因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

studio salt第12回公演『あの日僕だけが見られなかった夜光虫について』

2009-10-29 | 舞台

*椎名泉水作・演出 公式サイトはこちら 相鉄本多劇場 11月3日まで (1,2,3,4,5,6,6`,7,8,9,10,11)劇団のカラーや劇作家の作風のことを「路線」という言い方で表現することがある。これまでソルトの座付作家椎名泉水の「路線」はコメディ調の「レッドライン」と、シリアス調の「ブルーライン」の2つだが、今年5月の『天気のいい日はボラを釣る』をみたとき、はっきり「こちらの路線だ」と判断し切れない印象があり、それは自分にとって新鮮で、椎名の作風、劇団のカラーが変革期に入ったのではないかと予感させるものであった。では両方を混ぜて「パープルライン」と名付けるのもあまりに単純で、新作の初日をみた今も、この迷う気持ちを持て余している。

 風琴工房に所属していた山ノ井史が、昨年上演の『中嶋正人』に客演ののち、ソルトに入団したことを知ったときは正直驚いた。風琴とソルトでは、劇団のカラーも劇作家の筆も大きく異なる。入る方も迎え入れる方もいろいろな面で大変であったのではないかと思う。その山ノ井が正式なメンバーになって初めての公演が本作となった。

 上演前の舞台が暗くてほとんど見えないが、手前には砂が敷きつめてあり、海辺のコテージのようだ。開演して冒頭、不思議な場面がある。詳細は・・・書かないほうがいいだろう。暗転したのちに明転し、海辺のコテージの経営者らしき男性(山ノ井)と、三々五々そこにやってくる人々のやりとりが始まる。

 彼らがなぜここにやってくるのか、彼らの関係は何なのかがわかりそうでわからないのは、客人を迎え入れる山ノ井と彼らの挨拶の仕方やそれに続く会話がぎくしゃくしているせいだ。中学の同級生たちらしいが、在学当時の関係やいまどの程度のつきあいがあるのかもなかなかわからない。そういう間柄なのに、なぜ今日ここに集まってきたのかということも、どこか不自然な印象がある。表面を取り繕っていたり、ライバル意識がもたげてきたり、和気あいあいの同窓会が、ちょっと間違えば一発触発の大波乱になるパターンかとも思ったが、集まりじたいに最初から不自然さや違和感があって、安易な読みができない。

 後半山ノ井のひとことで、宴席は凍りつき、さあここからすべてが明かされるのかと身構えた。

 すべての人にとって子どものころが懐かしさでいっぱいとは限らないだろう。辛い思い出、特に苛められたり仲間外れにされた経験があれば尚更である。何十年経とうと、いい年の大人になろうと嫌なものは嫌だし、相手への恨みや憎しみも消えない。その後の人生が充たされて幸せならばまだしも、思うに任せない人生を「中学のときからずっとうまくいかなくなった」と悶々と苦しむ人もある。白けた宴席も何とか持ち直し、皆が海岸にでて夜光虫と戯れる。そこに山ノ井がトレイに飲み物の入ったグラスを持ってやってくると、中の一人が「それください」と手を伸ばすが、山ノ井はグラスの中身を砂に空け、トレイを傾けてグラスぜんぶを砂浜に落としてしまう。

 帰りの電車を降り、改札を出たところで「あのグラスは、すると冒頭のあの場面は」と気づき、背筋がヒヤっとする。もしかしたらそういうことなのか?

