因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

板橋ビューネ2016 テラ・アーツ・ファクトリー『三人姉妹vol.1』

2016-09-30 | 舞台

*岸田理生原作 林英樹構成・演出 板橋ビューネ2016参加 公式サイトはこちら サブテレニアン 10月2日で終了(1
 『三人姉妹』のタイトルを見れば、ほとんどの人が同名のチェーホフ作品を思い起こし、チェーホフをベースにした翻案であると想像するだろう。公演チラシには「まだ先生は続いているの?地方都市に疎開した三人姉妹それぞれの『敗戦』をめぐる心象ドラマ」とあり、岸田理生のオリジナル作品である。ただし、未刊行であり、残されているのは手稿のみであるとのこと。チェーホフからまったくにべつものとは言いかねるという印象をもつのは、自分自身がチェーホフのイメージや観劇体験による影響から完全に逃れることができないためであろう。

 三人姉妹たちの服装は、古びてはいるものの、東京でのお嬢さま暮しが偲ばれる高価で、田舎にはそぐわない。長女は結婚してまのない夫に戦死され、土地と屋敷と仏壇を守って生きている。次女は魚屋と将来を言い交わした。その彼も出征したまま生死不明である。三女は少し頭がゆっくりしているという設定なのだろうか。戦争で心を病んだ男と恋をしている。この姉妹たちの戦後の暮らしの変容を中心に、時おり現代の日本の人々のあわただしく、虚しい様相の点描が挟まれる。さらに舞台上手の客席ぎりぎりの位置に椅子が一脚置かれ、年老いた長女が昔を振り返るという構造だ。黒一色で、大道具小道具何もない空間で、姉妹たちは生き方を模索し、衝突し、和解し、それぞれ新しい歩みをはじめるまでの100分の物語である。

 家を守ることに固執する長女は、愛を貫きたい妹たちとことごとく対立し、孤立する。妹たちとて姉が財産を分けてくれなければ、東京までの足代すら工面できない。リアルな日常劇としても成立する内容を、構成・演出の林英樹はぎりぎりまで削ぎ落として俳優の肉体と肉声に託した。やはり「モスクワへ行きましょう」、「生きていきましょう」というかの国の姉妹たちのことがどうしても思い浮かぶ。しかしそれは決して妨げではなく、また比較でもない。日本の敗戦後の姉妹たちの様相は、過去の時代の描写に留まるものではなく、世界のいたるところで続いている不毛な紛争を照射する普遍的な物語であると言えよう。「三人姉妹」は昔もいまも世界各地にいて、「どこかへ行きたい」、「生きていこう」と声をあげているのである。

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劇団民藝 『箆棒』(べらぼう)

2016-09-28 | 舞台

*中津留章仁(1,2,3,4,5,6)作・演出 公式サイトはこちら』 紀伊國屋サザンシアター 10月9日まで1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20,21,22,23
 ここ数年、ぶっ飛ばすような勢いで活躍中の中津留が、老舗新劇団の民藝に新作を書き下ろし、演出も担った。今回は照明の宮野和夫、音楽の高畠洋、音響の佐藤こうじなど、中津留とともに舞台を作ってきたスタッフが多く参加しておられることも珍しいことではないだろうか。大変な気合いが感じられる舞台である。

 しかし本作に対して、どう向き合うことが適切なのか、実はよくわからない。非常に熱量の高い(強い)舞台で、作り手のエネルギーがびんびん伝わってくる。しかし自分は人物の背景や設定、性格づけ、俳優の演技の造形、物語の展開等々、さまざまなところで次々につまづき、違和感を覚えざるを得なかった。

 *本作は9日(日)まで上演されます。これからご覧になる方は以下ご注意くださいませ*

 店の経営に苦悩する信勝が、藁をもすがる思いで妻の凛に、知己である銀行家(実は凛にご執心だった)の説得を頼む。ホテルに呼び出された凛は銀行家に身をゆだねざるを得ない。それで数千万円の融資が可能になるなどという話が現実にあるのだろうか。あってもよいが、その描写がほとんど安手のメロドラマである。だからこそ、後半の凛の苦悩がよけいに際立つのだろうか。

