因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

Happy Hunting Ground vol.8『3KNOCKS』

2006-07-31 | 舞台
 文学座若手有志によるユニット「Happy Hunting Ground」公演。小竹向原のサイスタジオで、男女2人の会話劇が3本連続上演された。

 ①『赦せない行為』 森本薫作 細貝弘二 添田園子
 ②『蝶のやうな私の郷愁』 松田正隆作 加納朋之 征矢かおる
 ③『パ・ド・ドゥ』 飯島早苗作 古川悦史 佐古真弓

 演出家をおかずに舞台を作ることがこのユニットの特徴なのだが、正直に言うと、舞台をみていて「おお、まさに演出家不在だ」と思えるところがないのである。一昨年の夏、土田英生作品の連続上演をみたときも同じ印象をもった。どの舞台も俳優の台詞がしっかり入っているし演技も巧みで、きちんと稽古をしてよくよく練り上げられていると感じた。舞台作りの現場を知らないので想像するしかないのだが、例えば劇団青い鳥や遊◎機械全自動シアターのような集団創作スタイルなのか、メンバーの誰ががイニシアチブを取って演出家的な役割を果たしているのだろうか?比較のために敢えて極端な例を挙げると、蜷川幸雄演出の舞台のように絶対的なものが君臨しているような雰囲気はなく、伸び伸びとしたイキのいい舞台であった。

 ②は日常的なアパートの一室が舞台だが、次第に幻想的な空気が感じられてくる不思議な作品だった。この夫婦はどんな土地で暮らしているのか、いつの時代なのか。ご飯を食べたり台風で停電したり、ベタな日常が描かれているのに、夢のような儚さが漂う。この作品は来月燐光群の坂手洋二と占部房子が共演、鈴木裕美演出の上演があるので、改めて考えたいと思う。
 ③は警察の接見室で容疑者(佐古真弓)と弁護士(古川悦史)が丁々発止のやりとりを展開する。あて書きではないかと思うくらい役柄が俳優にぴったりはまっていて、3本のなかで最も盛り上がった舞台であろう。ただ俳優の演技がいいだけに、接見室で初対面と思われた両者が実は別れた夫婦だったということがあまりに唐突に示されるなど、戯曲の問題点が目立つことが残念であった。

 観劇から数日たって、いちばん地味な①『赦せない行為』がずっと気になっている。姉(添田園子)が弟(細貝弘二)の部屋で机の引き出しを引っ掻き回して何か探している。そこに弟が戻ってきて、きょうだいがずっと喧嘩をしているような芝居なのだが、彼らが交わす会話は「あの人」「あの子」等といった言葉が多く、その人物が彼らとどういう関わりなのか、なぜ姉がこんなに怒っているのかなど、(少なくとも自分には)はっきりわからないまま終わってしまうのである。2人には近親相姦の匂いもする。戯曲が読みたいなと思ったが、読んでもほんとうのところはわからない話なのかもしれない。

 昼夜通しで3本観劇したが疲れはまったく感じず、すっきりした気分でスタジオをあとにした。来たときは夏の日盛り、帰りは肌寒ささえ感じる夜更けであった。静かな住宅街の一角で出会った、夏の夜の夢のような3つの男女の物語。

コメント

子供のためのシェイクスピアカンパニー『リチャード三世』

2006-07-27 | 舞台
*ウィリアム・シェイクスピア作 小田島雄志訳 山崎清介脚本・演出 東京グローブ座
 2001年に上演の『リチャード二世』が衛星放送で放映されたものを録画し、おもしろくて何度も繰り返しみた。おもしろかった理由は、とにかく俳優さんたちが一生懸命で、ちょっとしたギャグや悪ふざけ的な場面も真剣そのもの、この作品のおもしろさを伝えたいという熱意が伝わる点だ。ここには子供も大人も一緒にシェイクスピアを楽しめるという、ほとんど驚異的なことが実現しているのである。わたしもあの客席に行きたい、子どもたちと一緒にシェクスピアをみたい!

