因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

因幡屋通信57号完成

2017-09-30 | お知らせ

 おかげさまで、因幡屋通信が57号を重ねることができ、9月30日(土)設置先各劇場、ギャラリーさまへ発送いたしました。お読みくださる方々、設置や配布にご協力いただいている皆さま、ほんとうにありがとうございます。
 今回は、
「あなたがハンナになる日」と題しまして、ジョン・レタラック作 鈴木アツト演出の『ハンナとハンナ』リーディング公演について書かせていただきました。
 観劇後のブログ記事はこちらです。
 
入稿直後に、麻生太郎副首相が講演会において、「北朝鮮から難民が押し寄せる可能性があり、難民が武装していたら警察か自衛隊か、射殺するのか」云々の発言をし、物議をかもしました。舞台を見続ける日々において、社会情勢は刻々と変化し、さまざまな発言が飛び交います。それらをすべて知り、理解し、なおかつ原稿に反映することは非常に困難ですが、ひとつの舞台をより深く知ろう、考えようとすればするほど、舞台の背景や作り手側の意図や願いがどこにあるか、周辺の事情、関連事項の知識など多くを考えなければならないことに気づきます。

 えびす組劇場見聞録は、劇団民藝稽古場公演『負傷者16人』を取り上げました。2012年に観劇した新国立劇場版を含め、観劇がやめられない日々の暮しを考えたものです。観劇後のブログ記事はこちら。合わせてよろしくお願いいたします。

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劇団民藝公演『33の変奏曲』

2017-09-27 | 舞台

*モイゼス・カウフマン作 丹野郁弓翻訳・演出 公式サイトはこちら 紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA 10月8日まで
 現在のニューヨーク、音楽理論学者キャサリンは難病と闘いながら研究にいそしむ。一方で、19世紀初頭のウィーンではやはり病に冒されたベートーベンが変奏曲の作曲に取り組んでいる。現在と過去が行き来しながら、音楽を人生の宝として与えられた人々の物語。1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20,21,22,23,24,25,26,27,28,29

 エンタメサイトSPICEに、訳・演出の丹野郁弓と主演の樫山文枝のインタヴューが掲載されている。作品についても詳しく語られており、観劇の大きな一助となる。そのなかで指摘されているように、本作はトム・ストッパード作『アルカディア』の構造に似ている。いまだに理由はわからないが、2016年春に上演された『アルカディア』は自分にとって楽しむところまで行きつけない謎の作品であった。その経験を考えれば、この日の『33の変奏曲』はすっきりした構造と作風によって、素直に味わえるものであった。舞台正面に紗幕があり、その奥にピアノが置かれ、「33の変奏曲」の生演奏を聴きながら、この曲作りに没頭し、見せられた人々の200年を行き来しながらの物語が始まる。ピアノ演奏は、鈴木ゆみ、猪野麻梨子の交互演奏。

 「音楽学者」、音楽の学者という言い方はいまひとつなじまないが、要は研究者である。音楽をより深く味わおうとすると、単純に聴くだけではものたりず、作曲者についても知りたくなる。ベートーベンは、自分のワルツの変奏曲を作曲してほしいというディアベリの依頼を、取り立てて魅力がない曲だと酷評し、いったんは断っておきながら受け入れた。ほかに大仕事を抱えていたにも関わらず、何年もかけるほど熱中したこと等々、調べれば調べるほど興味は尽きないであろう。

 人の心や頭には、どのようにして「自分は何を好きか」という意識が生まれるのだろうか。大学にはたくさんの学部や専攻があり、たとえば単純に文学といっても、作家、作品は数多あり、さらに「どの作家の何という作品の、どこについて研究する」というところまでいけば、学生、教師、研究者問わず、学ぶ人の数ほど研究対象があるといってよい。たったひとつ「知りたい」という気持ちを与えられたなら、その対象をひたすら掘り下げるだけでも大変だが、そうするうちに対象の周辺のことも知る必要があることに気づく。そうなるとどこまでいってもこれで完璧、完成ということはありえないほどで、高い山に登ろうとすると、決して一足飛びにはゆけない。広い裾野から自力で一歩ずつ歩かねばならないのだ。

