因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

劇団民藝「神と人とのあいだ」第二部『夏・南方のローマンス』

2018-02-28 | 舞台

木下順二作 丹野郁弓演出 公式サイトはこちら 紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA 第一部『審判』と交互上演 3月10日で終了1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20,21,22,23,24,25,26,27,28,29,30,31,32
 当初本作は1970年、『審判』とともに一挙上演の予定であった。しかし作者の意に充たず、上演中止の申し入れにより、第一部『審判』のみの上演となったいきさつがある。その後改訂され1987年、ようやく第二部『夏・南方のローマンス』(宇野重吉・内山鶉演出)として上演の運びとなった、いわくつきの作品である。自分は2013年の再演(丹野郁弓演出)を観劇し、深い感銘を受けた。もう5年も経ったのか。

 戦争中と戦後。日本と南方。異なる時間と場所が交錯するだけでなく、戦後の日本に生きているふたりの女が、ひとりの男をめぐる日本人の罪と罰、裁きの様相を劇中劇のごとく見つめている作りは、やはり斬新だ。テレビドラマでも映画でもない、演劇ならではの趣向であり、劇的緊張が次第に高まるほどに、「自分の作品が自分に書き改めを迫った」と、上演中止を申し入れた劇作家の苦渋を想像するのである。

 初演から30年を経た今、日本は戦争責任と歴史的認識を明確にしておらず、特にここ数年のあいだに共謀罪法が成立し、憲法九条改憲の論議は混迷し、そしてこの世から戦争が絶えた日はない。

 戦友は悪い夢だったと罪悪感を退け、子とともに残された妻は何もかも忘れたいと言い、女漫才師は「絶対に忘れない」と呼びかける。公園で眠ってしまった彼女の髪に触れ、去っていく男の眼差しが優しい。現実の会話と過去のやりとり、そして女の思いのなかで、交わし得たかもしれない、あるいは話したいこと、伝えたいことが交錯する場面は幻想的で美しく、それだけにいっそう哀しみが募る。

 『審判』と本作のどちらにも出演する俳優もあり、急病による降板で配役が変更になったり、労苦の多い一挙上演であったことと想像する。同じような機会はたやすく訪れないであろう。それだけに劇団として、劇作家からこの作品群を託されたことをどうか次世代の俳優はじめスタッフに継承することを切望する。観客もまた見ること、考えることを生まず弛まず継続していきたい。

 2月26日の朝日新聞に、62年前に作られた戦犯の祈りと平和を問う「愛の像」が、撤去と復活を繰り返した歴史についての記事が掲載された。「愛」の文字だけが刻まれた像が語りかけるもの。本作の終幕で女漫才師が見えない相手にぶつける叫び。戦争の不条理を自らの死によって受けとめた男、抗い続ける女。前者はこちらの背の辺りに視線が感じられ、後者は掴みかからんほどに荒々しい。いくつも見る芝居のひとつとして流すことはできそうにない。

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劇団民藝公演「神と人とのあいだ」第一部『審判』

2018-02-27 | 舞台

*木下順二作 兒玉庸策演出 公式サイトはこちら 紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA 第二部『夏・南方のローマンス』と交互上演 3月10日まで1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20,21,22,23,24,25,26,27,28,29,30,31
「神と人とのあいだ」は、
A級戦犯を裁いた東京裁判の速記録をもとに、木下順二が独自の視点で鋭く切り込み、戯曲として再構築した『審判』と、BC級戦犯裁判を巡る生々しい人間ドラマの『夏・南方のローマンス』の二部作である。民衆芸術劇場(第一次民芸)時代の1949年『山脈』(やまなみ)に始まって、多くの木下作品を上演してきた民藝にとっても、最重量級の財産演目であろう。二部作の一挙上演はこれが初めてとのことで、劇団はもちろん、客席にも「遂にこの日が来た」という喜びとともに、ただならぬ緊張が感じられる。