 共有できなかった思い出をめぐる、一種のサスペンスでもある。前作の冒頭で陽気な春の日を楽しむ幸せな人々の点描があって、一転ホームレスの人々の日常に変わるという場面があった。今回山ノ井史という俳優を得たことによって、現実なのか彼の妄想なのか俄かに判断しにくい、それだけに幻想的で詩情が漂い、しかしあとになってぞっとするほどの恐怖が襲ってくるという描写がかなりいいところまで来ていると思う。

 初日が明けたばかりなので書きにくい。しかしそれもまた楽しい。春と秋のソルト公演通いの楽しみはこれからも続きそうである。

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因幡屋11月の課題

2009-10-25 | インポート

 ゆうべからの雨もあがったが寒い日曜。珍しく一週間観劇がなかった。寒いのとおながが痛いのとで、ホッカイロを当てて書いております。今月は後半から慌ただしくなりそう。
*元祖演劇乃素いき座+龍昇企画『チャイニーズスープ』
渡辺源四郎商店第10回公演『今日もいい天気』(1)
*サンプル『あの人の世界』 (1)
*劇団山の手事情社『山の手・女祭り・男祭り』
    内田慈さん、どうしてもあなたが気になるのです。
elePHANTMoon 『ブロークン・セッション』 
   初夏にみた前作の印象忘れ難く(1)。
パラドックス定数『東京裁判』(1,2,3,4,5)
ハイリンド『華々しき一族・お婿さんの学校』(1,2,3,4,5,6,7)
風琴工房『おるがん選集 秋編』(1,2,3,4,5,6,7,8)
*東京工業大学外国語研究教育センター・留学生センター共催 
 『Gay Spirits』 劇団フライングステージ代表関根信一氏の講演

 これまでも書いたことですが、筆の重いことが自分の欠点です。さらに全体の構造や流れを決めずに書き始めてしまう。思いもよらないところにたどり着ければ幸運ですが、それまでの不安な気持ちは例えようもなく、これまでに意気込んで書き始めたのに完成しないもの、あれこれあります。演劇に対するきっちりした思想や自分なりの確固とした批評軸というものがないのでしょう。しかも「書けなったらどうしよう」と怖くて二の足を踏んでしまう。これは努力と鍛錬によって身につけられるものか、あるいは持って生まれた体質なのか。
 風琴工房主宰の詩森ろばさんのブログに「戯曲の技術」という記事があり、興味深く読みました。これは劇評を書く上でもあてはまるところがあると思います。何となく気分で書き始めて、書けたらラッキー、書けなかったら少し反省して忘れるという癖をどうにかしたい。
 今、心をとらえているのは、ミナモザの『エモーショナルレイバー』とこまつ座の『組曲』です。現代の裏社会で暗躍する若者と、誰もが幸せに暮らせる世の中を願って殺された青年。両者を繋ぐものがあるように思えるのです。
 因幡屋11月の課題は「勇気を出そう」です。

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演劇集団円『コネマラの骸骨』

2009-10-18 | 舞台

*マーティン・マクドナー作 芦沢みどり翻訳 森新太郎演出 公式サイトはこちら ステージ円 21日まで
 まずはお詫びです。自分は本作のタイトルをずっと『コマネラの骸骨』と思い込んでおり、今日上演前に劇団スタッフさんが「本日は演劇集団円公演『コネマラの骸骨』にご来場いただき・・・」と挨拶されるのを聞いてぎょっとした次第。申しわけありません。ブログの表記は訂正いたしました。

 さて『コネマラの骸骨』であるが、マクドナーのリーナン3部作の真ん中にあたる作品で、2004年上演の『ビューティクィーン・オブ・リーナン』(未見)、2006年上演の『ロンサム・ウェスト』に続いて、円はマクドナーの集大成を行ったことになる。劇作家と演出家と劇団のカラー、俳優の個性など、さまざまな要素が幸福な出会い方をした。自分は『ロンサム・ウェスト』が強く印象に残っており、今回の『コネマラの骸骨』には並々ならぬ期待と気合で臨んだのだった。

  暗い室内と暗い墓場で進行する物語は謎が多く、明かされる謎もあるにはあるが、あまりに馬鹿馬鹿しかったり(吉見一豊の警官め!)、結局真実が示されなかったり、では最終作の『ロンサム・ウェスト』に答があるかというと、やはりそうでもないのだった。