 次に人物の性格づけだが、この判断もむずかしい。まず信勝の弟はテニスだけが取り柄と兄から常に叱咤激励されて心を病み、妻に暴力を奮う。しかし第二幕では別人のように明るく闊達になっており、スポーツ用品の会社に転職したという。水を得た魚のように明るく生き生きしたすがたに安堵するものの、前半が深刻だった割にはあまりに展開があっさりしている。

 第一幕で「ママを侮辱した」と怒る娘は、正義感にあふれる心温かな女性である。対して告げ口をした夫は実に小心で情けない男のように描かれている(この過去の暴露の顛末の展開が、山口百恵の「赤いシリーズ」を思わせるという知り合いの感想あり)。それが第二幕になると、娘は福島から訪れた契約農家の男性に、丁寧な口調ながら水を浴びるように言う。そして情けなかった夫は、義父に向かっても堂々と意見を言える立派な男に変容している。それはいいとして、弟(凛の娘の弟)がシャワーを浴びる時間がいささか長すぎないかと突っ込みたくなる。契約農家さんは大変な覚悟で大友家へやってきたのだ。義理の兄さんはおそらくシャワーもそこそこに応接間に戻り、義父である社長を必死で説得しているというのに。

 そして信勝の秘書のほとんど戯画的といっていい悪女ぶり。信勝は家族や社員の前で彼女を「幹子」と名前で呼び、仕事のスケジュール表を確認しながら「ここで温泉に行けるな」などと言う。社長として、夫や父親としての貞操観念や良心をとやかく言うのではない。いかに家族も社員も黙認している愛人であるとはいえ、あまりにワキもツメもあまい言動ではないか。さらに奨学金返済のために降格をしないでほしいと訴える若い女性店長と、ユニオンの結成を宣言する男性社員。「この二人は付き合っている」というが、そんな二人に全く見えないという無残。

 凛の説得に信勝は心溶かれるも、前述の女性店長は・・・というラストに衝撃というよりも唖然。『そぞろの民』の終幕を思わせるが、なぜこうするのか。等々、重苦しい内容の物語にも関わらず、客席からはしばしば笑いが起こり、自分もよく笑った。それがどういう笑いなのか。
 と、このように疑問点やとまどいをどんどん書いていくことによって、本作にはまっていく。それはある意味で手ごたえが確かにあったことの証左で、そのような観劇体験もまた「あり」と思われる。それにしても、やっぱりあれこれ気になるなあ…。

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板橋ビューネ2016 サイマル演劇団『別の場所』

2016-09-24 | 舞台

*ハロルド・ピンター作 喜志哲雄翻訳 赤井康弘構成・演出 公式サイトはこちら サブテレニアン 25日で終了
 ハロルド・ピンターの短編戯曲『家族の声』、『いわばアラスカ』、『ヴィクトリア駅』の3本を同時上演する。サブテレニアンの黒い空間がいっそう濃密に変容する100分の至福を体験した。以下上演順に。

 ◆「ヴィクトリア駅」
 タクシーの指令係が無線で274号に乗車するドライバーを呼ぶが、「そちらはどなた?」と返され、両者の会話は最初から噛み合わない。指令係はこれからヴィクトリア駅に向い、クックフィールドまで行くという上客を乗せるように命じる。運転手はヴィクトリア駅を知らないと言う。耳を疑う指令係。このやりとりを、「おかしいな」と感じるためには、「ロンドンのタクシー運転手がヴィクトリア駅を知らないなどというのはありえない」(喜志哲雄著「劇作家ハロルド・ピンターの世界」より)という知識をあらかじめ持っておく必要があるだろう。しかし仮にここで異変に気づかなくとも、続く会話がことごとくちぐはぐになるため、初見であってもだいじょうぶではないか。
 このあたりの塩梅は、観客が敢えて「自分をまったく予備知識がない状態に置き変える」というやや複雑な準備をした上で観劇に臨む挑戦を行ってみるのも一興であろう。
 舞台奥に、指令係(山本啓介)と運転手(海老原恒和)が並んで腰かけ、会話が進む。ふたりは異なる場所にいるから顔を見合わせることはしない。指令係は上司、企業、そして社会の顔をして、常識的な存在のしかたをしている。それに対し、運転手は理由はわからないがすでに何らかの異常をきたしている。運転手のあまりにとんちんかんなもの言いに最初は戸惑い、粘り強く説得したものの怒りを爆発させた指令係は、やがて全てを受けとめたかのように、そこにそのままいるように指示し、「動くんじゃないよ。そこにじっとしてるんだよ。すぐに行くからね」とまるで迷い子になった生徒を迎えにいく教師のように語りかける。

