因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

因幡屋12月の課題

2009-11-30 | お知らせ

ロトンロマンス『倶楽部』
12月文楽鑑賞教室『仮名手本忠臣蔵』今回で2度めの文楽観劇となる(1)。解説は「文楽の魅力」。  自分の知らないことを教わるのは大好きだ。心を静かに柔らかく。
トゥルーパ公演『冬-ZIMA-』ロシアのエフゲーニィ・グリシコヴェッツの戯曲が久保遥の翻訳で本邦初演される。
モナカ興業『さみしい兄妹』(1,2,3)
グリング第18回活動休止公演『jam』 外部書き下ろしを含め、青木豪作品の記事はこちら→1,2,3,4,5,6 7,8,9
 ここ数年グリングの舞台には友人や家族とよく通った。活動休止公演はグリングというとほぼ毎回一緒にみていた友人といっしょに。終演後はちょっと早いクリスマス会&忘年会&しばらくさよなら会にしたい。
劇団掘出者(田川啓介作・演出)特別公演『ロミオの代わりはいくらだっているし、ジュリエットの代わりだって腐るほどいる』(1,2,3) 前回公演『誰』が第15回劇作家協会新人戯曲賞の最終候補作になり、来年は劇団昴へ田川啓介の脚本提供が決まっている由。
ブラジル『FUTURE』 外部書きおろしを含め、ブラジリィー・アン・山田作品の記事はこちら→1,2,3,4
*東京乾電池12月の月末劇場(1,2,3,4) 12月の演目はまだ決定していないようだが、ぜひ今年の芝居収めにしたく。

 12月は慌ただしい。公私共にいろいろな締切、期限が迫ってくる。ひとつひとつきちんとやりましょう。そして心穏やかにクリスマスを迎えたい。12月の課題は「メリークリスマス」

 

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東京乾電池11月の月末劇場

2009-11-29 | 舞台

*加藤一浩作『雷鳴』、別役実作『眠っちゃいけない子守歌』 公式サイトはこちら 新宿ゴールデン街劇場 29日まで

 数か月ぶりの月末劇場だが(1,2,3)、『雷鳴』は先週試演会でみたばかり。『眠っちゃいけない子守歌』は2004年春、相鉄本多劇場で加藤一浩演出の舞台をみたことがあって、そのあと違うカンパニーの舞台もみたが、自分は横浜でみた乾電池の「ベツヤク」がほんのりと心に残る。別役の中でも特に好きな作品で、どこかの劇場で上演があることを知ると、何とか予定を繰り合わせてみたくなる。

 2本とも登場するのは男と女の2人だけだ。『雷鳴』は夫婦らしき男女(嶋田健太、阪田志麻)が、現在と過去を行き来するようなしないような微妙に距離をとりながら見つめ合う短い芝居である。『眠っちゃいけない子守歌』は、夫と別れた女(中村真綾)と、母を亡くした男(山肩重夫)が直視できなかった自分自身の過去に向き合おうとする(いやそんな強い意志的なものではないけれど)とする話である。前者からは背筋が冷やりとするような、鋭利なサスペンス性を、後者からはちぐはぐな漫才のようなおかしみを感じた。

 『雷鳴』は男女の背景や過去がほぼまったくわからない。相手に向かって話しているが、モノローグのようでもあり、作者が何を伝えようとしているのか、どこを狙っているのかがわからない。しかしそのわからないところが逆に謎めいた魅力を生み、モノクロームのドキュメンタリーフィルムを見ているようであった。

『眠っちゃいけない子守歌』中盤で、女が自分が夫と別れたことを明かしてしまう場面がある。そこで舞台の空気が明らかに変化する(いや、自分の心がそのように操作しているのかしら?)。重たく、ざらつく、冷たくなる、あるいはべたつく等など、演出や俳優の個性によって変化の様子はさまざまだが、今回の中村真綾は、男から「別れたのかい?」と聞かれ、「ええ」とあっさり答えて、そのやりとりがまったく影響ないかのようにどんどん話し続ける。ちょっと驚いたが、こういう方法もあるのか。後半、客席の笑いが多くなったが、台詞のやりとりのおもしろさというより、中村の台詞の言い方が実に素朴で、話している本人がほんとうに混乱しているかのような雰囲気を出していたせいだろう。舞台ぜんたいがやや性急に進んでいくのには困惑したが、思わせぶりな「間」をとらず、必要以上にウェットにしない演出なのだろう。

 自分でも戸惑ったのは終演後の心持ちだ。余韻を味わうのを避けるかのように足早に劇場を後にし、すぐに電車に乗り込んだ。何かが恐かった、それから逃げたかったのだ。加藤&別役2本立ての企画にまんまと嵌ってしまったのだろうか。