 キャサリンは筋萎縮性側索硬化症を患い、人生の残り時間が待ったなしの緊迫感をもってのしかかる。一方一人娘のクララはそこそこ才能や適性があることが災いし、職を転々としている。血のつながった母子でありながら、生き方の違いがあぶりだされる前半から、後半は次第に病が重くなる母と伴侶を得た娘は、次第に和解へと導かれる。

 後半、ベートーベンがキャサリンの病床を訪れる場面がいささか凡庸で、すれちがいながらぎりぎりまで近づき、ようやくここで邂逅と思わせて、いや、やはり…という手ごたえがないのが残念であった。過去の人と現在の人が同じ場で会話するという一種の禁じ手を見せるのであれば、もっと演劇ならではの旨み、味わいがほしい。第一幕終盤で、3つの時空間にいる人々のそれぞれの台詞がだんだん近づいて重なり、静止する場面があることを考えるとなおさらだ。ベートーベンがキャサリンを「おまえ」と呼ぶのにも違和感がある。原文はどうなっているのだろうか。

 初日の舞台にはまだ硬さが残り、出演者も台詞のやりとりのタイミングや間などを模索している印象があった。しかし、もしかすると本作は「こなれない」ほうがよいのかもしれない。樫山文枝が演じるキャサリンは、学究肌というよりは好奇心旺盛な女学生の雰囲気の快活な女性であるが、娘に対しては決して器用にふるまえない。娘も同様で、母の病で知り合った看護師に促されてようよう歩み寄る。ベートーベンにしても生身の人間であり、「天才肌」な面は確かにあっても自分も周囲も傷つけながら懸命に作曲を続ける。不器用で、さまざまなもの(人を含めて)つまづき、失敗を繰り返す人々が、それでも神から与えられた音楽という宝を共有し、それぞれのたまものを活かして音楽を作る、あるいは味わう、世に送り出す、研究と、仕事に没頭するすがたはやはり美しい。


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green flowers vol.18『かっぽれ!締』

2017-09-21 | 舞台

*内藤裕子作・演出 公式サイトはこちら1,2,3,4,5,6,7)シアター風姿花伝 24日で終了
 落語の今今亭東吉師匠とその一門、彼らをめぐる人々の季節ごとの大騒動を描いたグリフラの代表作は、2011年晩秋の『かっぽれ!』はじまり、翌年『かっぽれ!春』2013年の『かっぽれ!~夏~』に続いて、4本めの本作をもって遂にファイナルとなった。開幕は毎度軽快な出囃子に乗って、二ツ目の吉太が明るく登場、「待ってました!」…と前のめりになっていると、一門唯一の女弟子である「石川さん」が前座の今今亭東々(とんとん)として登場し、本作のタイトル「かっぽれ」の語源、これからはじまるお芝居の前説、観劇中の注意事項などを落ち着いて語る。堂々たる噺家ぶりに、ああ、みんな成長したのだなと、ここで早くもしみじみした気持ちに。

 毎度もめごとはたくさんがあるが、誰も悪意をもって相手を陥れたり裏切ったりしない。師匠を慕い、きょうだい弟子同士が互いに思いやり、自分のことだけで精一杯のくせに他人の世話を焼こうとする。不器用で不格好で不体裁。ここぞというときに限って大失態を演じてしまう。しかし大切なのはまごころであり、一生懸命やることは何よりその人を輝かせ、豊かな交わりを生むことを教えてくれる『かっぽれ!』の温かさは、何ものにも代えがたい。

『かっぽれ!』との出会いは、わたし自身の演劇歴にとっても重要であり、何本も見ている舞台のひとつだと流すことはできない。大切な宝物だ。したがって、締となる今回の舞台に対しては思うところ多々あり、迷いながらの筆となりそうである。

