因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

新国立劇場演劇研修所第12期生試演会『トミイのスカートからミシンがとびだした話』

2018-10-30 | 舞台

*三好十郎作 田中麻衣子(研修所コーチ)演出 公式サイトはこちら 新国立劇場小劇場 31日で終了
 1951年「群像」に発表され、戯曲座による初演以来67年ぶりに上演される作品に取り組むのは、2016年入所の12期生を中心に、8期、9期からも一人ずつ加わった若手俳優たちである。敗戦後の東京周辺。ミシンを手に入れた富子は娼婦稼業から足を洗い、洋裁で身を立てようとしている。仲間たちから祝福され、伯父夫婦の助けを借り、弟や妹と暮らしながら準備を始めたが、富子のことを記事にしたいと新聞記者がやってくるあたりから、早々に雲行きが怪しくなる。

 ただでさえ女性の自立が困難であった時代に、美しく魅力的であるがゆえに男たちの欲望に翻弄される富子が、紆余曲折を経て心身傷ついた果てに、ささやかな幸せを手にするまでの物語である。

 同じ研修生の公演といっても、一昨年冬の『噛みついた娘』はみっちり学んだ末の卒業公演であり、それに比較すれば、今回の試演会はずっと手前の段階にある。上演時間じたいは2時間15分であり、休憩無しでも観劇可能な長さである(ただし今回の上演はテキストレジされており、実際はもっと長いとのこと)。しかしひと息がなければいささか辛く、休憩があっても前半後半ともに長く感じられ、疲労感があったことは否めない。

 富子を演じる永井茉梨奈は、すらりとした長身に生き生きした表情、声もよく通り、この役にふさわしい大器である。終盤、怪しげな薬を売るためにストリップまがいの踊りをする場面がある。宮本宣子の衣裳、黒田育代の振付ともに、いかにもまがいもののインチキ商売であり、そのために肌を晒し、奇妙な声を発する踊りをさせられる富子の哀れな様子がいっそう際立つのだが、その反面、垢ぬけないところがユーモラスに見える効果もあり、何より永井の堂々として大真面目な踊りっぷりが天晴で、安易な同情や感傷を抱かせない。逞しく生き抜きながら、富子は無類のお人好しでもあり、それが不運を呼び寄せてしまうのだが、観ているうちに、「いったいこの先どうなるのか?」という疑問が、「何とか幸せになってくれないものか」と彼女に近しい心持にさせられる。

 永井だけでなく、俳優陣の奮闘ぶりは非常に好ましい。ちょっとした表情や台詞のひとことに、達者なところを見せる俳優もあり、唸らされる場面もあった。ただその奮闘ぶりが熱すぎる面もあり、いたしかたないとは言え、実年齢より上の役を演じる俳優には、残念だがどうしても無理が生じる。舞台全体の空気を作り出し、その空気を動かすには、一つの場面、一人の俳優が良くてもうまくゆかないのである。

  当日リーフレット掲載の宮田慶子研修所長の挨拶文にある通り、「想像力を最大限に使って、未知の人間を作る」こと、自身とは全く異なる時代、社会背景、境遇に活きる人間を発見すること、俳優であるには、永遠に突きつけられる課題の答を見つけるために、「謙虚に懸命に、身を削る覚悟を持ち続けなければならない」のであり、今夜の舞台を見る限り、その覚悟はじゅうぶんにある。そしてこれから力強い歩みが始まること(いや、もう始まっている?)を予感させるものであった。

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板橋ビューネ2018参加 サイマル演劇団『ベビュカン』

2018-10-25 | 舞台

*カール・アインシュタイン原作 鈴木芳子翻訳 赤井康弘構成・演出・美術 サブテレニアン 28日で終了(1,2
 10月中旬から始まった板橋ビューネ2018第2弾である。公演チラシには「ドイツのキュビスム小説『ベビュカン』を舞台化。内省的な青年ベビュカンの内外に起こる目眩く世界を、多面的複眼的に描いた現代の知性の書。言葉の喪失、人格の解体、時間感覚の不統一。難解とも言われる伝説的な小説を身体性を重視したキメラのような作品に作り上げる」とのこと。キュビスムとはこちら。未知谷社のサイトに原作小説の書評が掲載されており(こちら)、さらにキメラとはこちらの意である。いろいろ参考にする情報はあれど、いずれも一読して理解・把握できる内容ではない。

