因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

パラドックス定数第42項『Nf3Nf6』 

2018-08-25 | 舞台

*シアター風姿花伝「プロミシングカンパニー」パラドックス定数オーソドックス 野木萌葱作・演出 公式サイトはこちら シアター風姿花伝 26日まで1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20,21,22,23,24,25,26
 本作の観劇も7年ぶりである。しかし前作の『5seconds』と決定的に異なるのは、観劇(11)が2011年3月末、東日本大震災後、余震や計画停電などの影響で、首都圏がこれまで体験したことのないほど
暗く寒く不安定だったことだ。芝居を見ることに対して、強烈な後ろめたさや罪悪感に悩んだことも忘れられない。東北を中心に大変な状況であったにも関わらず、それでも芝居が見たかった。パラドックス定数のものならなおさら、上演中止になっていないのなら、どうしても見たかったのだ。

 日常生活はどうにか保っていたものの、やはりいつもとは相当に無理をしていたのであろうか、本作も舞台について記憶があやふやだ。いや言い訳なのだけれど。

 劇場入って左奥に演技エリアがあり、客席はそこを二面から見る形に設定されている。左の壁にテーブルと椅子2脚。テーブルの上にはチェス盤が置かれている。チェス盤が正面に見える位置に席を取った。

 登場するのはナチスの将校(西原誠吾)とユダヤ人で収容所に捉われている数学者(植村宏司)のふたりだけである。しかし彼らがかつて同じ大学で数学者として腕を競い合い、共同で論文を執筆するほどの間柄、つまり同業のライバルであり、互いに信頼し尊敬しあう同志であったこと、やがて戦争がはじまり、ひとりはナチスの軍人となり、もう一人は連合国側で暗号解読に携わっていたこと、その類まれなる才能によって暗号を見事に解読しながら、敵国の彼を死なせないために解読内容を漏らしていたこと、互いにその兄弟を殺されていたことなど、両者の関係や関わる事象はまことに複雑である。1回の観劇ではほとんど把握(記憶)できていなかったことを、今日の観劇で思い知らされた。正直なところ、前回自分はいったい何を見ていたのかと呆れるほどで、それくらい2度めの今日は舞台の緊張感に乗って集中することができたのである。

 パラドックス定数では極めて珍しく、外国人が登場する作品だ。だがふたりが最後まで名前を呼び合わずに会話が進行する作劇もあり、日本人が外国人を演じる不自然な面はほとんど感じられず、よき交わりを作っていた人々が、戦争によって関係を破壊されたことの悲しみや絶望が、いっそう身近に迫ってくるものであった。

 今は8月。戦争に関するドキュメンタリーやドラマ、映画が放送される季節である。戦場の悲惨な映像や、過酷な体験をされた方々の悲痛な声は、これ以上ないほどの重苦しさを持ってこちらに迫ってくる。それに対してフィクションはどのような表現ができるのか。2週間前に観劇した『その頬、熱線に焼かれ』のもやもやした感覚が蘇ってくる。

 『Nf3Nf6』は反戦の舞台であると思う。将校と数学者は戦争はいやだ、戦争がなければとは、ひと言も言わない。心情を吐露した将校はチェス盤を前にしてしばしまどろむ。その様子を確かめて、数学者は部屋を出る。ふたりが再び会うことはできるだろうか。まったく予想できないばかりか、「会えるといいなあ」と希望を抱くことすらできない。ふたりの悲しみと絶望を少しは共有できたのだろうか。手ごたえのある観劇であったことを喜びながら、自分はまた不安になる。この不安を今回の収穫としたい。

コメント

パラドックス定数第41項『5secons』 

2018-08-21 | 舞台

*シアター風姿花伝「プロミシングカンパニー」パラドックス定数オーソドックス 野木萌葱作・演出 公式サイトはこちら シアター風姿花伝 21日で終了1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20,21,22,23,24,25
 1999年の初演から、2004年、2011年と再演を重ね、今回で4演目となる本作を、自分は2011年3月10日、東日本大震災の前日に観劇した。上記リンクの10である。大地震と津波、そして福島第一原発事故によって、これまでに体験したことのない混乱の日々が始まることなど、まったく想像もしなかった日のことだ。このときは、演劇の上演に使うには少々特殊な会場であったせいだろう、その雰囲気に心身を慣らすのに思いのほかエネルギーを消費したらしく、話の大筋はともかく、舞台の細部についてははっきりした記憶が残っていない。