 運転手にどんな背景や事情があったのかは最後までわからない。不思議なのは、「どうして彼はこうなったのか?」を知りたいとはほとんど思わないことだ。何らかの原因、きっかけがあるからこんな言動になる・・・といった道筋とは別のところに本作の魅力があると思われる。

 ◆「いわばアラスカ」
  デボラ(葉月結子)は16歳のとき、突然からだが動かなくなり、そのまま29年間眠りつづけ、医師のホーンビー(山本啓介)の投薬によってようやく目ざめた。心は十代の少女のまま、肉体は40代なかばの中年であるアンバランスを理解できず、いらだち、混乱するデボラと、ホーンビー、彼の妻になったデボラの妹ポーリーン(川原洋子/劇団桟敷童子)との会話劇である。ホーンビーは「あなたの頭脳は傷ついてはいない。ただ働きをとめただけだ、一時的に移り住んでいたんだ・・・いわばアラスカのようなところに」と言う。タイトルはこの台詞である。「アラスカ」という場所がなぜこの台詞に登場するのか、何らかの意味合いや、何かの暗喩かどうかは不明である。しかしなぜか「アラスカ」はほかの地名と置き換えられるようで、案外と合っている。本作のベースとなったというオリヴァ―・サックス『覚醒』(邦訳題名『レナードの朝』)は、ぜひ読んでみたい。

 ◆「家族の声」
  登場人物が互いに相手への手紙の内容を語りかける形式で進行する。当日リーフレットの配役表には声一、声二、声三と書かれているだけだ。ハヤカワ演劇文庫収録の戯曲には、「声一 若い男 声二 女 声三 男」とあり、関係性まで指定されていない。しかし劇がはじまるとすぐに、都会で暮らす息子(海老原)が母親(葉月)に出す手紙を読んでいることがわかる。下宿の家主の様子など、ごく普通の報告だが、つづく母親の最初の台詞が「なぜ手紙をくれないの?」と結ばれることから、舞台には早くも不穏な空気が漂いはじめる。息子は舞台のあちこちをいささか落ち着きなく動き回りながら台詞を発し、母親は車椅子に座ったままだ。付き添いらしき女性(川原)が少しずつ車椅子の向きを変えながら、届いていないらしい手紙と、手紙が来ないことに対する執拗な愚痴が交錯するいびつな構造を持つ。息子は家主一家から性的愛玩物のような扱いをされはじめ、最後に声三の男の声が聞こえる。彼の父親(山本)の声だ。父親は「おれは死んではいない」と言いながら、「おれは死んでいる」と告げる。

 いずれも好きな短編戯曲であり、実際の上演を見る機会が与えられたことは非常に嬉しい。前述のように、サブテレニアンの黒い床や壁が劇世界の闇をいっそう深くし、とくに3本めの「家族の声」では、台詞を発する人物に照明が切り替えられることで両者の絶望的な断絶がいっそう明白になった。これらの短編は、今回のように3本の連続上演『別の場所』として上演することが一般的とのことだ。このタイトルは、実に深い意味を持つ。登場人物の誰もが、いっけんリアルにその場所にいるようで、心象的にはどこかまったく別の場所にいることが考えられる。また本作は場所だけでなく、「別の時間」についての物語であるとも考えられ、さまざまに思考の膨らむ有意義な観劇であった。

 ピンターの戯曲はシンプルだ。とくにこの3編は登場人物について性格や背景など、何の指定もない。舞台を作るほうとしては、何の手がかりもなく、途方に暮れるかもしれない。しかし俳優の衣裳や舞台装置、音楽や照明など、いくらでも自由にできるとも言える。俳優の演技にしても、たとえば『ヴィクトリア駅』など、へたな漫才コンビのやりとりのように笑いを取る演技も可能であろう。サイマル演劇団は今回が初見である。戯曲に対して誠実に向き合い、気負うことなく劇世界を提示した。さまざまな試行錯誤があり、辛抱の必要な作業であったと想像するが、それを経たからこその爽快感があったのではないか。