 舞台上手奥と下手手前に円形の台が置かれ、上手の台には、顔を白く塗った男性が車椅子に座っている。下手のそれには、スキンヘッドの男性が座る。3人の女優が登場し、終始激しくからだを動かしながら、複数の役を演じ継ぐ。

 俳優は声がよく通り、台詞も明晰。強靭で鋭い動きのなかに、しなやかな美しさも見せて魅力的である。ただ客入れの段階から上演中ずっと時計の振り子の音が鳴らされており、これは昨年の『授業』にも同様の演出があった。ほかにも顔を白塗りにした俳優が登場すること、車椅子の使用など、既視感のある趣向が散見する。

 何らかの原作を舞台化する場合、舞台が原作の解説になってしまっては残念である。原作のなかの何かを舞台で表現したい、俳優の肉体で立体化したい、肉声で聴かせたいという強い動機があるはずだ。それが何なのか、最後までわからなかった。手も足も出ないとはこのことである。

 振り子の音が何を意味するのか、なぜ3人の女優が台詞を言いながらあのような動きをするのかなどなど、表現の意味や演出の意図を探ることだけが観劇の目的ではなく、楽しむだけが演劇ではないのだが、作り手の創造の情熱、意欲を、手触りだけでもよいから、もっと感じ取りたかった。

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文学座公演『女の一生』

2018-10-23 | 舞台

*森本薫作 戌井市郎補訂・演出による 鵜山仁演出補 公式サイトはこちら 
 今年1月の愛知県公演を皮切りに、2月半ばまで三重県、富山県、石川県を巡演し、この10月23日から28日まで紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA。その後12月後半まで兵庫から中国地方へと続く。大ツアーである。寄る辺なき孤児・布引けいの波乱の生涯を、堤家の庭に面した座敷のセットひとつで描く。
振り返ってみると、初めて本作を観劇したのは89年の杉村春子、96年、99年の平淑恵、2010年の荘田由紀、2015年に三たび平淑恵。その間、2007年に朗読劇があり、劇団新派の公演(1,2)も経て、2018年10月の今宵、山本郁子が4人めの布引けいを引き継いだ上演をみることができた。文学座の大いなる財産演目であり、多くの俳優そして観客の夢を掻き立ててやまない作品だ。今回は関連のイベント・講座も充実しており、観客もまた「継承」の責任と義務を負う者であると思う。

 思い出すまま気づきなど…。

 第一幕の二。堤家の家族が奥へ行き、座敷は無人になる。さあ、もうすぐだ。もうすぐここに布引けいがやってくる。客席ぜんたいが息を殺して待つ、その緊張感。ここから物語が大きく展開することへの期待はもちろんだが、一人の少女の運命を左右する瞬間であり、幸せよりも悲しみや悩みの多い人生が始まることを思うと、もうここで胸が迫るのである。無人の舞台に満ちる空気が、観劇を重ねるごとにより濃厚に感じられる。

『女の一生』は、描かれない、見せないところが非常に多い作品だ。数年ごとに場面が進んでゆき、その間のことは台詞で語られるからである。第二幕、堤家の女中として生き生きと立ち働くけいの様子は、何度見ても清々しく気持ちがよい。それが次の幕では別人のように堂々たる女主人に変容している。そこに至る数年間のけいの気持ち、周囲の様子はどうだったのか。

