因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

【試写会】ナショナル・シアター・ライブ2018『フォーリーズ』

2018-10-04 | 映画

*公式サイトはこちら ジェームズ・ゴールドマン脚本 ドミニク・クック演出 スティーブン・ソンドハイム音楽 ナショナル・シアターオリヴィエ劇場 19日(金)よりTOHOシネマズ日本橋ほか全国順次公開
 1971年にブロードウェイで初演され、トニー賞最優秀楽曲賞を受賞した伝説のミュージカル。2時間35分休憩無しの長尺だが、大丈夫です。

 取り壊しが決まったレヴュー劇場に往年のスターたちが集まり、旧交を温める。いわばミュージカル俳優たちの同窓会である。しかし彼らはそれぞれ、歳月を経てもなお痛みの消えない心の傷や、取り返しのつかない過去への後悔、今の人生に満たされない思いを抱えている。もう決して若くない彼らは、みずからの心の痂を引き剥がすようにぶつかり合い、傷つけあう。なぜそこまで、何のために。

 見事な歌とダンスと演技で豪華絢爛なミュージカルの表舞台に立つ人が、実人生においてはいかに不器用で、懲りずに過ちを繰り返しているか、いったい人間というものは何なのかという答の出しようのない問いをこれでもかと突きつけてくる。楽しく明るく美しく酔わせるだけのミュージカルではない。重く苦く、やりきれない。バックステージものの域を超えて、哲学的味わいを持つ、大人のための作品である。

 軸になるのは男女二組のカップルだ。サリーはバディと、フィリスはベンと恋仲になり、結婚した。しかしほんとうはサリーはベンを好きで、数十年経った今でも忘れ切っていない。一人の人物に対し、若い俳優とベテラン俳優が配されている。老いた現在と過去の時代を行き来し、複雑に絡み合う。老いた俳優が、若き自分のすがたを見つめるときの痛ましい表情には胸が締めつけられる。ミュージカルということを忘れて、寂寥感にやりきれなくなるのである。

 本作が「follies」(愚かさ)という、身も蓋もないタイトルであることを改めて考えた。年を重ね、経験を積んでも人間は何と愚かなのだろうか。実は2日前に見た『イェルマ』のあまりに鋭く強烈な印象が心に突き刺さったままだ。人間の愚かなること、生きることの辛さをストレートプレイで嫌と言うほど見せつけられたかと思ったら、今度はめくるめくような夢の世界に導いておいて、「さあ、あとはあなた自身の人生を歩け」と夜の京橋(試写室のある場所です)へ放り出すとは。演劇とは、芸術とは何と罪作りなのだろうか。だから余計にのめり込み、それなくしては生きられないのだけれど。

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ナショナル・シアター・ライブ2018『イェルマ』

2018-10-02 | 映画

*フェデリコ・ガルシーア・ロルカ原作 サイモン・ストーン翻案・演出 2017年8月31日 ヤング・ヴィック劇場(ロンドン)収録 公式サイトはこちら 4日まで TOHOシネマズ日本橋ほか
 
7月の同プロジェクト5周年記念のシンポジウムが嬉しいきっかけになり、2015年『スカイライト』以来久々の鑑賞となった。月一度の勉強会で、ちょうどロルカの作品を連続して取り上げていることも何かのご縁であろう。

 スペインの詩人であり劇作家であるロルカが1934年に発表した『イェルマ』は、岩波文庫の紹介文に「アンダルリーアという土地の霊と因習がもたらす宿命的な業に苦悩しながも、他ならぬその苦悩によって浄化されている女たちを描いて、<悲劇>の情念がいま蘇る」と記されている。特殊な土地柄と、その地に縛られ因習に支配され、もがき苦しむ劇中の人々の様相は、『ベルナルダ・アルバの家』でも『血の婚礼』でも、特に女性の登場人物について、執拗といってもよいほどの筆致で描かれており、今のわたしたちには俄かに実感しづらい。