 これまでの『かっぽれ!』の観劇記録を読み返してみると、大いに楽しみつつも、どこかに必ず引っ掛かりを感じており、今回の舞台は、過去の舞台に対して自分の抱いてきた問いの最終回答にならざるを得ない。

 弟子たちがあれほど慕い、憧れる東吉師匠の高座がなかなか披露されないこと。これは本作の謎でもあり、最終秘密兵器でもあろう。本作の大きな見どころは、噺家が語り始めた落語の世界を、俳優たちが「実演」するところだ。あに弟子がおとうと弟子に語って聞かせるとまもなく、俳優たちが落語の物語の人物に扮し、「柳田格之進」がはじまる。その手つきの鮮やかなこと、若い俳優が老婆を演じたりなど意外な配役もあってとても楽しい。見方を変えれば、一人の俳優に落語一本まるまる語らせるのは非常に困難であろうと想像され、舞台としてより楽しく見ごたえのある場面を作り出すための、緩急心得たじつに心憎い趣向ともいえよう。

 今回はいよいよ東吉師匠が「宿屋の仇討」を語ることになった。体調に不安を抱えていることもあり、かつておとうと弟子だった松野やの社長にだけ語ってみせるという設定だ。いつものように俳優が落語の登場人物に扮しての実演場面となったとき、東吉師匠は腕組みをし、客席と同じ方向からその場面を見守っている。にこりともせず、厳しい顔つきだ。自分の高座を客観視しているようでもあり、もし弟子たちがこの噺を高座にかけるとしたら、どう導いていくかを師匠として思案しているようでもある。

 考えてみれば、落語というものは物語に登場する人物すべてをひとりで語り、演じるのである。それがどれほど難しいことか、それだけに達成できた喜びがいかほどのものであるか、どこまでやっても絶対的な正解のない世界に生きてきた師匠が、まさに黙って語り、黙して教える場として、ただ落語の物語を楽しんでみていたこれまでの『かっぽれ!』とは、ちがった意味合いを感じさせたのである。

 東吉師匠が東々(とんとん)に、女性が噺家になる厳しさと、それを乗り越えていくにはどのような方法があるかを筋道立てて諭す場面もあるが、「語らない師匠」の場面がこれまでにない凄みと、落語への愛着、弟子たち、家族への愛情までをにじませていることが、最終回で得た手ごたえとなった。

  師匠の老いと病が案じられるが、誰ひとり死ぬことも消えることもない。とすると、『かっぽれ!』締の核、肝は何なのか。すべての問題を解決する必要はないが、最終回というものがいかに難しいかを考えさせられた。おなじみの人物それぞれの持ち味を活かし、エピソードを盛り込み、今回の締が初『かっぽれ!』の観客にもわかるように、と言っても説明台詞にならないように過去の出来事や人物の相関関係を示すことなどなど、作品を重ねるごとに、観客の「もっとおもしろく!」という要求は高まり、劇作のハードルも高まっていくだろう。

 シリーズものの楽しさは同時にむずかしさである。受け手としても心地よい劇世界にいつまでも甘えず、気持ちよくお別れをし、次の新しい一歩を楽しみに待とう。カーテンコールで東吉師匠演じる山崎健二の音戸で三本締めをし、自分もまた大好きな『かっぽれ!』に感謝と別れを告げたのであった。

 

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Straw&Berry #4『ウロボロス』

2017-09-17 | 舞台

*河西裕介脚本・演出 公式サイトはこちら 新宿眼科画廊 19日で終了(1
 2013年、「国分寺大人倶楽部」の活動を休止した河西裕介がソロユニット「Straw&Berry」の活動を開始。2017年の今年、小西耕一、佐賀モトキ、上田祐揮、井上紗彩が新しくメンバーとなり、劇団化した。4回めの公演だが、劇団としての第一歩となる。個人ユニットやプロデュース公演などが盛んに行われている昨今においても、「劇団」を結成する、「劇団」として活動することは大いなる意義を持つものらしい。新しい一歩となる舞台だ。