 第一部『審判』…1970年の初演の際、大滝秀治が演出の宇野重吉から大変に鍛えられたことは夙に有名で、大滝はその年の紀伊国屋演劇賞を受賞した。2006年の再演は未見、三演めとなる今回が自分にとってははじめての本式の『審判』観劇となった。実はたしか1998年夏、青年座スタジオで本作のリーディングを観劇したことがあり、本作の印象はその際の記憶がいまだに強く残る。

 舞台全面に法廷のセットが作られ、裁判長を中心とした判事たちが高いところから証言台や弁護人たちを見下ろしている。ところどころに人型が配置されているところは滑稽でもあり、不気味でもある。
 劇の全編が裁判の経過に沿って進行する、まさに「ガチの法廷劇」である。逃げ場もゆとりもなく、観客は裁判の傍聴人にならざるを得ない。演劇を見るというより、ひたすら台詞を聞くのである。といって、ただベタに裁判の様子が板に乗っているわけではなく、まず主席弁護人が、日本の「平和に対する罪」「人道に対する罪」を、この法廷で裁く権利がないと異議申し立てをし、次にヴェトナムにおける日本軍の残虐行為が追及され、最後にアメリカの日本への原爆投下の言及に至る。

 戦勝国が敗戦国を裁くなかに、大国同士の駆け引き、政治的エゴ、その中にかいま見える反骨精神、単純に有罪無罪と言い切れない曖昧なところ、人が人を裁くことができるのか、法がすべてか、神とはどんな存在か等々、一筋縄ではゆかない問いが炙りだされ、舞台の人々の苦悩は容赦なく観客にぶつけられるのだ。またこの日は俳優陣の調子もよいとは言えなかったようで、台詞を言いよどんだり、タイミングが合わない場面が散見してたことは残念であった。ラストシーン、日本人弁護人が振り絞るような声で、原爆に見舞われた無辜の民のことを訴え、裁判官がそれを無残に封じる台詞の呼吸は、もっとピタリと決まるのではなかろうか。

 休憩をはさんで2時間40分、集中を保つことは非常にむずかしく、終演後、重苦しい疲労と不完全燃焼感があったことは否めない。確かにこれはレーゼドラマであろう。しかし読むため「だけ」に書かれたのではないはず。生身の俳優が登場人物の言葉を肉声で発し、これも生身の観客が受け止める。そこに生まれる劇的緊張こそが本作の魅力であり、大変な困難があるだろうが、どうかこれからも上演の機会を作っていただきたいと切望する。

 木下順二は「芝居は劇場を出たときから始まる」と語っていたという(公演パンフレット掲載の兒玉、丹野対談より)。わたしの『審判』は1998年の夏に始まり、2018年の2月、もう一度始まったのだ。ずっと続く宿題であり、希望である。

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文学座創立80周年記念『真実』

2018-02-24 | 舞台

*フロリアン・ゼレール作 鵜山仁翻訳 西川信廣演出 公式サイトはこちら 東京芸術劇場シアターウェスト 3月5日まで
 ゼレールは1979年パリ生まれ。2002年にデヴュー作である小説で大きな賞を受賞したのを皮切りに、話題作を次々に発表。ほぼ同時期に劇作家としてもめきめきと頭角を現した新進気鋭である。日本では2016年、俳優の中村まり子の翻訳で『誰も喋ってはならぬ』が加藤健一事務所で初演の運びとなり、文学座の渡辺徹が客演した。ゼリールの魅力や特徴については、文学座通信掲載の中村まり子の寄稿に詳しい。本作は文学座創立80周年の掉尾を飾る舞台として、
ボルドー組(渡辺徹、古坂るみ子、斎藤志郎、郡山冬果)、シャンパーニュ組(鍛冶直人、浅海彩子、細貝光司、渋谷はるか)の交互上演を行う。初日のシャンパーニュ組を観劇した。