 さらに詩人でもあるロルカの作品は、日常会話のやりとりだけでなく、歌や朗誦、舞踏の場面が少なくない。実はまだロルカ作品の舞台上演を一度も見たことがなく、ドラマの会でも、その場面のリーディングはまことにやりづらいのだ。

 舞台の設定を現代に置き換えたり、別の場所にすることは珍しくない。しかしサイモン・ストーンは、ロルカの原作を新作戯曲と見まごうほど大胆に切り開き、鮮やかに構築してみせた。換骨奪胎とまとめるには抵抗を感じる。舞台を現代のロンドンに置き換え、主人公の「彼女」(her)は編集者なのだろうか、ペンネームでブログを書き、パートナーのジョンも成功したビジネスマンである。新しく家を購入したのを契機に、彼女は子どもを産みたいと切り出す。突然の主張に戸惑いながらもジョンは同意するが、物語はここから数年間にわたる彼女とジョン、周囲の人々を巻き込んで混乱し、悲劇になだれ込む様相を情け容赦なく描いてゆく。

 舞台を挟んで、客席は対面式に設置されている。さらに舞台はガラス張りになっている。人物たちはガラスケースに閉じ込められた小さな生き物のごとく、距離じたいは近いにも関わらず、透明なガラスに遮られることで、観客はまことにもどかしい感覚に襲われるのである。

 原作はイェルマという女性が不妊に悩み、怪しげな呪術に頼ったり、かつて心を寄せ合った男性との関係を噂され、夫やその姉たちの監視下に置かれるうちに心が壊れてゆき、夫を手に掛ける物語である。サイモン・ストーンによるこの舞台では、設定が現代ゆえ、妻がブログに夫婦間のことまであけすけに書くことを夫が責めたり、不妊治療や養子縁組といった科学的、近代的な手段についても議論が戦わされる。

 つまり原作の時代に比べれば、子どもを持つためのさまざまな方法、選択肢があるにも関わらず、「彼女」とジョンは衝突し、行き詰まり、不妊治療の費用のために借金を重ねて破局に至る。子どもが欲しいのに授からない苦悩は、現代においても完全に解決されてはいないのだ。主人公は最後まで名前を呼ばれず、「彼女」(her)であることは、彼女はいつの時代でもどこの国にでも存在し、自分自身を切り刻むように激しく苦悩し、彼女によって傷つく人々もまた生々しい存在であることを示す。

 前半は「ロルカはどこへ行ったんだ?」と困惑しつつの鑑賞であったが、「もしかするとロルカは消してしまったほうが」と体制を立て直した後半あたりから俄然集中力が高まった。主演のビリー・パイパーはじめ、俳優陣の演技は瞬発力があり、熱演には違いないのだが、暑苦しい押しつけがましさがないのがいい。時に嫌悪感すら覚える「彼女」であるのに、カーテンコールでのさっぱりした表情にはゆとりが感じられる。

 この日スクリーンを通してイギリスの舞台から受け取ったことは、今実感していることよりずっと大きく深く、豊かなものではないかと思う。いつどのような形で結びつくかはわからないが、まずはナショナル・シアターライブ次回作『フォーリーズ』への足掛かりになったのは確かである。 

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映画『ヒトラーへの285枚の葉書』

2017-07-20 | 映画

* ハンス・ファラダ原作『ベルリンに一人死す』 ヴァンサン・ペレーズ脚本・監督 公式サイトはこちら 独・仏・英製作 103分 新宿武蔵野館、ヒューマントラスト有楽町ほか全国順次公開 上映中の作品ですから、鑑賞のご予定のある方はご注意くださいね。
 ナチスドイツがフランスに勝利したニュースに沸き立つ1940年6月のベルリン。軍需工場で働くオットー(ブレンダン・グリーソン)と、ナチ党の国家社会主義女性同盟のメンバーであるアンナ(エマ・トンプソン)の質素な暮らしを、一人息子ハンス戦死の知らせが襲う。「あなたと戦争と総統のせいだ」アンナは知らせの手紙を破り捨て、夫婦のあいだに冷たい風が吹きはじめる。やがてオットーはペンを取り、字体を変えて「私の息子は殺された。あなたの息子も殺されるだろう」と葉書に記し、大通りのビルの階段にそっと置く。アンナも夫の意志を理解し、ともに行動をはじめる。
「(ヒトラーに)加担するな」「このカードを回せ」たった1枚の葉書に込めたナチス政権への異議申し立て、独裁者ヒトラーへの反逆であり、権力に服従する市民への警告、共感を求めるレジスタンスである。政治家でも知識人でもない、ごく普通の労働者階級の夫婦だけによるレジスタンスは2年あまり続き、葉書は200枚を超えた。