 墓場で土の掛け合いをする様子は、先輩俳優が後輩を苛めているようでもあり、昔みたドリフのコント風にもみえるし、掘り出した骸骨を部屋に持ち帰って木槌で滅多打ちするさまも、舞台美術や装置の転換はじめ、作り手側に大変な労力を要求していながら、その描写の数々が劇的な効果を生んでいるようにもみえず、しかし決して無駄ではなく、何かしらを客席に発していることは確かなのだが、それを自分は的確に表現することができない。

 マーティン役の戎哲史は研究生からの大抜擢で、ベテラン3人に取り囲まれて(ほんとうに)大健闘であったが、あの終始イカれた兄ちゃん風の演技は、ほかに違う造形はなかったのだろうか?もう少しどうかあるような気がするのだが。

 笑いや疑問、不満もあって、それらさまざまな気持ちをおなかにため込んだまま劇場を出た。と、同道の友人が「あの男の子、おめーなんか聖歌隊に入れねーよって」と大笑いしながら口火を切った途端、自分も「ほんとだよ.おめーが聖歌なんか歌うんじゃねーよ」とものすごい言葉づかいになり、劇中の台詞を繰り返しては2人できゃあきゃあ笑いながら浅草寺まで歩く。「自分はおかしくなっている」そう思った。

 少々不完全燃焼気味なのは、『ロンサム・ウェスト』にあったような「詩情」を期待していたからだろう。安易に期待などしてはいけない。マクドナーはそう簡単にこちらを楽しませたり、うっとりさせたりはしないのだから。わかったような気になり、登場人物にうっかり感情移入したり、安心して歩み寄ると「知るかよ!」とぶっ飛ばされる。こちらも「覚えてやがれ」と次の作品に対して闘志がわく。喧嘩腰の爽快感。この感覚が自分がマクドナー作品をみるときの楽しさだと思う。

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こまつ座&ホリプロ公演『組曲虐殺』

2009-10-17 | 舞台

*井上ひさし作 栗山民也演出 小曽根真音楽・演奏 公式サイトはこちら 天王洲 銀河劇場 東京公演は25日まで その後兵庫、山形へ続く。
『エリザベート』のデビュー以来、井上芳雄にはいささか度を越した、自分でも赤面するほどの思い入れがある。しかしここ数年は自分の演劇趣味がどんどんディープになるにつれ、帝劇や日生劇場へはすっかり足が遠のいてしまった。今回も井上ひさしの新作と聞いただけで「やめておこう」と引いたし、あまり馴染みのない銀河劇場へどうしても・・・という気持ちになれなかったのだが、どういう心の変化だろうか、行くことを決めたのは?

 小林多喜二のことを知ったのは、小学5年生のときだ。確か『第二次世界大戦前夜』という題名の本だった。小学校高学年から中学生向けに書かれたもので、日本がアジアを侵略し、人々にどんなことをしたか、どのようにして第二次世界大戦が始まったかを、ノンフィクションと物語形式を織り交ぜながらわかりやすく、しかも容赦なく記されてあった。学校の社会科の授業では教わることがなかった数々に自分は衝撃を受けた。中でも特高の拷問で殺された小林多喜二の話は最も恐ろしく、10歳の子供の小さなアタマを占領し、心を震え上がらせるには充分であった。知らなかった、日本はアジアの人たちにこんなひどいことをしたのだ。同じ日本に住む人たにも、違う考えを持つ者を力ずくで押さえつけ、残酷な方法で殺したのだ。先生たちはこんなことは教えてくれなかった。ごめんなさい、アジアの人たちごめんなさい。嫌だ嫌だ、こんな大人たちは、こんな国は嫌だ・・・と友達にも周りの親たちにも言えず、どうしてこんな恐ろしい本を読んでしまったのだろうと呪わしくさえ思ったのだった。
 小林多喜二は自分にとって一種の鬼門のような人物であったかもしれない。それを爽やかで汗もかかないようなイメージの井上芳雄が演じる。「組曲」というからにはミュージカル形式なのだろうか。