 以前は、こういった描かれないところが不満だった。しかしいつのまにか、そこを想像することに楽しみが生まれてきたのである。けいは次男の栄二と好き合っていながら、恩人である女主人に乞われて長男の伸太郎と結婚する。女中が跡取りの妻、商売の実質的な後継者となり、義理の姉妹の縁談すら仕切るようになる。これまで「けい」「お前」と呼んでいたのが、「おけいさん」「姉さん」になるのである。「栄二が無断で家を出て行ったあの日」とはどの日なのか。幾通りにもシミュレーションができる。栄二は兄夫婦の一人娘が3歳くらいのとき、一度帰ってきた。姪をたいそう可愛がったという。栄二は子ども好きのようであるし、姪も初めて会った叔父になついたのであろう。何やらまるで舞台を見たかのようにありありと目に浮かぶのである。一方で、その様子を伸太郎とけいはどんな思いで見つめたのだろうか。

 仕事で遅くなった母は、縁側で自分を待ちわびている娘に気付かない。「おかえりなさい」と言われてはじめて、「はい、ただいま」とひと言、すぐに叔父と商売の話に戻る。その母を必死で見つめる幼い娘の横顔から目が離せなかった。

 不思議なことに、けいを演じた歴代の女優たちのイメージが妨げになることなく、実に自然に目の前の「布引けい」に集中し、懐かしさと新鮮さを同時に味わいながら、まったく気が緩むことなく舞台に惹きつけられた。これは他の人物も同様である。しかも過去の俳優が消えてしまうわけでもなく、杉村春子の口調、平淑恵の表情、荘田由紀には忘れられない場面があり、それらがすべて連なって、今夜の山本郁子に結実し、さらにその先へ続く予感すら覚えるのである。

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唐組第62回公演【唐組30周年記念公演第2弾】 『黄金バット~幻想教師出現~』

2018-10-21 | 舞台

*唐十郎作 久保井研+唐十郎演出 公式サイトはこちら 猿楽通り沿い特設紅テント、雑司ヶ谷・鬼子母神 11月4日まで(1,2,3,4,5,6,7
 
唐十郎が小学校時代、「黄金バット」というあだ名のたいへんユニークな女性の先生がおられた。黄金バット先生は、当時まだ大鶴義英だった唐十郎に、クラスで上演するお芝居の台本を書くことを勧めたというから、ひとりの少年が演劇とともに生きる人生の最初の火を灯してくれた人なのである。いくつかのサイトに座長代行であり、演出、出演を兼ねる久保井研と、主演女優の藤井由紀の非常に読み応えのあるインタヴューがあり(カンフェティSPICE)観劇前の予習の教材としても有効である。

 が、予習をしたからといって、舞台が理解できるようになるかというとそう簡単にわからせてくれないのが唐作品だ。冒頭、久保井研演じる男がアイスキャンデー売りの自転車を引いて登場、女教師黄金バットを追って、幻の学校を探していると滔々と語る。女教師は受け持った子どもたちを追って中学教師の免許を取得し、中学に来たという。もうこのあたりから、女教師と子どもたちの尋常ならざるつながりが見え、そこから想像もつかない展開が待っている。

 自分は、いわゆる「先生と生徒」ものが好きである。『リタの教育』『詩人の恋』『モーリー先生との火曜日』など、教える教師が実は生徒から教わっていたり、先生と生徒の関係を超えて、対等な人間同士のよき交わりに到達したり、教えるものと教わるものの関係性の変容のさまがおもしろく、胸を打つのである。

 しかし唐十郎の先生ものは、感動するには一癖も二癖もあり(例に挙げた上記の作品が単純であるということは決してないが)、理詰めで解釈しようと頑張ってみても躓く。公演チラシに掲載の久保井研の「あらすじ書きに代えて」には、「(春公演の)『吸血姫』がほとばしる観念や生き様への渇望の物語とすれば、『黄金バット』は飛び立たんが為に、幾つもの記憶の塊を掘り起こす人々の物語といえるだろう」と記されている。

 幻の学校、名づけて「風鈴学級」では、社会に適応できない子どもたちのために夜な夜な授業が行われている。やってくるのはお腹のなかで幼なじみの小夜ちゃんの記憶を育てている青年ヤゴ、出来が悪すぎて中学6年生になった女ブドリ。鎌いたちと呼ばれる行商とその仲間、都議会議員たち、自閉症児など。入団して2年め、3年めの若手俳優はこれまでの舞台とはまた違う顔を見せていよいよ頼もしく、唐組生え抜きに加えて、常連、客演も手堅い。今回は風鈴学級に生徒を引き取りにきた教師役で、元宝塚男役の月船さららが出演した。「からたちの花」歌唱の場面ではさすがの歌声を聞かせるところなど、いい意味での違和感や異物感を醸し出している。久保井研、藤井由紀、岡田悟一のベテランの円熟、若手の向上とともに、今後もさまざまな俳優が紅テントにやってくることを密かに期待したい。

