因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

因幡屋2月の覚え書き

2011-02-28 | 舞台番外編

【芝居】稼働日数が少ないにも関わらず15本の観劇となった。ちょっと多すぎますかね。そのなかでは田川啓介がさらなる変化と成長の兆しを期待させる『不機嫌な子猫ちゃん』(まだまだもっと書けるはず!)、二兎社『シングルマザーズ』、May『十の果て』に確かな手ごたえを与えられた。

【本】
*渡辺保 『私の「歌舞伎座」ものがたり』 (朝日新書)
*長田育恵 『乱歩の恋文』 シアターアーツ2010冬号掲載 昨年秋の上演を見逃したのが残念でならない。

【映画】
*ロドリゴ・ガルシア脚本、演出 『愛する人』 ガルシア監督作品では『彼女を見ればわかること』が大変好きで、べつべつの場所で進行するそれぞれの女性の物語が次第に繋がっていく過程に引き込まれた。今回は多少ストーリーを追う印象があって、『彼女を~』をもう一度見返したくなった。
*『わが心の歌舞伎座』 幕間をはさんで3時間10分の大作。情感たっぷりの音楽が少し盛り上げ過ぎかなと思ったが、みてよかった。大切な歌舞伎座。家族や友人と過ごした懐かしい時間と空間を心に刻み、新しい歌舞伎座を待とう。どうかそれまで、家族とともにこの世に人生が与えられていますように。歌舞伎座の映画をみたあと、ル テアトル銀座まで走って二月花形歌舞伎をみる。ちょっと変な気持ちだ。

 先日大学時代の恩師をお誘いして、二兎社の『シングルマザーズ』を観劇したあと、大変貴重なお話を伺った。恩師が劇団民藝公演において、岸田國士作、宇野重吉演出の『驟雨』をご覧になったときのこと。新婚旅行先から早くも夫に嫌気がさして、妹が姉夫婦のうちに駆け込んでくるという短いお芝居である。妹は夫の行状に対する不満を言い立て、姉はまるで自分の結婚生活の代理戦争であるかのように妹に同情し、夫に意見を求めるがうまくかわされ、そこににわか雨が降って終わり・・・という内容である。姉を演じた奈良岡朋子が雨が降っているおもてを眺めるとき、雨の落ちる地面に目を落として幕となったのだそう。
 「雨が降ってきた」といえば、演じる俳優はたいてい空や空間をみつめるだろう。それを地面をみつめたところに緻密で的確な宇野重吉の演出があった。様子を想像してぞくぞくしながら、かりに自分がその場に居合わせたとして、演出意図や演劇的効果に気づくことができただろうか。単に目を伏せたとしか感じなかったかもしれない。『驟雨』は岸田國士のなかでも好きな作品で、東京乾電池の月末劇場(2009年3月)の舞台がいまでも心に残るが、あのとき姉を演じた美しい宮田早苗さんはどこを見つめていたかしら。

 昨年末に同じ民藝が『十二月-下宿屋四丁目ハウス-』を上演した。質実な新劇の味わいを堪能したのだが、観劇前に「江森盛夫の演劇袋」の「舞台が無人になったときの気配の濃さ」という記述を読んで、まさにその通りであることに感嘆したのだが、もしこの劇評を読まないで観劇したら、このことをちゃんと認識できただろうか。同時にあらあかじめの情報ではなく、みずからそのことを感じ取りたかったというないものねだりの気持ちもわいてきて、大変複雑な思いにとらわれるのだった。