 1982年2月に起こった日本航空350便羽田沖墜落事故を題材に、同機の機長(小野ゆたか)と、起訴された彼につけられた弁護士(井内勇希)の4度にわたる接見が描かれる。中央の演技エリアにはテーブルを挟んで椅子が2脚、客席はそれを三面から囲む形である。舞台奥(客席が設置されていない面)に、同じようにテーブルと椅子2脚があり、俳優の楽屋ほどではないが、テーブルには水や目薬などが置かれている。1場終わるごとに、機長と弁護士役の俳優は後方の第2エリアに下がり、水を飲んだり目薬を差したりして、次の場に臨む。といって俳優は完全に休んでいるわけではなく、役の「気」を濃厚に漂わせつつのひと息である。いわば緩と急であり、本舞台でのやりとりからしばし離れ、役の続きとも、素の俳優ともつかない境界線上の状態を見せることによって、精神のバランスを崩した人の心の奥底を、より客観的に示そうとする意図とも考えられる。

 機長の精神がどのような状態なのか、弁護士はそれを見極めようと懸命になる。両者のこの攻防が本作の軸である。機長役の小野ゆたかは、どこまで本気なのか判断しかねる様相、突如として、あるいは徐々に変容していくところが不気味であったり、ユーモラスであったり、それはすなわち井内勇希演じる弁護士の困惑や躊躇、怒りとなって表出するわけで、ふたりの俳優の持ち味が活かされ、見ごたえのある会話劇(そうとうにずれてはいるが)となった。

 観劇したのは千穐楽。カーテンコールの拍手が長く続いたため、「ダブルコールか」と身を乗り出したが、主宰の野木が登場し「1回なんです」と潔く締めくくった。7年前の頼りない観劇の印象を補って、確かな手ごたえを得ることができ、まだ猛暑のほてりの残る目白通りを嬉しく帰路に着いた。

コメント

MSPシェイクスピア・キャラバン第3回公演『フォーティンブラス』

2018-08-18 | 舞台

*横内謙介作 MSP脚色 新井ひかる演出 公式サイトはこちら 19日まで 高円寺アトリエファンファーレ 正しくは、MSPシェイクスピア・キャラバン第3回公演 並行世界(よこみち)ハムレットプロジェクトその2である。

 同ユニットの公演は、いまや8月の風物詩として自分の感覚に定着しつつある1,2。演出は、前述の並行世界ハムレットその1『新ハムレット』と同じく新井ひかるである。6月の演劇ユニット・Triglavの旗揚げ公演ではハロルド・ピンターに挑戦するなど、多くの作品をきちんと読み込み、舞台美術面は大胆に、俳優の造形、演技に対しては慎重繊細な手つきで、一つひとつの舞台を誠実に作り上げている。

 本作は劇作家・横内謙介が主宰する劇団で1990年に初演され、1995年には草彅剛、井ノ原快彦共演の上演もある。当方は本日が初見。「MSP脚色」と記されてある通り、横内謙介の原作戯曲を、MSP風に脚色しての上演と認識した。

 どこかの古い劇場で、シェイクスピアの『ハムレット』を上演中の座組というバックステージ物の設定をまず示す。ハムレット役の大スターが横暴を極め、オフィーリア役はこれが初舞台のタレント、墓掘り役は元アングラ俳優、古株の女優は台詞もなく、ガートルード兼演出家は大スターに気兼ねし通し。オズリック役の若手はやる気が空回りし、フォーティンブラス役は愚痴が多い。友情出演のレアティーズ役者はすべてに勘違い気味であり、ろくな座組ではない。ここまでなら既視感がある。ひどい座組が演劇への愛によって互いに歩み寄り、力を合わせて舞台を成功させんと奮闘する様相が想像できる。と、配役表を見ると「フォーティンブラスの父の亡霊」と書かれており、これが本作を一筋縄ではゆかない、まことに厄介な話にしている。作品中出番はわずか2回、それも最初はただ通り過ぎるだけ、デンマーク王子ハムレットの宿敵とみなされながら、対面し対決する場面はなく、大方の話は終わった後に登場して最後の台詞を発する。それがフォーティンブラスだ。しかしながら決して単なる脇役ではなく、気を抜いた演技などしようものなら、それまで3時間近く作り上げてきた『ハムレット』をぶち壊しかねない重い責任がある。出番が少ないだけに、演じる俳優として舞台裏でコンディションを整え、幕引きを立派に務めねばならない。大変な難役なのだ。

