因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

文学座公演『オセロー』

2024-07-05 | 舞台
*ウィリアム・シェイクスピア作 小田島雄志訳 鵜山仁演出 公式サイトはこちら 紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA 7日終了 可児市文化創造センター、長岡リリックホール巡演 
 蜷川幸雄演出の同作品のblog記事→こちら(2007年10月)/昨年観劇した鵜山仁演出のシェイクスピア作品のblog記事→『夏の夜の夢』『終わりよければすべてよし』&『尺には尺を』
 
 NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』は身内や同士が次々と謀殺されていく陰惨な展開の中で、横田栄司が演じる和田義盛は剛胆な鎌倉武士であるが、見当外れだったりピントがずれていたりなどの言動が微笑ましく、「癒し系キャラ」として次第に注目と人気が高まっていった。木曽義仲の妻・巴御前に武人として惚れ込み、義仲が討ち死にしたときは、側女ではなく「家人になってくれ」と懇願。頑なだった巴が次第に心を解き、喧嘩しながらも仲むつまじく暮らす様子や、政に思い悩む三代将軍源実朝が和田の館をたびたび訪れては笑顔を見せる場面では、こちらまで心が温かくなった。それだけに裏切り者として壮絶な最期を遂げたことは衝撃であり、悲しみであった。

 その横田が約2年間の病気休養から復帰し、みごとタイトルロールを演じた。堂々たる体躯に立派な顔立ち、朗々とした台詞など、これぞ舞台俳優の風格であるが、時おりふと可愛らしさやおかしみ(「チャーミング」、「おちゃめ」という言葉は使いたくない)がのぞくところは、まさに「和田殿的」、SNS風に言えば「和田殿み」であろう。客席にもそれを待っているところが確かにあり、大いに沸く。

 今回の舞台成果には、イアーゴーを演じた浅野雅博の力も大きい。劇団の中堅から今やベテランの域に達するキャリアだが、青年の面影の残る色白の上品な顔立ちから今回の配役は意外であったが、いわゆる「悪役」をあざとくなく演じて、あれだけ巧妙狡猾であくどい所業を重ねながら下品に見えない。公演チラシのイアーゴーの虚無的な表情は物語の終幕、すべてを暴かれて縄をかけられた場面のものではないだろうか。悪役らしからぬ人が陥る嫉妬と憎悪の闇は、観る者に「もしかしたら自分にも似たようなことが?」と不安と恐怖を覚えさせる。昨年観劇したMSPラボ公演『新ハムレット』の影響もあるが、いつか浅野雅博による『ハムレット』のクローディアスを観てみたい。

 増岡裕子のエミリアは、デズデモーナ(sara/美しいだけでなく聡明な女性を造形。何より彼女がオセローに惚れているのがわかる)の忠実な侍女を越えて、シスターフッドのごとく親密な関係性を持つ役柄として造形されている。増岡は思い切りよくエネルギッシュに自分をぶつけていくところが魅力的だが、年を重ねて質実な演技も期待できる(先日の『デカローグ』に出演した津田真澄を思い出した)。

 純愛一途(それゆえに破滅するのだが)のオセローとデズデモーナに比べて、イアーゴー(かなりの色男と見た)とエミリアの夫婦は、互いに悪態を吐きながらも、どこかで惚れ合っていてほしいとこちらに思わせるところもあり、さまざまな作り方、見せ方の可能性があるだろう。

 物語後半、舞台上でイアーゴーとキャシオー(上川路啓志)の会話をオセローがデズデモーナの不貞と思い込んで悶絶する場面、オセローは客席通路に登場し、観客に同意を求めるような演技をしたり、空いた席に座ったりする。客席は大いに沸くが同時に引いてもおり、ここまでする必要があるかは疑問である。前述の「和田殿み」は極力封じ、観客受けを狙わず、あくまで「オセロー」としてのおかしみ、悲しさを感じ取りたいのだ。横田栄司はそれができる俳優であると思う。
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