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板橋ビューネ2016 楽園王『授業』

2016-09-08 | 舞台

*ウジューヌ・イヨネスコ作 長堀博士演出 劇団サイトはこちら サブテレニアン 10日で終了 板橋ビューネ2016参加作品
 楽園王は今年創立25周年を迎えた。自分は6月に『楽屋』で楽園王デヴューしたばかりの、実に遅れてきた観客である。当日リーフレット掲載の長堀の挨拶文によれば、楽園王の『授業』の上演は2004年にはじまり、富山県利賀村で毎年夏に行われている利賀演出家コンクールにおいて、優秀演出家賞を受賞した。以来、BeSeTo演劇祭やIkachi国際舞台芸術祭、ディプラッツで行われた『授業』フェスで上演を続け、昨年も板橋ビューネ2015参加作品として、札幌で公演を行ったとのこと。まさに劇団の代表演目であり、観客からの上演の要望も強いことが想像される。

 対して自分の『授業』歴は、2000年春、渋谷・ジャンジャン閉館記念公演の千秋楽がスタートであった。ジャンジャンの『授業』は、昭和の名優・中村伸郎が1972年より11年間、毎週金曜夜10時開演の上演を続け、その後後輩の俳優に継承された。自分が観劇したのは中山仁による教授であった。その後2002年秋、東京乾電池が座長の柄本明を教授に、女生徒と女中のマリー役を劇団の若手女優総当たりで上演した(えびす組劇場見聞録掲載劇評はこちら)。柄本の『授業』は数年後の再演を1度みたが、楽園王の『授業』はそれ以来ということになる。

 開演前の舞台には、中心に白い線が引かれ、その左右にテーブルと椅子2脚のセットがひとつずつ置かれている。当日リーフレットに目をやると、出演が「教授、生徒1、マリー、生徒2」となっている。それに続いて長堀による楽園王版『授業』の解説があり、生徒がふたり登場する理由がわかる。なるほど、そういうことか。

 長堀の解説を借りれば、物語の起承転結の「転結」からスタートし、「起承」で終わるという形式なのだ。キーワードは女生徒の「歯が痛くなってきたんですの先生」の台詞である。開演すると舞台下手に迷彩服を着たスキンヘッドの教授と、囚人服のような白い衣裳の女生徒1が登場、すぐに歯の痛みを訴える。そして中盤から台詞もなく女生徒2が上手側に登場しており、やがて彼女もまた「歯が痛い」と訴えたときに背筋にぞくりとした寒気を感じた。前述のように教授は迷彩服、マリーも女性軍人の服装をしており、ときおり軍隊の訓練らしき音声が聞こえてくる。どこかの街にある教授のうちではなく、ここは軍の基地の一室で、捕虜の矯正、転向のためのプログラムのようである。

 自分は原作を変えることに対して、あまり賛成できない。ある作品が長い年月を経て上演されつづけていることにはやはり理由があって、少々手を加えようと大胆に省略しようと、作品はびくともしないからである。物語の流れを変容させること、楽園王スタイルというのか、俳優たちは独特の台詞まわし(台詞の切り方?)で発語することが、今回の舞台の大きな特徴だが、それが『授業』という作品に対して適切であるのか、判断ができない。
 ただ言えるのは、このかたちは、俳優が「自分を見せる」ことから遠ざけるということだ。たとえば柄本明の教授は上演のさなかに素の顔をしたり、殺した女生徒を女中と運ぶ終盤はアドリブ全開で客席を大いに沸かせた。柄本ならではの舞台であり、ほかの俳優に真似はできない。それに対して自分の見る限り、楽園王スタイルにおいて俳優はエゴを出すのではない、別の到達点に向かって突き進んでいると思われた。その姿勢は天晴れであり、どうかこれからもその意気で!と願うものである。

 今回はじめて『授業』という作品を見る観客にとって、始まる前に演出家の解説を読んでいたとしても、難儀な観劇になったのではなかろうか。また将来ほかの座組で『授業』を見るとき、果してどのように感じるのだろうか。独自性の高い舞台作りをする場合、作り手は観客の将来についても、ある種の責任を負うという意識が必要であろう。気になったのは、翻訳者名が記されていなかった点である。ここはやはり明確にされたし。