 ゲシュタポの記録文書を基に(つまり実話)書き上げた原作は、1947年に初版、2009年に英訳されたことで世界的なベストセラーになったとのこと。映画化を実現したペレーズ監督は、みずからも俳優であり、ドイツ人の父、スペイン人の母をもち、それぞれの家系に権力のために命を落とした祖先をもつ。当初はドイツ語での製作の予定であったが資金に苦しみ、紆余曲折を経て独仏英の合同製作となった。

 いささか戸惑う箇所は少なからずある。オットーとアンナ夫妻が、それまでナチスに対してどのような意識を持っていたのかは描かれていない。何かしらあったからこそ、息子の戦死の知らせに「あなたと戦争と総統のせいだ」というアンナの叫びになるのだろうから。また怒りと悲しみをぶつける手段として、まったく躊躇や試行錯誤のプロセスなくして葉書を書く行為がはじまること、いよいよ行為がゲシュタポの知るところになる大詰めにおいて、隠蔽や逃亡をまったく考えないかのような夫妻のありようなど、実はもの足りない思いもある。
 第一、邦題の「ヒトラーへの~」は、映画の内容からして適切ではない。

 しかし足がつかないように複数の電車を乗り継いで移動したり、追っ手を撒くために一芝居打ったりなど、徒党を組まず夫婦だけで見事な連繋プレーで捜査のプロをめくらます様相など、全編を静かな緊張が支配し、見る者の目を引きつけて離さない。さらに本作で重要なのは、ダニエル・ブリュールが演じたエッシャリヒ警部の複雑な内面だ。犯人を挙げようと躍起になるが、ナチス親衛隊から屈辱的な仕打ちを受け、虚しさに襲われる。回収した葉書は267枚。手にした市民が警察に提出したのである。しかし夫妻が配布したのは285枚だと言う。市民の手に渡ったのはわずか18枚だったのだ。地味すぎる抵抗運動。命がけの行為に、どれほどの効果があったのか。

 夫妻の葉書は、最後にエッシャリヒ警部にある行動を起こさせる。彼の行為には、それこそどんな効果があるかと考えるとやりきれない。しかしベルリンの町に舞い落ちる夥しい葉書に、ふと井上ひさしの『イーハトーボの劇列車』の終幕、この世から旅立つ人々を見送る車掌が「思い残し切符」を万感の思い込め、客席に向かって力いっぱい撒く場面を思い起こした。

 愚直なまでに葉書を書き続けた夫妻は、警部の最期を知らない。しかし敵対する相手の心を確実に変容させたのである。

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映画『波伝谷に生きる人びと』

2015-08-07 | 映画

*我妻和樹監督・撮影・編集 公式サイトはこちら 東中野ポレポレ 10時10分~モーニングショー 21日まで
 宮城県南三陸の海沿いにある80戸あまりの小さな漁村が映画の舞台、波伝谷(はでんや)である。人びとは牡蠣やわかめ、ホヤ貝などの養殖業と、丘陵地での農業や養蚕業などを営み、そこには「結い」や「契約講」というシステム、旧家と新興とのちがいなどがあり、独特のコミュニティを構成している。
 我妻は東北学院大学で民俗学を学び、波伝谷での民俗調査に参加し、大学卒業後は個人でこの地での映画製作をはじめた。2008年3月のことである。