 女房に浮気がばれたと慌てる亭主が、実は女房も浮気をしており、しかもその相手が自分の親友であった。捉えようによってはご都合主義というか、ありきたりのドタバタコメディである。めまぐるしく変わる状況にあたふたし、膨大でしかも微妙なニュアンスを含んだ台詞の応酬を楽しみ、大いに笑う。それもミシェルやアリスが登場するパリのホテルやレストランなら、修羅場といっても何となく洒落ているし、安心感がある。つまり「不倫コメディあるある」なのである。

 そのいかにもありそうな芝居が、最後の数分になって実に複雑で味わい深い余韻をもたらす。夫(鍛冶)に浮気をされたロランスは終始冷静で知的である。演じる浅海彩子をはじめて拝見したのは昨年の『中橋公館』での長女役であった。地味で堅実な妻ぶり母親ぶりがぴったりで、正直なところ今回のような翻訳劇の出演はしっくりこない予想をもったのだが、こちらの思い込みであった。「わたしが浮気なんかすると思う?」つまり、浮気はしていないという台詞をぶれずに言える役柄であり、俳優なのだ。それが最後に予想もしていなかった成り行きにことばを失って立ち尽くし、ひそかに涙ぐむのである。

 二組の夫婦はそれなりに円満であり、決して憎みあってはいない。しかし互いに出来心のつまみ食いや、向田邦子風に言えば、「よそ見」の好きな男女である。ほんものの、ほんとうの愛情、愛し合う交わりはどこにあるのかと思ったとき、もしかしたら浅海彩子の演じるロランスの心の奥底にだけ、ひっそりと息づいているのではないかと思わされるのである。「わたしが浮気なんかすると思う?」もしかしたら、この台詞も真実であり、彼女は彼とは何もない。ただ心のなかだけで愛しく思っていたのでは?と究極の片思い、プラトニックな愛の存在を知らされたようで、最後の数分に観客の心は俄かに揺れ動きはじめるのだ。

「なあんだ、この女房やっぱり浮気してたんじゃないか」と、客席を爆笑に導く造形もじゅうぶん可能であろう。夫は妻の涙の意味を知らず、安心して抱きしめる。「おめでたい亭主め」と苦笑しつつ、「ほんとうは奴も疑っているのでは?」と裏を読むこともできる。しかし最後くらいは素直になりたい。ロランスの涙の意味を知っているのは客席のわたしだけ。笑ったりしたら彼女に悪い…。観劇から時間が経つほどに、ひっそりとした思いになる舞台であった。

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MSPインディーズ 唐十郎×シェイクスピア「シェイクスピア幻想」PartⅡ

2018-02-24 | 舞台

*MSPインディーズ・シェイクスピアキャラバン エスパスビブリオ提携公演 唐十郎「シェイクスピア幻想」『劇的痙攣』(岩波書店)所収より 公式サイトはこちら 24日のみ 西村俊彦・丸山港都・笹本志穂(劇団民藝)・道塚なな(音楽)出演 井上優(明治大学文学部准教授)企画
 唐十郎がシェイクスピア作品に触発され、編み出した短編連作集の朗読公演である。2016年秋、2017年冬に続く完結編だ。目で読む書物から俳優の声とからだによって立ち上がり、空間と時間共有の場である劇場で観客のもとに届くとき、言い知れぬ魅力を発揮する。これまでは100人は収容できる大きめのホールでの公演であったが、今回はブックカフェのフリースペースである。春浅い土曜の御茶ノ水の昼下がり、ほぼ満席の盛況だ。

『リチャード三世』この章のみ2017年に続く再演である。背骨が曲がり、王位からも遠いリチャード三世(西村俊彦)が、新宿の鯨カツ定食屋のあるじをしているという物語で、『鯨リチャード』の原作風の一編でもある。長い菜箸を弄びながら、「彼こそがリチャードだ」と思い込む青年(丸山港都)に、やさしく「お食べ」と鯨カツを差し出す。時折、ほんまもののシェイクスピア劇よろしく、この場では不必要なほどの声量と滑舌で「馬をくれ」と絶叫する場もあり、客席の反応も上々の滑り出しだ。