 そのフォーティンブラスの父の亡霊が登場するのだ。ハムレットの父の亡霊ではない。ならばほんのちょい役のフォーティンブラスに光をあてた芝居か、と思いきや物語はそこからオズリック役の俳優へと軸足が揺らぐ。その揺らぎこそ本作の肝であり、演劇的仕掛けを越えて、作者が伝えたいことではなかろうか。

 舞台に未練を残し、死後も霊魂となって劇場に巣食う俳優といえば、清水邦夫の『楽屋』が即座に思い浮かぶ。『フォーティンブラス』はそのあたりも視野に入れつつ、亡霊と現実の俳優たちとの絡みも、あっけらかんと言ってもよいほどの濃度で見せて、父に対する息子の思慕、『ハムレット』の先王と王子の関係性を、脇役専科だった父に対して憧憬と軽蔑を併せ持ちながら、同じ俳優という仕事に就いた息子の屈託に反映させる。バックステージ物とひとくくりには到底できない複雑な構成を持ち、舞台に憑りつかれてしまった人々の心の奥底にまで容赦なく切り込む作品なのだ。

 終盤に進むにつれて、亡霊と生きた人々の絡みがややくどく感じられるところ、亡霊と古株女優との関係性など、説明的になった印象はある。ことばを尽くし、観客に対してできるだけわかりやすくするための劇作家の苦心であろうが、「オチ」を示さずとも、余韻として受け止めさせてほしい気もする。

 今回は通常のアンケートのほかに、別用紙で「客席設定についてのアンケート」も実施されており、劇場内の第一印象から、その座席を選んだ理由、開演前の待ち時間から本番、終演後にいたるまで質問が重ねられている。ここまで質問が提示されると却って回答しづらくもあり、ここはもっと「今回の舞台と座席設定について、感じたことをご自由に」程度でよかったのではないか。いや、これも今後の活動を見据えた意欲の現れなのだが。

 MSPインディーズは、公演が終わると俳優・スタッフともにそれぞれの活動の場所へに戻ってゆく。より自主的で縛りの緩やかな交わりであるからこそ、自由な創作が可能なユニットと言えよう。今後どのように継続していくのか。たとえば演出の新井ひかるさんだが、劇空間の制約のあれこれを逆手にとって活かす手腕や、手ごわい戯曲への柔軟な姿勢はまことに好ましい。日本演出家協会の若手演出家コンクールや、MITAKA ”Next” Selection、シアタートラム・ネクストジェネレーションなど、より多くの人の目に触れる場での活動につながることを願っている。

コメント

On7リバイバル公演『その頬、熱線に焼かれ』

2018-08-10 | 日記

*古川健作 日高雄介演出(いずれも劇団チョコレートケーキ1,2,3,4,5,6,7,8,9,10公式サイトはこちら 亀戸文化センター・カメリアホールでプレヴュー公演ののち、北海道の函館、札幌、旭川を経て東京芸術劇場シアターウェストは12日まで 15,16日は広島・JMSアステールプラザ多目的スタジオ

 ユニット名は「オンナナ」と読む。いわゆる新劇系の劇団に所属する同世代の女優たち7人が2013年に結成した。自分は今回がようやく初見である。演目は3年前の初演が好評を博して再演の運びとなったもので、見逃したことを残念に思っていたこともあり、嬉しい初対面となった。メンバーのひとり宮山知衣が体調不良で降板し、文学座の下池沙知がゲスト出演となった。

 1956年、アメリカはニューヨーク、マウント・サイナイ病院に、1945年8月6日に広島に投下された原子爆弾によって顔や手足に惨いケロイドを負った25人の若い女性たちが手術のために訪れている。彼女たちは「ヒロシマガールズ」と呼ばれ、そのなかのひとり中村智子が、何らかの原因で手術後に亡くなった。女性たちは嘆き悲しみ、激しく動揺し、からだだけでなく、心に追った深い傷について語りはじめる。

 「ヒロシマガールズ」の前は「原爆乙女」と呼ばれており、その名が嫌だったこと、同じようにケロイドを負っているのに、原爆症を発症しているためにアメリカでの手術メンバーから外された友人のこと、地元の広島のほうが生きづらい現実のことなど、女性たちの苦悩は決してひといろではない様相が炙りだされ、曝けだされる。友の急死に動揺し、怯える敏子(尾身美詞/青年座)が、「それでもうちは生きていたい」と笑顔を見せるまでが物語の軸であり、そこに7人のそれぞれの思いが絡む会話、議論の劇である。時折現れる亡くなった智子が、相手の背中を優しくさするような柔らかさでときに対立し、孤立する女性たちを慰め、つなぐ。