 芝居をみるのも劇評を書くのも自分だが、いろいろな方のお話を伺うことによって、自分の力では到底及ばない視点を与えられる。幸せに感謝したい。

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May『十の果て』

2011-02-27 | 舞台

*金哲義作・演出 公式サイトはこちら 新宿タイニイアリス 27日まで
 アリスフェスティバル参加公演/May劇団タルオルム連続公演 
 25日の劇団タルオルム『金銀花永夜』に続いて観劇。同じ劇作家・演出家によることがにわかに信じられないほど、雰囲気はまったく異なる。太平洋戦争が終わり、朝鮮戦争の足音が次第に高まるなか、朝鮮人だが祖国の言葉があまり話せないタルス(木場夕子)と、朝鮮の地でふた親を亡くした日本人光太郎(田中志保)の交わりに、タルスが幼いころ兄の膝の上でみた映画『丹下左膳』の世界を絡ませながら、思想弾圧だけでなく、鬼神(?)と呼ばれる魑魅魍魎たちとの大立ち回りをみせつつ、タルスが肉親と祖国に別れを告げ、光太郎とともに新天地日本にたどりつくまでを描く大活劇である。
『丹下左膳』のなかで、左膳が親を殺された少年を伴って歩いていたとき、殺した相手に出くわし、少年に「目をつむって十数えてろ」と言い聞かせ、そのあいだに相手を斬ったというくだりがあり、今回の舞台のタイトル『十の果て』はそこから来る。
 

 作者の金哲義じしんに、子どものころ訪れた祖国で軍服を着た従兄が敬礼をする姿に衝撃を受けた経験があり、主人公のタルスと北からやってきた軍服姿の兄(野村侑志/劇団オパンポン創造社)に色濃く投影されている。タルスの両親は朝鮮がずっと日本の統治下にあると予想して、息子を日本語を教える学校に行かせたために、財を失い、同胞からは親日派と嫌われた。一方光太郎はタルスよりも朝鮮語に堪能で、3歳までしかいなかった日本に対して複雑な思いを抱いている。注:本作は全編日本語によって演じられるが、登場人物が話しているのは「朝鮮語」であるという設定だ。

 少年たちを演じるふたりの女優が素晴らしい。俳優が本人と違う性の役を演じる場合、作者の意図や作品の意味が必ずあると思いがちであるし、また実際にそうであることが少なくないが、今回の場合こちらがわの深読みや裏読みなどぶっとばすほどふたりの少年は生き生きしており、舞台ぜんたいの疾走感がこちらの気持ちをかきたて、少年たちが何とか日本に行けるよう手に汗握る興奮を与える。

 疑問に感じたのが、兄タルセンに巻き舌のべらんめえ調で話させている点である。兄に丹下左膳を投影させる造形であるにしても、軍服がよく似合っているのにどこかのちんぴら風に見えてしまい、聞きとりにくい台詞も多く残念であった。またこの作品の空気にまったくそぐわない(と自分には思える)ギャグ的な場面が唐突にあって、しかも俳優のアドリブや素に戻って笑っているところもあり、なぜこういう演出をしたのか理解に苦しむ。追いつ追われつの緊張感の強い物語のなかに、多少遊びの要素も取り入れて気分転換を図りたいのだろうか、しかし結構長く続くアドリブには必然性が感じられず、気持ちのよいものではなかった。せっかく作り上げている劇世界を、みずから壊すようなものではないか。

 やっとのことで日本にたどりついたふたりだが、はじめて目にする日本はあたかも異形の彷徨う国であり、これから彼らが歩く道が困難を極めることを予想させて舞台は終わるが、終幕の心持ちはさわやかで、千秋楽のカーテンコールは民族音楽に合わせ、『金銀花永夜』の出演者も総出で晴れやかに踊る祝祭的なものになった。
 タルスと光太郎の物語は、金哲義がどうしても生み出さなければならなかった物語なのだろう。自分がどこから来たか、どこへ行こうとしているのか。自分はいったい何なのか。劇作家としての必然性が強く伝わってくる舞台であり、手法に走りがちな昨今の小劇場のいくつかを思い出すと、火傷しそうなくらい熱く激しい。劇作家の必然を自分の必然とするにはまだまだこちらの頭と心の鍛錬が必要だ。これからもMayの舞台、金哲義の作品を背筋を伸ばして見守りたい。

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劇団イナダ組東京公演『第3柿沼特攻隊』

2011-02-27 | 舞台

*イナダ作・演出 公式サイトはこちら 紀伊國屋サザンシアター 27日まで
 札幌を拠点に活動するイナダ組は旗揚げして20年、市内のアマチュア劇団として驚異的な観客動員数を記録し、札幌だけでなく北海道内の複数の都市はじめ、福岡や東京でも公演を行っているとのこと。今回はイナダ組自主企画でサザンシアターに進出した。客席にはこまつ座や新劇系の劇団の公演とは明らかに違う雰囲気が溢れており、ほぼ満席の盛況である。