『プロペラ親父の二百十日』原作は『テンペスト』である。嵐を「二百十日」という古い言い回しに、魔術の使える学者プロスペローを「プロペラ親父」としたところに唐十郎独特のおかしみとペーソスがある。嫁に見捨てられ、孫娘(笹本志穂)に会えない老人が、愛用のプロペラ模型機を手に復讐に立ち上がる。道塚ななのつまびくギターがもの悲しく、老人は石橋蓮司がいいか、キレて暴れる場面は泉谷しげるかなと妄想が膨らむ。

『頬腹先生』『ヘンリー四世』や『ウィンザーの陽気な女房たち』でおなじみのフォルスタッフがあろうことか現代の日本にやってきて、パジャマのままで授業をする数学教師になったという設定の物語。先生(西村)のアパートを訪ねてくる生徒(丸山港都)とのやりとりがおもしろい。舞台通り、先生が吉田鋼太郎では決まりすぎか。

『君はギャニミード』原作は『お気に召すまま』である。寄る辺のないロザリンド(笹本)とオーランド(丸山)の恋物語だ。シェイクスピア作品に多い、男装や女装で相手をだましてさんざんに翻弄し、その分観客をたっぷりと楽しませて最後は大団円の物語だ。だます側の手練手管が巧みであるほど、だまされる側の純情が際立つもので、オーランド役の丸山が「死んじゃう」と涙ぐんだり、相合傘にロザリンドと書いたりなど、本シリーズで唯一原作の設定をほとんどそのまま踏襲しながら、もっとも現代風の味わいを醸し出した。全体的にも客席の反応が非常に良く、このへんてこりんな世界を楽しむ空気が溢れ、気持ちの良い公演となった。

 
西村俊彦は俳優業だけでなく、さまざまな映像のナレーションや朗読講座の講師を務め、昨年は第9回青空文庫朗読大会において最優秀賞である金賞を受賞した実績を持つ。丸山港都は串田和美のもとで研鑽を積み、公演の大小問わず幅広く活動している。笹本志穂は劇団民藝に所属し、多くの先達の仕事に触れる現場を体験しながら、来月は同じくMSPインディーズの朗読劇の企画・出演が控えている。音楽の道塚ななは、ギターとピアノの弾き語りのシンガーソングライターで、吉祥寺や下北沢のライヴハウスを中心に活動する。

 活動の場はさまざまあるなかで、今回の朗読公演シリーズのように経験値と個性を活かし、のびのびと演じる機会が継続されれば、演じ手だけでなく客席にとっても刺激的で豊かな体験となる。「完結編」と言わず、何らかの形でぜひ継続されたいと願うものである。

 それにしても唐十郎の編み出す劇世界は、設定こそ荒唐無稽で、とてつもなく芝居がかっているのだが、俳優の語りや台詞を聴いているうちに、自分もいつのまにか何の違和感もなく、その場に足を踏み込んでいることに気づく。実を言うと、自分は唐十郎の小説や戯曲を読むのがまだまだ苦手なのだが、読みながら人物の声を聞き、動かし、想像することは実に楽しい。その妄想のなかに浮かんでくるのは前述のように石橋蓮司や泉谷しげる、吉田鋼太郎だが、最後はしっかりと唐十郎が現れるのである。

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オフィスコットーネプロデュース『夜、ナク、鳥』

2018-02-22 | 舞台

*大竹野正典作 瀬戸山美咲演出 公式サイトはこちら 吉祥寺シアター 24日で終了
 2002年に九州・福岡で発覚した看護師4人によ連続保険金殺人事件(参考)をモチーフにした1幕劇だ。4人の女性たちが医療技術と知識を駆使し、夫や愛人を殺し、保険金をせしめていく。いや、せしめるのはリーダーのヨシダだけであり、あとの3人は友情を盾にしたヨシダの巧言によって悪の道に足を踏み入れていくのである。2016年、『埒もなく汚れなく』において大竹野の半生を劇化、演出した瀬戸山美咲が、大竹野の作品のなかでもっとも好きだという本作の演出に挑んだ。
 この事件は2015年にテレビドラマ化もされたが、新聞に掲載された紹介記事を読んで恐れをなし、視聴していない。

