因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

2010年因幡屋演劇賞

2010-12-29 | お知らせ

 劇作家の変貌と飛躍、若手演劇人の企画力と実行力溢れる舞台に出会えた1年でした。
 深く温かく、刺激的な時間をありがとうございます。
 劇評サイトwonderland「振り返る私の2010」も合わせてどうぞ。

二兎社公演 永井愛作・演出 『かたりの椅子』 
 因幡屋通信35号で「何て綺麗な月」のタイトルで劇評にまとめました。
劇団印象公演 鈴木アツト作・演出 『匂衣(におい)』『霞葬(かすみそう)』
 2本について書いた「えびす組劇場見聞録35号」の記事はこちらです。
プロジェクトあまうめ 『よせあつめフェスタ』
project BUNGAKU太宰治
風琴工房code.28 『葬送の教室』
 

 相変わらず小劇場通いに精を出したなかに、忘れられない舞台が3本あります。
*文学座 『女の一生』
*文化座 『大つごもり』
*民藝 『十二月-下宿屋四丁目ハウス-』
 いずれも超のつく新劇の老舗劇団が再演を重ねた財産演目であり、若手から中堅、ベテランも含め、劇団の総力を挙げて上演されたものです。数年前にくらべて、自分がいわゆる新劇の公演に足を運ぶ機会はめっきり減りました。新しいもの、違うものへの関心が強く、劇評執筆の軸足もほぼ完全に小劇場に移行したかと思っていたのですが、この3本には背筋が伸びる思いがいたしました。新しい⇔古い 違う⇔同じ という単純な図式では語れないものが、確実にある。演目によってはこれまで何度も見て戯曲や原作も読んでおり、「知っている話」のはずなのに、一瞬も眠気に襲われず、それどころか、からだじゅうの細胞が生き生きと動き始めるかのような感覚を味わいました。「間然するところがない」とはまさにこのことだ、そう実感しています。 

 俳優も劇団も世の中も日々変化していきます。そのなかで集団を維持するのは大変な労苦があるでしょう。上記3劇団が50年、60年と続いているのは驚異的なことです。偶然ですが、今年は若手劇団の解散をいくつか見聞きしました。解散後に新しく旗揚げしたユニットの、容易ならざる船出の様相が案じられますし、賑々しく行われた解散公演の舞台裏には、ことばに尽くせないほどの現場の苦労があったことでしょう。集団を作ること、維持することと同じくらい、それ以上に終わらせることにもエネルギーが必要なのだと想像します。

  これは新劇、あれは小劇場だとジャンル分けすることに意味はないと思いながらも、たとえばサンモールスタジオと三越劇場では舞台も客席も、年齢層がおそらく数十年レベルで異なっており(ほんとう!)、軽い時差ぼけのような感覚に襲われます。そのどちらも自分には必要であることをはっきりと認識しました。

 「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい」 旧約聖書 創世記15章5節

 数えられません。多くの劇場でさまざまな舞台に出会い、星々の美しさに感嘆しながら、いったい自分はどんなことばでこれらを表現できるのか、慄然と茫然と立ちすくんでおります。

 この1年、因幡屋通信、因幡屋ぶろぐをお読みくださいまして、ほんとうにありがとうございました。演劇という宝を与えられた人生に感謝しております。来年もどうぞよろしくお願いいたします。

コメント

日本のラジオ第6回『蛇ヲ産ム』

2010-12-26 | 舞台

*屋代秀樹作・演出 公式サイトはこちら 渋谷ギャラリールデコ3F 26日で終了
 まさか今年の芝居おさめがギリシャ悲劇になろうとは。これが初見の日本のラジオ『蛇ヲ産ム』はソフォクレスの『エレクトラ』、アイスキュロスの『オレステイア』、エウリピデスの『エレクトラ』、『アウリスのイピゲネイア』を元に、ギリシャ悲劇を現代口語演劇風?に再構成したものである。
 ルデコといえばコンクリート打ちっぱなしの暗く冷たい壁と床のイメージがあるが、エレベーターを3Fで降りたとき、一瞬フロアを間違えたかと思った。フローリングの床に白い壁の室内は、カフェか美容院のように明るく清潔な印象だ。正面の演技スペースに丸いテープルと椅子が数脚あり、客席は正面と上手の2方向に設置されている。

 一族が壮絶な争いを繰り返す愛憎劇である。『蛇ヲ産ム』は、クリュタイメストラが夫アガメムノン(登場しない)を殺害するまでの話と、オレステスが故郷に戻って姉のエレクトラと再会し、姉弟が共謀して母親とその愛人アイギストスを殺して復讐を遂げる話を交互に描く構成になっている。舞台正面の壁に人物関係図が大きく書かれ、当日リーフレットにも簡潔な説明があるので、原作をまったく知らないとしても何とか流れはつかめると思う。