 地方の高校の天文部の部室を舞台に、過去と現在が交錯し、後戻りできない人生、失ったものの大きさ、取り返しのつかない過ちから立ち直れない者の悲しみを描く1時間40分の物語だ。天文部の部員は男子3人と女子2人で、お定まりのようにいくつかの恋が生まれては消える。数年後そのうちの一組が結婚することになるが、(おそらく)事故で女性が亡くなり、その事故に関わった別の男女は結婚するものの数年後には…というのが話の大枠である。

 誰ひとり悪気があってのことではない。しかしあの事故が仲間を壊し、将来の夢を奪った。過去の出来事から逃れられず、新しい恋をして歩き始めた者もあるが、悲しみは消えない。登場人物わずか4人(厳密には5人)が織りなす、一種の無間地獄である。

 新宿眼科画廊の客席を左右正面の三方向に設置し、息苦しいほど閉塞的な空間で、あるときは久しぶりの再会に大盛り上がりの場面はけたたましいほど楽し気で、しかし事が起こったあとは互いの顔を見ることもできないほど打ちひしがれる彼らのすがたは、見ているこちらまで居たたまれない気分にさせる。

 戯曲に書いてあるのは人物の台詞であり、ト書きである。しかし実際に台詞を声に出し、立ち上がって動くうちに、「ことばにならないことばのようなもの」というのか、文字にならない空気間、俳優の息づかいが生まれてくるのではないだろうか。俳優陣は劇作家の記したことばを明確に読み取り、適切に立体化した。大きなサイコロを振る他愛もないゲームの場面など、そのあたりにたむろする若者をそのまま連れてきたようであったし、結婚したカップルが別れたということは、会話で知らされるだけだ。この二人の短い結婚生活や、破綻に至った様相などはいろいろに想像できるけれども、想像することすら痛ましく、「やめておこう」と思いとどまらせるほどのものであった。

 舞台に描かれないのなら、それを作り手の思いとしてそのまま受け取ることを、自分はこの夜、学んだのだと思う。

  最後に5人めの人物が登場することで、物語は叙情的にもなり、同時に救われようのない現実を示す。序幕部分における演技の間の取り方が見るほうにとって少々辛かったり、終幕で今の彼と過去の彼女が出会う場面の描写にもうひと息ほしかったり、考えるところはあったけれども、彼らがそこに至るまでのたくさんの物語を思いやるとともに、これからの彼らの時間がどう流れていくのかを、より強く考えさせた。しかし作り手から「無理して考えなくてもいいですよ」と言われているようにも思えて、前述のように、舞台に描かれないことをそのまま受け取ることを改めて心に覚える台風接近の雨の夜であった。

 同ユニット恒例の「おまけ演劇」では、当日リーフレットにも本編終了後の客出しの挨拶にも、「本編の余韻を著しく損なう恐れがある。余韻を楽しみたいお客様は、ご覧にならないことをおすすめします」「観ないほうがいいです」とあり、そうなると却ってみたいと思うのが人情である。本編とは似ても似つかぬ作りのコント劇で、しかし本編の余韻を損なったとはまったく感じないのは不思議というか、お見事なのである。

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風琴工房『アンネの日』

2017-09-17 | 日記

*MITAKA”Next”Selection 18th 詩森ろば作・演出・宣伝美術・衣裳 公式サイトはこちら 三鷹市芸術文化センター星のホール 19日で終了(1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19
 昨年の紀伊国屋演劇賞個人賞を受賞し、勢いに乗る詩森ろばの新作は、新しい生理用ナプキンの開発に挑む女性たちと、彼女ら一人ひとりの生理=人生、命をみつめた会心作である。女性の作・演出の「男芝居」(登場人物が男性だけ)と言えば、野木萌葱のパラドックス定数が即座に思い浮かぶが、詩森ろばの舞台もとても刺激的だが(201110Archives of Leviathan 20139『hedge20152『penalty killing 2016年7月 『insider hedge2』)、今回は女性ばかり8人が登場する。