 劇場の前方の座席数列のスペースに張り出し舞台風の四角い演技スペースを作り、その両サイドにも座席が設置されている。舞台が客席に近いところにあり、俳優は観客用の出入り口から出捌けするため、舞台の空気がより近く、濃密に感じられる(乗峯雅寛舞台美術)。一方でソファやテーブルなど最小限の家具の置かれた部屋を、場面ごとに看護師たちそれぞれの住まいや、病院の休憩室などに見立てる趣向は極めて無機的だ。事件の舞台を大阪に置き換え、人々は強烈な大阪ことばをテンポよく交わし合い、どこか漫才めいて抜けたところもあり、しかし行われているのは陰惨極まりない殺人である。もしこれが実際の事件の通りに九州ことばで行われていたら、また生活実感を忠実に作り込んだ舞台美術であったなら、作品の印象はどう変わったであろうか。

 事件の概要からすぐに連想したのは桐野夏生の小説『OUT』である。しかしこの事件の特殊性は、暴力を振るったり貧困を強いられたりなど、やむにやまれぬ事情のために夫を殺めたのではなく、主犯のヨシダが仲間を言葉巧みに騙し、脅し、親切ごかしに利用した点にある。あとの3人は加害者である前に、ヨシダの被害者なのである。となると尼崎市の連続監禁事件も連想させるが、いくつかのサイトを読むと、実際のヨシダは仲間に性的関係を強要していたとの記述もあって(この点は劇に反映されていない)、言葉を失う。

 ヨシダ役の松永玲子がこれ以上ないほど、心憎いまでに怪演している。親切ごかしで力になると見せかけて、自分が仕組んだ罠に相手を陥れていく。泣き落としから恫喝に豹変する造形の巧みなこと。松永が2006年、本谷有希子作・演出の『遭難、』で演じた教師役にも通ずるものがあるのではないか。ヨシダが「イシイ!」と呼び掛ける声の迫力といったら…。もうこの女には逆らえない。

 松永を筆頭に、高橋由美子、松本紀保、安藤玉恵いずれもこれまでのキャリアやイメージをぶち壊さんばかりの熱演を見せ、劇場内の緊張度も高く、非常に強烈な観劇体験となった。

 瀬戸山美咲の演出は切れ味良いだけでなく、登場人物一人ひとりを受けとめ、包み込む優しさを感じさせる。このような話であるのに終演後の心持ちが次第に軽やかになっていくのはそのためだと思う。

 しかしながらいろいろと疑問も生じる。まずヨシダの二人の子どもの影がまったく感じられないことだ(高橋由美子演じるイシイは3人の子持ちとの設定で、子どもはまったく登場しないが、その実感はちゃんと伝わる。とくに終盤の子どもとの会話を独りごちる場面は非常に美しい)。彼女らの夫たちは確かに情けない男ばかりだが、「この男に死んでもらわないと、私が殺される」と思い詰めるほどには思えないのである。それだけ金目当ての殺人であるということなのか。これまでさんざん苦しめた、泣かされたという台詞は繰り返し出てくるが、具体的なことはほとんど語られない。親身になったというヨシダの言動にも具体性がなく、説得力を欠く。

 終演後、本作所収の大竹野の戯曲集を買い求め、帰りの電車で一気読みしたのだが、今回の上演では終幕の場面が変更されている。2003年の初演ではラフレシア円形劇場祭参加作品として、南港ふれあい港館代子駐車場、つまり野外劇として上演されたとのこと。野外でこのラストシーンを想像するだけでぞくぞくするのだが、『夜、ナク、鳥』という題名や、看護師の始祖である、かのナイチンゲールと、「サヨナキトリ」とも呼ばれる同じ名の鳥、その手を罪で黒く染めた女性たちを象徴する重要なシーンである。演出の意図、何らかの事情であろうか。今回の瀬戸山美咲の演出で、4人の女優で、あの場面をぜひ見たかったと思うのである。

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