 古ぼけたアパート「柿沼荘」の住人たち。父親が失職中、関西から流れてきたタクシー運転手の父親と2人の娘、夜逃げした親に取り残された少年、在日韓国人にシングルマザーと貧困と格差社会の縮図のような面々である。2階の空き部屋に日本企業研修にやってきた中国人男性ワンが入居することになった。「あの部屋に?」住人たちは妙な反応をする。ワンが部屋のドアを開けると、そこには亡くなったはずの老女光恵さんが立っていた。

 休憩なしの2時間弱、とにかく賑やかでけたたましく、住人たちの事情やふりかかる災難が次々に描かれる。光恵さんが亡くなったことについて、住人たちはある秘密を共有している。これが物語のひとつの軸であり、その秘密が明かされていく過程がみどころになる。自分たちも貧乏でかつかつなのに、他人のことを本気で心配し、世話を焼く。みなが底抜けの善人というわけではなくて、それぞれ後ろ暗いところや傷を抱えており、あけすけで乱暴な口をききながらも互いにかばい合う。光恵さんの姿がみえるのは中国人のワンだけで、タクシー運転手の長女由里子は、光恵さんの死がきっかけで口をきけなくなった。ほかの住人にはみえない光恵さんと言葉を話せない由里子の存在が物語の重要な鍵である。

 正直なところ、個性的な人物が賑やかに出入りする貧乏長屋の人情噺ふうに展開する前半は集中してみることがむずかしかった。物語の設定にも人物の造形にも既視感があり、俳優の演技もいささか過剰でかえって入りこめない。しかしさすがに札幌でも屈指の人気劇団である。終幕近くに強烈なカタルシスをもたらす場面が現れた。帰国が決まったワンが住人たちに手品を披露しようとするのだが、うまくいかない。それをみていた光恵さんが由里子のうしろにまわり、その両腕をとってゆるゆると踊らせる。その踊りは言葉を話せない由里子が何かを訴えているようでもあり、なかなか成仏できない光恵さんが由里子のからだを通して住人たちのことを必死で祈る姿のようでもあって、静かだが身震いしそうな迫力を持つ。
 もうひとつはいよいよの終幕である。決心して手術の日を迎えたタクシー運転手がベッドの上から拡声器で住人たちに呼びかける。アパート各室のドアが開いて姿をあらわす住人たちは、もはやこの世のものとは思われないような形相で、タイトルの「特攻隊」の意味がここでわかるのである。彼らが体当たりしようとしている相手は自分を解雇した会社の社長、不実な夫、融通がきかず冷たい行政か。

 2階だてのアパートという設定上、ある程度天井の高い劇場が必要になるが、物語のボリュームがサザンシアターのサイズにぴったりかどうかは疑問が残るし、前述のとおり俳優の演技にはもう少し抑制がほしい。ワンだけにみえる光恵の存在(後半は重篤な病になったタクシー運転手にもその姿が見え始めるのだが)や、時おりアパートを訪れる行政側の人物の絡み方が思ったより平凡であったり、「特攻隊」のごとく体当たりするかもしれない住人たちのその後こそ描いてほしいのだが、結局そこまでのことができない哀しさを示したかったのかと考えたり、もどかしい感覚は少なからず残ったが、観劇後の印象はすっきりと気持ちのよいもので、多くの観客の支持と応援を受けるのも道理と得心した。

 ただ東京圏の小劇場の舞台と比べても引けを取らないというプラスの印象と、少しきつい表現になるが、北海道の劇団ということをまったく知らずに観劇しても、それと気づかないのではないかとも思った。演劇は東京が基準というわけでは決してなく、その土地のというより、劇団それぞれに個性があるはず。もっとそれを強烈に発する舞台をみたいと思うのである。