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風琴工房 おるがん選集秋編

2009-11-23 | 舞台

 俳優が選んだ一編を詩森ろばが脚色する試みの第1回。横光利一原作『春は馬車に乗って』 選者・松木美路子 鷺沢萌原作『痩せた背中』 選者・小川待子 本駒込ギャラリー日月 公式サイトはこちら 29日まで(1,2,3,4,5,6,7,8)

 ほとんど馴染みのない本駒込の住宅街の中の、普通の民家で行われる公演。日曜夜開いているのはコンビニくらい、用心のために少し早目に出向いたのが災いして、チラシ掲載の「路地の入り口に人がおりますのでそれを目印に」の人もまだ立っておらず、路地を曲がって明かりが見えたときはほっとした。しかしそこからどう進めばよいのかわからない。ポツリぽつりやってくる人もこれから観劇の方と思われるのだが、声をかけるのも憚られ。昼間に訪れたらだいぶ違う印象を持つだろう。めったにない体験が始まる予感。

 玄関で靴を脱ぎ、右手の部屋に入る。10畳くらいの広さだろうか、部屋の前半分には女優が横たわったベッドが置かれ、それでほぼいっぱい。後ろ部分が客席で、座布団、丸椅子、背もたれつきの椅子が3列ほど。ほんとうに家のお芝居、劇場というより部屋にお邪魔している雰囲気だ。もう長くは生きられない妻と看病に明け暮れる夫の日々を描いた『春は~』からは外界と遮断され、夫婦ふたりだけの息苦しさの中で、夫は逃げ出したいと思いながらも妻を失う絶望に崩れそうになり、妻は夫を自由にさせたいと思いつつも、それについていけない病身を恨む。結論の出ない堂々巡りのやりきれない会話が続く。

『痩せた背中』は少々わかりにくい設定だ。父親の葬儀のために実家に帰った青年と、晩年の父と暮らした女性が、現在と過去を行き来しつつ会話し、青年が恋人と暮らす部屋という別空間も同じく存在する。

 ここ数年風琴工房の公演はほとんど見ているかもしれない。チラシのデザインやそこに書かれた詩森ろばの文章にとても惹きつけられるのだ。劇団から送られてくるチケットには出演俳優直筆の手紙が同封されていたり、優先予約のノベルティグッズは毎回楽しみで、今回のように一風変わった場所での公演もある。いろいろな面にとても細やかで優しい心づかいが感じられる。演劇に対する志が清らかで真っ直ぐなのだろう。
 詩森ろばの文章で背筋が伸び、手作りのグッズに優しく温かい気持ちになれる。

 しかし正直にいうと、舞台をみて自分の心にしっくりこないもどかしさがいつもあるのである。それが何なのか、なぜなのか、毎回考えている。今回の2本についても、カセットコンロに鍋がかけられ、実際に鳥の臓物を似たり、夫が窓の外に飛び降りてほんものの鮟鱇や鯵を手にして魚屋のまねごとをしはじめたときにはびっくりした。身も蓋もない表現になるが、どうしてそこまで生ものを出すのだろうと思うのだ。無対象の所作だけではだめなのか。普通の民家で演劇を上演すること、というよりよその家庭に他人が同時に存在している違和感を出したいのか、それとも舞台と客席を同化させたいのか。作り手側がどういうものを目指しているのか、そして自分は風琴工房に何を求めているのかがわからないのだ。

 上演台本がお土産で手渡される。とても嬉しく、帰りの電車で一気に読む。しっくりこないこと、もどかしく感じること。それらを自分の言葉で逃げずに書き記したい。そう思った。

 

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パラドックス定数 第20項『東京裁判』

2009-11-22 | 舞台

*野木萌葱作・演出 公式サイトはこちら pit北/区域 23日まで

 2007年に初演され、話題になった作品だ。劇評サイトwonderlandによる「振りかえるわたしの2007」に多くの評者が本作を挙げており、このとき自分の心にパラドックス定数の名が強く刻まれた。以後はこの通り、ほとんど病みつきである(1,2,3,4,5)。今回の再演でようやく話題作観劇の運びとなり、その期待が充分に満たされる嬉しい体験となった。