 自分がこれまでみてきたギリシャ悲劇は、ベテラン俳優に若手が挑みかかり、中堅が手堅く支えるという形が多く、人物の造形は愛や憎しみを張り裂けんばかりにぶつけ合う台詞の応酬によるものであった。今回は実年齢の差はそれなりにあると思うが、概ね近い世代の俳優陣が現代の言葉で話す。たとえばクリュタイメストラの女優さんは若くてふっくらと可愛らしく、オレステスやエレクトラの母親としてみるには無理があるし、進行役の存在がじゅうぶんに活かしきれておらず、過去と現在が交互に進行する構成にもどかしさがあった。現代風にするのであれば、もっと大胆に削ぎ落してシンプルなものに挑戦してみてもよいのではないか。

 十数年前、デヴィッド・ルヴォ―演出の『エレクトラ』をみたとき、太古の昔から憎しみはこれほどに人を苦しめ、傷つけること、その感情は現代の人間もまったく変わっていないことに慄然とした。しかし茨城県でバスに同乗していた高校生を無差別に襲った男性は、自分の人生を終わりにしたかったのだという。考えることと行動が噛み合っていない。いよいよ混乱する現代において、激しく愛し、激しく憎むギリシャ悲劇の人々の物語は、真っ当な憎しみの果ての、理にかなった行動の結果として逆に安定感がある。ギリシャ悲劇を現代の若者が現代の口語で演じること。その目的と意味は何かを今一度考えたい。また抽象的な表現になるが、原作の台詞がもつエネルギーを俳優がおなかにしっかり落とした上でないと、現代口調の軽さと内容の重さのギャップがよくない面に出てしまい、俳優の居どころが中途半端にみえて、こちらの視点も定まらない。そのなかで、オレステスを演じた横手慎太郎が台詞、立ち姿ともに際立った存在であった。

 ルデコは電車や車などの騒音はもとより、上下のフロアの音もおかまいなしに聞こえてきて、演劇を上演する環境として良好とは言いかねる。この日は上のフロアが別の芝居の撤収をしていたのか、ものすごい音が響いていた。しかし目の前の『蛇ヲ産ム』をみるのに妨げにはならなかったのである。ある場所、ある家族で大変な惨事が起こっている。けれど世の中はそれとはまったく関係なしに流れていく。そんな印象を持った。ルデコは不思議な空間だ。これからも大胆な発想と試みを期待したい。

コメント

劇団印象突然番外公演『空白』

2010-12-25 | 舞台

*鈴木アツト作・演出 公式サイトはこちら 新宿タイニイアリス 27日まで (1,2,3,4 5,6,7,8,9)
 本作が初演されたのはは2005年、自分がはじめてみたのは2008年の再演で、今回と同じく「突然番外公演」と銘打たれたものであった。物語の大枠は同じだが、配役が大幅に変わり、人物の設定も若干変更されているようである。この自信なさげな言い方は、登場人物の性格や物語の流れや個々のシーンなど、観劇当時の自分の記憶があいまいなことに愕然としているためだ。2008年の舞台もじゅうぶん楽しんだはずなのだが。

 鈴木アツトが自分の舞台を作る上で、女優の龍田知美を得たことは非常に大きいことを実感した。再婚した今の妻に追い出された元夫が、引っ越し費用の無心にやってきた。彼女は好きな人ができて、その彼がもうすぐうちにやってくる。気が強く、元夫を完膚なきまでに叩きのめすが、新しい恋を得たことが嬉しく、今度こそは幸せになりたいと願っている。公演中なので物語の詳細は書けないが、終盤になって照明が少し暗くなり、結婚生活に疲れ果てた過去と思われる場面での表情など、胸が痛くなるようであった。
 また今妻を演じる岩崎恵は唯一前回と同じ配役であるが、KAKUTAの桑原裕子を思わせる言いたい放題に暴れまくる我がまま作家が、最後に気弱になってホロリとさせる。これまでさんざん離婚再婚を繰り返し、そのたびにペンネームを変えているのは、毎回本気で相手を好きなのだろう。最初から別れようと結婚する人はいないのだから。

 一方で元妻の姪(前回は妹だった?)とピアノ教師の関係や、バイト仲間で姪のことを好きな男の子が物語にしっかり食い込んでこない点や、今妻にかかりっきりの編集者3人の使い方が少々勿体ないところもあって、もっと人物や場面を刈り込んで凝縮した作品になるのでは?と思った。が地下鉄の駅を出て歩きながら次第に思い直していった。今年鈴木アツトは2本の新作を発表したが、そのいずれもが目を見張るほどの新境地を開くものであった(『匂衣』『霞葬』)。来年新作の舞台を最も期待している劇作家である。その活動のなかに、敢えて過去の作品を上演することの意義を考えた。新作に比べれば、筆が弱かったり迷いがあったりもする。しかし新しいステップを踏み出す前に、この舞台があったことを考えると、新作をみる楽しみが増すのではないかと。

 書きたいこと、書けることを心のなかにまだまだたくさん抱えている劇作家であると思う。それはもっと深く痛く、苦いことかもしれないが、鈴木アツトの描こうとしている世界を立体化できる新しい俳優との出会いがあること、今後もさらに飛躍、変化の兆しが予感されることが、今夜の観劇の記憶をいっそう明確なものにした。