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文学座9月アトリエの会 『弁明』

2016-09-08 | 舞台

*アレクシ・ケイ・キャンベル作 広田敦郎翻訳 上村聡史演出 公式サイトはこちら 文学座アトリエ 21日まで
 演技スペースを客席が馬蹄形に囲むかたち。主人公クリスティン(山本道子)の家のリビング、キッチンが舞台である。キッチン部分は流しやオーブン、たくさんのグラスがぶら下がった食器棚などもリアルに作り込んであるが、壁は素通し、屋根も骨だけで、抽象的というより、劇作家によって書かれた物語を演出家が舞台に立ち上げ、俳優によって行われる実験的な試みを見学するといった雰囲気である(長田佳代子美術)。

 山本道子さんという俳優の質実な力はもっと評価されてよいと思う。ちょっぴり太めの体型や、愛敬あふれるお顔立ちなど、ともすれば、有無を言わさず噂好きのご近所さん、三枚目、おどけ役が回って来ることが多かった。だがSMAPの草彅剛が主演した『僕の生きる道』(橋部敦子脚本 2003年フジテレビ)で、末期がんに冒された主人公(草彅)の母親役がいまだに印象に残る。明るく優しい母親ではあったが、決してオーバーアクションをしなかった。主人公が電話で母に病気を告げる。台詞は音楽がかぶさって次第に聞こえなくなり、何を言っているのかはわからない。しかし受話器を持った母親の背中がだんだん丸く、小さく縮んでゆく。顔も悲しげに歪むが、アップにはならなかった。まさに背中で語る演技。
 なので2005年『風をつむぐ少年』(このブログのいちばん最初の記事!)で、娘を亡くした母親が、加害者の少年と話す場面の静かな演技を見たときは大変嬉しかった。大切な娘の命を奪った相手に何をしてほしいか。考え、迷い、悩みながら、不思議な申し出をする。あのときの言葉を選び、考えかんがえしながら話す山本の抑制した口調や表情が忘れられない。

 さて『弁明』である。母親クリスティンの誕生日を祝おうと、久しぶりに家族が集まった。息子はパートーナーを伴ってやってくる。はじめのうちはなごやかにしているが、何かのはずみで諍いが始まり、止めようとするパートナーの努力も裏目に出て、それまでの鬱憤、恨みつらみが爆発。さらに長年の秘密も暴露され、祝いの宴がめちゃくちゃになってしまう、というのは、ありがちな話である。

 だがクリスティンは男性優位であった美術史研究の分野で成功を収め、「弁明」というタイトルの回顧録を出し、かつて反戦運動、労働闘争に参加してきた過去を持つ。毒舌の皮肉屋。嘘やお世辞は言わず、初対面の長男のパートナーに対しても遠慮会釈ない振る舞いをするあたり、なかなか厄介な女性である。長男のピーター(佐川和正)は合理的な銀行マン、パートナーのトルーディ(栗田桃子)は熱心なキリスト教徒である。彼女が選んだ奇妙な誕生日プレゼントを巡ってひと悶着。次男のサイモン(亀田佳明)はなかなか現れず、女優である恋人のクレア(松岡依都美)がサイモンを連れてこずに先にひとりでやってきたことがクリスティンは気に入らず、何度も執拗にそれを口にする。

 前述のような舞台装置のなかで交わされる人々のやりとりは、台詞の一つひとつ、表情のちょっとした変化なども見逃せず、休憩を挟んで2時間40分の長丁場をそれほど長いと感じさせない。第二幕になってようやく現れるサイモンが、少年時代の辛い出来事を母に告白しようとするが、すべてを打ち明けないまま立ち去ってしまう。クリスティンと長年親交のあるヒュー(小林勝也)の若き日の写真を見たサイモンは、何を思い出したのか。ヒューが同性愛者であるらしきことはさらりと語られるが、サイモンの心の傷に関わってくることなのか。

 人々の心の闇が明かされ、ぶつかりあったのちに互いを理解し、和解への道が開けるのならば、誕生パーティの大騒ぎはまことにありきたりで、しかし観客にはある種のカタルシスと安心感を与えるだろう。『弁明』は、主人公のクリスティンのように手ごわく厄介だ。観客をそう簡単に納得させない。上演台本を読めば、何度も観劇すればもっと理解できるかといえば、必ずしもそうではないと思われる。むしろそこに本作の魅力があり、観客の幸福があるのではなかろうか。

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