因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

東京夜光『ユスリカ』

2019-08-29 | 舞台

川名幸宏作・演出1,2,3,4,5 公式サイトはこちら 下北沢・小劇場楽園 9月1日まで
 東京夜光は、下北沢ウェーブ2018選出旗揚げ公演『裸足の思い出』、同年12月第2回公演『世界の終りで目をつむる』に続く今回が第3回公演になる(「8月の観劇と俳句の予定」の記載を訂正しました)。

 「ユスリカ」とは蚊に似たハエ科の昆虫で、水べりにたくさん集まり、柱状になって飛んでいる小さな虫のことである。

 近親憎悪…とまでいかないまでも、仲が良いとは言えない家族というものは、実はそれほど珍しくはないのではないか。むしろ家族なのだから、血のつながった親子、きょうだいなのだから和やかに、辛いときには支え合えるはずだという観念は幻想であり、ときに暴力的な呪縛となる。

 柳瀬家のふたりの娘、姉の沙知(砂田桃子)と妹の美知(東澤有香)は絶望的に仲が悪い。早々に家族に見切りをつけ、恋人の大志(寺内敦志)と暮らしている美知のところへ、沙知が「余命宣告された」といって転がり込んだことから始まる悪夢のような物語が始まる。

 舞台はリビングのセットであるが、テーブルとベンチがワイヤーで吊り下げられており、安定感がない。この浮遊感が、登場する人々の心が揺れ動くさま、外部から閉ざされ、浮き上がっている異様な家族の状態を思わせる。また柳瀬家は末弟の知樹(藤家矢麻刀)まで、子どもたちに貧乏ゆすりの癖があり、さらに場面転換において、人々は片手を細かく震わせ、それがからだぜんたいに広がってゆくマイムを見せる。ユスリカの和名は「揺蚊」であり、幼虫がからだを揺するような動きに由来すること、題名が示すものを想起させる。

 互いに嫉妬し、憎み合う姉妹の話と言えば、いまだに内館牧子のドラマのいくつかが即座に思い浮かぶが、本作はその上を行く。客席から見ても沙知の言葉のいちいち、一挙手一投足、ここまで台詞の一つひとつを書き記し、細かい演出を付け、俳優もそれに応えるとは見事というほかはない。誰かを憎むことの苦悩は、憎悪によって、自分の醜い心の奥底がさらけ出されることにある。姉の蛮行によって、美知は恋人ともぎくしゃくし、心が壊れてゆく。

 うっかりすると既視感のある昼ドラに陥りそうな展開をとどめるのは、俳優の造形である。沙知の毒に絡み取られる大志とその兄夫婦(中西良介、吉田多希)の右往左往の様相、沙知の恋人だという渡辺(丸山港都)のとんでもない性質いずれも、類型になりかねないところぎりぎりで踏みとどまっている。また、姉妹の両親を演じる草野峻平と笹本志穂は、実年齢より二回りも年上の役である。草野が鬱病で働けない父を自然体で見せるのに対し、笹本はやや作り込んだ造形であるが、両親役として違和感がない。もしこれが役柄と同じ年齢の俳優だったとしたら、リアル過ぎて見る方が辛く、小ぢんまりしたホームドラマにまとまってしまう可能性もあるだろう。どれも辛抱の要る役柄であり、演出家、俳優ともに試行錯誤があったことを思わせる。

 序盤から怒涛の勢いであるだけに、落としどころをどうするか。舞台はキワモノ系、ほっこり系どちらでもなかった。美知は一度だけ沙知を「お姉ちゃん」と呼ぶ。そこに救いや希望を見出せるほど甘い話ではなく、これほど悲惨で醜悪で絶望的な状況を描いて後味が悪くなく、むしろ爽快というのは稀有な舞台成果ではないか。一方でこの舞台が心底辛く、言葉を失う人も少なからずあるはず。それをも救うことができるのか、今の自分に答は出せそうにない。