 モーニングショーは予告編なく、本編からはじまった。スクリーンには2011年3月11日の字幕が浮かぶ。映像はなく、大きな地震を知らせる放送、やがて大津波警報が出て、「早く逃げろ!」というせっぱ詰まった声、必死で高台へ駆けあがろうとしているのか、激しい息づかいが聞こえる(我妻はここで車、撮影用テープ、ビデオカメラ数台を津波によって失う)。津波や大震災で壊滅的な被害を受けた南三陸の映像がはじまるかと身構えると、カメラは不意に2008年3月の波伝谷の日々を映しはじめた。

 四季を通じて波伝谷で行われるさまざまな行事や、関わる人びとの労苦、複雑な人間関係などの様相は、豊かな自然のなかで、人びとがしっかりとつながって幸せに暮らしているという安易な幻想をやんわりと退ける。少子高齢化は波伝谷にも影響を及ぼしており、古くからの伝統行事をどう継承していくか、若者を村にどうつなぎとめるかなど、悩みは深い。

 本作はカテゴライズすれば、まちがいなくドキュメンタリー映画なのだが、風変わりなのは作り手である我妻が、被写体である波伝谷の人びとと常にいっしょにいることである。我妻はカメラを回しながら人びとに問いかけ、人びとがそれに応える。つまり監督みずからが撮影もインタヴューも行っているのである。祭のときなど、「我妻くんも飲んでいって」と酒が差しだされたり、「こんなとこ撮らないでくれよ」と冗談めかして言われたりなど、観客は波伝谷の人びとをみると同時に、人びとに迫り、寄り添う我妻監督その人を見つめることになるのである。

 宮城県南三陸が舞台になった映画と聞いただけで、受け手の前には即座に東日本大震災が立ちはだかる。これはもう、問答無用の条件反射のようなものであり、もはや311なしに東北を考えること、語ることはできないのではないかと思われるほどである。いや東北に限定できない。この国ぜんたいを。
 本作は、冒頭に震災当日のことがわずかに映され、そこから2時間あまり、2008年3月からの日々が示されるのである。人びとも撮影している監督も、大震災がやってくることを知らずに日々を生きている。しかしみているわたしたちは、やがて襲い来る「あの日」を考えずにはいられない。かりに大震災が起こらなかったとしたら、この映画がどのようなものになったのか、そしてわたしたちはそれをどう受け止めたのか。だめだ、想像できない。

 映画は2010年の晩秋、撮影を終えて我妻が村を去る場面で幕を閉じかけるが、震災の数日後、再び村を去るところで終わる。観客は、その後の村がどうなったのか、我妻が村とどう関わり、映画製作の仕事とどう向き合うのかを考えざるを得ない。映画はいったん幕を閉じるが、むしろそこから始まり、いまもなお続いていると言ってよいのではないだろうか。

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National Thetre Live in Japan 2015より『Skylight』(スカイライト)

2015-07-07 | 映画

*デヴィッド・ヘアー作 スティーブン・ダルドリー演出 FBはこちら
 これまでNational Thetre Live in Japan 2015では、『ザ・オーディエンス』、『欲望という名の電車』、『二十日鼠と人間』など、世界最高峰とされるロイヤル・ナショナル・シアターが、世界で上演された舞台の中から特に選りすぐりの作品を映画館で鑑賞するもの。今年からはロンドンだけでなく、ニューヨークの舞台も加わった。これから先は『宝島』や『オセロ』、『リア王』などの重量級が目白押しである。以前からネットの口コミで「すごくいい!」という情報を得てはいたが、やっと足を運ぶことに。

 『スカイライト』は、1997年緒形拳と若村麻由美が共演した舞台上演をテレビで放送したもの(演出はジャイルス・ブロック)、2001年と2002年、佐藤正隆事務所公演で、先日急逝した高瀬久男が演出した有川博、富本牧子版をみたことがある。とくに後者は『リタの教育』と演出、俳優が同じ座組みということもあり、大変な期待をもって観劇に臨んだ。