 8人の女優が適材適所の好配役で、それぞれ自分の個性、与えられた役への姿勢、作品ぜんたいのバランスなどをきちんと捉えた演技であった。詩森ろばの企業における製品開発に勤しむ女性という点では、化粧品会社を描いた2007年春の『紅の舞う丘』が即座に思い出される。この舞台と同じく、やる気満々の前のめりの社員がいて、わけわかんない、ついていけないとパニックになりながら結局協力している先輩や同僚のキャラ設定や、演技の造形はややありきたりであり、演技が強すぎるきらいはあったが、それでも本作の持つ魅力を味わう妨げにはならなかった。

 冒頭から8人が一人ひとり初潮の思い出を語る。小学5年生のとき、女子だけ一室に集められ、女の先生から生理の話を聞き、おそろしく趣味の悪い映画を見た経験は、多くの人に共通するものだろう・・・と思ったが、もはやこれは古い経験らしく、この手の話はまったく出てこなかったのはある意味で衝撃である。しかし実際この身に起こるまでは、いくら話を聞いたり本を読んでもわかるものではなく、「おなかが痛くなって、パンツを見た」ときの衝撃や、家族に打ち明けたり、男子にからかわれたり、「初潮あるある」エピソードには笑いもあり、切ない記憶を呼び覚ますものでもある。

 初潮にはまだ甘い追憶的情緒があるが、その後の生理と日常生活における「あるある」は、まったくもって面倒でうっとおしく、「この日々を少しでも快適に乗り切りたい」と、生理用ナプキンに求めるものもより現実的、具体的になってくる。

 開発者、研究者、企画営業者それぞれの専門知識や経験から喧々諤々の議論が繰り広げられる場面、そこから一転、仕事と結婚や出産を両立すること、パートナーとの関係、少女のころから解けずにいる親とのわだかまりなどを語る場面などにも、「あるある」だけでなく、「そうだったのか…」と思わせるところもあり、緩急メリハリの利いた2時間あまりの舞台を楽しんだ。

  冒頭場面に戻る。それまで賑やかでユーモラスな初潮告白場面だった舞台の雰囲気が不意に静まり、つぶやくようなピアノの音楽が流れて8人めの女性は、「わたしには生理がありません」と語りはじめる。舞台にセクシャルマイノリティーの問題が加わったことは、昨今LGBT問題が多く語られることを考えると、世情を反映していることにほかならない。しかしLGBTとは別の面で非常にデリケートであり、扱い方によっては舞台の方向性が変わりかねない危険性も想像されるが、原発性無月経というケースへの踏み込みも知りたいと思った。

  開幕以来、ネットには本作への共感と賞賛があふれている。「涙がとまらなかった」というメッセージも多く、実際客席からすすり泣きも聞こえた。が、自分はそこにはいたらなかった。何かどこかかが、涙へ届かなかったのだろう。それは決してネガティブな印象ではない。生理というものの、得も言われぬもの悲しさ。無邪気な子どものままではいられないこと、面倒で痛くて決まりが悪い。大人からすれば、娘も女の人生を歩み始めたことは喜びでもあろうが、同時に痛ましい思いもあるのではないかと想像する。

 がんばれ女の子、がんばれ人生というメッセージは、できれば素直に受け取りたいものではあるが、「女にはこんなつらいことがある。男ども思い知ったか」的にはなりたくない。さらに詩森ろば作品に、なぜか辛辣な男性観客というものも確かにいて、ぜひ意見を聞いてみたい。

  そして終演後不意に思い浮かんだのは、もし舞台作品として成立する可能性があるのなら、「コンドーム」の開発に勤しむ人々のことを、詩森ろばならどう描くだろうかということだ。使うのは男性だが、そこにはパートナーとの関係が否応なく照射される。お互いがより快適に幸せに性を含めた人生を楽しみ生きるための必需品、魔法にも武器にもなりうる点でも、生理用品よりさらに語りにくいだけに、非常に魅力的な題材ではないだろうか。

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