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演劇集団シックスセンス第2回公演『サクラノソノ』

2019-08-23 | 舞台

アントン・チェーホフ原作 大滝寛(文学座)演出 中野・劇場MOMO 25日まで
 「文学座プラチナクラス」とは、演技経験を問わず(学歴、国籍も不問)、40歳以上の男女を対象に行っているシニア向けの俳優養成講座で、現在第9期生が受講中である。講座終了後に結成された「文学座プラチナネクスト」というユニットもあり(1)、文学座の大切な事業のひとつとなっている。

 シックスセンスは、その文学座プラチナクラス第6期生が結成した社会人による演劇集団だ。今回は演出を文学座の俳優・大滝寛、舞台監督、照明、美術はじめ、俳優も2名出演するなど、劇団の座員が加わる座組での公演となった。「この大きな物語を拝借してシックスセンス版のサクラノソノを作ってしまえないだろうか」。大滝が公演チラシに寄せている通り、『サクラノソノ』は、チェーホフの『桜の園』をベースに、シックスセンスの個性を活かし、ある面は自由な遊び心をもって、別の面では原作以上にシリアスに作り上げた1時間40分のステージだ。

 舞台中央には大きく口を開けた古ぼけたトランクがあり、華やかな髪飾りや衣装らしきものが見える。下手にはギターが立て掛けられ、そこへ小さな本を懐中電灯で照らしながら一人の男が登場する。手にした本は『桜の園』の台本らしい。やがて舞台に人々が集まって展開するのは、『サクラノソノ』オリジナルの序幕である。入れ子式の構造は珍しくないが、既視感がないのはシックスセンスのひとつの持ち味であろう。序幕のこの仕掛けは、終幕できっちりと収められており、複雑な余韻を残す。

 「一生が過ぎてしまった。まるで生きた覚えがないくらいだ」。公演チラシ表にも掲載されたこの言葉は、一家の老僕フィールスの台詞である。『桜の園』は何度も観劇しているのに、今回はじめて聴いたかのように心に染み入るのは、演じたのが女性であること、それもかなりご年配とお見受けする方であったこと、そして見る自分もまた年を重ねたためであろう。

 シックスセンスはプロの劇団ではない。しかしプロの指導を受け、その手を借りながら、おそらく相当な試行錯誤や喧々諤々を繰り返し、社会人としての経験値を活かしながら、演劇人生を満喫しておられる様相は清々しく、優しい気持ちになれる。これは指導するプロの側にも多くの学びがあり、実りをもたらしていることだろう。

 『サクラノソノ』。このカタカナ表記には原作との距離感や批評性、遊び心だけでなく、そこはかとない寂寥感があるのも、実際の舞台を見ての気づきである。「生きていきましょうよ」。『三人姉妹』終幕のこの台詞をつぶやきそうになった。

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サイマル演劇団×コニエレニ『狂人と尼僧』

2019-08-22 | 舞台

日本・ポーランド国交樹立100周年記念事業 スタニスワフ・イグナツ・ヴィドキェーヴィチ(通称ヴィトカツ)作 関口時正翻訳 赤井康弘演出 公式サイトはこちら シアターバビロン流れのほとり 25日まで
 
サイマル演劇団1,2,3)とコニエレニ1のコラボ公演である。作家のスタニスワフ・イグナツ・ヴィドキェーヴィチ(以下通称のヴィトカツィ)は、1885年ワルシャワに生まれた劇作家、画家、哲学者である。彼が生涯の大半を過ごしたというポーランド南部の小さな町、ザコパネは、Wikipediaを見ると、多くの芸術家を魅了した町であるとのこと。ヴィトカツの父はザコパネ・スタイルという木造建築の創始者で、「息子のヴィトカツィは画家として活躍した」と控えめに記されている。公演チラシには、「現実からの解放を目指す「純粋形式」を提唱。1939年ソ連軍のポーランド進攻の報に接して自殺」と紹介されている。関口時正の新訳による本邦初上演となる初日を観劇した。

 本作は約100年前に発表され、のちのイヨネスコやベケットにも影響を与えたとのこと。当日リーフレットには「不条理演劇の走りとも言える作品」とあり、やや気構えながらの観劇となった。