 場面転換に合わせて2度の休憩を挟んで、上演はおよそ2時間20分である。桟敷席で観劇する体力、気力からするとぎりぎりのところかもしれない。頭での理解を思い切って忘れ、劇世界に身を委ねてみれば、奇妙なモグラマシーンにブドリを乗せ、アイスキャンデーの男とヤゴの3人がテントの向こうに消えていく終幕の高揚感と寂寥感を的確に表現することばを、わたしはいまだ持ち得ない。

「記憶、ということをずっと考えていて、わたしはわたしの時間を抱きしめているんだな、と思うその感じが、舞台の上に在るようで、言っていることはほとんどわかっていないのに、こころがぐんぐん動きました」
 別の夜に本作を観劇した女性からの便りである。ことばにできないわたしの心持ちにもっとも近く、これまでの、そしてこれからの唐作品との交わりに確かな足掛かりとなることばになった。ご本人の承諾を得て、この場に記させていただく。劇団民藝演技部の笹本志穂さん、ありがとう。

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sortie vol.01『セイラム』

2018-10-16 | 舞台

屋代秀樹(日本のラジオ 1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11)作・演出 公式サイトはこちら新宿眼科画廊 16日で終了 
 それぞれ脚本、演出、主宰、俳優と何役も兼ねて活動する雁瀬有子、つついきえが、俳優に専念するために外部に作・演出を依頼して公演を行うことを目的に立ち上げたのが sortie(そるてぃえ)である。その第一作がの本作だ。公演チラシには、「山間の街、田瓶市/田瓶図書館館長夫人、阿見エミリ氏の主催する/読書サークル「あやめの会」に /現れた1人の女/「女の子はみんな魔法が使えるんです」/現実と空想の狭間に揺蕩う、/もうひとつの世界のお話」となる。少し長い引用になったが、観劇後のもやもやした妙な心持ちを整えようとして、しかしこうして書き写してみても、やはりもやもやは消えないままである…という自覚から書いてみることとする。

 セイラムと聞いて即座に連想するのは、アーサー・ミラーの『るつぼ』である(これまでの観劇記事→1,2)が、「セイラム」という、意味を持ちすぎる地名をタイトルにしながら、設定は「田瓶市」劇団肋骨蜜柑同好会の作品を初出とし、屋代秀樹の作品でも登場した。のんびりというより、どこか間の抜けた語感を持つ「田瓶市」なのである。

 登場するのは、前述の阿見館長夫人(後妻)はじめ、この架空の街に住む8人の女性たちである。冒頭ではそのうちの数名が「こっくりさん」らしきことをしており、誰かが捌けて、また別の誰かがやってくる。過去にすがたを消した人物についての謎解きが本作のひとつの鍵らしい。その謎を解くべく、異物的な若い女性が放り込まれ、彼女を手引きし、裏で手を回そうとしているらしき女性もあるが、真実に向かって謎が解明される様子はなく、話の流れや人物の関係を明確に把握することがむずかしい作品だ。

 何となくけむに巻かれたまま終わった印象があり、正直なところ、もう少し確かな手ごたえが欲しいと思う。しかしながら8人の女優はいずれも異なる魅力を放ち、アンサンブルというより、心地よい不協和音といった様相である。安易に続編を、と期待するわけではないが、sortie(そるてぃえ)の今後の展開として、「あの田瓶市のあの女性たち」に再び会えればと思う。あのなかの1人のスピンオフ作品であったり、彼女たちをめぐる男性たちの話であったり…とsortie(そるてぃえ)の旗揚げは、早くも自分の妄想を掻き立てているのだった。

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