 歴史的な事実を参考にしたフィクションであり、7人の女性たちにモデルがあるわけではないとのこと。しかしOn7メンバーは多くの人に会い、話を聞き、広島への取材旅行も行い、本作へのただならぬ情熱を感じさせる。そのひとつにOn7は2015年7月、ヒロシマガールズのひとりである笹森恵子(しげこ)さんと対面し、作者の古川健とともに多くの話を伺ったとのこと。この方のお名前とお顔に見覚えがあり、記憶をたどると、1990年放送のNHKスペシャルのドキュメンタリードラマ「マミーの顔が僕は好きだ~母と子のヒロシマ」であった。

 精いっぱい誠実に心を尽くして臨む作り手の真心が伝わってくるのだが、自分にはことばにしがたい違和感が拭えず、残念な観劇となった。原因のひとつとして考えられるのは、女性たちが亡くなった智子のことを言う際、「彼女」ということばを使う点である。物語の舞台は昭和30年代であり、アメリカに渡ってドクターや多くのアメリカ人に接しているのだから、こちらが思うより自然な使い方なのかもしれないが、7人の女優たちの広島ことばは相当に稽古を積んでおられることが察せられるだけに、そこから浮いて聞こえる印象は否めない。

 渾身の一作であり、多くの人の心を揺さぶるであろう舞台に、なぜ自分は集中できなかったのか。この夏、予想外の課題となった。

コメント

劇団フライングステージ第44回公演『お茶と同情 Tea and Sympathy』

2018-08-09 | 舞台

* 関根信一作・演出 公式サイトはこちら1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20) 下北沢・OFFOFF劇場 12日まで
 今年の新作の題名は、同名の舞台作品を原作にしたアメリカ映画(1957年公開)から取ったとのこと。ある高校にやってきた教育実習生の男性が、実習を前に自分はゲイであると生徒たちにミングアウトしたいと教師たちに告げた。さっぱりと受けとめるものあり、激しく動揺して生徒への悪影響を言い立てるものあり。そこから生徒たち、友人たちを巻き込んでさまざまにひろがってゆくセクシュアリティをめぐる物語だ。

 物語の堅固な構築の上に多彩な人物を配置し、絶妙な台詞運びで物語を展開させる関根の作・演出は、ますます脂が乗った印象だ。過去作品の人物(関根演じるレズビアンマザーの中野友理)をひとり置き、その周辺の人物については台詞のなかだけに登場させることで、抑制による効果を上げている。友里の息子の雄太が高校生になったんだ、元気にしているかなと、2016年上演の『Family,Familiar 家族、かぞく』で雄太を演じた中嶌聡の渋い学生服すがたが鮮やかに蘇り、しみじみと懐かしい。ひとつの劇団を何年も続けて見ることの幸せである。

 出演者のひとりが体調不良で降板したこともあり、今回の上演にはさまざまな困難があったと察するが、それとわかる綻びは全く感じられなかった。互いの信頼関係が強固なることを証左であろう。

 実習生のカミングアウトに大反対する副校長が、登校する生徒への声かけのために、朝7時30分に登校の指示を出す。そうするために実習生とその指導教官は前日遅くまで残業しなくてはならず、「学校のブラック企業化」が内部にも原因があることが示される。自分もこうやってきたのだからと疑いを持たず、相手に対しても同じ働き方を当然のように強いるところなど、学校という職場、教師という職業の内実を印象づける。
頑なで、聞く耳を持たない人物の典型のように造形されているが、いろいろな出来事を通して、副校長の心の向きが次第に変容する。彼が家庭のことを語る場面では、台詞だけでなく何らかのシーンによって知りたい。また実習生に対して、あからさまに反抗的な振る舞いをする男子生徒は、ほんとうはどんな少年なのか。演じている岸本啓孝をもっと演劇的に活かすことも可能ではないか。

 5月の関根信一短編戯曲リーディング公演『アナグラム~ユルスナールの恋~』 を観劇した際、作品のなかに、人間が「生きる」ことの賛歌だけでなく、誰も逃れることができない「死」が密やかに影を落としているという印象を持った。今回の新作も同様で、「自分たちのことを知ってほしい」という願い、自分自身がよりよく生きたいという願いが、「伝えておきたい」という「継承」への希求に結びつきはじめている。

コメント