 精神病院の隔離室に収容されているのは、かつて人気を博した詩人のヴァルプルク(山本啓介)。彼の命運は医師のブルディギエル(竹岡直記)とグリン(気田睦)が握っており、精神医学をめぐる医師たちの権力闘争も絡み、2年以上も自由を奪われているヴァルプルクのもとへ、若く美しい尼僧アンナ(赤松由美)が遣わされる。狂ってしまった人を魂の救済に導くためではなく、ブルディギエルからの「病人のコンプレックスを突き止めよ」の命を受けてのことである。

 冷静、冷徹に接するアンナであるが、目の前の狂人(とされている)が、かつて婚約者とともに愛読していた詩の作者であると知ってにわかに心が騒ぐ。狂人と尼僧の関係はどう変化するのか、二人はこの病室から脱出できるのか。

 次第に捻じれ、中盤からまさかの展開になり、そこからさらに奇想天外な終幕まで、1時間の短編でありながら、台詞ひとつで人物の関係性が変容し、力関係が逆転する緊張感漲る舞台である。本作は「不条理演劇の走り」とのことだが、丹念に台詞を重ね、劇空間が周到に構築された作品だ。しかし、開幕前から客席に後姿を見せるだけだった老医師のヴァルドルフ(田村義明)が最後に炸裂気味に登場するところなど、「シュール」と言ってよいものか、自分の感覚がわからなくなる体験であった。もちろんいい意味で。

 なかなか出会う機会のない作家の作品であり、今後も違う劇場で、違う切り口の上演が試みられることを願っている。8人の俳優は、自分の持ち場を的確に捉えた造形で、この厄介だが底知れぬ魅力をもった戯曲へ熱意をもって取り組んだことが伝わる。ただ時計の振り子音を終始流す趣向については、俳優の台詞が客席に確実に届くことに対する妨げも何らかの劇的効果として捉えるべきなのか、演出の目指す地点がわかりかねるところがあった。

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『今昔物語 ドラマ編』

2019-08-17 | 舞台

*桑原茂夫構成・演出 8月16、17日2回公演 荻窪/カフェクラブ石橋亭 <参考>唐組公式ブログ
 『今昔物語集』は今から千年前、王朝文化華やかかりし時代を背景に、目をそむけたくなるほどの人間の業、狂おしく悲しい男と女の営みなどが生々しく描かれている。このリーディング公演は、この『今昔物語』を紐解き、「羅生門の惨」を序章とし、女が語る物語と男が語る物語を交互に読むものだ。男語りを劇団唐組の若手・福原由加里が、女語りを同じく加藤野奈が担い、そこへ四家卯大のチェロ、佐藤直子のパーカッションが絡む。休憩を挟んで2時間、すさまじい猛暑をしばし忘れ、異空間にいざなわれる不思議体験であった。

 きらびやかな宮廷の裏側には貧困や病苦があり、日々贅を尽くす貴族たちを支える宮仕えの人々、その家族の暮しの様相は想像もできないが、読まれる6編の物語は、父親がわからない子を孕んだ女、獣と交わる女、虐げられた女たちが男どもへの復讐として行ったこと、少女に溺れる高僧等々、権力者と民衆、男と女の立ち位置、力関係が歴然と示されながらも、寝首を掻かれ、だまされ、身を滅ぼすのは強い側である。しかし単純な勧善懲悪の物語ではなく、恨むほうも恨まれるほうも、どちらも哀しい。

 福原は緋色の着物に浅葱色の打掛、加藤は白に緋色を身に纏い、長い髪を下ろし、顔には青、朱で横向きに一刷けの化粧が施されている。男語り、女語りそれぞれにさまざまな人物が登場する。上演台本は原作を現代調に「翻案」されたもので、時折現代劇と見まごうほど身近な口調もあるが、下世話な痴話げんかに陥るぎりぎりで踏みとどまり、ここぞという場面では原文そのままに発せられる。激しく狂おしい言葉の数々は、文語体であるから尚のこと、聴く者に襲い掛かるかのような迫力を持つ。老若男女複数の人物の読み分けはあざとさがなく、原文の迫力、チェロとパーカッションの音楽との共演が、しばし競演、いや闘いになるほどの激しさにも負けず、ふたりの女優は6つの物語を読み切った。構成・演出の意図を的確に受け止め、音声化、立体化することに成功したのである。

