 登場人物たちの対話は、なかなか結論に至らず、あともどりや蒸し返し、水掛け論のようなやりとりが続く。しかし冗長とは感じられず、初日の客席の緊張感は最後まで緩むことがなかった。劇作家の技術として、「このあたりでこの人物にこう言わせれば話がスムーズに展開する」ということはできると思う。しかし本作にはそれがなかった。セクシュアリティについて、作者自身が迷いのなかにあることが、舞台を好ましいものにした。それを受けとめたいと思う。
 

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第十九回みつわ会公演 『くさまくら』、『三の酉』

2015-11-15 | 舞台

*久保田万太郎作 大場正昭演出 公式サイトはこちら 六行会ホール 16日まで(1,2,3,4,5
『くさまくら』
 昭和22年8月中旬のある夜、浅草墨田公園ちかく、土木建築請合業を営む徳之助(下総源太朗)のうち。最初は二階の座敷が舞台で、徳之助の女房おしん(大原真理子)が知り合いの半造(菅野菜保之)の酒が過ぎるのを案じている。階下には店員の勝次郎(前田聖太)と、元人気落語家で、今は寺の使用人をしている惣介(冷泉公裕)がいる。 

 うちには客人がいる。元は芸者で、今は九州の素封家の未亡人であるおさと(一柳みる)である。徳之助は昔おさとの両親に受けた厚情への感謝と恩返しで彼女を逗留をさせているが、おしんはそれがおもしろくない。おしんは徳之助がおさとに惚れているからだと言い、亭主は女房に手を上げる。これだけ書くと、夏の夜の夫婦の諍いに過ぎない。しかし前述のように敗戦から2年、戦時中の記憶はまだ生々しい傷口で、しかも8月の中旬、亡くなった人の魂を迎え、そして送る盆の季節である。ことさら戦時中の苦労が話されるわけではない。しかしふたつみっつ流れ着いた燈籠のいくつかを見つめる人々が、ことばにできずに仕舞いこんだ気持ちとはどんなものだろうと、見るものに想像させずにはいられない。

『三の酉』
 今回は赤坂の芸者おさわを大鳥れい、おさわの朋輩だった年ちゃんが古閑三惠に、年ちゃんのご亭主の画家役も佐堂克実に変わった。「ぼく」役の中野誠也は前回と同じ。扇のかなめのごとく物語をゆるやかに導き、静かに幕を引く。おととし観劇の記事を読みかえしてみると、今回もほぼ同じ感想をもった。小説の舞台化という点で、舞台の構成にいささか難があること、とくにマイクを使った演出はやはり残念だ。
 しかしおさわが仲睦まじい年ちゃん夫婦の暮らしを垣間見て、「これだ、これなんだ。これでなくっちゃァいけないんだ・・・」と思い知らされたこと、そのやりきれなさからとくにどうということはない男を酉の市に誘い、いよいよ淋しくなったことなど、その場の様子が鮮やかに目に浮かび、そのときどきのおさわの心持ちがそくそくと伝わってきた。
 ともすると独り身の女の淋しい物語になりかねないところを、中野誠也演じる「ぼく」の存在がフィルターの役割をして、ほどよい距離感を生み、べたつくことなく、しかししみじみとした深い味わいを残す。今度の酉の市にはいっしょに行こうと約束したおさわが、それを待つことなくこの世を去ったことを語る「ぼく」の表情に宿る悲しみ。天涯孤独のおさわが死んだことを悲しむ人がいてよかったと思わせる。

 久保田万太郎は、『くさまくら』をなぜこのような構成にしたのかと考えた。たとえば1時間足らずの作品中、舞台転換が2度もある。そう言えば『釣堀にて』もそうである。さすがに手慣れているのだろう、さほど大きな物音も立てず、前幕の感興を削ぐこともなく進行していたが、映像ならこのように大変な作業をしなくて済む。では映画やドラマの『くさまくら』はと想像すると、やはり舞台がいい。
 逆に『三の酉』を映像にしたらどうなるだろう。原作の通り、どこかの料亭の座敷でいっぱいやりながら「ぼく」がおさわの話を聞く。演出家は、おさわの「三の酉がすぎるともう、冬のけしきだからうれしいわ」という台詞に誘われて、「年の瀬の東京の外気に二人をふれさせてみたくなった」とのことだが、おもてでこれだけ長い話をするのは寒すぎやしないか。また小説の地の文が台詞としてこなれているかという点も気になる。
 劇の中盤で、年ちゃん夫婦が、おさわがいっしょにいるものとして(誰も座らぬ座布団に明かりがあたっている)夕飯を楽しんでいる景がとてもあたたかで、演劇ならではの味わいを生むことに成功している。
 『くさまくら』のように、時系列に沿ってすすむ話は、劇中数回の舞台転換もいたしかたないが、回想形式の『三の酉』ならば、もっと演劇ならではの趣向が凝らせるのではないか。

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