 極東国際軍事裁判において、被告の弁護人に任命された5人の男たちと検察側、判事たちの丁々発止の1時間35分。しかし5人以外は登場せず。2階部分に判事たちがいて、舞台の二辺を囲む1階客席の片方に検察側がいると見立てる趣向で進む。

 pit北/区域に行くのは初めてであるが、狭くて急な階段を降りたところに受付があり、そこからさらに、足がすくむようなような階段を下りてやっと客席に着く。客席も暗く狭い。いまはもうない渋谷ジャンジャンは地下一階だけだったが、あそこと似た空気を感じた。観劇環境としてはよくないのだが、始まるやすぐ、この作品のためにこの空間が用意されたかのような感覚にどっぷりと浸る。急ごしらえの弁護団は出自もバラバラで、皆それぞれに戦争の傷と影を背負う。

 この題材についてまともな知識がなく、目の前で行われていることのどこまでが史実であり、どこからが劇作家の創作(あるいは願望、空想、妄想)なのかがわからない。自分の視点の弱いことや無勉強(不勉強よりもっとひどい)に打ちのめされる思いだが、なぜかそれも嬉しいのだった。ガツンとやられる感じ。これがたまらないのである。この感覚をもっといろいろな人と共有したい。ノンフィクション好きの家族、歴史に詳しい年配の友人、芝居は嫌いだという親戚。次回は誘ってみよう。そしてこれなら見てみたいと思ってもらえるような劇評を書きたいのだが今の自分には大変に難しく、それだけに「何とかしたい」という気持ちを掻き立てられるのである。

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ハイリンドvol.8『森モリ』公演

2009-11-21 | 舞台

*森本薫『華々しき一族』とモリエール『お婿さんの学校』の2本立て 中野成樹演出 赤坂レッドシアター 公式サイトはこちら 23日まで

 国内海外問わずさまざまな戯曲を意欲的に上演し続けているハイリンド(1,2,3,4,5,6,7)と誤意訳の中野成樹(1,2,3,4,5 6,7,8)の組み合わせである。自分のハイリンドの見方を振り返ってみると、どんな戯曲に挑戦したかということが最も気になる点であった。それくらい毎回手強く、やりがいのある手堅い戯曲を取り上げて着実な成果をあげている。それが今回は戯曲の選択もさることながら、これまでに比べて演出が前面に出る公演であることに興味をひかれた。

 子どものころよく遊んだ「ブロック」がたくさん組み合わさったようなカラフルな舞台装置である。早くもリアルな作りではない予感。『華々しき一族』は最晩年の杉村春子主演の舞台を信濃町のアトリエで見てしまっており(という言い方も変だが)、稲野和子が受け継いだ一昨年の上演もみて、あ、その間に鐘下辰男演出で佐藤オリエが主演した新国立劇場バージョンもみたが、概ね新劇系、文学座型の上演が本作の型として記憶に残っている。須貝が諏訪の着物の袖をひゅっと掴んで告げる一言。確かそこで一度暗転して同じ場から始まるのではなかったか。再婚同士の少し変則的な家庭で、将来有望な映画監督である須貝と、美しい姉妹、その兄が繰り広げる恋の鞘当ては、あまり生活実感をみせない芸術家系の自由業のお金持ちの優雅な言葉遊びのようにも思えて、毎回よくわからないまま幕を閉じるのであった。

 今回びっくりしたのは須貝から愛を告げられてただでさえ混乱している諏訪が、夫や娘たちも巻き込んだ感情のもつれに耐えきれず、多少の晴れがましさもあって、「須貝さんが結婚しない理由は私だって」と言ってのける台詞がカットされていたことだ。「それはわたしだ」という仕草をするからわかるようなものの、随分思い切ったことをしたものだ。どうしてだろうと素朴な疑問を抱く。中野がこれまで上演していた翻訳物は、他での上演を自分がほとんどみた経験がないせいもあって、台詞の省略や変更も特に違和感なく(モトを知らないせいか)おもしろく見ていたが、さすがに今年2月の『44マクベス』には今でも納得がいかないし、あれほどではないけれども、だったらなぜ森本薫のこの作品を選んだのかも不思議である。

『華々しき~』が唐突な終わり方をして暗転後、休憩なしで一気に2本めの『お婿さんの学校』が始まる。こちらは誤意訳の手法に乗って俳優たちがイキイキと動き回る楽しい舞台となった。このように外国語で書かれた戯曲が中野の誤意訳の手法にうまく乗った舞台は新鮮で、素直に楽しめるが、日本語の作品がこうなってしまうと、「よく知っている台詞がカットされたり変えられたりしている」と、ぎくしゃくした印象を持ってしまう。、2本両方にも出演している俳優はいないわけで、せっかく2本立てにしているのだから、もっと俳優の力量を味わいたい。
 ハイリンドにはどうしても「たっぷり」の充実感を求めてしまうのである。

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