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劇団タルオルム『金銀花永夜―クムンファヨンヤ』

2011-02-25 | 舞台

*金哲義作・演出 公式サイトはこちら 新宿タイニイアリス 27日まで
 アリスフェスティバル参加公演/May劇団タルオルム連続公演 大阪を拠点に、東京・韓国へと活動の場を広げる2つの劇団がタイニイアリスで、Mayの金哲義の作品を3日間で交互上演するもの。カラー刷りの当日リーフレットや『金銀花永夜』専用の2つ折りのパンフレット、いずれも立派な作りである。いつものアリスの客席とは年齢層も雰囲気も異なる観客が熱くみつめるなかで、日本のどこかの小さな町の朝鮮学校の先生と生徒、家族たちの姿が描かれる。
 

 

 朝鮮学校にひとりの女性教員がいる。もう定年を過ぎているが、周囲からの信頼厚く、引きとめられて子どもたちのために働き続けている。彼女には戦争の記憶がいまだに色濃く残っており、どんなに迫害されても民族の誇りを失わず、祖国の言葉を知る喜びをあとに続く子どもたちに伝えたいと願う。チラシのなかに「朝鮮語ノート」という小さな紙が入っており、劇中に出てくることばのいくつかの日本語訳が示されている。また「朝鮮学校では普段、生徒も先生も、会話は朝鮮語を使用しておりますが演出上『まぜ言葉』(朝鮮語+日本語)になっていることをご了承ください」と注意書きがあって、開演してその意味がすぐにわかった。日本語(関西弁)と朝鮮語は半分ずつ、いや場面によっては朝鮮語の割合のほうが多かったのではないか。
 物語の流れを大きく誤解するほどではないと思うが、聞きとれず理解できなかった台詞が予想よりたくさんあり、物語の熱さや客席の熱さにもいまひとつついていけなかったのが正直なところであった。

 年老いた女先生が、自分が子どもだったころを思い出す場面がある。学校が壊され、先生たちもいなくなってしまった。文字の読めるものが子どもたちに読み書きを教え、歌が歌えれば音楽を、走るのが早ければ体育を教えた。民族の義務と責任もあっただろうが、「子どもたちの喜ぶ顔をみたいから」だったと。
 学校、生徒のうち(生徒は女先生の孫なので、先生のうちでもある)、病院など場面が目まぐるしく変わるたびに暗転が入り、そのために芝居の流れが滞るほどではなかったが、全体的に何かもうひと工夫ほしい。作者が描きたいことの重さや真剣さを演劇として提示するために、しかも関係者だけではなく、朝鮮学校のことや在日のことをほとんど知らない観客により力強く示すためにも。

 にぎやかで温かなカーテンコールのあと、女先生の少女時代と孫の二役を演じた女の子が、倒された机と椅子を丁寧に並べなおして客席に一礼して退出した。学校を壊されたときの机、いまの朝鮮学校で、学校に来ない男の子がいたずら書きをした机。劇中何度も出てきた机と椅子は、これからの子どもたちも迎え入れ、彼らの学びと成長を支えていくのだろう。最後の最後まで丁寧に心をこめて作られた舞台であった。

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二兎社30周年記念公演『シングルマザーズ』

2011-02-23 | 舞台

*永井愛作・演出 公式サイトはこちら 東京芸術劇場小ホール1 3月27日まで そのあと4月30日まで全国を巡演
 さまざまな事情で離婚、あるいは非婚を選んで子どもを育てる母親たちが、児童扶養手当の削減凍結のために奮闘する姿を描いた永井愛の新作。タイトルはズバリ『シングルマザーズ』。
 ガラス窓が古さをいよいよ感じさせる木造アパートに彼女たちの拠点「ひとりママネット」の事務局がある。それぞれ仕事を持ちながら可能な限りそこに集まり、電話相談やかけこみ相談に応じ、デモや署名の準備、ママたちの交流の催しに余念がない。物語は小泉政権下の2002年母子寡婦福祉法改正から、2007年支援削減凍結に持ち込むまでを描く。