 開演15分前、数人の俳優が登場して来場の挨拶のあと、いきなり歌が始まったのには驚いた。歌の内容は『リチャード三世』とは全く関係がないし振付も平凡で、せっかくの開演前の高揚した気分が萎えてしまった。「前振り」をするなら、もっとセンスよくお願いいたします。

 さて本編である。男性俳優が女性を演じたり、ひとりの俳優が複数の役を演じたりする「仕掛け」を敢えて観客にみせる方法が成功している。俳優の演じ分けがきちんとしているので、誰が誰だか混乱するということもなく、「二役でちょっと大変なんです」みたいな雰囲気も伝わってきて(これも「敢えて」なのかもしれないが)、効果をあげている。「最後まで頑張って」と応援したくなる。小道具に「拡声器」が使われていて、その使い方がとてもおもしろかった。今回の舞台の大ヒットグッズであろう。だが演出の基本プランというのか、黒装束や手拍子を使うこと、俳優が「しゅーっ」というため息?(かけ声、合図に近い)を発することなどが『リチャード二世』とほぼ同じだったことには少々驚いた。どれも他ではみることのできない独特の方法だが、違ったものを期待していただけに少し残念であった。

 舞台を楽しんでいる人の様子をみていると、こちらまで嬉しくなる。それが子どもたちなら尚更だ。今回は自分が舞台をみるのに精一杯で、客席をみる余裕がなかった。次回も是非足を運び、舞台とともに客席の子どもたちの様子も感じ取りたい。

 
 

コメント

『真昼ノ星空』

2006-07-26 | 映画
*中川陽介脚本・監督
 沖縄で映画を撮り続ける中川陽介監督の新作。完成したのは2年前だが、ようやく公開の運びになったという。これまでの作品を知らず、本作も映画館でチラシをみて「鈴木京香が出ているし、何となく良さそう」程度の軽い気持ちで足を運んだ。
 
 リャンソン(台湾の若手スター、ワン・リーホン)は台湾人の殺し屋で、一仕事終えたあと身を隠すために沖縄で暮らしている。昼はプールでゆったりと泳ぎ、夜は沖縄の食材を惜しみなく使って器用に食事を作り、一人の生活をゆったりと楽しんでいる。かりそめの暮らし、かりそめの自分であることをよく知っているから孤独に苦しむこともない。彼が気になっているのは毎週土曜の夜、近所のコインランドリーでみかける女性(鈴木京香)である。彼女(由起子)は昼は弁当屋で働き、夜は工事現場の交通整理をしている。リャンソンは思いきって由起子を自宅に誘い、手料理をふるまう。

 リャンソンは殺し屋だから、台湾にいる兄貴分との電話のやりとりには緊迫した空気が多少感じられるものの、ハードボイルドな展開になるわけではない。彼と由起子、そして彼が泳ぎに行くプールで受付をしている少女(香椎由宇)の3人が、ぶつかるでもなく絡み合うでもなく、淡々と物語は進む。リャンソンはたどたどしい日本語で、しかし素直に「あなたが好きだ」と由起子に告げる。しかし由起子には辛い過去があって、リャンソンの気持ちを受けとめることができない。受けとめたとしてもどんな恋になるのか見当もつかない。さらにプールの少女は彼に対してどんな気持ちを抱いているのだろう。はっきりと恋なのだろうか?

 互いが直接に触れ合うことのない、静かで淡い恋の話だ。じっと相手をみつめる。テーブルを隔てて、丁寧な言葉で話す。二人のあいだには常に距離がある。木々のあいだを渡る風や木漏れ日、夜の路地、湿り気を感じさせる空気が、3人のそれぞれの孤独を包み込む。

 見終わったあと、できればしばらく映画館にいたい、賑やかな渋谷の町に出て行くのが惜しいと思った。本作を見ていない人に「どんな映画だったか」「それを見て自分は何を思ったか」を話そうとすると、どうも言葉にならない。例えば先日公開された西川美和監督の『ゆれる』の場合、自分の気持ちがどんどん揺れ動いているのを感じたし、それを何とか言葉にしようと懸命になった。ブログにも書いたし「すごい映画をみたよ」と何人もの友人に話した。『真昼ノ星空』は、そんな気持ちにどうもなれないのである。これは決してマイナスの意味ではない。それどころか、この夏立て続けにみた映画の中で、もしかしたら最も好きな作品になりそうなのだ。

 『真昼ノ星空』は、みた人を寡黙にする。見終わったあとは、自分の心を大事に抱えてひっそりと帰路につきたい。まとまらず、はっきりしない心の内をむしろ心地よく感じながら。

コメント (3)   トラックバック (3)