コメント

ブルドッキングヘッドロックvol.20 『嫌な世界』 

2010-12-25 | インポート

*喜安浩平(ナイロン100℃)作・演出 公式サイトはこちら サンモールスタジオ 31日まで
 このなかなか覚えられない劇団名の公演は今回が初めてである。結成10周年記念公演の第3弾は客演ナシ、劇団員15名が出演し、上演は休憩なしの2時間30分であるという。
 物語の設定やおよその雰囲気は、公演チラシ左上の喜安浩平の挨拶文に記されている通り。どこかの町、おそらく町工場や家族経営の抽象企業が密集する場所で、親の代から続く店や工場を切り盛りしながら、家族や従業員、近所の人たちが出たり入ったりしながら進む物語である。

 冒頭は万年床の敷かれた平太郎の部屋からはじまるが、サンモールスタジオでこんなに大掛かりなセット転換をみたのは初めてではなかろうか。一種の「回り舞台」である。15人もの人物がひとりの捨て役もなく、性格も背景も持ち場もきちんと書かれており、2時間30分の長尺をまったく感じさせないところまではいかないが、1時間30分、長くても2時間の芝居に慣れた身であっても何とか持たせてしまっている。それほど目新しいものではなく、ふた昔前のテレビドラマの人情喜劇的な雰囲気である。しかし既視感がないのは、人物それぞれの造形が巧みで細かく、ちょっとした台詞や動作や表情に惹きつけられるからだろう。

 時代ははっきりしないが、少なくとも近未来であろう。しかし目の前の人々の様相を見ていると、「火星移住計画話」は取ってつけたように不自然で、それほどこの町は世の中の趨勢から取り残されかけていることを示したのかとも思ったが、半端なSF風の設定よりも主人公の少年がみる夢と現実が混乱していくことに軸足を決めたほうがよかったのではないか。俳優の演技が達者であるのは素晴らしいことだ。しかしそのことによって劇作家の筆が走り過ぎ、物語の根幹、何をもってタイトルを「嫌な世界」としたのかがぼやけてしまったように感じる。当日リーフレットに記された喜安浩平の挨拶文には「この世界、嫌でしかたがありませんが、嫌いにはなれなくて困っています」とある。この葛藤や矛盾、嫌だが嫌いになれないことを、もっとしつこく、それこそ嫌になるくらいに描くことができるのではないだろうか。

コメント

劇団民藝『十二月ー下宿屋四丁目ハウスー』

2010-12-17 | 舞台

*小山祐士作 高橋清祐演出 公式サイトはこちら 三越劇場 20日まで
 前回三越劇場に来たのがいつだったのか思い出せないくらい久しぶりの劇場で、日ごろ通っている芝居とは別世界のような客席の様相に戸惑いも(苦笑)。本作は小山祐士の処女戯曲で初演は昭和8年である。民藝の28年前の上演を同級生がみたと言っていたような記憶があるのだが、これは本人に確認中だ。ここ数年の自分の観劇傾向からは、劇場も劇団もだいぶ隔たりがあって敷居が高かったのだが、江森盛夫さんのブログ「江森盛夫の演劇袋」に本作のことが書かれており、以下の1節に背中を押されて観劇に臨んだ。

「舞台が無人になったときの気配の濃さ。前場の余燼や次の場へも予感などが濃密に感じられる。」

 その通りであった。息をのむ思い。背筋が伸びた。

 昭和5,6年ころの東京本郷界隈の小さな下宿屋「四丁目ハウス」を経営する夫婦、その弟、親戚の娘、下宿人や女中たち。さまざまな人が出たり入ったり、それぞれに難しい事情や言いにくいことを抱えている。大恐慌に戦争の足音が聞こえ、希望の見出しにくい時代背景を感じさせながら、台詞のひとつひとつが粒だち、登場人物ひとりひとりの心情がこちらに伝わってくる。
 28年前の同級生の記憶が曖昧なのは、おそらくはっきりした舞台の印象が持てなかったためであろう。当時自分たちは演劇をみはじめたばかりであり、ともかく知っていそうな劇団や劇作家の芝居から手探りでスタートした。文学座や民藝などの大手(そういう感覚でとらえていた)をみて、それからつかこうへいやシェイクスピアシアター、アングラへも怖々とようよう足を進めようとしていた。もしあのとき自分が『十二月』をみていたとして、「舞台が無人になったときの気配の濃さ」を感じ取ることはできなかったと思う。しかし今回も江森さんのブログを読まないで舞台をみていたらどうだったか、実は自信がないのである。たくさんの舞台をみていたらそれなりに知識は増えるし、自然に身についていくこともあるが、漫然と続けるだけではだめなのだ。戯曲も評論もできるだけたくさん読み、きちんとした意識をもって舞台に臨むことが必要だと思う。

 

 これから10年、20年後も『十二月』が上演されること、それをみる自分がこの世に存在していること、その日までこの作品が次の世代に大切に継承されていくことを願っている。自分も心身の鍛練を怠らないよう。

 

コメント