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八月納涼歌舞伎第三部『新版雪之丞変化』

2019-08-10 | 舞台

*公式サイトはこちら 27日まで 東銀座/歌舞伎座
 俳句の季語で「夏芝居」や「夏狂言」とは、陰暦6月、7月ごろ、江戸はさまざまな夏祭のほうが盛大で、人気役者は避暑に出かけたり巡業にでたりと景気が悪い。それで日ごろ出番の少ない若手や端役・脇役の役者が一座を組んで行う芝居を言う。本水を使ったもの、怪談物など納涼的な演目が多い…等々、季語の本意と現在の八月納涼歌舞伎の有り様は、意味が同じところもあれば、変化しているところもある。自分にとっての八月納涼歌舞伎は、三部制でいつもより時間もチケット代金も控えめになる代わり、若手役者が獅子奮迅の大活躍で大いに盛り上がる楽しみな公演だ。

 その八月納涼歌舞伎に坂東玉三郎が出演するのは初めてだという。演目は三上於菟吉の原作を日下部太郎(歌舞伎役者の山崎咲十郎)が脚色・演出補をつとめ、玉三郎自身が演出、補綴し、主演するという力の入れよう。演じるは、女形役者・中村雪之丞。時の権力によって両親が無念の死を遂げた恨みを背負い、芸に精進しながら復讐を誓うという複雑な役どころだ。共演は、雪之丞の先輩役者で、自分の芸のすべてを注ぎ込もうとする秋空星三郎を七之助(存命ならおそらく父親の十八代目中村勘三郎が演じただろう)、一座の頭中村吉之丞にはじまり、剣の師匠から雪之丞の親の仇役、江戸の盗賊まで5役を演じ継ぐ市川中車である。

 初日が明けたばかりの公演であり、これから変化していくところ、手直しされる箇所もあると思われるが、非常に不思議なというか、中途半端なものを見たというのが正直な気持ちである。一種のバックステージものだが、困惑したのは、舞台正面や、左右にいろいろな映像が映し出され、実際の舞台と映像が同時進行したり交錯したりするところである。

 歌舞伎の面白さのひとつに「早変わり」がある。二役などというものではなく、五役、七役、いや十役すべてを一人の役者が次々に演じ継ぐ。ほとんど魔法としか思えないような技であり、まことに鮮やかで、見事というほかはない。

 今回の中車の五役であるが、主役はあくまで玉三郎の雪之丞であるから、中車が派手な早変わりをしてはバランスが悪い。といって、板に付いている雪之丞が、スクリーンに映った中車と会話する様相はやはり違和感があり、特に盗賊の闇太郎(中車)が雪之丞の舞台をこっそり見に来るところで、現在の歌舞伎座の「ドア」から顔をのぞかせる映像には正直、興ざめであった。江戸時代の芝居小屋の話であるのに、どうにかならなかったのだろうか。

 その一方で仮面劇の趣向で、悪玉4人が無言のまま演じる場面は効果抜群であったし、星三郎の弟子の「鈴虫」の役どころもおもしろい。若手の尾上音之助と坂東やゑ六をダブルキャストで抜擢されたのも、嬉しいことだ。もっと知恵を絞って工夫を凝らし、大胆なところと繊細なところを的確に演出すれば、大化けする作品になるのではないか。

(8月11日加筆)自分の最大の躓きは、玉三郎が演じる中村雪之丞が女形役者であること、つまり本体が「男」であり、玉三郎が「女形役者役の男役」を演じていること(ああ、もうややこしい)を最後まで実感できなかったことであった。新派の河合雪之丞がこの役を演じるなら、自然に受け入れられていたかもしれない。坂東玉三郎が舞台で演じているのはあくまで「女」であり、玉三郎じたいのジェンダーやセクシュアリティ等はすべて「芸術的現象」として美しく謎めいた靄に包まれているからなのだ。

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