『やわらかい生活』

2006-07-25 | 映画
*絲山秋子原作 荒井晴彦脚本 廣木隆一監督 寺島しのぶ主演
 『ヴァイヴレータ』の黄金の座組(?)による新作。「最近いなくなった、潔い生き方をしている、やさぐれた女性を描きたかった」とは某新聞掲載の監督のコメントである。「やさぐれた」の意味を確認してみようとしたのだが、辞書に載ってない。だいたいこんな感じかなとぼんやりとした感覚はあるのだが。

 主人公の橘優子(寺島しのぶ)は早稲田大学出身のキャリアウーマンだったが、両親や恋人を相次いで失い、自分も躁鬱病で仕事も辞めて蒲田に引っ越す。「粋のない」蒲田の町をあてもなく歩きながら何人かの男たちと出会う。町の点描がおもしろく、これは一種の「ご当地映画」といってもいいだろう。デパート屋上の観覧車や商店街の飲み屋、銭湯やタイヤ公園などの風景は、行ったことがないのに(と思う)不思議と懐かしい気分にさせる。

  趣味のいい痴漢kさん(田口トモロヲ)、ED気味の都議会議員(松岡俊介)、鬱病のチンピラ(妻夫木聡)などが、優子に近づき、離れていく。つきあいというにはあまりに短く頼りない関係である。離婚寸前で一文無しで優子のアパートにころがりこんでくる従兄の祥一(豊川悦司)によって、ようやく心身解き放たれたかに見えたが、少々辛い結末が待っていた。銭湯の湯船にひとり身を沈め、声を殺して泣く優子に、思わず一緒にお風呂に入って慰めたい衝動にかられたが、同時にそれを激しくためらう気持ちもあって、複雑な幕切れであった。人は自分ひとりでは生きていけない。それは結婚するとか子どもを持つとかいうことではなく、誰かと関わりながら、交わりながら生きていくように作られているのだと思う。人との交わりは言葉に言い尽くせない幸せを与えてくれるが、ときには耐え難い悲しみに出会うこともある。

 ある意味で終わった感じのしない映画であった。しのぶちゃんの優子さん、これからどうするんだろう?

コメント   トラックバック (2)

『花よりもなほ』

2006-07-24 | 映画
*是枝裕和原案・脚本・監督
 「○○を餅に変える」。これが本作のキーワードだ。変えるというより、変わっていくその過程を描いたものだ。
 ときは元禄、青木宗左衛門(岡田准一)は、父親の仇討ちのために信州から江戸へ出てきた。心は優しいが剣はまるきり苦手である。彼の住む長屋というのが廃屋同然のものすごい貧乏長屋なのだが、そこの共同便所から下肥をくみ出して、肥料として売る場面がある。自分たちの○○が金になり、正月の餅に変わるということだ。

 長屋の住人たち(古田新太、木村祐一、上島竜兵、田畑智子など書ききれない)と宗左の暮らしぶり、つきあいの様子がテンポよく描かれ、とてもおもしろい。一癖も二癖もある俳優が自分の持ち味を活かされ、生き生きとしている。是枝監督の作品は寡黙なものという印象があったが、本作は実に賑やか。

 宗左は遂に敵(浅野忠信)をみつけるが、腕に自信がないこともあるし、どうしても仇討ちをする決心がつかない。
 長屋には本物の赤穂浪士(へんな言い方ですが。原田芳雄、寺島進ほか)が仇討ち準備のために潜伏しており、現実の仇討ちと宗左のそれとが絡むことによって「武士とは、忠義とは何か」という問題がぐっと身近に感じられてくる。見ているうちに、宗左という一人の若者が、武士の本分や体面よりも、父への思いを自分の人生にどう活かしていくかを探し当てるまでの物語であることがわかってくる。敵を憎いという気持ちは確かにある。しかしそれを相手を殺すことにだけに注いでいいのだろうか?悩んだあげく、宗左は長屋の住人とともに一世一代の大芝居をうつ。そして敵を愛するとまではいかないが、宗左は憎しみや恨みを味わったのちの、優しい笑顔に至ることができたのだ。まさに○○が餅に変わったのである。

 強くて格好いいお侍が好きだが、弱くて優しいお侍も同じくらい素敵だ。タイトルは浅野内匠頭の辞世「風さそふ 花よりもなほ...」から採られたものである。ラストシーンで宗左がほのかに思いを寄せている後家さん(宮沢りえ)と言葉をかわす。「桜が散るのは、来年もまた咲くためですから」「今年よりももっと美しく」。赤穂浪士は散ってしまったが、宗左の桜は来年もまた咲くだろう。さわやかで元気の出る時代劇である。
 

コメント (2)   トラックバック (5)