 休憩をはさんでちょうど2時間のあいだ、緊張のゆるむところはまったくなく大いに楽しんだ。登場するシングルマザーたちのそれぞれの事情も会話のなかにうまく折り込まれていて理解しやすい。主演の沢口靖子はほんとうに誠実な演技で好ましく、根岸季衣はベテランらしい手堅さで舞台を支え、オーディションで選ばれたハイリンドの枝元萌、玄覺悠子も伸び伸びと好演して客席を沸かせる。こういう物語の場合、男性は非常に旗色悪く描かれることが多いが、ただひとりの男性吉田栄作が、「妻をシングルマザーにしてしまった男」として、この人物の居心地の悪さ、後ろめたさや悩みを複雑に演じて、舞台に奥行きをもたらす。

 本作執筆のきっかけは、二兎社で制作をつとめる女性がシングルマザーであり、この方が母子加算の復活を求める新聞の投書や院内集会で児童扶養手当の削減方針を撤回するよう求めている姿をテレビニュースで永井愛がみたことだそう。身近な人がこんなにも必死で活動している。「それやこれやの出来事が、私に『書け』とささやきました」(公演チラシより)。永井はNPO法人しんぐるまざーず・ふぉーらむの活動を綿密に取材し、多くの家庭の様相を4人のシングルマザーたちの姿に作り上げた。生活の大変さがただごとではないことを知る一方で、互いに支え合う熱いネットワークに心を動かされたのだという。その作者の「書きたい」という思いが熱く結実した舞台である。その思いを客席もしっかりと受けとめ、劇場は温かで優しい空気が溢れ、大変充実した時間を過ごせた。多くの人が共感し、触発されるであろう。知人友人にも勧めたいと思う。

 しかしその一方でことばにしづらい違和感があるのだった。2010年春上演の『かたりの椅子』(1,2)を、自分は大変興味深くみたのだが(因幡屋通信35号に劇評掲載)、観劇のさい俳優の声や演技がいささか大きすぎるように感じたのだ。それは上演したのが世田谷パブリックシアターで、劇場の大きさを考えるとこのくらいのボリュームになるのは致し方ないのだろうと推測したのだが、今回の『シングルマザーズ』上演の東京芸術劇場小ホールにおいても同様の印象をもったのだ。小ぢんまりした劇場である。ここまで声を張り上げなくてもじゅうぶん聞こえるのだがなぁと思うのだ。2月18日朝日新聞に本作の紹介記事が掲載されており、永井愛が「演劇言語としては弱いと言われる日常の言葉を、どうやったら劇的な言語にできるか、それを探ってきました。ホームドラマと軽く見られがちですが、誰もが根本に抱える『生活』というものを描き続けたい」と語っている。「演劇言語」と「劇的な言語」についての認識が、自分が考えているものと微妙に異なるように思えるのである。シングルマザーズたちの台詞は日常のことばである。しかし彼女たちはそれをこちらの感覚からすればそうとうな大声で発している。これは言語うんぬんはさておき、演出の問題でもあるのではないか。

 本公演は全国巡演を含めると2か月以上も上演されるため舞台の詳細は書けないが、前述の自分の感覚をもっとも強く感じたのは、終幕に沢口靖子が元夫と電話で話す場面においてであった。沢口は離婚から数年経てもなお、夫の暴力による心の傷が癒えない。その元夫からの電話に勇気を振り絞って話に応じようとする。受話器から漏れ聞こえるのは元妻を罵詈罵倒するどなり声である。何を言っているのかはほとんど聞き取れないが、相手をまともな人間として尊重する姿勢など微塵も感じられず、この男性を変えさせることも歩み寄ることも絶望的だと思わせるにじゅうぶんであった。電話の声は耳を澄まさないと聞こえないくらいの音量であるにも関わらず、それほどの効果を客席に示したのである。音量だけでなく、微かに聞こえる口調は、舞台の登場人物たちのものとは明らかにことなった、まさに日常の言語の息遣いが感じられるものであり、自分はその聞こえにくい声に心底震え上がった。まさにこれが日常であり、現実なのだ。作者が「日常の言葉を劇的言語に」と目指している姿勢に対し、何とも皮肉な劇的効果ではなかろうか。

 舞台狭しと駆け回るシングルマザーたち、そのなかで居心地悪そうに右往左往する吉田栄作、そして受話器からモンスターのごとく襲いかかる元夫。それらすべてが自分に「もう一度見ろ」とささやいた。1ヵ月後、家族を誘ってもう一度出かけることを決めた。

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