 細部まで丁寧に作りこんだ舞台美術であり、誠実な俳優の演技であることはまちがいない。にもかかわらず自分はどうしても舞台に集中できなかった。かつて恋人同士だった男女の互いに譲らぬ主張が飛び交う議論のドラマである。その内容についていけなかったのか、翻訳劇の台詞がしっくりこなかったのか。緒形&若村版はビデオに録画したので、何度か繰り返してみた。それでもなぜ彼らがここまで激しく言い争うのか、いったい何が問題なのかが遂にわからなかった。まことに身も蓋もない話である。

 そのようないきさつがあるから、今回の映画には警戒しつつ、「今度こそ」の気合いで臨んだ。話の流れはわかっているのだから、もっと手ごたえがあるのではないか?と、最初のうちは緊張して前のめりになっているのだが、いつのまにか集中が途切れ、ふりはらってもふりはらっても眠気が襲ってくる。ふたりの気持ちを知りたい、この作品を理解したいと心底願っているのに、からだがついてこないのだ。寝不足や疲れのためではない、劇の空気感とでも言うのか。作品の核、根幹を成すものに対して、拒否反応とは言わないまでも、「苦手なんですよ」と控えめにからだが訴えているらしい。これはどうすればよいのか。

 背面に巨大なアパートの窓々がそびえたち、そのなかのたったひとつの小さな世界であるキーラの部屋との対比や、場面に応じて外通路がむき出しになる趣向、何より俳優ふたりの緩急自由自在の演技に魅了された。本作にはキーラとトムのほかに、トムの息子のエドワードが冒頭と終幕に登場する。静かに暮らしていたキーラの部屋に過去の恋愛を持ち込み、父とキーラのあいだにどんなやりとりがあったのかはまったく知らないままに、キーラが臨んだ「最高の朝食」を持ち込んで、やりきれない物語の終幕に、これから新しい一日がはじまる朝の情景を観客に示すのである。

 演出の方向性や、俳優の演技術などについて、これはもう圧倒的なものであり、かんたんに太刀打ちできるものではないだろう。映画のパンフレット掲載の気鋭の演出家小川絵梨子のインタヴュー(聞き手/川添史子)には、「どう演出したらこの密度の高い舞台ができるのか、想像もつかない。それがわからないことに落ち込む」、「小川さんがこの作品を演出する日が来るでしょうか?」という問いにも、「これを観てしまったら無理です」と記されている。

 演劇の作り手が打ちのめされるのも無理はない。だが自分にとって衝撃だったのは、客席の反応である。とにかくよく笑うのだ。下北沢のOFFOFFシアターはくすりともしなかったのに。緒形&若村版のパルコ劇場も鎮まりかえっていたと記憶する。台詞のあやや、それを発する俳優のちょっとしたしぐさや表情などが笑いを誘うのだろうが、映画館の観客は下北沢同様、静かなものであった。どうしてだろう。俳優の発する台詞の長さに比べて、どうみても日本語の字幕が少ないという印象は否めず、ならば翻訳の問題なのか。それにしてもかの国では爆笑に継ぐ爆笑であるのに、同じものが日本ではまったくといっていいほど笑いに結びつかないというのは、なぜだろう。

 さらにカーテンコールの熱気である。俳優の健闘を讃える拍手と歓声が、自分には、「わたしたちはこんなに豊かな演劇を観客としてともに創造しているのだ」と誇らしげに主張しているように聞こえた。何がちがい、何が足らないのだろう。小川絵梨子さんとはちがう立場で、自分も落ち込む。しかしといって、何でもあちらが上で、それを目指さねばならないということもないと思う。

 上映期間が短いのが残念だ。通常の映画とは性質が異なるとはいえ、3,000円はやや割高な印象がある。六本木の仇を池袋で果たすべく、8月のシネリーブル池袋での上演に再挑戦するか、本気で検討している。ちなみにすでに上映終了した『ザ・オーディエンス』も7月25日から同じシネリーブル池袋で上映される由。これからNTLは観劇と同じくらい情報に注意し、しっかり予定に組み込もうと決意したのであった。

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