 休憩をはさんで3時間あまりの上演中、自分は実に愉快で、時折深く心に突き刺さるような辛いものも何とか受け止めることができた。カーテンコールでは一階席はほぼ全員がスタンディングとなり、二階席の自分は立たなかったけれども一杯の拍手を贈った。出演者の皆さんの表情の晴れやかなこと、こちらまで嬉しくなる。30歳に満たずに暴力的に生涯を断たれてしまった青年と、彼と交わった人々に、作者も演出家も俳優も、本作に関わった方々は、からだごとぶつかって今夜の舞台を作り上げたのだと思う。冒頭の「小林三つ星堂 パン店」の歌は浮き立つように楽しく、終幕の「カタカタ廻る、胸の映写機」のくだりは心に染み入るようで、メロディも歌詞もうろ覚えのまま、さっきからこの箇所だけ何度も歌っている。

 センチメンタルになっては劇評は書けないのだが、今夜は舞台の余韻に浸りたい。本を抱えてうずくまっていた10歳の子供は少し救われたのだ。

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shelf『私たち死んだものが目覚めたら』

2009-10-15 | 舞台

*ヘンリック・イプセン原作 矢野靖人構成・演出 毛利三彌翻訳 公式サイトはこちら アトリエ春風舎 18日まで  そのあと京都のアトリエ劇研でも公演
 これが3回めのshelf体験となる (1,2)。アトリエ春風舎劇場の入口は引き戸である。開場時刻になって重そうな戸が開けられて「どうぞ」と促されると、日常の世界から異空間に足を踏み入れる感覚を味わう。舞台には長細いベンチのようなものがひとつ置かれているだけ。あれはチェロだろうか、もの悲しい音楽が流れている。これからどんな舞台が始まるのだろうか。

 原千代海翻訳の戯曲を読んだとき、「随分俗っぽい話だな」と思った。世界的な名声を得た彫刻家が創作意欲が衰え、年若く快活な妻との暮らしにも倦んでいたとき、かつて自分のモデルをしていた女性と巡り合い、芸術家として再起しようとするが、彼女は2度の結婚、離婚によって心を病んでいた。倦怠感いっぱいの夫婦と、夫と過去にわけありだった女性、若さを持て余す妻に言いよる野卑な男・・・と、登場人物の関係を書くとまるで安手のメロドラマである。

 構成・演出の矢野靖人は、舞台装置や小道具などの俳優以外の要素を極限までなくし、この難解な戯曲に俳優が立ち向かうさまを客席に示した。本作は野外の場面がほとんどで、小川が流れていたり、断崖絶壁や滝があったり、挙句は雪崩が起こるという、「いったいこれをどうやって舞台にすればいいんだ?」という疑問を超えて、戯曲に忠実な舞台化は不可能なのではないかとさえ思う。芸術家としての新生に最後の望みをかけながら、それを果たせずに雪崩にのまれてしまう老彫刻家と、愛を得られずに心を病んだ末に同じく命を落とす女性。これがイプセン最後の作品であること、登場人物誰も幸せでない結末にちょっとした絶望感を抱く。

 緊張感漲る舞台を、こちらも同じテンションで見続けるのは少々辛い場面もあった。互いの心の中を探り合うような会話が続いたかと思うと、積年の恨みを突如吐露しながら、かみ合わない感情のぶつかり合いが始まったりする。それは主に彫刻家とその妻、彫刻家のモデルだった女性の3人であり、その中において温泉保養所の監督や地主、尼僧姿の看護人の立ち位置、主要人物とどのような関わりであるかと示すのは難しいと思う。

 救いのない話である。幸福に満たされた人生、完全に理解しあえる人間関係というものは存在しないのだろうか。戯曲の世界に対してだけでなく、今夜は自分自身に対しても深く落ち込む。学生時代から続く勉強不足の身に、理解力のないアタマに、言葉を探せないもどかしさに打ちのめされる思いである。しかし終演後の心持ちは、まるで浄化されたように晴れやかで幸せであった。劇場で流れていた曲が帰る道々ずっと耳元で聞こえていたのに、お風呂に入っているあいだに忘れてしまった。でも2,3日すればたぶんまた思い出すだろう。これだけでもわずかな希望である。ここから歩きだしてみよう。

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